真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

9月2日 講演会&交流会やります。
詳しくは第八十回ブログをご覧ください。

第八十七回 心のジュゴンを取り戻す(その七)

2017-08-09 11:20:26 | 思索
「柔和な人は幸いです。なぜならその者は地球を相続するからです。」(マタイ5章5)
Blessed are the meek, for they will inherit the earth.

地球を相続するやさしさとは、どういうやさしさでしょうか。

この世は、
やさしい人VSやさしくない人
という二項対立で成り立っているのでしょうか。

「やさしい人」と言われて思い浮かべるのは、誰に対しても、分け隔てなく、愛を配ることができる人です。

この点、「人は人を愛することは出来ない」と私が言えば、一部のペシミスト(悲観主義者)が喜ぶ以外は、世間の反発をかうことでしょう。

しかし、実際のところ、人は人を愛するなんてことはできない。

だから、時間が経つと、こんなはずじゃ・・・ということで、冷めてしまうのです。

長年連れ添った夫婦の間で、愛がすっかり冷めてしまって、家の中が寒くなってしまった。

そうなっても、自分を責めるものじゃありません。人が人を愛せないのは当たり前なんですから。

愛の人になろうと努力する。これほどの空理空論はありません。風車に向かうドンキホーテと同じく、勝てる見込みのない勝負です。

聖人と呼ばれる人は、それをよく知っています。だから、彼らは愛の人になろうと努力するのではなく、それをむしろ知ろうとします。

愛は人間の所有物ではありません。風が人間の所有物ではないのと同じです。それは人間を通るものです。

通り道にエゴとして立ちふさがり、その息吹を阻害するのか。それともその通りを邪魔せず、自由に吹き上がり、舞い踊るようにするのか。

鳥は風にさからうから空を飛べるのではありません。
風にのるから空を飛べるのです。

いずれにしても、「私」ごときが人を愛することはできない。

それは私が特別に悪いヤツとか、冷酷とか、そういうことではなくて、人間なんだから、ということがわかれば、むしろ愛の本質を理解することになります。

愛とは、私のようなちっぽけな人間がわかりえるような小さなものでもなければ、浅いものでもありません。

道端の菫(スミレ)の花は、ただのちっぽけな花ではない。一流の画家が40年間見続けても見飽きない深さを持っている。

それと同じく、愛も、我々人間の尺度を超えた巨大さと深さを持っている。
それは人間というちっぽけな存在を超えた大いなる生命です。

ですから、あなたがもし、「やさしさ」というものに興味を持ち、その芳香に惹かれるのなら、やさしい人になろうと思わないことです。また、そういう努力をしようとしないことです。そうやって蝶を手で捕まえようとしても、かえって蝶は逃げていくばかりです。

「やさしさ」とは、この上なく繊細に我々の宇宙を流れる霊的な流通なのです。

その流れを自分がせき止めないこと。それが、この流通から自己を疎外しないことになります。

生命とは硬直性ではなく、流通性を本質とします。自己を「やさしい人」として固定化しようとしても、それはむしろ「やさしさ」という流通を阻害してしまうのです。

風通しのいい、空っぽの心には、やさしさも愛も、聖なる流れとしてそこを通って、流通します。

淀みのない水の流れがあれば、そこには心のジュゴンも自然と還って来ます。その時、とらわれの無い心こそが真の豊かさなのだと、心の大海は自覚することでしょう。大海を生きるその人は、地の相続人なのです。
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