真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

9月2日 講演会&交流会やります。
詳しくは第八十回ブログをご覧ください。

第七十四回 「平和」を内から自得する(その九)

2017-07-27 10:18:40 | 体験
何年前か忘れましたが、日本人とアメリカ人の一般市民がそれぞれ20人くらい集まって、平和について議論するテレビ番組がありました。

そこで、戦争はなぜいけないのかという問題が出て、ある日本人の人がこう答えました。

「それは悲惨なものだからです。」

それに対して、あるアメリカ人の老人が反論しました。

「確かに戦争は悲惨なものです。私も若い頃従軍したからよく知っている。戦友は私の横で悲惨に死んでいった。私も肉体的に、精神的に、ひどく傷ついた。戦争は本当に悲惨なものです。しかし、どんなに悲惨であっても、やらなければならないときがある。」

この意見に対しては誰も反論せず、話題は別のことに移っていったと思われます。

私がこの番組を見て深く納得したことは、悲惨な体験という、それだけでは、人間は「平和」に対して一枚岩になれないことです。

「平和を知る」というテーマになると、体験的にそれを知っているかという問題になります。

悲惨な戦争を体験した世代はかなりの高齢になっている。若い世代は戦争の悲惨さを体験的に知らない。薄れゆく戦争の記憶を、薄れさせることなく、若い世代にも伝えていくことが重要だ。

マスメディアで何度となく見たこのご意見に、私は別に反対する気持ちはありません。

しかし、「戦争は悲惨なものだから二度と起きてはならない」と言っても、先に見たアメリカの老人が言うように、「確かに戦争は悲惨だが、やらなくてはいけないときもあるだろう」と言われたらどうでしょうか。

結局、戦争体験者の間でも、戦争と平和について議論が起きたら、意見は分かれざるを得ません。

「戦争は悲惨なものです。絶対にいけません。」
という人もいれば、

「戦争は確かに悲惨なものだ。しかしやらなければならない時がある。」
という人もいます。

これが相対界における「平和」です。正に戦争と平和、その二項対立の間で揺れ動く「平和」なのです。

「平和」は、その言葉の姿は、相対の海の上では、いつまでたってもその真面目(しんめんぼく)をあらわすことがありません。波の上で漂う流木の如しです。それはいつまでたっても、永遠に戦争と平和の物語に翻弄されます。

結局、悲惨な戦争体験だけでは、絶対的な「平和」には至りません。同じように悲惨な体験をしても、その解釈が人によって異なってしまうからです。

この点、アントワネットは自らの体験をこう語ります。

以下引用

このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。

それは何という平安、何という休息だったでしょう!

それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありましたが、これはまったくその性質が違っていました。

それはいわば冷静な恍惚感であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない!ということに気づいたのです。

引用おわり
(ポケットの中のダイヤモンド 三木直子訳 徳間書店 28-29頁)

「体験」と言っても、「私の体験」と「私という物語に縛られていない体験」とはまったく違います。

物語の海で溺れる「平和」を救い出すためには、物語の海で溺れる自分自身を、まずは救い出さなければならないのです。
『スピリチュアル』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 第七十三回 「平和」を内か... | トップ | 第七十五回 「平和」を内か... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。