真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第二十六回 虹や月あかりからもらってきたもの(その三)

2017-06-09 12:01:12 | 思索
「マリヴロンと少女」という作品も、正に宮沢賢治がその構想を、目の前にある自然からもらってきたものだと言えます。

少女ギルダは野ぶどうの精霊、歌手マリヴロンは虹の精霊であり、ギルダは野ぶどうが人間として肉体化したもの、マリヴロンは虹が人間として肉体化したものだそうです。

つまり、宮沢賢治は、野ぶどうや虹に話を聞きながらこの作品を書いたということだと思います。

それゆえ、ギルダはアフリカの大地へ行って、野に根を張って生きる方向へ行き、マリヴロンは短い数分の光の輝きの中に、永遠の美しさを体現する芸術家の方向へ行くのです。

二人は別れますが、マリヴロンはこう言います。

「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいるのです。」

ギルダとマリヴロンが遠く離れた場所に居ても、虹と野ぶどうは「まことのひかり」の中でいつでもいっしょに居るのです。

こうした物事の背後にある真実、つまり、バラバラに離れた二人が、なぜ離れても一緒に居ると言えるのか、その真理の有り方を詩的に表現しているのが宮沢賢治の作品の特徴です。

これはロマンティックな夢物語のように見えながら、実は極めてリアリスティックな写実です。

ロマンティシズムは、やはりどこまでいっても、人間の脳の中にある一種の物語です。ですから、そういうお話がいかに感動的に作られていようとも、時間とともに、廃れていくのです。

一時の流行として消費されるロマン的な作品で終わらないためには、ロマンの通用しない相手からアドバイスをもらいながら作品を作り上げるしかありません。

それが、「虹や月あかりからもらってきたもの」としての作品です。

虹や月あかりは、人間の頭の中の勝手なストーリーとは違って、自然という明らかな現実です。彼らには人間の勝手なロマンティックなストーリーは通用しません。それが自然の厳しさです。

人間は、どんな優秀な人であろうとも、ある種のイデオロギーを信じる危険性があります。イデオロギーはその時々の社会状況において説得力のあるストーリーにはなりえますが、結局はストーリーであり、普遍性ではないものです。

しかし、月あかりが何かのイデオロギーを信じて、何とか主義者になってしまったということはありえません。

どのようなイデオロギーや宗教にも染まらないもの。どんな思想にも洗脳されないもの。それが自然です。

だから、真に「時間のうしろ」に芸術を作ろうとする人々は、人間のアドバイスだけでなく、必ず自然のアドバイスも聞きます。

いかに天才的な頭脳を持っていようとも、人間が人間だけの力で作品を作るなら、それは人間的な作品に過ぎません。

宇宙的な作品を作り上げるなら、人間の頭の中にある空想の宇宙から飛び出て、実際の宇宙から話を聞くしかありません。

とはいっても、何も宇宙飛行士になって地球を飛び出る必要はありません。
地球に居る宇宙の体現者の声を聞けばいいのです。

それが、虹や月あかりなのです。
宇宙の体現者、それは我々の身近にもいくらでも居るのです。
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