テスト
ロシアのラブロフ外相が来日した。
目的は?
「北方4島はロシア領」とプーチン首相が一方的に宣言し、それに対して日本国がおし黙ったままから、はや1年以上もたっている。
ひょっとして、この打診をはっきりと確かめるため、ともかく念をおしておこう、位の意味かと推測する他に彼の来日の理由はないように思える。
「暗闇から牛がぬっと出てきた」という言葉がある。
どうもそんな感じだ。
1月28日の読売の夕刊の一面記事。
但し左端の小さな5段ヌキの場所をとって、
「玄葉外相は麻布台の外務省飯倉公館で会談した。玄葉氏は、懸案の北方領土問題の解決に向けて、『静かな環境での実質的な議論』を働き掛け、これに対しラブロフ氏は『第2次大戦の結果、(北方領土は)ロシア領となった』と従来の主張をくりかえしたとみられる。両外相は会談後、日露間の経済交流を活発化させるため、日本企業関係者らがロシアに入国する際に必要なロシアの査証(ビザ)の取得手続きを簡便にする協定に署名した。
玄葉氏は会談の冒頭、『アジア太平洋地域のパートナーとして、ふさわしい関係を構築したい』と述べた。
(対して)ラブロフ氏は『日露の外務省間で建設的なコミュニケーションが取れていることは露全体の雰囲気を表している』と応じ、玄葉氏の訪露を招請した。
査証簡素化協定は、日本企業関係者らが渡航する際に必要なロシア内務省の『招待状』を廃止する他、一定期間に何回でもロシアに入国できる数次査証の有効期間を1年から3年に延長する内容だ。」
とのこと。
これ一体何のことだと言いたい。
子供の使い走りのように、何ら反発も当方の正当な意見の主張もないままに終ったらしい両外務大臣の会談、そしてなごやかな話合いの雰囲気の中に、玄葉大臣の訪露を招請する段取りとのこと。
こんなことで、「日・ロの北方領土の実質的な議論がなされた」などということになってしまってもそれでいいのか。
政権をとってから2年半というまだ日の浅い「1年生」といつまで甘やかされていいのだろうか。
中曽根康弘元首相(93)は読売新聞の「指導者考」シリーズ(2)に元気な意見を述べている。(2月1日)
「菅氏はチャンスがあって首相になったが、その尻には市民主義の考えがくっついている。野田首相も、私から見れば歴史や伝統への関心は薄い。民主党政権は歴史観が浅い。」
まあそんな所だろうと私も思う。
田中防衛大臣は国会答辯で苦手意識を自ら認め
「田中の父は少壮政治家の頃から国会論戦の名手として……」
とベンカイしていたが、田中元首相は例えば対中外交等に於いても決していい外交実績は残していないと私は見ている。
周恩来の上手な口車に乗せられて、飢餓に苦しむ民衆ではなしに、彼らを助ける代りに、軍事力を充実させ、経済の過剰発展をもたらして他国への脅威を助長し、世界的にも悪影響を及ぼしたと見ている。
又、今度の原発議事録問題等のことで、藤村官房長官や輿石幹事長は、
「議事録作成は義務づけされたものではない」
「議事録を公表する考えもない」
等と公言してはばかることがない。
英国BBCはここ数年来、「世界に好影響を与えている国」の世論調査を主要二十数カ国で行っているが、日本は毎年カナダ、イギリス、ドイツなどと並んでトップクラス。評価の最も低いのはイラン、北朝鮮、パキスタン、イスラエル、そして中国、ロシア等と明かされている。
素人から見てどうしても有罪と見られている小沢一郎元民主党代表。
雑誌等見ても大方信用を得そうな専門家すじは、小沢クロとして自信をもって書いている。
それが腕のいい辯護士を使って、何とか無罪の線をとあがいているのか党最大の派閥、そして多くのチルドレン達を擁する小沢一郎その人である。
「嘘に始まり嘘に終わった『小沢一郎』証言」として2日間の公判傍聴で看破した小沢氏に、元筆頭秘書として20年以上仕えた高橋嘉信氏(58)が「週刊新潮」1月26日号ではっきり証言している。
「法廷で嘘しか語れない小沢に、無罪という結論はありえません。あの男には有罪という判決のみが相応しい結末なのです」
他秘書らの統括をさえ委せられていた高橋氏が飼犬が主の手を噛むような挙に出たのはそれなりの理由なしには有り得ないことであろう。
この証言の真実性見ぬくべし。
北方四島のロシアの略奪、東シナ海の尖閣諸島、日本海の○島等、現在のロ、中、韓等が自分よがりに強辯している問題の件はどう見ても日本領分であり、これらは日本人として後に引く必要はない。
読売の「指導者考」(4)2月3日では山内昌之氏(東大教授)が「国家とは何か」が原点と書いているが、彼は国家指導者は「総合力」「胆力」「人心掌握力」の三つを備えなければ務まらない。と論じている。
菅は「胆力」を欠き大震災の時、周囲に当たり散らしてよりよい対応をなし爲なかった。
鳩山は「東アジア共同体」を唱えたが、中国、韓国が極端な歴史解釈で日本を非難する状況で共同体が出来るはずがない。
外交のリアリズムに於いて菅や鳩山氏が、これを欠いているのは偶然ではないと論じている。
「明治はなぜ立派な指導者が出たのか」とよく聞かれるが、一つには政治家や官僚の高い使命感とそれを尊敬する風土があったからだと山内氏は喝破する。
現代の政治家が消費増税で国民に痛みを求める際は、社会に安全網をどう整備するかが腕の見せ所。
まず議員定数、歳費、政府交付金の削減等、政治家自身の身を切るのが不可欠と説く。
コバンザメのように野田さんの総理補佐官としてひっついている手塚仁雄さん。
今度、岡田克也副総理の人事に就いて軽々しく自画自賛しているようだが、ともかく軽る過ぎる政治家の面々。
こんな政治屋達をともかく作りあげたのが今の日本の国民であることはまぎれもない事実。
日本人の覚悟、果してこれでいいのだろうか。
目的は?
「北方4島はロシア領」とプーチン首相が一方的に宣言し、それに対して日本国がおし黙ったままから、はや1年以上もたっている。
ひょっとして、この打診をはっきりと確かめるため、ともかく念をおしておこう、位の意味かと推測する他に彼の来日の理由はないように思える。
「暗闇から牛がぬっと出てきた」という言葉がある。
どうもそんな感じだ。
1月28日の読売の夕刊の一面記事。
但し左端の小さな5段ヌキの場所をとって、
「玄葉外相は麻布台の外務省飯倉公館で会談した。玄葉氏は、懸案の北方領土問題の解決に向けて、『静かな環境での実質的な議論』を働き掛け、これに対しラブロフ氏は『第2次大戦の結果、(北方領土は)ロシア領となった』と従来の主張をくりかえしたとみられる。両外相は会談後、日露間の経済交流を活発化させるため、日本企業関係者らがロシアに入国する際に必要なロシアの査証(ビザ)の取得手続きを簡便にする協定に署名した。
玄葉氏は会談の冒頭、『アジア太平洋地域のパートナーとして、ふさわしい関係を構築したい』と述べた。
(対して)ラブロフ氏は『日露の外務省間で建設的なコミュニケーションが取れていることは露全体の雰囲気を表している』と応じ、玄葉氏の訪露を招請した。
査証簡素化協定は、日本企業関係者らが渡航する際に必要なロシア内務省の『招待状』を廃止する他、一定期間に何回でもロシアに入国できる数次査証の有効期間を1年から3年に延長する内容だ。」
とのこと。
これ一体何のことだと言いたい。
子供の使い走りのように、何ら反発も当方の正当な意見の主張もないままに終ったらしい両外務大臣の会談、そしてなごやかな話合いの雰囲気の中に、玄葉大臣の訪露を招請する段取りとのこと。
こんなことで、「日・ロの北方領土の実質的な議論がなされた」などということになってしまってもそれでいいのか。
政権をとってから2年半というまだ日の浅い「1年生」といつまで甘やかされていいのだろうか。
中曽根康弘元首相(93)は読売新聞の「指導者考」シリーズ(2)に元気な意見を述べている。(2月1日)
「菅氏はチャンスがあって首相になったが、その尻には市民主義の考えがくっついている。野田首相も、私から見れば歴史や伝統への関心は薄い。民主党政権は歴史観が浅い。」
まあそんな所だろうと私も思う。
田中防衛大臣は国会答辯で苦手意識を自ら認め
「田中の父は少壮政治家の頃から国会論戦の名手として……」
とベンカイしていたが、田中元首相は例えば対中外交等に於いても決していい外交実績は残していないと私は見ている。
周恩来の上手な口車に乗せられて、飢餓に苦しむ民衆ではなしに、彼らを助ける代りに、軍事力を充実させ、経済の過剰発展をもたらして他国への脅威を助長し、世界的にも悪影響を及ぼしたと見ている。
又、今度の原発議事録問題等のことで、藤村官房長官や輿石幹事長は、
「議事録作成は義務づけされたものではない」
「議事録を公表する考えもない」
等と公言してはばかることがない。
英国BBCはここ数年来、「世界に好影響を与えている国」の世論調査を主要二十数カ国で行っているが、日本は毎年カナダ、イギリス、ドイツなどと並んでトップクラス。評価の最も低いのはイラン、北朝鮮、パキスタン、イスラエル、そして中国、ロシア等と明かされている。
素人から見てどうしても有罪と見られている小沢一郎元民主党代表。
雑誌等見ても大方信用を得そうな専門家すじは、小沢クロとして自信をもって書いている。
それが腕のいい辯護士を使って、何とか無罪の線をとあがいているのか党最大の派閥、そして多くのチルドレン達を擁する小沢一郎その人である。
「嘘に始まり嘘に終わった『小沢一郎』証言」として2日間の公判傍聴で看破した小沢氏に、元筆頭秘書として20年以上仕えた高橋嘉信氏(58)が「週刊新潮」1月26日号ではっきり証言している。
「法廷で嘘しか語れない小沢に、無罪という結論はありえません。あの男には有罪という判決のみが相応しい結末なのです」
他秘書らの統括をさえ委せられていた高橋氏が飼犬が主の手を噛むような挙に出たのはそれなりの理由なしには有り得ないことであろう。
この証言の真実性見ぬくべし。
北方四島のロシアの略奪、東シナ海の尖閣諸島、日本海の○島等、現在のロ、中、韓等が自分よがりに強辯している問題の件はどう見ても日本領分であり、これらは日本人として後に引く必要はない。
読売の「指導者考」(4)2月3日では山内昌之氏(東大教授)が「国家とは何か」が原点と書いているが、彼は国家指導者は「総合力」「胆力」「人心掌握力」の三つを備えなければ務まらない。と論じている。
菅は「胆力」を欠き大震災の時、周囲に当たり散らしてよりよい対応をなし爲なかった。
鳩山は「東アジア共同体」を唱えたが、中国、韓国が極端な歴史解釈で日本を非難する状況で共同体が出来るはずがない。
外交のリアリズムに於いて菅や鳩山氏が、これを欠いているのは偶然ではないと論じている。
「明治はなぜ立派な指導者が出たのか」とよく聞かれるが、一つには政治家や官僚の高い使命感とそれを尊敬する風土があったからだと山内氏は喝破する。
現代の政治家が消費増税で国民に痛みを求める際は、社会に安全網をどう整備するかが腕の見せ所。
まず議員定数、歳費、政府交付金の削減等、政治家自身の身を切るのが不可欠と説く。
コバンザメのように野田さんの総理補佐官としてひっついている手塚仁雄さん。
今度、岡田克也副総理の人事に就いて軽々しく自画自賛しているようだが、ともかく軽る過ぎる政治家の面々。
こんな政治屋達をともかく作りあげたのが今の日本の国民であることはまぎれもない事実。
日本人の覚悟、果してこれでいいのだろうか。
1943年10月21日、戦況の悪化により、徴兵が猶予されていた20歳以上の学生が徴兵の対象となり、戦地に赴くことになり、それを激励すべく、東京の明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で出陣学徒壮行会が施行された。
77の大学などの学生2万人以上が制服姿に銃をかついで行進。
観覧席には見送りの家族など約6万5000人が見守った。
当日は篠(しの)突く程の雨の日であったらしい。
(私は18歳、まだ未成年であったが)秦さんはやがて出陣する学徒兵としてこの行進に参加した。(秦さんに就いては数回前述)
「ズブぬれになって行進しましたが、言うなればあれこそ涙雨とでも言うんでしょうね。」
天は国に殉ずる若き学生の壮行に思わず涙したことなのだろう。とは彼の辯。
「生等(我ら)もとより生還を期せず……」
と例の有名な答辞を朗朗と読んだのは、江橋慎四郎さん(90歳、元東大教授)であった。
当時20歳、元気溌刺、行うに可ならざるはなしという年代であった。
江橋さんは当時東京帝国大学文学部の学生。
スポーツの部活動にも熱心で水泳部のマネージャーや体育会の運営を取り仕切る「総務」などの役職にもあった。
壮行会に臨んだ多くの学生が、戦地で命を落とした。
その無念を思ってか、江橋さんはこれまで壮行会についてほとんど語ることはなかったという。
(平成22年、6月14日、読売新聞記)
教え子の一人は、「壮行会から67年。真実をきちんと残すべきだと思うようになったのでは」と話していると。
やがて秦さんは大学を卒業し、海軍技術中尉として颯爽と出陣した。
任地は津海軍工廠。
「軍刀として『神國』と銘打たれたのを持参しましたが戦時の刀剣品評会で入賞した逸物でしたね」
と当時を回想する。
当時の学制。
高等学校(旧制)は文科、理科、それも各甲、乙、丙類と分れており、大方は甲、乙類、少数の高校に丙類があった。
甲は英語、乙はドイツ語、丙はフランスを主外国語とするという分類である。
文科は大方、政治、経済、文学系へ進み、理科は工学、化学、物理、医学系へ進むのが一般であり、医学部は特に従前から文科からの進学の希望も少なからずあった。
私は文化乙類(ドイツ語)から理系へと進学した。
1944年、終戦1年前、兄が激戦地サイパン島に渡っていることを知った、父のたっての希望に従ってのことであった。
理系は卒業迄の数年間徴兵延期の特例がある。
入学間もなく私は依願退学を申し込んで入隊を待った。
両親には絶対内緒のことであった。
同じような人達が6―7名居たと聞いた。
それで徴兵となり戦死した人もあったとのこと。
私は軍のお呼びが無いままに終戦を迎えた。
敗戦後、私は復学を希望して大学へ行った。
事務局長は、
「君は退学してるね。今度3月に入学試験があるから受けますか」
ということで入学試験願書を貰っている時、学長が偶然事務局に入って来られた。
「君はたしか軍に入ることで退学したんだね」
その大学としてはたった一人の学生の存在を学長は覚えて下さっていた。
「事務長いいじゃないか。彼は何も悪いことをして退学したんじゃない。一学年留年としてそれでいいんじゃないか」
私は学長のお名前をどうしても思い出せないでいたら、高校同級生の松浦光二(東大法学部卒、元会社社長)が覚えてくれていた。
小宮悦三というお名前であった。(元熊本大学学長)
元テレビ朝日アナウンサーとして有名であった小宮悦子さん。
ひょっとして小宮学長のお嬢さん?との想像もしたことであった。
いまのギスギスした規則づくめで縛られた日本社会において、国立大学学長の恩情による鶴の一声でそれがすんなり通るような、そんなのんびりした風潮が終戦後の日本にもまだまだ余裕をもって残っていたのであった。
当時作ったこんな短歌、
大阿蘇の 煙を見つつ 召され征く
馬は猛りて 人になじまず
新兵器に発達する過渡期の時代、農耕用の多くの馬は軍の徴用により召集されて戦地へ送られた。
復学後、私は間もなく熊本医大から千葉大学医学部へ転校することになる。
こう書いている中思い出した。
その頃俳句の人と思っていた詩人(名前忘失)作のたしかどこぞかの歌碑ともなって残っている歌を思い出した。
若人の悲しき命 積み重ね積み重ね
護(も)る 大和島根を
戦争は敗けた。
しかし当時の若人は、真剣に命を捨ててこの国を守るべく闘ったことはまぎれもない事実である。
77の大学などの学生2万人以上が制服姿に銃をかついで行進。
観覧席には見送りの家族など約6万5000人が見守った。
当日は篠(しの)突く程の雨の日であったらしい。
(私は18歳、まだ未成年であったが)秦さんはやがて出陣する学徒兵としてこの行進に参加した。(秦さんに就いては数回前述)
「ズブぬれになって行進しましたが、言うなればあれこそ涙雨とでも言うんでしょうね。」
天は国に殉ずる若き学生の壮行に思わず涙したことなのだろう。とは彼の辯。
「生等(我ら)もとより生還を期せず……」
と例の有名な答辞を朗朗と読んだのは、江橋慎四郎さん(90歳、元東大教授)であった。
当時20歳、元気溌刺、行うに可ならざるはなしという年代であった。
江橋さんは当時東京帝国大学文学部の学生。
スポーツの部活動にも熱心で水泳部のマネージャーや体育会の運営を取り仕切る「総務」などの役職にもあった。
壮行会に臨んだ多くの学生が、戦地で命を落とした。
その無念を思ってか、江橋さんはこれまで壮行会についてほとんど語ることはなかったという。
(平成22年、6月14日、読売新聞記)
教え子の一人は、「壮行会から67年。真実をきちんと残すべきだと思うようになったのでは」と話していると。
やがて秦さんは大学を卒業し、海軍技術中尉として颯爽と出陣した。
任地は津海軍工廠。
「軍刀として『神國』と銘打たれたのを持参しましたが戦時の刀剣品評会で入賞した逸物でしたね」
と当時を回想する。
当時の学制。
高等学校(旧制)は文科、理科、それも各甲、乙、丙類と分れており、大方は甲、乙類、少数の高校に丙類があった。
甲は英語、乙はドイツ語、丙はフランスを主外国語とするという分類である。
文科は大方、政治、経済、文学系へ進み、理科は工学、化学、物理、医学系へ進むのが一般であり、医学部は特に従前から文科からの進学の希望も少なからずあった。
私は文化乙類(ドイツ語)から理系へと進学した。
1944年、終戦1年前、兄が激戦地サイパン島に渡っていることを知った、父のたっての希望に従ってのことであった。
理系は卒業迄の数年間徴兵延期の特例がある。
入学間もなく私は依願退学を申し込んで入隊を待った。
両親には絶対内緒のことであった。
同じような人達が6―7名居たと聞いた。
それで徴兵となり戦死した人もあったとのこと。
私は軍のお呼びが無いままに終戦を迎えた。
敗戦後、私は復学を希望して大学へ行った。
事務局長は、
「君は退学してるね。今度3月に入学試験があるから受けますか」
ということで入学試験願書を貰っている時、学長が偶然事務局に入って来られた。
「君はたしか軍に入ることで退学したんだね」
その大学としてはたった一人の学生の存在を学長は覚えて下さっていた。
「事務長いいじゃないか。彼は何も悪いことをして退学したんじゃない。一学年留年としてそれでいいんじゃないか」
私は学長のお名前をどうしても思い出せないでいたら、高校同級生の松浦光二(東大法学部卒、元会社社長)が覚えてくれていた。
小宮悦三というお名前であった。(元熊本大学学長)
元テレビ朝日アナウンサーとして有名であった小宮悦子さん。
ひょっとして小宮学長のお嬢さん?との想像もしたことであった。
いまのギスギスした規則づくめで縛られた日本社会において、国立大学学長の恩情による鶴の一声でそれがすんなり通るような、そんなのんびりした風潮が終戦後の日本にもまだまだ余裕をもって残っていたのであった。
当時作ったこんな短歌、
大阿蘇の 煙を見つつ 召され征く
馬は猛りて 人になじまず
新兵器に発達する過渡期の時代、農耕用の多くの馬は軍の徴用により召集されて戦地へ送られた。
復学後、私は間もなく熊本医大から千葉大学医学部へ転校することになる。
こう書いている中思い出した。
その頃俳句の人と思っていた詩人(名前忘失)作のたしかどこぞかの歌碑ともなって残っている歌を思い出した。
若人の悲しき命 積み重ね積み重ね
護(も)る 大和島根を
戦争は敗けた。
しかし当時の若人は、真剣に命を捨ててこの国を守るべく闘ったことはまぎれもない事実である。
12月11日、読売新聞の一面には10日、モスクワのポロートナヤ広場に集まり、今月4日投票の下院選の不正に抗議する群衆(ロイター)の写真を掲げ、ロシア各地でもデモは全国で50以上の都市に拡大し、モスクワ中心部のデモには少なくとも約2万5000人(警察発表)が終結と発表した。
モスクワでの抗議デモは野党「国民自由党」幹部のボリス・ネムツォフ元第一副首相らが組織したもので主催者側は参加者を5万人以上と発表した。
これは下院選の大勢が判明した5日以降、プーチン首相が党首を務める与党「統一ロシア」が関与したとされる選挙の不正がインターネットで暴露されたということによるものである。
主催者は今月24日、次の集会を計画。
これに対しプーチン首相は
「人々には法の範囲で意見を表す権利があるが、法を破った場合、当局はあらゆる手段で法の順守を促さねばならない」
と述べており、抗議運動の行方に神経をとがらせていると。
ともかくデモ参加者は下院選のやり直しだけでなくプーチン首相の辞任も求め、
「プーチンなきロシア」
「(政権は)恥を知れ」
などと叫んだ。
同紙による今日の報道は「プーチン氏が大統領だった2001年、政権によるメディア統制に反対して開かれた集会以来とみられ、今回は過去20年で最大級」(ロシア通信)という。
たまたま私の昨年12月16日の日記が目についた。
「ロシアのプーチンは北方4島をロシア領としてロシア人安住の地とするよう言明」と書いてある。
何のことはない。
泥棒猫のように日本が敗戦を言明して交戦国も之を認め、つまり終戦が成立した8月15日以降の北海道方面の樺太南半、及び千島列島を不法侵入して何ら罪の意識も持たない。
あまつさえ厚顔無恥な昨年の言明である。
第2次大戦後のロシア連邦と日本との間にその帰属が問題となっている地域とは今更言われているものの、世界の常識からみても、ロシアの言分は国際法的にも通らないことは明らかである。
12月10日、オスロで開かれたノーベル平和賞授賞式で民主化が遅れる地域で女性の地位向上などに尽力したリベリアのエレン・サーリーフ大統領(73)と同国の平和運動家レイマ・ボウイさん(39)、イエメンの民主活動家タワックル・カルマンさん(32)が賞を受けた。
これに合わせるように、昨年末に創設された「孔子平和賞」の授賞式が9日北京で開かれた。
今年の授賞者のプーチン露首相は欠席して代理の女子留学生4人受け取った。
授賞理由は「北太平洋条約機構(NATO)軍によるリビア空襲に反対し、世界平和に貢献した」と説明しているという。
ピントが全く狂っている現中国政権の世界観。
同誌の同日同頁の小欄には下向きのプーチン氏のマンガ絵が画いてあり、中国の民主活動家、劉曉波氏の昨年のノーベル平和賞受賞時の件にも触れている。
ナポレオン戦争後(1815)、オーストリアの外相メッテルニヒが議長となって列国が参加したウィーン会議。
水面下の権謀術数ばかりで会議の実体はまるで進展のなかったこの有象無象の会談は古い重厚なドイツ映画「会議は踊る」で画かれて有名になったが世界はこの愚を繰り返しているに過ぎないのかもしれない。
広島の原爆碑に書かれた「この過ちは繰り返しませんから」という言葉にはあくまで、弱気で人の好い日本人が原爆の投下を命じた当時のアメリカ元大統領トルーマンの代辯者だったに過ぎない。
そしてあくまで操作ミスで大事を起こした原発も含めて、地球上の原爆などすべてはこの地球上から廃棄すべきことは言うを俟たない。
この様な自明なことまで出来ないのが業を負わされた人間なのかもしれない。
「千年河清を待つ」という気の長い言葉があるが、人類は核などいうものを使わない平和な地球をこそ願っているものを、何故一握りの利権屋共は壊そうとしているのだろうか。
ともかく国の内外を問わず、悪は断固として罰してこそ明るい未来は拓けるというものだろう。
真理は一つである。
悪を許してはいけない。
ましてやそれに尻尾を振ってノコノコ追従している愚かな政治屋があとを断たない現状。
「オレはバカじゃない!」
時に奇声を発するクセのある若者を面白く思ってながめていることもある昨今である。
12月17日、北朝鮮の金正日(69)総書記死去。
これに就いてもいろいろ取沙汰されるが、歴史はただ黙黙と過ぎ去るのみ。
モスクワでの抗議デモは野党「国民自由党」幹部のボリス・ネムツォフ元第一副首相らが組織したもので主催者側は参加者を5万人以上と発表した。
これは下院選の大勢が判明した5日以降、プーチン首相が党首を務める与党「統一ロシア」が関与したとされる選挙の不正がインターネットで暴露されたということによるものである。
主催者は今月24日、次の集会を計画。
これに対しプーチン首相は
「人々には法の範囲で意見を表す権利があるが、法を破った場合、当局はあらゆる手段で法の順守を促さねばならない」
と述べており、抗議運動の行方に神経をとがらせていると。
ともかくデモ参加者は下院選のやり直しだけでなくプーチン首相の辞任も求め、
「プーチンなきロシア」
「(政権は)恥を知れ」
などと叫んだ。
同紙による今日の報道は「プーチン氏が大統領だった2001年、政権によるメディア統制に反対して開かれた集会以来とみられ、今回は過去20年で最大級」(ロシア通信)という。
たまたま私の昨年12月16日の日記が目についた。
「ロシアのプーチンは北方4島をロシア領としてロシア人安住の地とするよう言明」と書いてある。
何のことはない。
泥棒猫のように日本が敗戦を言明して交戦国も之を認め、つまり終戦が成立した8月15日以降の北海道方面の樺太南半、及び千島列島を不法侵入して何ら罪の意識も持たない。
あまつさえ厚顔無恥な昨年の言明である。
第2次大戦後のロシア連邦と日本との間にその帰属が問題となっている地域とは今更言われているものの、世界の常識からみても、ロシアの言分は国際法的にも通らないことは明らかである。
12月10日、オスロで開かれたノーベル平和賞授賞式で民主化が遅れる地域で女性の地位向上などに尽力したリベリアのエレン・サーリーフ大統領(73)と同国の平和運動家レイマ・ボウイさん(39)、イエメンの民主活動家タワックル・カルマンさん(32)が賞を受けた。
これに合わせるように、昨年末に創設された「孔子平和賞」の授賞式が9日北京で開かれた。
今年の授賞者のプーチン露首相は欠席して代理の女子留学生4人受け取った。
授賞理由は「北太平洋条約機構(NATO)軍によるリビア空襲に反対し、世界平和に貢献した」と説明しているという。
ピントが全く狂っている現中国政権の世界観。
同誌の同日同頁の小欄には下向きのプーチン氏のマンガ絵が画いてあり、中国の民主活動家、劉曉波氏の昨年のノーベル平和賞受賞時の件にも触れている。
ナポレオン戦争後(1815)、オーストリアの外相メッテルニヒが議長となって列国が参加したウィーン会議。
水面下の権謀術数ばかりで会議の実体はまるで進展のなかったこの有象無象の会談は古い重厚なドイツ映画「会議は踊る」で画かれて有名になったが世界はこの愚を繰り返しているに過ぎないのかもしれない。
広島の原爆碑に書かれた「この過ちは繰り返しませんから」という言葉にはあくまで、弱気で人の好い日本人が原爆の投下を命じた当時のアメリカ元大統領トルーマンの代辯者だったに過ぎない。
そしてあくまで操作ミスで大事を起こした原発も含めて、地球上の原爆などすべてはこの地球上から廃棄すべきことは言うを俟たない。
この様な自明なことまで出来ないのが業を負わされた人間なのかもしれない。
「千年河清を待つ」という気の長い言葉があるが、人類は核などいうものを使わない平和な地球をこそ願っているものを、何故一握りの利権屋共は壊そうとしているのだろうか。
ともかく国の内外を問わず、悪は断固として罰してこそ明るい未来は拓けるというものだろう。
真理は一つである。
悪を許してはいけない。
ましてやそれに尻尾を振ってノコノコ追従している愚かな政治屋があとを断たない現状。
「オレはバカじゃない!」
時に奇声を発するクセのある若者を面白く思ってながめていることもある昨今である。
12月17日、北朝鮮の金正日(69)総書記死去。
これに就いてもいろいろ取沙汰されるが、歴史はただ黙黙と過ぎ去るのみ。