真理の探求  ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

神としての真理を探究しています。
(哲学・宗教)

第三十二回 誰が悟るのか(その一)

2017-06-15 09:51:17 | 悟り
第二十九回で話しましたが、私は2007年の秋くらいから、スピリチュアル(精神世界)と呼ばれる分野を熱心に探求しはじめました。

それ以前、私の関心は、ほぼ西洋哲学の分野に偏っていましたから、それは非常に新鮮な体験でした。

スピリチュアル(精神世界)では、正に、理論よりも「体験」が重要視されます。

実は西洋哲学においても、理屈よりも体験の方が重要で、いや、正確に言えば西洋哲学も一見、理屈のように見えながら、実はLogos(ロゴス)という理屈を超えた理屈の体験なのですが、それはまた後日のテーマにいたしましょう。

ともかく、スピリチュアルの世界では、理屈はともかく、その人自身の体験的な了解が最も重要なテーマです。

ゆえに、「悟り」というのは、この分野で最も重要なキーワードとなります。

ゲオルギイ・グルジエフ(1866-1949)が、「生は<私が存在し>て初めて真実となる」と言っておりますが、正にそういうことを体験的に了解することが精神世界では最重要テーマとなるのです。

詳しく言えば、こういうことです。

通常の世界観としては、「私」はいてもいなくても、宇宙の在り方としてはまったく変わりません。

つまり、「私」が生まれる前から宇宙はありますし、「私」が死んでからも宇宙はあり続けるわけです。

宇宙から見ればちっぽけな塵(チリ)のような「私」は、生まれようが死のうが、宇宙には何の影響も与えない。これが民族や文化を超えて世界的に共有されている通常の社会常識と言えるでしょう。

しかし、精神世界で言うところの<私>は全く違います。宇宙は、<私>が在ってこそ在るのですから、<私>がなければ在りません。<私>とはこの大宇宙における極小の塵なのではなく、この大宇宙を成り立たせる前提なのです。

ただ、そのことを頭で理解しようとしても無理だから、頭を超えて、全身で理解せよというのが、精神世界での最も重要なテーマなわけです。

つまり、Enlighitenment、「悟り」です。

この「悟り」という言葉は、もともと仏教における最大のテーマで、それを精神世界でも受け継いで最大のテーマとしているわけですが、極めて誤解と偏見にさらされる言葉でもあります。

私は、本来、この「悟り」という言葉は、極めて純粋な精神の運動を表現する言葉だと思いますが、その反作用として、世間では最も毀誉褒貶にさらされる言葉だと思います。

今でも覚えておりますが、あるスピリチュアル(精神世界)のビッグネームが、講演会の時に、こう言っておりました。

「私は悟ってるんですよ。」

私はこれを聞いた時、心底驚きました。

別に、その人が悟っているのは嘘だとか、あるいは本人の勘違いだとか、そういう否定的なことが言いたいのではありません。

「私は悟っている」というこの短いフレーズが、ここまで深い問題を内包しているのかと驚いたのです。

「私は知っている」とか、「私は気づいている」といったフレーズなら、そこまで問題にはなりません。

しかし、「私は」の後の言葉が「悟っている」となった瞬間、多くの人の心にざわめきを生じさせるのです。それだけの恐るべき衝撃力を、この「悟っている」という言葉は持っております。

実際、「私は悟っている」というフレーズは、非常に難しい問題を含む表現です。

「私は悟っている」とは言っても、「悟る」とは、その「私」が幻想であったと「悟る」ことだからです。

詳しくは次回以降に。
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