「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

学力向上のためのクラス経営(など)アイディア⑥

2010-02-26 06:45:52 | その他
学習時間調査は面談をより機能させるための工夫である。面談はすること自体に意義があるのではなく内容が大切だと考える。生徒の状況を正しく理解し、正しいフィードバックを返してやるのだ。

だから、4タイプへの分類は目的地ではなく入り口だ。そこから、なぜその状況が生まれたかを引き出し生徒と共に確認するのが真の狙いである。

そのためには、こちらがしゃべりすぎないこと。安易に説教モードに入らないこと。そんなことしたら、それこそ逆効果もいいところだ。

以上が成績変動と学習時間調査のクロス分析を活かしたモチベーションを上げるための指導の工夫の概要。ここまでは基本的にまっとうな話である。

学習時間調査にはもう一つの活用法がある。以下に紹介するが、これには危険もあるので取り扱いには十分注意が必要だ。

先に述べたように、クロス分析にかけるとき、学習時間が成績変動の軸と交わるのは平均値である。当然のことながら、平均値は一定ではなく変動する。実は、この手法のもう一つの狙いは平均学習時間を増やすことにある。

基本的には学習時間が平均値を切っている生徒に対して、学習時間が平均値に少しでも近づくように指導するだけだ。もちろん、指導した全員が学習時間を増やせるわけではないが、平均をクリアしたいという想いは多くの生徒が持つので、少しずつでも確実に平均学習時間は増えていく。

平均学習時間が増えれば、クリアすべきハードルはさらに高くなり、もう一段の努力が必要になる。その目標も超えようと努力すると、さらに平均学習時間は増える。つまり、平均を目標に置けば、すべての生徒が全く同じ学習時間でない限り、永遠に平均学習時間との追いかけっこは続くのである。

精神的に極限まで追い込むことは絶対に避けなければならないし、学習時間にも適切な量というものがあるだろうから、指導者はストップをかけるタイミングをしっかり計っておく必要がある。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

学力向上のためのクラス経営(など)アイディア⑤

2010-02-25 06:12:23 | その他
学習時間調査は学習時間を調査する目的で行うのではない。調査した学習時間は生徒の感覚に頼った自己申告であり正確なものではない。それでは意味がないじゃないかと言われるがそんなことはない。申告された学習時間は生徒の思いを反映しているからだ。

例えば、成績が上がり学習時間が多い生徒は、努力の成果が出たと感じている場合が多い。このような生徒にはその頑張りを承認するタイミングの良いフィードバックが必要だ。それがモチベーションの維持、育成につながる。

ただし、前回も触れたように、成績が上がっても自分の頑張りに報いるほどの結果ではないと自己評価している場合もありうる。だから、いきなり誉めるのは避けるわけだ。

もっと重要なのは、学習時間が多く成績が下がった生徒である。このような生徒は傷ついて辛い思いをしているケースが多い。なるべく早く話を聞き不安を取り除いてやる必要がある。学習方法に問題がありそうだとか、結果が伴うまでにもう少し時間がかかりそうだといった判断もできるだろう。

生徒の気持は細かい数字に表れるので、学習時間は小数第1位までで申告させるのが望ましい。例えば、1時間半なら1.5、1時間弱なら0.8とか0.9といった具合だ。「毎日2時間くらい勉強した」と思う場合でも、本人が学習状況を肯定的に捉えているなら、その分だけ少数の部分にプラスとして表れるだろうし、逆に否定的に捉えるなら、その分だけ引かれた数字として表れるだろうからだ。

つまり、学習時間に表れる数字は学習時間というよりは、学習状況に対する自己評価なのである。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


学力向上のためのクラス経営(など)アイディア④

2010-02-24 06:11:26 | その他
今回の手法はオリジナルではなく、優秀な同僚に教えてもらった方法を基にしたものです。

ベネッセ社のスタディーサポートを活用している学校は多いと思う。このテストの良いところは学力と学習習慣のクロス分析をもとに生徒の学習状況評価ができること。さすがに最大手だけあってきめ細やかな配慮がしてある。

しかしながら、業者のテストなので費用がかかる。また、時間も1日分をわざわざ設定しなくてはならない。自分1人で動けるものではないので学校全体としてのコンセンサスも必要である。そこで、このテストのエッセンスだけを利用するのが今回紹介する手法である。

4月の最初に個々の生徒の平日と休日の家庭学習時間を調査する。それを出発点として、定期考査終了のたびに学習時間調査を行う。考査の感想も書かせ、それまでの学習を振り返らせる。感想は面談の時に活用するなどしてフィードバックを必ず行う。

次に、学習成績の変化と学習時間の関係から生徒を以下の4タイプに分ける。

A) 成績が上昇し、学習時間も平均よりも多い。
B) 成績は上昇したが、学習時間は平均よりも少ない。
C) 成績は下降したが、学習時間は平均よりも多い。
D) 成績が下降し、学習時間も平均より少ない。

スタディーサポートでは成績の変化ではなく、その時点での成績と学習時間をクロス分析して4タイプに分けるが、私の手法は成績(順位)の変化と学習時間をクロスさせているところがミソである。

今どのような状態なのかではなく、どのように変化しているかが重要であると考えるからである。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


学力向上のためのクラス経営(など)アイディア③

2010-02-23 07:04:32 | その他
当然のことながら、我々のパフォーマンスは人的な環境にも影響を受ける。よい集団の中では優れた力が発揮できるが、悪い集団の中では力を発揮できないことはよくある。

集団の質は、実はメンバー1人1人の貢献によって保たれるもので、キーパーソンのみに左右されるものではない。もちろん、リーダーシップは大事だが、それを機能させるのは実はリーダー以外のフォロワーシップだ。

だから、集団のメンバー1人1人が伸びなければ集団としての成長はない。また、集団が成長しなければ、個人が今以上に伸びる可能性は小さくなる。

個人面談では個々の生徒にフォーカスし、ホームルームでは全体的な動きに焦点を拡大するという手法は、表面的な技術レベルだけで捉えると絶対に機能しない。生徒はその辺の矛盾に敏感に反応して、教員の姿勢を不誠実だと判断するだろうから。

個も大事だが全体も大事だという納得のいく説明が不可欠だ。しかし、本当は説明だけでは十分でない。教員自身が個人を大切にすることと全体を大切にすることの双方が大切なのだという信念がないと駄目なのだ。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ




学力向上のためのクラス経営(など)アイディア②

2010-02-22 07:09:56 | その他
前回の続き。

当然のことだが、クラス全体の成績変動を掲示しただけで、人間的なアプローチがなければ、信頼関係は崩れクラス経営は破綻へとむかう。要はいかにして生徒と担任がクラスの成績浮上という共通の目標にむかって気持ちを合わせるかにある。

そのために不可欠なのが個人面談。しかも重要なのはそのやり方。面談はやればいいというものではない。

まず最初のポイントは全員を対象にしないということ。私は個人面談は全員一律にやる必要はないと思っている。もちろん、最初の顔合わせや文理選択など全員やるべきタイミングでは全員やるべきだが。

テスト後の面談はなるべくさらっと軽く、成績変動が大きかった子をターゲットに行う。成績が下がったから呼ばれたのだという感覚をストレートに与えないようにするのが大事。「今回どうだった?」から始めて、生徒本人が自分でどのように評価しているかを語らせたらそれでおしまい。

要は担任が気にかけているということが伝わり、生徒が自らの意志で次回の試験に対する前向きな気持ちを作り出せればOKだ。成績の下降を咎めるとか、気合いを入れてやるといった雰囲気は好ましくない。

もちろん中には、前向きな気持ちになれない生徒もいる。それはそれで大丈夫。その場では深追いをしないほうがよい。何か別の問題を抱えているケースもあるだろうし、気分を切り替えるのに時間が必要な生徒もいる。

もちろん、成績が上がった生徒にも声をかける。この場合も「今回どうだった?」から始め、自己評価を引き出すところから始める。成績は上がったが十分に納得していない生徒やたまたま良かっただけだと評価する生徒もいるからだ。

成績が向上したことを生徒が喜んでいるということが確認できたら、その喜びを共有した上で、そこで満足したらもったいないよと声をかけて面談終了。

個人面談では個人を気にかけているのだというメッセージを伝えることが肝要。クラス全体の成績について言及するのはホームルームという場だけに限定するのだ。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


学力向上のためのクラス経営(など)アイディア①

2010-02-21 16:35:12 | その他
教育の世界はどうしても表と裏がつきものである。理想論的には正しいが現実論的には疑問が残ったり、その反対であったりすることはよくある。例えば、偏差値。これが本当に正確に学力を反映しているとは思えないが、偏差値を無視しては前に進めないのも事実である。

結局のところ、教育に携わる誰もが「バランス」というか落としどころを自分なりに想定し、その中で自分の考える最良を提供しようと努力しているのだと思う。表の方が強い人もあれば裏の方が強い人もある。その立ち位置だけで評価するのは、結局上を向いて唾を吐くのと一緒だ。

私にしても、共同学習だとか考えさせる授業だとか言いながらも、いわゆる受験指導もやっている。このブログでは、比較的「綺麗事」的な側面が中心になっているが、その反対側も含めて等身大の私。ちょっと英語教育から離れ、そちらの面について何回かのシリーズで触れてみたい。(ただし、毒がありますのでご注意を)

第1回目の今回は、クラス経営に競争を持ち込むはなし。佐藤学先生のように、いかなる競争も認めないという立場の人もいるがこんなのはどうか。

4月当初に自クラスの生徒の最も新しい学年順位を調べておく。1年生であれば入学直後の実力テストなどが使える。そして、成績順に何段階かのグループを想定し、それぞれの中に自クラスの何人が入っているかを調べる。

例えば、学年の生徒数が200人で5クラスの学校であれば、1番から20番、21番から40番のように、20人毎の10段階に分け、それぞれのグループにクラスから何人が入っているかを表にするのだ。一緒にクラスの平均順位も出しておく。

これを教室に掲示する。個人が特定されるものではないので特に問題はないはずだ。それをスタート地点とし、以降順位が出るテストのたびに同じ様式で表を掲示する。クラスの目標は過去よりも少しでもよい結果を残すことだ。

この方法は他クラスを比較対象にせず、過去の自分たちと競わせているところがミソである。選択科目などの関係でクラスは必ずしも成績的に平等に振り分けられるわけではない。各クラスの平均点だけでは、どこのクラスが本当に頑張っているか分からない場合もありうるのだ。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


Bridge over Smooth Water

2010-02-19 18:37:43 | 授業
一昨日は県東部の高校へ赴き授業の見学。大先輩が研究授業を提供されるということで誘っていただいたのだ。tmrowing先生もスペシャルゲストの形でご参加。週の中日だというのに47名というすごい数の参加者にびっくり。私も軽い気持ちで参加したら、特別な扱いをいただき恐縮でした。

授業は65分で、定着のための活動中心の前半と内容理解のための活動中心の後半の2部構成。順序は間違いではない。前時の内容を負荷音読で定着させるのが授業の前半の活動なのだ。

私はキリのいいところで切りたいタイプなので、このような構成は経験ないのだが、うまく機能すればメリットは大きい手法だと思う。生徒が家庭学習で音読練習をした成果が次の授業で報われるだろうから。

tmrowing先生のブログで後から知ったのだが、授業中に暗唱してくるように指示された生徒の1人が授業終了直後に自発的に暗唱テストを受けたのは、それが実際に機能していることの証明だといえる。

研究授業に続いて研究協議も開かれ有意義な意見交換がなされた。個人的には動詞と名詞の正しい形に意識を向けさせる指導の重要性が確認できたのが一番の収穫。

しかしながら、改めて感じたのは授業をされたS先生の求心力の強さである。参加者数もさることながら同僚の先生方が実に協力的で前向きなのがすばらしい。教材の共有や役に立つ共通シラバスの構築はこのような下地があって初めて可能なのだろう。

日頃から親しくしていただいている方々や以前の同僚の皆さんともお会いでき、受験指導でたまった疲労感も吹き飛ぶ思いでした。帰り際にはお土産までいただき、文字通り最高のエネルギー補充の機会をありがとうございました。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

Contagious

2010-02-08 05:25:21 | 研修
先週末は二つの研究会をハシゴ。ひとつは県の研修所による恒例の年度発表会。もう一つは近隣の小学校での外国語活動に関するもの。前者はともかく、後者は前教科調査官の菅先生が指導者ということで、とても楽しみにしていたものだ。

というわけで、県の企画の方はとりあえず置いておき、外国語活動の話。45分の研究授業に、研究協議、菅先生の講演という流れ。当初のお目当てはもちろん菅先生のご講演。政権交代後、文科省退官後に小学英語についてどんな話が出てくるかしらと興味津々。

しかしながら、凄かったのは研究授業。地元大学付属中の先生がALTさんとティームティーチングをされたのだが、その内容の濃さに圧倒された。

いわゆるオールイングリッシュベースであるのはもちろんのこと、ICT、ことばへの気づき、文化の多様性への気づき、伝統、ノンバーバルコミュニケーション、自己表現と、およそ小学英語で話題に上る(うちで私が知っている)ものはすべて要素として組み込まれている。しかも、それらが流れの中の必然として入っているので取って付けたような感じが全くない。

さすがに、ペアワークやグループワークは日本語になってしまうからできないだろうと思っていたら、地元の有名なものを説明するのにどうしたらいいか知恵を出し合おうという活動でいとも簡単にこの難題を突破。降参です。

研究協議の際に、授業のフレームワークを作る時に何を意識したかという質問をすると、自分のこと、自分の文化を説明できることの重要性を感じて欲しいと思ったというご説明。納得、素晴らしいです。

さて、菅先生の方は聴衆を引き込む名調子でいつも通りの愉しいご講演。裏話やワークショップも加えつつ小学英語の意義を伝えられた。印象に残ったことは伝えたいという意欲や工夫を大切に育んで欲しいというメッセージ。簡単に言えば、斉藤栄二先生が言われる、"Osaka is takoyaki."も小学校ではOKだということだろうか。

格差拡大という負の面への想いは今回は胸に秘めたままで、研究会は和やかな雰囲気のうちに終了。「英語指導という無理難題をつきつけられた」と感じている小学校の先生方も(もしいらっしゃるなら)おそらく菅先生の魔法にかかって元気を受け取られたのではないでしょうか。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


マザーテレサと坂本龍馬

2010-02-03 20:21:43 | その他
ソフトバンクのCMだったか、「坂本龍馬が嫌いな男はいないだろう」的な言葉を聞いた。私も龍馬好きの1人だ。しかしながら、私が龍馬を好きなのは司馬遼太郎の描いた竜馬のおかげだ。

年末にそんなことを家人と話していたら、内田樹先生のブログでも司馬の「竜馬」について言及があった。ここで触れるつもりではなかったが、ちょうど良いタイミングでマザーテレサが出てきてしまった。

偉人を偉人として疑いなく受け止めることは(宗教的な絡みがあってよいかどうかは別として)必ずしも悪いことではないと思う。自分の子供には偉人の伝記を読み聴きしてインスパイアされて欲しい。素直に偉人のような生き方を目指す大人に育ってもらいたい。

ただし、それは「然るべき年齢において」という前提つきでだ。おそらくは小学校高学年までだろうか。それより上になると、「偉人」の「偉大さ」をそっくりそのまま事実として受け止めることを期待するのは無理だろうし好ましいこととも思えない。

たとえば、こんなことだ。

教員になりたての頃、英語Ⅰの教科書にアムンゼンと南極点到達を競ったロバート・スコットのエピソードが載っていた。スコットは結局南極で亡くなってしまうのだが、教材を読み終えたあと、生徒に感想文を書いてもらうと、スコットの勇敢さを賞賛する文ばかりだった。

命を危険にさらして使命を遂行することを皆が褒め称えることに違和感を覚えた。もちろん、そうだと思う人がいてもよい。ただ、全員が同じ感想を持つべきだと考えるのは危険だし、その方向に目に見え辛い力が働くのなら、さらに不気味だと言わざるを得ない。

学校教育において、学ぶ者が自分に期待されている反応を推し量り、その筋に沿って応えることで肯定的なフィードバックを得ようとするケースはよく見られる。加えて英語教育では「理解」の段階で多くの労力が使われるから「解釈」に深みが求めづらくなって余計にやっかいだ。

新学習指導要領のもと高校においても道徳教育を充実させようという動きが拡大している。しかしながら、我々がなすべきことは価値観の押しつけではなく、自分で正しく価値判断ができる力を育むことであることを忘れてはならないと思う。

さて、そんな私が龍馬好きでいられるのは、竜馬が龍馬ではないことを承知しているからだ。現実の、生身の龍馬は竜馬ほど立派ではないかもしれないが、竜馬のモデルとなった人物が実在してくれていたというだけで十分なのだ。

リアルタイムで偉人となったマザーテレサは、さぞかし辛い思いをしていたことでしょう。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ