住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「さんがいずいき」を平易に解す 

2013年01月23日 13時15分18秒 | 仏教に関する様々なお話
真言宗の法会であるとか、法事に際して常用経典・般若理趣経の後に懺悔随喜・・・と唱えられる至心回向の文がある。懺悔随喜(さんがいずいき)と唱え出すので、懺悔随喜と言えばこの少し長い回向文を指す。この回向文の内容を本格的に解釈するならば、それはそれは大変な多岐に亘る濃い内容を含むかなり難解なものになるだろう。

しかしその偈文を毎月の護摩供の際に、参詣され御祈願する皆さんが護摩の火を前に長く般若心経や諸真言を唱えた後、護摩供の終了時に護摩供導師ともどもに唱えられる。いつの間にか皆さん写したものなどを持ち寄って唱えるようになってしまった。そこで、少しはその意味も知っておらねばと思い、昨年何度かに分けて、護摩供の後、解説したことがある。出来るだけ平易に簡単に述べようとするのだが、難しい専門用語の解説が必要になったりで、十分に意を伝えられなかったようだ。そこで、少しでも分かりやすく文字にして簡単簡潔に解説してみたいと思う。

まず、その全容は以下のような文言である。

(廻向総説)
懺悔随喜勧請福 さんがいずいきげんせいふく
願我不失菩提心 げんがふしほていしん
(常随仏学)
諸仏菩薩妙衆中 しょふほさびょうしょうちゅう
常為善友不厭捨 しょういせんにゅうふえんしゃ
離於八難生無難 りよはつなんせいぶなん
宿命住智荘厳身 しゅくべいちゅうちそうげんしん
(恒順衆生)
遠離愚迷具悲智 えんりくべいくひち
悉能満足波羅蜜 しつのうまんそくはらび
富楽豊饒生勝族 ふらくほうじょうせいししょ
眷属広多恒熾盛 けんしょこうたこうしせい
(普皆廻向)  
四無礙弁十自在 しぶかいへんしゅうしさい
六通諸禅悉円満 りくとうしょせんしってんまん
如金剛幢及普賢 じょきんこうとうきゅうほけん
願讃回向亦如是 げんざんかいきょうえきじょし
(礼仏帰敬)
帰命頂礼大悲  きべいていれいたいひ
毘慮遮那仏   ひろしゃだふ
(金剛界礼讃文 五悔・第五段)

(廻向総説)
懺悔随喜勧請福  懺悔し随喜し勧請したてまつる福をもって
願我不失菩提心  願わくはわれ菩提を失わず

まず、この偈文は金剛界礼讃という金剛界曼荼羅を拝む礼讃文の中の五悔(ごかい)の最後の文にあたる。だから冒頭の懺悔と随喜と勧請というのはその前の三つの偈文を意味している。が、それらを解釈していると煩瑣なものになるのでなるべく簡単に述べてみよう。

懺悔(さんげ)とは、罪を悔いて告白することではあるが単に今生のことだけではなく、無始よりずっと私たちは三界六道という迷いの世界で何回も輪廻して来たる間に様々な身と口と心に作ってきた無量無数の罪過があるのだということにまで思いを馳せ、そのすべてを、仏菩薩がさとりを求めてなされたように、自分も今こうして懺悔いたしますということを意味している。

次に随喜(ずいき)とは、心からありがたく思うことではあるが、何にありがたく思うかということが大切なことで、仏道に精進する者にとって、すべての衆生、さとりに向かって精進努力する人々、それにすべての仏菩薩が行った良き功徳、他者に対してなされた善行、救済の善根功徳を心から喜び、自らもそうあらんと願うこと。

そして勧請(かんじょう)とは、神仏の来臨を願うことをいうが、ここでは十方のあらゆる世間の迷暗を照らす灯りであり、一切衆生の生と死と中有にわたる迷界をも照破する諸仏をお招きいたします、どうか、一切衆生のために無上の妙法をお説き下さいと願うこと。これら懺悔・随喜・勧請という三つの功徳の福、つまり福業による功徳を、さとりと衆生と一切に廻向す。願わくばこの功徳力によって、われ菩提心、つまりさとりを求める心を失うことのないことをと申し述べるのがはじめの二句、廻向総説である。

(常随仏学)
諸仏菩薩妙衆中  諸仏と菩薩との妙衆中にあって
常為善友不厭捨  常に善友のために厭捨せられず
離於八難生無難  八難を離れて無難に生じ
宿命住智荘厳身  宿命住智あって身を荘厳し

先に述べた菩提心には、自らさとりを求める上求菩提(じょうぐぼだい)と他の衆生を教え導く下化衆生(げけしゅじょう)の二つの意味合いがあると言われる。上求菩提がここ常随仏学での四句の内容となっている。この上下の分け方については古来このように説かれるのであって、かつて高野山にいた頃ある先生から、これは内外と分けられたものと考えたらよろしいと教えられた。自らの内にさとりを求め、外にはその教えを説き導くべしと解釈すべきであろう。

諸仏と菩薩との妙なる聖衆の中にあって、さとりへの導き手となる善なる修行者たちによって修行に邁進して厭い捨てられることなく、心からさとりを求める。そのさとりを求めるために、仏を見ず説法を聞くことのできない境遇、例えば地獄や餓鬼、蓄生、視力や聴力がないなど八難の世界に生まれることなく、無難に生まれ、自他の過去世を知る智慧を身につけて行いを正し徳を積み、ますます堅くさとりを求め精進することを誓願するということである。

(恒順衆生)
遠離愚迷具悲智  愚迷を遠離して悲智を具し
悉能満足波羅蜜  悉くよく波羅蜜を満足し
富楽豊饒生勝族  富樂豊饒にして勝族に生じ
眷属広多恒熾盛  眷属広多にして恒に熾盛ならん

菩提心のもう一つの願いである下化衆生、つまり他者を教え導くという内容に触れた部分がこの恒順衆生である。常に衆生にしたがって、教化しようとすることであるが、そのためには自己の修養を積み愚迷を廃して大悲の智慧を具足していなくてはならない。そして、布施(恵み施し分かち合う)・持戒(規律ある生活)・忍辱(苦難に耐え忍ぶ)・精進(善きことに努力する)・禅定(心の落ち着き)・智慧(世間の知識を越えた智慧)・方便(人々を救い導く手立て)・願(人々を救う誓願)・力(修行を実践継続する力)・智(あるがままに知る智)の十波羅蜜行を悉くよく修し、その徳ゆたかに富み栄えて善きところに生まれ、多くの衆生を共に従えて、精進努力怠ることのないようにということであろう。

(普皆廻向)  
四無礙弁十自在  四無礙弁と十自在と
六通諸禅悉円満  六通と諸禅とを悉く円満せん
如金剛幢及普賢  金剛幢と及び普賢との如く
願讃回向亦如是  願讃し廻向することもまた是の如し

ここまで述べてきた一切の功徳によって、法(仏法と論理に精通)・義(義、意味内容に精通)・辞(語句、言語に精通)・弁説(頭の回転早く弁舌に精通)の四つの無碍自在なる智、そして寿命・心・荘厳・業・受生・解脱・願・神力・法・智の十自在によって心の欲するままに何事も自由になし得る力を得て、また神足(自在に欲するところに現れ得る能力)・天眼(通常見えない物を見る能力)・天耳(通常聞き得ない音を聞く能力)・他心(他人の心を知る)・宿命(過去世の記憶をも思い出す)・漏尽(一切の煩悩を断つ智)の六つの神通力と、世間禅・出世間禅・秘密禅などの諸禅を悉く円満し、この円満せるすべての功徳をあまねく一切衆生に廻向せん。これはあたかも、金剛幢菩薩が十廻向の法門を説くがごとく、普賢菩薩が普皆廻向の行願を説くがごとくに、われもまた今ここにあまねく一切に廻向しますと申し述べるのである。

(礼仏帰敬)  
帰命頂礼大悲  大悲毘盧遮那仏を帰命し、頂礼したてまつる
毘慮遮那仏 

最後に、正しく廻向の文を誦持するにあたり、帰依する諸仏の総体である大日如来に帰命頂礼して、願わくばそのご加護をたれたまえと祈り願うのである。

以上で懺悔随喜を解説し終わったのであるが、誠に沢山の難解な仏教語がちりばめられている。それらを平易に解説するだけでも本来なれば多くの紙数を必要とするだろう。煩瑣を極める詳細な解説は専門の先生にお任せするとして、その大意をかいつまんで懺悔随喜の本来の意味を逸脱することなく、ごくごく簡単にこの豊富な内容を一口に述べるならば以下のようになるであろうか。

「自らを省みて、仏の存在に喜びを感じ、そこに至りたいという心を起こしたならば、常に仏に従って一心にさとりを得んがために学び行じ、そして一切の生きとし生けるものたちと共にそのよくあらんがために精進努力し、それらすべての修行と善行によって様々な段階、過程を経て得た、あらん限りの功徳を一切衆生に廻向します。そしてここに改めて、すべての仏を生み出す大日如来に帰依礼拝いたします。」

いかがであろうか。取り敢えずのところ、毎月護摩供に様々な思い、願いを放下し、心浄めんとするご参詣の善男善女の皆様におかれては、このような意味合いとして理解し読誦していただけたらありがたいと思うのである。


(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 阿含経典を読む 1 | トップ | 四国遍路行記-30 »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
至心廻向 (茉莉花)
2013-01-29 18:03:48
こんばんは。
至心廻向は、確か、『金剛界禮懺』から取られたものですね。一度ネットの動画で、それを僧侶が唱えているところを撮った動画を見た事があるのですが、節を付けて唱えるものの様ですね。
ご信者さんが御唱えしているという事は、ご信者さんも節回しを憶えていらっしゃるのでしょうか?
返信する
茉莉花さんへ (全雄)
2013-01-30 07:02:44
おはようございます。

いいえ、こちらではほとんど節はありません。派によっても違いがあるのだと思います。

ですから、信者さんたちも特別な節は付けずに唱えています。
返信する
回答有難うございます (茉莉花)
2013-01-30 12:39:56
ご信者さんは、般若心経を唱える感じで至心廻向を唱えておられるのですね。流派によって節を付ける、付けないがあるのは、興味深いですね。今度お世話になっている、地元のお寺さんに聞いてみようと思います。
返信する
食 育 「知行合一」 (今井龍弥)
2018-06-25 21:56:28
食 育 
 「食べ終わりました食器を感謝を込めて、パン又はナンの小片で拭う」

 今日、世間では 「食育」 と言う言葉が、特に女性の間で格好よく飛び交っています。食育の一番大切なのは幼少児ではないかと思います。次に大切なのは母親ではないかと思っています。 
 40年以上前、私は船医をしていました。印度のカッチ湾(ボンベイ、アメーダバードの西方)で天日塩の積み込みで5日間ほど湾内に停泊していたことがあります。
 不可触賎民(アンタチャブル)の塩積み人夫の人達が乗り込んで来て、朝昼夕の三回(2回か?)食事を船尾甲板でされました。
 甲板に石を持ち込み炉を作り、朝から大きな平たい中華鍋のような鉄製の鍋で主食(ナン)とカレーを作って食べておられました。主食は御飯(現場監督が陸から運んで来られました)のこともナンのこともありました。
 副食のカレーを指に粘り付かないインデイカ米の御飯やナンで綺麗に皿を拭取るように食べておられました。
 敗戦直後の飢餓地獄時代に母親から「皿を舐めるのは犬だ」と叱られたことを思い出したことでした。
 運動のため夜、甲板を散歩しているとき、船尾で料理人の椅子にしていた石に躓きました。船外へ放り投げたら、近くに塩積み人夫さんが寝ている小船が船尾舵の近くに繋がれていました。 誰かに当たっていたらと肝を冷やしたことを今思い出しました。
 別の船でリスボンへ上陸しましたとき、町の食堂で食事をしたことがありました。隣の食卓で、西洋人の家族が、今では然程には珍しくもない、真っ黒な烏賊墨パスタ(スパゲテイーか)を食べておられました。食べ終わる頃に、皆さん最後のパンでお皿を綺麗に拭って食べ終わられました。
 それは、流石合理的文化的先進国(当時は)欧州、後片付けや洗い物をする人の負担を軽くし、下水の保全のためなどの合理的,科学的な行為、作法と考えて、私は以来実践して来ました。
 余談ですが、そのとき自分の食事内容も珈琲を取ったか否かも全く記憶がありません。南欧の快晴の道路に置かれた食卓の上の真っ白なお皿の真っ黒な料理と、最後の真っ白なお皿が今でも目に浮かぶほど強烈な印象でした。
 欧州へ度々旅行しておられる患者さんにこの話しました。患者さんは 「勿論、確かにそのような実利的、合理的な意味もあります。然しそれだけではなく、料理を作って下さった方、運んで下さった方、後片付けをされる方にも 『美味しかったです、有難うございました。』 と言う 感謝の気持ちを伝える高度の精神的な行為でもあるのです。」 と言われました。 
 若い頃ドイツへ留学したことのある人にこの話を致しましたら、「その通りです。学生食堂でも皆そうしていました。」 と言われました。
 少なくともキリスト教圏ではこのような食事作法が共通なのではないかと思いました。私は無宗教で特に基督教に就いては全く知りません。そこで自分勝手にこのような行為はキリスト教の修道院での食事作法が元になっているのではないかと想像しています。
 若しかしますと、主食がナンやパンなどの粉食か指に粘り付かないインデイカ米であることからの必然、或いは自然発生的な行為、食事作法かも知れません。
 仏教、特に禅宗の曹洞宗では食事を厳しく規定しています。承陽大師道元禅師は『典座教訓』、『赴粥飯法』 を著し、食事を作る(用意する)ことに「心を込めて作ること」と、食事を頂くときの作法を細かく規定されました。
 室町時代になり禅宗が興隆し、町衆の力が旺盛になり、喫茶の風習が庶民の間にも広まりました。 それに就き、茶懐石料理も普及しました。
 料理を食べ終わりましたら、食器を沢庵で拭い、お茶(焦げ湯)で濯ぎ、濯ぎ汁をのみ、最後にお茶で食事を終わる食事作法が普及しました。その名残が店屋物の沢庵二切れに残っているものと私は考えています。
 店屋物の沢庵の起源は比叡山延暦寺にも「定信坊」と言う沢庵にも残って今に続いています。若しかすると道元禅師の食事作法も道元禅師が開宗以前の旧仏教に求められるかも知れません。
 幕末、明治初期にカレーやシチュウなどの西洋羹料理が導入され、所謂洋食として普及しました。然し、そのとき、日本人の主食はパンではなく、指に粘りつくジャポニカ米の御飯でした。従って私が船医時代に目撃した、「最後に食器を拭う」 と言うような西洋の食事作法は導入されず、シチュウやカレーなどの西洋羹料理は食べっ放しで今日に到ったものと考えられます。
 奈良県に住んでいます小学一年生の孫が昨年秋に学校から信貴山の宿坊へ一泊研修に行きました。夕食は朱塗りの高脚膳で、チキンカレーが提供されていました。私はこのとき御飯を少し減らし、少量のパンかナンを付けて出して貰いたかったと思いました。そして教師か僧侶が上述の食育をして戴きたく思ったことでした。
 和食、精進料理でも葛餡などを用いた羹が提供されますときは、沢庵だけでは食器全体を拭うことが難しいことも在ります。そんな時ナンかパンの小片を別の器で供するのも一考かと思います。
 孫は学校で学んだように、食事を始めますとき「唱えごと」を唱えます。その形式的な唱えごとも決して無意味ではありません。
 有言無実行も無言無実行よりは良いかと思いますが、有言(唱え事)実行(食器を拭う)が大切かと思います。
 大塩 平八郎(中斎)は洗心洞箚記(せんしんどうさっき)を著し、その中で王陽明が唱えた陽明学の「知行合一」を大切にされていたと言われています。

 孫には「唱えごと」(知)ばかりでなく、感謝(知)を込めて「食器を拭う」(行)ことを実践して貰いたく思うこと頻りです。
 船戸結愛さんが食を抜かれ、虐殺された報道を知って以来、食べられることに感謝し、結愛地蔵菩薩に祈る気持ちで食器を拭っています。
返信する
食 育 「知行合一」 (今井龍弥)
2018-06-25 21:57:25
食 育 
 「食べ終わりました食器を感謝を込めて、パン又はナンの小片で拭う」

 今日、世間では 「食育」 と言う言葉が、特に女性の間で格好よく飛び交っています。食育の一番大切なのは幼少児ではないかと思います。次に大切なのは母親ではないかと思っています。 
 40年以上前、私は船医をしていました。印度のカッチ湾(ボンベイ、アメーダバードの西方)で天日塩の積み込みで5日間ほど湾内に停泊していたことがあります。
 不可触賎民(アンタチャブル)の塩積み人夫の人達が乗り込んで来て、朝昼夕の三回(2回か?)食事を船尾甲板でされました。
 甲板に石を持ち込み炉を作り、朝から大きな平たい中華鍋のような鉄製の鍋で主食(ナン)とカレーを作って食べておられました。主食は御飯(現場監督が陸から運んで来られました)のこともナンのこともありました。
 副食のカレーを指に粘り付かないインデイカ米の御飯やナンで綺麗に皿を拭取るように食べておられました。
 敗戦直後の飢餓地獄時代に母親から「皿を舐めるのは犬だ」と叱られたことを思い出したことでした。
 運動のため夜、甲板を散歩しているとき、船尾で料理人の椅子にしていた石に躓きました。船外へ放り投げたら、近くに塩積み人夫さんが寝ている小船が船尾舵の近くに繋がれていました。 誰かに当たっていたらと肝を冷やしたことを今思い出しました。
 別の船でリスボンへ上陸しましたとき、町の食堂で食事をしたことがありました。隣の食卓で、西洋人の家族が、今では然程には珍しくもない、真っ黒な烏賊墨パスタ(スパゲテイーか)を食べておられました。食べ終わる頃に、皆さん最後のパンでお皿を綺麗に拭って食べ終わられました。
 それは、流石合理的文化的先進国(当時は)欧州、後片付けや洗い物をする人の負担を軽くし、下水の保全のためなどの合理的,科学的な行為、作法と考えて、私は以来実践して来ました。
 余談ですが、そのとき自分の食事内容も珈琲を取ったか否かも全く記憶がありません。南欧の快晴の道路に置かれた食卓の上の真っ白なお皿の真っ黒な料理と、最後の真っ白なお皿が今でも目に浮かぶほど強烈な印象でした。
 欧州へ度々旅行しておられる患者さんにこの話しました。患者さんは 「勿論、確かにそのような実利的、合理的な意味もあります。然しそれだけではなく、料理を作って下さった方、運んで下さった方、後片付けをされる方にも 『美味しかったです、有難うございました。』 と言う 感謝の気持ちを伝える高度の精神的な行為でもあるのです。」 と言われました。 
 若い頃ドイツへ留学したことのある人にこの話を致しましたら、「その通りです。学生食堂でも皆そうしていました。」 と言われました。
 少なくともキリスト教圏ではこのような食事作法が共通なのではないかと思いました。私は無宗教で特に基督教に就いては全く知りません。そこで自分勝手にこのような行為はキリスト教の修道院での食事作法が元になっているのではないかと想像しています。
 若しかしますと、主食がナンやパンなどの粉食か指に粘り付かないインデイカ米であることからの必然、或いは自然発生的な行為、食事作法かも知れません。
 仏教、特に禅宗の曹洞宗では食事を厳しく規定しています。承陽大師道元禅師は『典座教訓』、『赴粥飯法』 を著し、食事を作る(用意する)ことに「心を込めて作ること」と、食事を頂くときの作法を細かく規定されました。
 室町時代になり禅宗が興隆し、町衆の力が旺盛になり、喫茶の風習が庶民の間にも広まりました。 それに就き、茶懐石料理も普及しました。
 料理を食べ終わりましたら、食器を沢庵で拭い、お茶(焦げ湯)で濯ぎ、濯ぎ汁をのみ、最後にお茶で食事を終わる食事作法が普及しました。その名残が店屋物の沢庵二切れに残っているものと私は考えています。
 店屋物の沢庵の起源は比叡山延暦寺にも「定信坊」と言う沢庵にも残って今に続いています。若しかすると道元禅師の食事作法も道元禅師が開宗以前の旧仏教に求められるかも知れません。
 幕末、明治初期にカレーやシチュウなどの西洋羹料理が導入され、所謂洋食として普及しました。然し、そのとき、日本人の主食はパンではなく、指に粘りつくジャポニカ米の御飯でした。従って私が船医時代に目撃した、「最後に食器を拭う」 と言うような西洋の食事作法は導入されず、シチュウやカレーなどの西洋羹料理は食べっ放しで今日に到ったものと考えられます。
 奈良県に住んでいます小学一年生の孫が昨年秋に学校から信貴山の宿坊へ一泊研修に行きました。夕食は朱塗りの高脚膳で、チキンカレーが提供されていました。私はこのとき御飯を少し減らし、少量のパンかナンを付けて出して貰いたかったと思いました。そして教師か僧侶が上述の食育をして戴きたく思ったことでした。
 和食、精進料理でも葛餡などを用いた羹が提供されますときは、沢庵だけでは食器全体を拭うことが難しいことも在ります。そんな時ナンかパンの小片を別の器で供するのも一考かと思います。
 孫は学校で学んだように、食事を始めますとき「唱えごと」を唱えます。その形式的な唱えごとも決して無意味ではありません。
 有言無実行も無言無実行よりは良いかと思いますが、有言(唱え事)実行(食器を拭う)が大切かと思います。
 大塩 平八郎(中斎)は洗心洞箚記(せんしんどうさっき)を著し、その中で王陽明が唱えた陽明学の「知行合一」を大切にされていたと言われています。

 孫には「唱えごと」(知)ばかりでなく、感謝(知)を込めて「食器を拭う」(行)ことを実践して貰いたく思うこと頻りです。
 船戸結愛さんが食を抜かれ、虐殺された報道を知って以来、食べられることに感謝し、結愛地蔵菩薩に祈る気持ちで食器を拭っています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教に関する様々なお話」カテゴリの最新記事