現二の橋
万治二年(1659)、竪川が開削されると五つの橋が架けられると、隅田川に近いほうから
一之橋から五之橋と名付けられました。その二つ目の橋で長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほ
どありました。
立て札によると。小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏
なべ屋「五鉄」の場所は、「二ツ目の角地で南側は竪川」とあるように、この辺りだと推定さ
れます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついてその名物である
軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、
出汁で煮ながら食べる。熱いのをふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味
であった」と書かれている。写真は五鉄の2階で鍋をつつきながら談笑する長谷川平蔵とおま
さ、粂八、彦十たちです。(フジTV)
筑波山麓では イノシシがセシウムの関係で
禁猟 軍鶏の生育のトライしてるとか
雨の時は 剣客商売読み始めました。
軍鶏の成育は結構ですね。
鬼平になったつもりで・・・で ですね。
このブログを見せて頂いて居りますが江戸・東京の事は田舎の百姓の爺さん全然分かりませんが、何か時代物の小説を読んでいる様な感じです
万冶二年(1659年)今から350年前に堅川が開削されて五つの橋がとあります
この開削と謂う言葉に興味を持ちました と謂うのは当方、幾つもの土地改良区に関与しているものですから用水を作った時の工事を開削とよく出て来ますので まあ おもしろいな・・・と思って居ります
この絵は鬼平犯科帳で軍鶏の臓物を・・・これを見て子供の頃を思い出して居ります
当時はなにも無い時代ですから百姓家は軍鶏ではありませんが殆ど鶏を飼って居り何かあるとそれを殺しその肉や臓物を食べていました
相手の野菜はこの話しに出て来るのと同じで牛蒡でした
面白い話し有難うございました 失礼致します
もとは中州のような所を埋め立てたり
開削したりして人間が住める土地を確保しました。
特に深川地区は縦横に水路があって
池波小説には舟の往来が頻繁です。