真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

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第四十五回 「悟り」から見た悟り(その八)

2017-06-28 12:40:58 | 悟り
前回まで、台風の渦としての弟子の心と、台風の目としてまったく動かない一休さんという構図を見てきました。

この構造について、我々は室町時代という遠くの出来事として見るかもしれませんが、実際はそうではありません。その風景は、21世紀の現在でも、同じように続いているのです。

あるインターネットの掲示板に、こういうテーマがあったのを見たことがあります。

「悟った人でも性欲はあるのか。」

みなさんはどう思うでしょうか。

ちょうどいい機会ですので、今日から三回にわたって、悟りとセックスの関係について考えていきたいと思います。

僧璨(そうさん)禅師が言った「二見に住せず」という言葉はこれまで何回も紹介してきました。

その二見の目、つまり分別の目からすれば、そもそもセックス自体が、

聖 VS 俗
清浄 VS 不浄
悟り VS 煩悩
という二項対立の右側に入るものなのでしょう。

他方、「悟り」は左側に入るものですから、次のような疑問が生じるわけです。

「悟った人にも性欲はあるのか」

これは右側と左側で矛盾しませんか、という質問なわけです。

つまり、質問者は無意識的に、セックスを右側、「悟り」を左側に分類しているのです。
分類を当たり前のものとして、左と右の矛盾について疑問を呈するのですが、

「そもそもなんで私は右と左に分別して考えるのだろう?」

という疑問は感じないのです。

こうした自分の分別に対して、疑問を生じさせなくする力、そういうエネルギーを、精神世界ではエゴ(ego)と呼ぶわけです。

このエネルギーは強力です。疑問にフタがされて表に出ない間は、無意識的に何でもかんでも二つに分別し続ける。このエネルギーは、人間をそういう自動機械にしてしまうエネルギーなのです。

「悟り」とは、自分の中にこうした分類エネルギーが密かに生きているが、そうした二見は真理ではないと気づくことです。しかし、二見世界からすれば「悟り」も二見に住み続けてもらわなければ困ります。

だから、上記のような「右なのに左だなんて矛盾しませんか」という疑問が生じるわけです。

ではこの疑問に対して、「悟った人にも性欲はありますよ」という答えでよろしいでしょうか。

実はあまりよろしくありません。というのも、聞いている方に「左にも右はありますよ」という答えだという印象を与えてしまうからです。

前にも言いましたが、「悟り」について、エゴの目線から答えても、何にもなりません。色眼鏡から見た「悟り」に、さらに色を塗りたくることになりかねません。

「悟り」の真理を語るためには、人間の勝手な解釈を入れるのではなく、「悟り」そのものの目線から「悟り」を語るしかありません。

つまり、「悟り」とセックスの関係についても、人間の解釈ではなく、「悟り」そのものからの視点で考察する必要があります。

一休さんはどういう気持ちで女を抱いていたのか。
詳しくは次回以降に。
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