真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

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第十九回 ありのままを読むこと(その五)

2017-06-02 08:04:20 | 思索
孔子はこう言いました

「友、遠方より来たる、また楽しからずや」

真の友と出会う喜びとは、一人が二人になることではなく、二人が一人になることだと痛感します。

「星の王子さま」において、王子さまは地球から遠く離れた星、つまり、かなりの遠方からやって来て、砂漠のパイロットに出会います。

「星の王子さま」の序文に、この有名な言葉が出てまいります。

おとなは、だれも、はじめは子どもだった。
(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

我々は子どもから大人になって、社会という色眼鏡を使って社会に適合するようになります。しかし、同時にそれは、自分が子どもだったことを忘れることを意味します。

融合を忘れてしまうのです。

キツネは王子さまと出会い、王子さまはキツネなどの色々な生き物と出会い、パイロットは王子さまと出会い、融合していきます。

本を読むということも、この出会いと同じです。
現に、「星の王子さま」を読むことで、サン・テグジュベリと出会っているわけです。
それは私がサン・テグジュベリと融合することであり、私とサン・テグジュベリと、その二人が、一人へと融合することです。

百年前のフランスから、サン・テグジュベリという友は遠方はるばると来たわけです。
「また楽しからずや」
つまり、これ以上の喜びはないわけです。

私は彼のうちに自己を見る、そして彼は私のうちに彼自身を見るのです。
人間は一人ではない。
その根拠は、逆説的に聞こえるかもしれませんが、人間が七十億いようが、その実人間は一人しかいないからです。

体がバラバラに見えるので、人間が十人いれば、バラバラの個別の十人がいるように見えます。しかし、キツネが言うように、「かんじんなことは、目に見えない」。

心の眼で見れば、心は一つしかないのです。
それゆえ、マイスター・エックハルトは何百年も前のドイツより来たりて、こう言います。

「わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛である。」

古典は全て、遠方より来たあなたの友です。王子さまとキツネが出会ったことと同じく、出会った瞬間、あなたと古典は親友なのです。古典は、そうなるべく書かれており、だからこそ古典なのです。

ただ、それにはあなたの方に、子どもの心で相手を迎えるという、そういう心が必要になります。

古典はあなたにうまい儲け話を与えるためとか、渇いた心に感動を与えるためとか、あるいは哲学的な知識と教養を与えるとか、そういう目的のために遠方からはるばる来たのではありません。

ただ、「会う」ために来たのです。何かの目的のために「会う」というのは大人の考え方です。

おとなは、だれも、はじめは子どもだったのですから、ただ友と「会う」ことが誰でもできました。それは何の役に立たなくても、無上の喜びでした。

しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。
大人が本を読む際には、内容を理解して、いくらかでも自分の役に立てようとします。

これでは「また楽しからずや」とは程遠い。

本の内容がわからないのは、本が難しいせいだと言って相手のせいにするのは大人の頭です。仮に何を言ってるかわからなくても、「よくわからないことを言ってるな、おもしろいな」というのが子どもです。

柔らかい心で、まずは相手をそのまま受け容れる。それが「ありのまま」を見るための大切な一歩なのだと思います。
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