中島義道著『「人間嫌い」のルール』PHP新書、を読みました。
中島氏の著書は、同じ考えというわけではないのに、妙に引かれるものがあります。
本書も、「人間嫌い」を実践できるわけではありませんが、とてもおもしろく読みました。
興味を持ったところを少し引用してみます。
>私が従っている格律は「人間嫌い」であり、いま少し細部にわたって記述してみると、「他人との付き合いを避ける」あるいは「みんな一緒ですることには参加しない」、さらには「他人に共感を覚えない場合には、共感しているかのようなそぶりをしない」あるいは「他人の好意をいっさい期待しない」などとなろう。
これに賛同できれば、中島氏と同じような「人間嫌い」になれるでしょう。
ただ、中途半端にしたがうと、どうしようもない嫌われ者になるかもしれません。
さらに詳しく見てみます。
>現代日本では(とりわけ公共空間では)誰もが同じ言葉を同じように語り出す。「女は産む機械」という厚生労働大臣の発言に共感するなどもってのほかである。罹災者には全身で共感しなければならず、痴漢には怒りをぶつけなければならない。すべて「決まり通りに」反応することが要求されるのだ。こうした重圧のもとで、人々はじつは共感していないのに共感したふりをする。じつは共感しているのに、共感していないそぶりをする。自分の気持ちからずれた共感ゲームを大真面目でえんえん続けるのである。
「隣りに蔵が建てば腹が立つ」「他人の不幸は蜜の味」といいます。
しかし、この感情をストレートに表すことは許されないでしょう。
共感していないに共感したふりをし、共感しているのに共感していないふりをしなければいけないときがあります。
自他に対する誠実さを大切にする人間嫌いにとっては、自分の感受性をごまかすことはできないといいます。
かといって、他人を傷つけたり、不快にさせることは、「人間嫌い」のすることではないといいます。
それは、ただの変人です。
では、どうするのかというと、そういう場面をできるだけ避けて、ひとりでいるのだそうです。
>あなたは勤勉でなければならない。規則を守り、約束を守り、自分に与えられた課題をしっかりやり遂げなければならない。仕事以外のことで拘束されたくないのなら、仕事において手を抜いてはならない。
人間嫌いは、ひとりを貫かなければならないのです。
ひとりでいながら、「ひきこもり」と違うのは、社会に認められ何かがあるかどうかです。
社会に認められるものがあれば、家に閉じこもって仕事をしていても、だれも引きこもりとは言いません。
そして、組織の中にあって、人間嫌いが許されるためには、「仕事ができること」「勤勉であること」「誠実であること」が必要だということです。
仕事に手を抜いてはならないということです。
>人間嫌いは、他人から親切や好意や好意的評価や思いやりなどを期待したくなく、また他人にも、自分から親切や好意や好意的評価や思いやりなどを期待してほしくない。
>人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛を押しつけることなく、相手から信頼や愛を押しつけられることもない関係である。
他人をあてにしないということはある程度できるかもしれませんが、他人からの評価を気にしないというのは難しいことです。
お返しの物はほしくなくても、言葉や気持ちはほしくなります。
「ボランティア」や「布施」で、相手からの見返りは期待しないと思っていても、無視されたり、裏切られたりすればおもしろくないものです。
他人に何も期待しないという、人間嫌いの法則もなかなか難しいものです。
「人間嫌い」だといって、自分を高みにおいて、他人を嫌って、非難しているような人は、著者のルールに違反しているようです。
人間嫌いも楽ではありません。
私も、何でもみんなと一緒という考えは持っていませんが、「人に期待せず、期待してほしくない」という心境には程遠い感じがします。
徒党を組まなくても生きていけるという程度には、人間嫌いを学んでもいいかなという気はします。いい加減ですが(汗)
興味のあるかたは、ぜひ読んでみてください。
中島氏の著作は、毒を含んでいますが、薬になるところも見つかるでしょう
中島氏に「共感」する人は(笑)


中島氏の著書は、同じ考えというわけではないのに、妙に引かれるものがあります。
本書も、「人間嫌い」を実践できるわけではありませんが、とてもおもしろく読みました。
興味を持ったところを少し引用してみます。
>私が従っている格律は「人間嫌い」であり、いま少し細部にわたって記述してみると、「他人との付き合いを避ける」あるいは「みんな一緒ですることには参加しない」、さらには「他人に共感を覚えない場合には、共感しているかのようなそぶりをしない」あるいは「他人の好意をいっさい期待しない」などとなろう。
これに賛同できれば、中島氏と同じような「人間嫌い」になれるでしょう。
ただ、中途半端にしたがうと、どうしようもない嫌われ者になるかもしれません。
さらに詳しく見てみます。
>現代日本では(とりわけ公共空間では)誰もが同じ言葉を同じように語り出す。「女は産む機械」という厚生労働大臣の発言に共感するなどもってのほかである。罹災者には全身で共感しなければならず、痴漢には怒りをぶつけなければならない。すべて「決まり通りに」反応することが要求されるのだ。こうした重圧のもとで、人々はじつは共感していないのに共感したふりをする。じつは共感しているのに、共感していないそぶりをする。自分の気持ちからずれた共感ゲームを大真面目でえんえん続けるのである。
「隣りに蔵が建てば腹が立つ」「他人の不幸は蜜の味」といいます。
しかし、この感情をストレートに表すことは許されないでしょう。
共感していないに共感したふりをし、共感しているのに共感していないふりをしなければいけないときがあります。
自他に対する誠実さを大切にする人間嫌いにとっては、自分の感受性をごまかすことはできないといいます。
かといって、他人を傷つけたり、不快にさせることは、「人間嫌い」のすることではないといいます。
それは、ただの変人です。
では、どうするのかというと、そういう場面をできるだけ避けて、ひとりでいるのだそうです。
>あなたは勤勉でなければならない。規則を守り、約束を守り、自分に与えられた課題をしっかりやり遂げなければならない。仕事以外のことで拘束されたくないのなら、仕事において手を抜いてはならない。
人間嫌いは、ひとりを貫かなければならないのです。
ひとりでいながら、「ひきこもり」と違うのは、社会に認められ何かがあるかどうかです。
社会に認められるものがあれば、家に閉じこもって仕事をしていても、だれも引きこもりとは言いません。
そして、組織の中にあって、人間嫌いが許されるためには、「仕事ができること」「勤勉であること」「誠実であること」が必要だということです。
仕事に手を抜いてはならないということです。
>人間嫌いは、他人から親切や好意や好意的評価や思いやりなどを期待したくなく、また他人にも、自分から親切や好意や好意的評価や思いやりなどを期待してほしくない。
>人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛を押しつけることなく、相手から信頼や愛を押しつけられることもない関係である。
他人をあてにしないということはある程度できるかもしれませんが、他人からの評価を気にしないというのは難しいことです。
お返しの物はほしくなくても、言葉や気持ちはほしくなります。
「ボランティア」や「布施」で、相手からの見返りは期待しないと思っていても、無視されたり、裏切られたりすればおもしろくないものです。
他人に何も期待しないという、人間嫌いの法則もなかなか難しいものです。
「人間嫌い」だといって、自分を高みにおいて、他人を嫌って、非難しているような人は、著者のルールに違反しているようです。
人間嫌いも楽ではありません。
私も、何でもみんなと一緒という考えは持っていませんが、「人に期待せず、期待してほしくない」という心境には程遠い感じがします。
徒党を組まなくても生きていけるという程度には、人間嫌いを学んでもいいかなという気はします。いい加減ですが(汗)
興味のあるかたは、ぜひ読んでみてください。
中島氏の著作は、毒を含んでいますが、薬になるところも見つかるでしょう
中島氏に「共感」する人は(笑)
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私も読みました。これは確かにオススメです。
中島義道によれば、「人間嫌い」は他人からの好意的評価には期待しない一方で、「人間嫌いの多くは、大多数の人間は嫌いだが、その大多数の嫌いな人間から賞賛されるのは好きなのだ」そうですよ。他人に期待はしていなくても他人から賞賛されたらは認知する、という姿勢は究極の自己実現と言えなくもありませんね。
ご存知の通り(?)、私は以前からひどく洗脳されていまして、家族のいる普通の会社員でいながら「人間嫌い」を実践するという「修行」の毎日を過ごしています。でも、「人間嫌い」は不本意な周辺環境に適応しながらメンタルへルスを維持するためのひとつの解ではないかと思うんです。この仮説はもう少し「修行」を経てからいつか自分のブログで記事にしてみたいと思っています。
追記:まだ御座なりな内容ですがTBさせて頂きました。
中島氏の信奉者であることは存じております。
多分、何らかのコメントがあるだろうなと予測しておりました。ありがたいことです。
「人嫌いは」単に、自分だけの感情で人を嫌うということではなく、社会を見据えながらも自分に誠実に生きるということなのですね。
表面的に解釈すると、中島氏の考えと離れていきそうですね。