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『子どもは親を選んで生まれてくる』を読んで

子は親を選ぶことはできない。そう私たちは思っていたのではないだろうか。だから、何かというと「好きこのんでこんな家に生まれてきたんじゃない」などと言う子供の大きな声を聞くこともあったかもしれない。

こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。

しかし、本書「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社刊)を読むなら、そうした我が儘ないいわけを一切受け付けない理論武装になるかもしれない。書いたのは、れっきとした産婦人科の医師、池川明氏。多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っている。

そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語る。

池川氏は生まれる前の記憶を、胎内記憶、誕生記憶、中間生記憶、過去世記憶に分けている。2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうだ。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。

子供の脳は、誕生から作られるのではなく、受精の瞬間から作られるという世界の最先端の研究報告がある。幸せや喜び、悲しみや怒り、不安や安らぎなどの感情をコントロールする脳のホルモンや神経伝達物質がへその緒を通して赤ちゃんに流れ込むので、お母さんの感情は赤ちゃんと共有されるとも言われている。

だが、胎内記憶とは、鮮明な映像としてのはっきりした記憶のことを言う。お母さんのお腹の中にいるときの記憶で、胎内にあるときに両親が結婚式を挙げた様子を記憶していたり、お母さんが妊娠中にビールを飲んでいた光景を記憶している子もあるという。それらの事例ではお母さんのおへそから外の様子が見えたと言う子もあった。中には精子であったり卵子であったときの記憶を語り出す子もあるという。

また、誕生記憶とは、言うまでもなく、お産の時に産道を通りお母さんのお腹の外に出てくるときの記憶のことだが、実際の誕生の時間や場所、居合わせた人、器具、生まれ方など本人にしか分からない産道内の状況についても含まれる。

そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶が中間生の記憶である。中間生では、自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐということもあるようだが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうだ。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。

そうなると、たとえば虐待を受ける子も自分でおよそそうなることを知っていて親を選ぶのかということが気になるところである。が、その場合も、子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もある。

また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もある。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるという。

生まれる前の世界は雲の上のようなところで、その上には仏様のように座った神様がいて、死んで雲の上に戻ってきた人によいことをしたか悪いことをしたか聞いて、悪いことをしたら、次に生まれたときによいことをしなくてはいけないし、よいことをした人は誉められて自分の好きなところに行かせてもらえるという。つまり、悪いことをしたら次には自分の好きなところには行けないということであろう。

大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということだ。

心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと以前から知っていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話した。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。

さらに、過去世を思いだす子もあり、それが過去世記憶である。ある10歳の女の子は、急に男の子の口調になり、「ボクは前に三年生で車に轢かれて死んだので大きな横断歩道は気をつけよう」と語ったという。そこで詳しく聞くと、前世で死んだときの様子を、たとえば習字のバックを持っていたとか、そのころいじめにあっていたなどと克明に語り出したという。

さらには、「その前の人生で辛いことがあったので幸せになろうと思っていたのに自分をいじめる人が現れたので、いじめられ役でもう一度生まれることにしたけれど、辛いので早く終わらせることにした」とも語っている。

この子はさらに沢山の過去世を記憶しており、戦時中の沖縄を舞台にしたドラマを見ていて、戦争で死んだ過去世を思いだし、お母さんと一緒に逃げているとき銃剣で刺され死んだ様子まで語り出したりもしたという。

こうした過去世の記憶を聞いて、池川氏は、それらを一切荒唐無稽のものとは思わず、真摯に受け止めている。そして、それらがどう私たちの理解に役立つものだろうかと考える。

つまり、過去世を思い出す人がいて、それによって過去世が誰にでもある、つまり私たちは輪廻転生するものだという認識を持つことで、死ねばすべて終わり、人間はこの肉体に限定されたものだという現代人の認識を一変させることができるであろうと。

死ねば自分という存在が無に帰すと思い虚無感に襲われたり、死ぬとどうなるのか分からないという不安、恐怖の中に死を忌み嫌う人々は、誰もが生き死にを繰り返すものであり、そうして、命の尊さ、人と人の理解、信頼、愛情を学んでいくのだと考え方を切り替えることで、生きることそのものの意味を感じとることができるのではないかと言われている。

そして、自分の過去世を知ることは、過去がこうだったから、今こんなでも仕方ないと言い訳にすべきものではないと釘を刺す。過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだと捉えている。

さらには、どんな人生にも目的があると唱え、私たちが生まれてくるのは、①親、特にお母さんを成長させるため、②自分の人生のテーマを追求し多くの人の役に立つためではないかと、多くの子供たちの記憶の証言から結論されている。そして、私たちは生まれて生きているだけで、お母さんの役に立てたと思えたとき、②の自分のテーマに向かっていけるものではないかという。

引きこもり、自閉症も含め、人生の目的が分からないという多くの人たちには、様々な原因もあろうが、この池川氏の意見は示唆に富む見解ではないかと思う。そのような子を持つお母さんには特に、子供に対してあなたが生きているだけでうれしい、ありがとうという気持ちをはっきりと伝えて欲しいと述べている。

そして最後に、究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないかと、池川氏は言う。私たちにとっては、魂を心と言い換えることもできよう。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。

そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されよう。

つまりどんな環境に生まれても、その人生での目的を全うするために自ら望んで生まれてきたということになり、その環境がその人生での心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは生きているのだということなのであろう。

そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのないものなのであると理解されよう。

「子どもは親を選んで生まれてくる」池川明氏のこの本は、日本教文社の本であるためか、神や天使、魂という言葉が気になる他は、誠に仏教の生命観、輪廻転生の世界観にも共通する内容を含み、宗教書とも言える内容であった。

ただ一カ所、現在の心が変わることで過去世の行いが変わるとしている(146p)のはいかがなものか。過去世の行いに対する認識が変わると言い換えた方がいいのではないかと思えた。そのほかは何の引っかかりもなく読み通すことができた。誠に多くの示唆に富んだ良書であった。

これまでにも、輪廻を記憶する子供の話はあった。しかしそれらはインドやスリランカなど海外の事例に過ぎなかった。この本に記されている事例はみな日本人の事例である点で、それが特異なものではないと理解するのに役立つであろう。是非多くの人にご一読願いたい。

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コメント ( 29 ) | Trackback ( 2 )
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コメント
 
 
 
Unknown (サムライロジック)
2007-09-12 18:50:09
こんにちは。TBさせていただきました。ブログ村からの訪問しました。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-17 14:22:07
はじめまして。ブログを読ませていただきました。ご紹介の本は読んではいませんが、ブログの感想を述べさせていただきます。

『子どもは親を選んで生まれてくる』という表題は、仏教の考え方にも通じるようにも思われます。

勝手に生まれたのではない、自分が選んで生まれてきたのだという、逆転の発想。これが人生に積極的な意義を見出すことにつながれば、意義あることだと思います。

過去世の記憶などについては、多くの事例から、興味深いことが分ることは、生命の不思議、輪廻転生の有無などを考えるうえでも、面白い材料を提供するものだと思います。ブログに紹介されているいくつかの話も大変興味深いものでした。

ただ、こうした事例の信憑性を検証するのは、とても困難です。子供たちの話した内容が本当に信じるに足るものであるか、確かな記憶であるかは、なかなか判断がつかないと思います。

それは、人間の記憶はどこからくるか、はっきりしないからです。他人から聞いた話を、自分のこととして話してしまうなど、記憶には様々な要因が這入り込んでいます。とくに子供の場合、そうした明確な識別、現実と想像の判別などが不明瞭なケースも多いでしょう。

過去世の記憶として語られるものも、本人の過去の記憶ではないといった議論もあり、難しい問題を多く抱えているのが現状であろうと思います。

ただ、こうした調査から個人的に、過去世の記憶、輪廻転生の存在を信じ、人生を前向きな意義や、人生に積極的な目的を見出せるのならば、それに関しては、意義があるのかもしれません。

逆に過去世の記憶、輪廻転生の存在を信じ、何でも前世の因縁として考えてしまったり、次の世を期待して、いまの人生を安易に考えてしまうなど、間違った扱われ方をされる危険性があることは、考えておく必要があると思います。

ところで、輪廻転生があるとしても、現実には過去世の記憶がない人のほうが多いと思います。

『過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだ』という本の主張は、殆ど不可能なことではないかと思います。

むしろ、過去の記憶がないほうが、いまを生きるうえでとても都合が良いことかもしれません。過去世の記憶などにあまり捉われずに、いまの人生をしっかり生きる。過去世を知ろうが、知るまいが、それはどうでもいい。それよりも、人生を如何に生きるべきか、を考える。多くの宗教はそれを教えているし、それに耳を傾けることが、大事ではないでしょうか。
 
 
 
過去世のこと (全雄)
2007-09-17 14:47:30
小月堂さん、はじめまして。輪廻転生、前世来世、そんなものはなくてもいい。そう考える人があっても不思議ではありません。それと同じように、輪廻はあるだろう、前世も来世もあるはずだと考える人もある。どちらでもいいのです。しっかりいい人生を送れるなら。

ですが、何で自分はこんなところに生まれ、こんな人生を送っているのか、隣の人と何で違うのか、物の好き嫌いも違う、人生なんて全く不平等、つまらない、もうどうでもいい、したいことして、いいおもいしてしんでしまえば、それでおしまい。そう考え勝ちなのが人というものではないでしょうか。

みんな前世があり、それに従って、自分のこの度の人生に相応しい親のもとに、それぞれのテーマを持って生まれてきた。別に他の人と競争する人生ではない。自分が自分として精一杯がんばっていい人生を送ろう。来世もきっと真面目に生きたんだから、おかしなところに行くはずがない。安心して死んでいける。そう思って、生きることの方が幸せな生き方になるのではないか、そう私は思います。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-17 17:52:31
全雄さま。仰られること同感であります。
私が先に書きましたことを読むと輪廻転生を否定していると思われたかも知れません。しかし、そうではありません。私は輪廻転生を認めたうえで、この問題は扱い方を間違うと、とても危険だと云いたいのです。

もちろん、宗教の信仰があり、輪廻をすんなり認めておられる人には、それは危険ではないでありましょう。しかし、それは決して多くの人に当てはまることではないだろうと思います。

それに、実際のところ輪廻を本当に知ることは、ほとんど不可能でありましょう。輪廻の存在とその原理の概略を理解できるにしても、自分の前世はどうであったとか、誰々の前世はどうであったのかとか、本当には分らない。

それが分らなくても、信仰上に何の差し障りはない。自分の過去を知ったとて救われるわけではない。いまこの人生をいかに生きるか。いかに救いがあるか。真実の安心はどうすれば得られるのか。

それを追求することが大事であって、輪廻などに深入りしても得られるものは少ない。そこを押さえておかないと、この問題は人を惑わせ、無駄な苦労をさせるだけに終わるのではないか。

過去世が見えるほどの人なら、そんな輪廻のことはあれこれ言うはずもない。無用なことは、知らなくていい。そんなことで迷っていてはいけない。もっと大事なことがある。きっと、そう仰られるのではないかと、私は思います。
 
 
 
らくに考える (全雄)
2007-09-18 06:29:38
輪廻があっても、なくても、それを信じる信じないにしても、別にそんなに大それたことではないのです。みんな知っていますよ、悪いことしたら罰が当たる。悪いことばかりしていたら、後生が悪いと。その程度のことなのです。

危険なことなど何もありません。世界の仏教徒は、別に何も難しいことを考えずとも、みんな輪廻があると信じて生きています。

輪廻なんか無いんだという人の側にこそ、何か輪廻というものがあるとつじつまが合わない困ることが何かあるのかなと考えてしまいます。昔の人の知恵としてそんなことかなぐらいに捉えたらいいのです。

過去世がどうのということはお釈迦様にしか本当のことは分からないことです。だから、そんなものはどうでもいいのです。過去世をしるということは、そのことを完璧に知らねばならないのではなくて、過去世もあっただろう、その過去世での問題点もあって今あるのだから、今世での自分の人生でのテーマというものを、悩んだり苦しんだりすることから推量して、何とかがんばろうと考えていけばいいのです。そんなに難しいことではないのです。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-18 10:42:38
私は、輪廻を考えるのは危険だとか、だから考えても無駄である、とは云いません。すんなり受け入れられる人はそれでいいでしょう。悪い事はするまい、と思えるなら結構なことでありましょう。

しかし、ネットで輪廻など検索すると、いかにそこで多くの不毛な話が展開されていることかを、思い知らされます。そしてきっと多くの人が、不信と懐疑の中に落ち込み、迷い続けているのではないか。それは、杞憂なのかもしれませんが、私はそうした現状が残念に思われるのです。

それに輪廻の問題からは、死しても存在する自己の記憶や意識、いのちを持った主体となるものの存在の有無が問題になるでしょう。それから自然界と違う世界の存在
の有無など、問題は尽きません。そうしたことも考えたうえで輪廻を考えてみると、この問題はとても理解の難しいものだと思います。

輪廻については、ひとまずこの辺りで区切らせていただきます。

次の引用する、人生の目的についての箇所も、私にはよく理解できません。

『究極的な人生の目的とは、魂を磨くこと』

まず、「人生の究極的目的が魂を磨くこと」の内容が抽象的、不明瞭で、何が目的なのか分らない。これでは自分の目指す最終目的地が分らない。

自分の究極の目的地が分らないままで、今生の目的も、来世の目的も定まるはずがない。
仮に今生で自分の人生のテーマを追求するにしても、究極の目的が分らない状態では、テーマは行き当たりばったりに定めざ
るを得ない。それでは、迷いの中で迷いを重ねることになってしまうのではないか。

今生の人生のテーマを決める前に、まず自分の人生の究極の目的を定めることが先決であろう。それ無くして真の安心は得られないと思う。
 
 
 
心を磨く (全雄)
2007-09-18 16:56:59
輪廻の不毛な議論については存じません。輪廻は、お釈迦様がはっきりと仏教の生命観としてお話しされたことのみを素直に信じるという姿勢で私はおりますから、そのほかの人が何を議論しようが別の話ということになります。

人生は、ただ過ぎ去っていくものです。そんなに大それたことができるものではないのです。魂を磨くというのも、大層なことではなくて。投稿文にあるように、つまらないことの連続の中で、様々な心を経験し味わい、学んでいくことなのです。

あなたの言う究極の目的を決めるというのはどのようなことを言っておられるのでしょうか。抽象的でなく、明瞭なその目標に向かって生きることが安心に繋がるのでしょうか。おうかがいいたします。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-23 11:39:01
幾日が、過ぎ去ってしまいました。

輪廻については、輪廻の存在を知り、そこから脱するにはどうするかが、最も大事な問題でありましょう。

それを仏教は教えているし、各宗派はそれぞれの教えを持っている。その教えに究極の目的が示されているでしょう。

それを知ることが、明瞭な目標に向かって生きる、安心に繋がるのではないでしょうか。
 
 
 
恐怖と安心 (全雄)
2007-09-23 15:58:58
輪廻や業、因果応報ということを突き詰めて理解し信じるならば、それはそれはとても厳しい人生を過ごすことになりましょう。何事もおろそかにできない、一つ一つの行為がみな業となり輪廻の因となることを知るならば、行いの一つ一つにとても注意深くなり、おろそかにしたことに恐怖すらおぼえることでしょう。

だからこそ、この輪廻の苦界から解脱することを願い、精進する、そのための教えが仏教ということになります。各宗派といえども、仏教である限りにおいて、解脱以外のものが目的になることはありますまい。もし解脱以外のことが目的になるのであれば、それは仏教という名を借りたエセ宗教ということになりましょう。

ところで、究極の目的を知ることが、安心に繋がるということはどういうことでしょうか。目的を知るだけでなぜ安心できるのですか?お伺いいたします。

究極の目的が悟り、解脱だと知っていたとしても、それに基づく教えも知らず実践も伴わなければ、安心よりも恐れに繋がるのではないでしょうか。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-24 10:32:22
安心とは、信仰の目的、帰命信頼する仏、目的に到達する行法が、確かに定まること。安心を立てるには、これらを確かに定めることが大事であろうと思います。

このような条件は、各宗派でちがった説き方をしているでしょうが、いずれにせよ上記のような条件が定まることが、安心であろうと思います。
 
 
 
怠惰な心 (全雄)
2007-09-25 08:38:12
人間とは怠惰なものです。なかなかしなければいけないことができないもの。逆にすべきではないことに心奪われ、のめり込み、失敗を繰り返す。

単に信仰定まり、信頼する仏が決まったとしても、目の前の現実に向き合う中で、すべきことに時間をどれだけ費やすことができるものでしょうか。これぞと思って取り組み始めたときには安心を得られ、ひたむきになろうとしたとしても、時間がたてば、その感激も薄れ、そう簡単には邁進していけないのが人間というものです。

一人一人の人間としての業ということに思いをはせなければ、なかなか私たちの不可解な心の様相を解明することはできません。同じ目標に向かっている人たちの中でも様々な思い、感情、機根があり、忍耐力も理解力も心の中身もみんな違います。何事も簡単に誰でも同じようにできますと説くなどということはできないものなのではないかと思っております。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-25 10:06:50
仰られることは、同感であります。人には様々な機根があります。それに応じて、どんな教えが必要か、また時代に即した教えは何かを、多くの歴史上の高僧は苦心して取り組まれたのでしょう。そして、多くの宗派も生まれたのは、ご承知の通りです。

人の機根が如何なるものであるかは、宗祖、高僧は見抜かれて、教えを説かれておられるでしょう。そして最も勝れていると考えられた教えを説かれた。仏教の範囲でいえば、それら各宗派のいずれかの教えに依らなければ、救いは見出すことは難しい、ということになるでしょう。

仮にそれらの教えが「簡単で誰にでもできるものではない」とすれば、現実問題として人々は、仏教で救われることはないでしょう。したがって、仏教の信仰は無意味ということになります。

あるいは、「非常に難しいが、中には救われる人もある」というのであれば、そう真実を説いていただければ、よろしいのです。真言宗では、どうお説きになっておられるのでしょう。
 
 
 
時代と救い (全雄)
2007-09-25 11:12:40
時代に即した教えとは何か。各宗派の教えは、その時代の教えであると思いますが、今に即したものと言えるのでしょうか。

すぐれた教え、すぐれていると思えないと高僧方が判断された教えがあるのはどうしてなのでしょうか。

救いとはどのような意味でしょうか。お釈迦様は如来は法を説くものであると言われていますが、法があることが救いということなのでしょうか。
 
 
 
Unknown (小月堂)
2007-09-25 16:27:36
救いとは何か。

各宗派の教えが今に即したものかどうか。たとえば真言宗は、どうか。

全雄さまが、お考えになることを、お書きください。人にとって、何が救いなのか。それが分らなければ、教えを説くこともできないでしょう。

ですから、教えをお説きになる立場の方は、はっきりそれをお述べになってください。私は、それを知りたいと望んでおります。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2007-09-26 11:36:44
さて、長々とお邪魔し、また多くご返答も頂き、ありがとうございました。難しい質問で、ご面倒をおかけしているのではないかと思います。

これ以上、続けるのは無理であると思われます。中途半端ではありますが、このあたりで終わりとし、失礼したいと思います。
終わりに、コメントをまとめ、私の感想などを述べさせて頂きます。

輪廻転生がある。衆生はその中で苦しみを受け、生死を繰り返す。その苦しみを終わらせるには、輪廻から抜け出さなければならない。その抜け出す方法を仏教は説いている。その方法に依らなければ、輪廻からは抜け出すことはできない。

したがって、このブログに紹介された本では、輪廻があると認めているが、そこから抜け出す方法が分らないから、今世の目的、来世の目的を定めると主張して、その目的を行ったとしても輪廻を繰り返すことに変何らわりはなく、根本的解決にはならない。

したがって、まず輪廻から脱する方法を知ることが先決である。では、輪廻から抜け出すには、どうすればいいのか。その方法は何か。これは、仏教の各宗派によって教えは異なる。それらの教えやその方法を知り、それを行うことが安心につながる。

人々の機根と、それに合った行法の優劣は、それぞれ宗派により教えは異なるから、それらを各人が判断し選択することになる。

要約しますと、このようなところでありましょうか。
以下は、いまの私の感想を述べます。

輪廻の存在は認めるにしても、その個別の内容を知ることはできない。しかし、それを知らなくても、何ら信仰心を持つことに影響はない。

輪廻転生とその苦しみの認識から善悪の因果等を信じ、生きる指針を得られることは認めるが、輪廻の世界の苦しみ、それを繰り返すことの恐れから、悪をしないという信仰の動機は、消極的信仰心である。

何故なら、恐怖から本当の信仰心は生まれないからだ。それは、恐怖を与える、あるいは受けることによって引き起こされた、自由のないこころから出た信仰心だからである。恐怖を感じなくなれば、信仰心も消えてしまうような信仰は、真の信仰に至らない。

輪廻の恐怖心からの信仰には、上求菩提・下化衆生などの積極的な信仰の動機がない。したがって、輪廻に動機づけられた信仰は不完全にならざるを得ないから、人々に健全な信仰をもたらさず危険である。

人格の完成、永遠のいのちと平和に至る教え、それを実現できる方法を知り、行うことが真の信仰であり、健全であり、根本であると思う。

自分の選んだ、教えや行法により、ひとまず安心を得ても、人々の機根はさまざまであるので、信仰は直ちに邁進できるものではないのは、その通りである。

では、それ以外にもっと勝れた教え、選択肢があるだろうか。自分が選んだ最も勝れた教えと信じた道のほかに、進むべき道はないのである。

だから、宗教家はその道を歩む人々の荷をできる限り少なくし、励まし、教え導く必要があるだろう。

最後に、全ての人を導き救う教え、実行可能な行はあると、私は信じる。以上。

短い間でありましたが、私なりに得たこと、知ることがあり、有意義でありました。この数日お付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。

なお、この私の投稿いたしました一連のコメントは、読後に必ず削除をしてください。それらは、きっと誤った考え、言葉であり、害をもたらすでしょうから。
よろしく、お願いします。

コメントの投稿はもう致しませんので、ご了解ください。では、さようなら。全雄さま。
 
 
 
Unknown (全雄)
2007-09-26 13:07:14
小月堂様、私は、自分の書きたいことをここに書いて何かしら皆様の参考になり、そのことでその方が幸せになっていただければありがたいと思っております。

この記事に感想を寄せて下さり、恐縮ですが、その目的お立場など何もお聞きしないままに過ぎてしまいました。私は真言宗の寺院におりますが、より純粋なる初期仏教にこそ今日の私たちの悩み苦しみを解く鍵があると思っております。

そこでは、救いという言葉は登場いたしません。ただ、一人一人のそれぞれの置かれた立場環境の中で、少しでもよいことをして功徳を積み、心をキレイにする実践によって、解脱に近づくことが仏教徒のつとめだと思っております。

輪廻は人々に恐怖心を植え付けるためにあるものではありません。今を説明し、明日をよりよく豊かに生きるための教えです。一人一人別々にそれぞれが価値ある命を生きるための大切な教えであると思います。世界の仏教徒の常識を受け入れようとしない今日の日本仏教は、井の中の蛙と言えましょう。

 
 
 
Unknown (ちえ)
2008-12-10 05:26:41
子どもは親を選んで生まれてくる、を今日読み終わりこちらにたどり着きました。
生まれてくる意味や生きる意味を考えさせられました。
「今」という瞬間には全てがあふれているので、今この瞬間に変わる事で、過去さえも変える事ができると最近感じておりました。
なので池上氏のそのフレーズも納得しました。
 
 
 
意味 (全雄)
2008-12-10 08:16:41
ちえさま、コメントありがとうございました。このような本が日本人の事例で出版されるようになったことをとてもうれしく思います。

様々な分野において、単なる翻訳でなく日本人研究者の独自の研究によって世界水準の知識が学べるようになると良いと思っております。

またお越し下さい。またご感想をお寄せ下さい。ありがとうございました。
 
 
 
親を選んで…。 (けい。)
2009-02-19 19:58:48
御坊、教えてください。
私は苦しんでいます。

「子どもは親を選んで生まれてくる」のことですが
私は必ずしもそうとは思えません。

>こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。

と仰られていますがそれはある程度、実年齢的成長を
遂げた子供を採ってのみ諭しておられると言えます。

この世には、幼稚な母親の胎内に生を宿したがために
非水洗便所に産み落とされて糞尿で溺死してしまう
誠に可哀そうな子供も存在します。

全ての生命はより良く生きようとしてこの世に
誕生してくる筈であり生まれた瞬間、殺される事を
覚悟で生まれて来るような生命は人間の子に限らず
一つもない!と申し上げて憚りません。

翻って、肥溜め式便所で儚過ぎる生命の終焉を
迎えざるを得なかった子供は一体、何のために
誕生したのでしょうか?

「糞尿の臭さ」を知るためだけに生まれてきたのでしょうか??

あまりにも哀れ極まります。

それでもこんな親を自分の意志で選択して生れたと
仰られますか?

他方、宅間守を代表するところの通り魔殺人犯は皆
押し並べて幼少の頃から虐待を受けていたり親からの
愛情が全く貰えなかったり(所謂、機能不全家庭現在)
していたことは最早、精神医学会の常識以前になって
おります。

ご存念のほど何とぞお聞かせ願います。





 
 
 
けい様へ (全雄)
2009-02-20 17:36:54
お便りありがとうございます。返信が遅くなり恐縮です。今どのような苦しみの中におられるのか分かりませんが、この一文は、池川明氏の著作を紹介し、そこに私の仏教的な考え方も添えたものです。

仏教では、私たちはこれまでの沢山の生き死にのもとに今の生があると考えます。ですから、この今の人生で生を受けた環境、もちろん両親も皆違います。その違いはそれまでの何回も繰り返してきた過去世での行いの業によるものだと考えます。

しかし、この今の人生がたとえよくない、おっしゃられるように悲惨な生まれをした人も、それはそのまま、その人自身が悪いわけではないのです。前世での沢山のいろいろな業がたまたまその時結果しただけなのだと思います。

ですから、そのとき、そのような悲惨な人生の中に生まれ、早死にするかもしれませんが、その次の人生はまた別のよい家庭に転生するかもしれない。私たちの命は一回勝負ではないのです。

何回も何回も生まれ変わり生まれ変わりしていく。そうして、その時その時の人生の中で様々な思いをもって行い、その人なりの課題をもって心を磨いていくのだと思います。ただ人間ばかりに生まれ変わるとも限らないとも教えられています。ですから、人間に生まれ変わったということは、それだけで、過去世がよかったからだとも言えます。

池川氏の本の中には、小さいときから虐待を繰り返される子供の話もあります。その子はそうなることが分かっていてそのお母さんを選んで生まれてきたのだと言ったそうです。そのお母さんにそれがいけないことなのだと、もっと弱いものたちを大事にしなくてはいけないのだということを教えるために生まれてきたのだと言ったと書かれていました。

その子はつらい思いをしてもそれが周りの人たちにどのような影響をもたらすものか、それによって、多くの人たちに何事かを教示するために意味のある人生を送るのだということではないかと思います。

勿論、実際に大変な思いをして苦しい時間を過ごしている人みんながそう自覚しているわけではなく、その意味も分からないことの方が多いのだろうと思います。ただの気休め程度にお感じになられるかもしれません。

が、仏教の考え方からすると、命というのは、この今の人生だけではないと教えられており、長い長い過去世があり、また来世もある、そのために今どう生きるかが大切なのだと教えられています。そう考えることで、自分の今を何とか受け入れて冷静な考え方に転じていって欲しいと願うばかりです。

池川氏の著作を拝読し、また私の仏教的な考え方から導いてみまして、そのように考えられるということを述べてみました。
 
 
 
Unknown (けい)
2009-02-20 20:18:24
御坊、全魂を込めたご返信、誠に嬉しく感謝申し上げます。

なるほど、内容はよく理解でしました。

流石だと思いました。

つまるところ一切は氏(前世を含む因縁)に帰結を観る。
と言うことですね。


例えば太平洋戦争の時、前線の戦死者は言うに及ばず
広島、長崎では刹那にして数十万人もの一般人死者が出ました。
沖縄では、島全体が全滅に近い有様です。
と言うことは、当時、沖縄、広島、長崎ではそれほどもの
多数が先祖に悪因縁を持つ者がその時、必然的に一致終結して
結果としていにしえの悪因縁の代償を身を以て払うため死滅するに
至ったのでしょうか?

もし、そうならこの考え方には、可也無理があるように思えます。

ところで、私の考えをお聞きください。
私は、この宇宙そものが非常に相対的な世界であると
考えております。
生があり死があり、善があり悪があるが如くに良い親が
いる以上、そうではない親がいるのは摂理として仕方が
ないことなのだ!と思っています。

しかし、「人間は考える葦である」とパスカルが言った通り
子供を愛さないことや愛する能力が無いくせに単に性欲の
延長として物理的だけに子を為すことがどれ程の禍となって
人類が強烈なしっぺ返しを喰らうか!をやがて歴然と知る日が
来ることでしょう。

問題はそれまで(気づくまで)に後どれ程の犠牲者を出せば
いいのか!?と言うことです。

いつの世も人間の腰は鉛のように重く、耳には岩の扉が
据え置かれております。

例えば、ヤミ金の問題ひとつを取り上げても被害を受けた
老夫婦の自殺があって初めて警察は立ち上げりました。

立ち上がらねばメディアの非難に晒されるからでしょう。
役所(警察を含む)なんてそんなもんです。

ヒトラーも宅間も被虐待児だったのです。
宅間を死刑にする以上、彼の親も死刑に処さねば
ならないと信じて疑いません。

それが、本当の意味での「平等」なのですど刑事訴訟法の
限界があるのでしょう。

ジャンキーもDV人間も全ては被虐待児だったのです。

しかし、いつの日か人類の叡智はかつて天然痘を撲滅したのと
同じように虐待の問題も克服する日が必ずやってくることは
間違いないと信じています。

よって、因縁の部分も有るには有るでしょうけどそうではない
場合もある。須らくしてして陰陽が如く相対的な実相による
謂れであるのではないでしょうか?


いま気が付きましたが私は御坊に甘えているのですね。(笑)

お許しください。


お詫びに閑話をひとつ。

家の近くにお寺があります。
そこの住職が「一日説法」と題し徒然に書かれています。

『渡る世間は鬼ばかり!?
そういうお前は何者か??』

私は思わず「上手い!」と膝をたたきました。

ありがとうございました。

けい






 
 
 
お礼 (正一)
2009-02-24 01:07:00
こんばんは、昨日はご多用中にも関わらず

どうもありがとうございました。

これを機に今後ともご友誼の程、お願いいたします。



 
 
 
正一様 (全雄)
2009-02-24 07:41:35
おはようございます。遠くまでお越しいただき恐れ入ります。

どうぞ、また、お気軽に何かありましたら、メールの方にでもお便りください。

ご苦労様でした。
 
 
 
死にたいです。 (悟空)
2009-04-06 19:43:53
私には、高校の同級生で彼女がおりました。
優しく美しい女性でしたが、縁があると思っていました。
①お互いの母親同士の実家が、50mほどの距離でした。
②そこからお互い東と西へ、1500m離れたのが家でした。
③小学校も中学校も違うのですが、電車で1時間ほど離れ た高校で一緒になり、知り合いました。
④高校卒業後、アルバイト先が同じになって交際しました。
⑤その半年後、お互いの親族・兄弟公認で婚約しました。
しばらくして、子供が出来ましたが流産しました。
●彼女が、突然泣きながら【私と交際する以前にバイト先の店長】と2度ほど車の中で肉体関係に及んだことを言いました。それを聞いた私は、深い悲しみに襲われました。
その後、私の兄貴の結婚式に親族として出席しましたが、
私は1人で落ち込んで連絡を絶ってしまいました。
今でもたまに彼女を街で見かけます。
それから26年が経って、何もかも相性が良かったのは、彼女だった事、今考えれば、交際前の肉体関係なんて、関係ないことを知り、とても悔やんでいます。
今ではお互いに結婚して、子供もいます。
子供は最高です。
妻も、妻と母親として、人間として最高ですが、別れた婚約者ほど相性の良かった女性はいません。
お互い、前世からの良縁だと思っていたのですが、こんな結果になりとても残念です。
二人でつくってしまった水子供養にさえ行っていません。
今生の世の中では、妻と子供を大切にします。
これからも義務と責任を感じて幸せにしてゆくつもりです。
質問です。
①こんな私は、来世で彼女との人生をやり直すことが出来ますか?
②できるとすれば、どうしたら良いでしょう?
③一度だけ彼女と水子供養に行くべきでしょうか?
(一度だけ会って、きちんと別れるという自信はあります)
④別れた婚約者と私は、前世でどんな間柄なのでしょうか?
因みに、彼女の兄と弟は、会社の数など数多ある中で、私の兄の勤める会社に偶然勤めています。
どうか、お答えください。
せっかくの縁を台無しにしてしまいました。
宜しくお願いいたします。
 
 
 
悟空様 (全雄)
2009-04-07 11:04:21
私たちは一生の間で沢山の人と出会い、関係を持ちます。その関係の中でとても気持ちの合う人もあれば、なかなか気持ちの通じ合えない人もあります。

愛する人と別れざるを得ないこと、また憎しみあう人と出会わねばならないこと、これは私たち人として甘受すべき事柄です。そうした沢山の出会いと別れの中の一つに特別思いが向かわれるということもありましょう。

ですが、そうして出会い別れるを通して私たちは何事かを学び成長していくためにそれらがあるのだと思います。

しかし今そうして別々にあるのなら、それはそうあるべくしてあったということであろうと思います。別れるべくして別れた。すべてのことに原因があり結果があります。その法則の下に今があるのだと思います。

来世で出会えるかどうかは分かりません。出会うかもしれませんが、それは今のあなたと彼女が出会うわけではありません。強い縁があるなら出会うかもしれませんが、今あなたが思うような関係として出会えるものかどうかは分かりません。

この記事に書いた先生の著作の中には、お母さんを選んでお腹にはいるときに、兄妹がつるんで同じお母さんのお腹の中に入ることもあったと書かれていました。

それが本当のことなら、お互いに何かしらの関係を持てるようなそれぞれの家族のお母さんのお腹の中にはいることも考えられますが、死ぬ時期も違えば、死ぬときの心のレベルも違ったならばそれもそう簡単なことではないでしょう。

最後に、水子の供養は大切なことです。一度だけでいいとも限りません。きちんと供養されるように言われた方がよろしいかと思います。


 
 
 
お坊様 (悟空)
2009-04-07 17:02:19
ありがとうございました。
正直申しあげて、この20年、生きる気力を振り絞って
彼女とのやり直しを夢に頑張って生きてきました。
もちろん、妻も子供も愛しています。
妻には友情・愛情を感じています。
幸せにする責任もあるつもりです。

お坊様のお言葉は、私には重いお言葉です。
結ばれないのであれば、何の希望も持てません。
私には、彼女がすべての出発点でした。
彼女と婚約して、生まれて初めて自分の人生を好きになった
ものです。
仕事も、生き方も、すべてが彼女と生きるために・・・。
こんな私は、今、愛があれば他に何も要らなかったという事実を、20年以上、死ぬほど思い知らされました。
人生、最初にして最大の失敗でした。
彼女は、良い人間でした。
彼女と居ると、自分まで良い人間になれる気がしてました。
彼女を失うべきじゃなかった。
一生添い遂げなければいけなかった。
そもそも、私の前で、言わなくても良かったことを、敢えて
正直であろう、潔白であろうとして泣きながら私に言った、
彼女の誠意も、真心も、覚悟も、純粋さも・・・今は解ります。
人間は、純粋な時は許せなくとも、生きていれば汚れて、
汚れれば許すことも出来ます。
私は、十分に汚れたようです。
これ以上、この世で何を学習すれば良いのでしょうか?
救われない心に、思いつめています。
それから、すべての人生計画が狂いました。

水子の供養は、一緒に行った方が良いのでしょうか?

もう限界です。
これを、だらしない気持ちでいるのを、これで最後にします。
どうか、最後にもう一度だけ、お言葉をください。
お願いいたします。
 
 
 
今を大切に (全雄)
2009-04-08 07:57:58
今の奥様、そしてお子さんたちとの生活を大切にされることをまずは心がけてください。みんな誰しも出会いと別れの中で生きています。みんなあなたと同じように過去を引きずって生きています。

過去があるから今がある。今のあなたがいる。今のあなたを必要としてくれている人がいる。もう昔の良き想い出とあきらめてはいかがでしょうか。

あなたの思いが強くそれを彼女が知ったら、彼女の家庭も壊すことになりかねません。二つの家庭が不幸になります。来世でその過ちと思われていることをしないようになされたらよいのではないでしょうか。

みんなあなたと同じような過去は持っているものです。ですが、たまたまあなたの場合近くにおられるからとても気になるのだと思います。

何事も無常ということです。とどまっているものはない。物事も人の心も。あなたの心も変わります。少しずつあきらめる方向に持って行きましょう。そのうちああそんな思いでもあったと思えるようになるでしょう。

水子の供養については、あなたのお兄さんからあちらの兄弟に伝えてもらうのがよくはありませんか。直接会話すれば余計に思いがつのるでしょう。

みんな死にたいと思うことがあります。やり直したいと思うこともあります。ですが、この命は自分のものではないと私は思っています。勝手にしていいものではない。たまたま自分と思っているこの身体をもらっていま生きている。

ですが、死ねば、今自分と思っている身体は脱ぎ捨てて次の生を生きねばならない。この身体が命を預かっているということになります。次の身体にバトンタッチするまで、私たちはその命、つまり心のことですが、きれいなしっかりした、いい心に磨いてバトンタッチすることが役割かと思います。

まだまだ悩んで苦しんでそれでも頑張って生きて行かなくては預かった命に申し訳ない。しっかりまだまだ生きていきましょう。いいこともたくさんあるでしょう。大変なこともあるでしょう。私も同じように悩み苦しみ生きています。みんなそんなものです。それが人生というものではないでしょうか。
 
 
 
後悔先に立たず (miho)
2009-06-06 07:05:10
>子どもは親を選んで生まれてくる

そうかも知れませんが、それが本当なら
死ぬほど後悔しています。



 
 
 
mihoさんへ (全雄)
2009-06-06 07:46:17
どのようなことがあったか分かりませんが、そんなに自分を責めても仕方ありません。過ぎ去ったことは還ってきません。

何かの事情でお子さんを失われたのでしょうか。その本の中には、はやくに亡くなる子はそのことも分かってお母さんのお腹に入るとあります。すべて分かってあなたを選んだということです。そのことによってあなたに何事かを教えるために。

あまりくよくよせずに今を生きていくことしかないと思います。

この場で具体的なことを書くことができなければ、リンクにあるナマステ・ブッダのページから掲示板に飛び、その下にあるメール送信からメールを送ることができます。

どうぞ何なりと。

 
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