真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第六十四回 心は物を触知している(その六)

2017-07-17 12:11:44 | 思索
詩人というと、どんな人を思い浮かべるでしょうか。

美しい言葉を散文的に書き連ねる才能のある人。そのように思い浮かべるかもしれません。

もちろん、それが間違いというわけではありませんが、詩人が世界の儚い美しさのみを歌う場合、その詩人は儚くも人々から忘れ去られることでしょう。

この点、哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は次のように言っております。

以下引用

美しい花から花へ舞い戯れて行く春の胡蝶のように、地殻の表面に現象する多彩な美の幻影のみを追いもとめている詩人がある。

この世に生きる人間の儚い歓楽や悲愁をやさしいまなざしでじっと見瞶めながら、それらの心内風景を甘い歌の調べに転成させて行くことだけを務めとする詩人がある。

彼等の詩歌はこの上もなく美しく、読む人の胸を或いは輝かしい喜びに充たし、或いは縹渺たる悲しみにさそう。

併しその喜びは軽く、悲しみは淡い。人々は彼等の詩を読んで楽しみ、同感し、そして何時しか次々に忘れてしまう。

引用おわり
(読むと書く 慶應義塾大学出版会 332-333頁)

地球の表面を漂う多様な美の幻影を拾い集め、それを言葉に書き連ねる人々。それが詩人であると勘違いされがちです。もちろん、それも詩人です。しかし、リルケの場合、その詩の中心にあって不動のものは、美ではなく、事物(もの)でした。そのことをリルケは次のように言っております。

以下引用

事物(もの Dinge)

私がこう言うと(聞こえるでしょうか?)一つの静寂が生まれます。
事物(もの)の回りにある静寂が。

すべての運動が静止して、輪郭となり、過去と未来の時から一つの永続するものが円を閉じます。

それは空間です。どんなものにもかりたてられていない事物(もの)の安静です。

いや、やめましょう。皆さんはここに生まれた静寂を、まだそんなふうには感じておいでにならないのです。

事物(もの)ということばは皆さんのそばをす通りしていきます。それは皆さんにはなんの意味もない。あまりにおおげさであったり、あまりにどうでもいいことであったりします。

引用おわり
(リルケ 芸術と人生 富士川英朗編訳 白水社 64頁)

リルケが「聞こえるでしょうか?」と我々に問いかけるものは、絶対的な静寂、根源的な静寂です。

それは我々の心の方で準備ができていなければ、おおげさな哲学理論と受け取られてしまうか、あるいはどうでもいいものとして素通りするものです。

それゆえ、リルケからすれば、詩人は美しい幻影を拾い集める言葉のテクニシャンではありません。

詩人は、建築家が石を積み上げて建築物を作るように、言葉という大理石を積み上げて、事物(もの)を作り出すのです。

それは積み上げられた言葉という一つの事物(もの)となり、我々の心をその中心に坐らせ、そこに絶対的な静寂をもたらします。

「平和」という言葉は、我々の心にそうした静寂の声が大きく響くまでは、虚しい言葉です。おそらく、戦争と戦争の間にあるつかの間の休戦状態くらいの意味にしかならないでしょう。

詩人の作る事物(もの)は、単なる観念的な平和の象徴ではなく、我々の心に実体的な平和をもたらす確かな実在なのです。
『スピリチュアル』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 第六十三回 心は物を触知し... | トップ | 第六十五回 心は物を触知し... »

コメントを投稿

思索」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。