真理の探求  ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

本が出ます。
タイトル:「神の子への手紙」
2017年8月1日 刊行

第三十三回 誰が悟るのか(その二)

2017-06-16 07:59:56 | 悟り
ある精神世界のビッグネームの講演会に参加した時、その先生が言った一言が非常に衝撃的で、7年くらい経った今も、忘れないでおります。

「私は悟ってるんですよ。」

私にとって、その発言は非常に衝撃的でした。

しかし、もしその発言が、以下のようなものだったとしたら、特に私に衝撃を与えなかったことでしょう。

「私は悟ってるんですよ。とは言っても、私が悟ったわけではありませんが。」

これだったら、特に衝撃も受けず、7年経った今でも記憶から離れないということもなかったでしょう。

前回にもお話しましたが、これが「悟っている」ではなく、「知っている」や「気づいている」といった言葉でしたら、特に問題にはならないわけです。

「私は知ってるんですよ。」
あるいは、
「私は気づいているんですよ。」
ならば、まったく衝撃にはならないわけです。

しかし、「私は悟ってるんですよ」は、衝撃的です。

前回の文章の最後の方で述べましたが、「悟る」という言葉には、単に「知る」とか、「気づく」といったレベルとは異なる、相当に深い了解という意味が含まれています。

これは仏教的な体験や、スピリチュアル的な体験でなくとも、日常用語での用いられ方を見ても明らかです。

例えば、会社で同僚が、「このやり方ではうまくいかないと悟ったよ」と言ったとします。

それを聞いた場合、本当に彼はそういうことを腑に落ちたんだということが、聞き手にも了解されます。つまり、彼はその事について、単に知ったのではなく、徹底的に深く了解したのだと、その言い方でわかるわけです。

このように、日常的な言語表現の場においても、「悟る」という言葉は「深い気づき」という意味を含みますが、「悟りをひらく」となると、さらに次元の異なる世界がそこに含まれることになります。

日常生活における表現、つまり、「私はこういうことを悟った」という場合には、まだ悟りという行為について、主語と目的語があります。誰々が(主語)、何々を(目的語)、悟ったという文章です。

しかし、「悟りをひらいた」となると、それは主語も目的語もない表現であり、内実なのです。

前回も言いました通り、そこで言う「悟る」とは、悟る主体である私自体が存在しないということを悟ることですから、「悟りをひらく」の主語は「私」でもなければ、人間でもありません。

また、そこでの「悟り」は、何か特定の事柄についての悟りではありません。あらゆる特定性以前の絶対的無分別を悟ることですから、その「悟る」における目的語に特定の有限な内容はありません。もしあったら、それは「悟りをひらく」ではないわけです。

つまるところ、「悟っている」という言葉は、ある種、単純にその頭に「私は」をつけることを許さない厳しさがあるということだと思います。その言葉には、それだけ、宇宙を貫くほどの透徹性と徹底性があるのだということです。

ただ、話をもとにもどしますと、例のビッグネームの講演会での発言には続きがあります。その方には横に奥様がついておられまして、ご夫婦で講演をされていました。ですから、御主人の方が、「私は悟ってるんですよ。」と言えば、横にいる奥様が「皆さん、この人は悟ってませんから。」と付け加えておりました。

その後に聴衆が「わっ」と笑うという構造になっていました。

その構造は、やはり「悟り」という言葉の有り方に対して正確で、そのご夫婦の発言とその後に続く聴衆の笑いは、「悟り」というイデアそれ自体が要求している構造そのものであると実感したわけです。

次回、この構造について詳しくお話できたらと思います。
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