キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

五章 略奪と隠ぺい(HIDING THE PLUNDER) キサラギジュン訳2017

2017-05-05 20:03:08 | ゴールドウオリアーズ
  1. ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter五章 略奪と隠ぺい(HIDING THE PLUNDER)
    一九四二年五月までにはマニラの第十五岸壁にアジアからの収奪品が積み上げられた。それらは海のルートでマニラにやってきた。日本は一九四四年までは東南アジアからヴェトナム・昆明ルートの中国内陸部を通るルートを持っていなかったからだ。マニラはアジア各地の海戦で被弾した艦船や傷病兵たちを船に載せて日本へ返すハブ港の役割をしていた。日本は負けた場合もフィリピンとインドネシアはどうにかなると思っていた。取られなくても済むと考えていたのだ。しかし、その期待は一九四二年六月に打ち砕かれた。パールハーバーの奇襲から六か月、シンガポール陥落から三か月、ミッドウエイ海戦で負け、振り上げたこぶしを振りおろすところがなくなってしまった。しかし、日本への航路は大っぴらに開かれていた。日本船舶への米潜水艦からの魚雷攻撃は魚雷装置に欠陥があり、効果的ではなかったからである。一九四三年初めまではこの傾向が続いた。財宝船を攻撃されるのを防ぐため、その船を病院船に仮装した。白い船腹に緑の十字を描き、病院船であるように見せた。
    □ハブの港、マニラ港
    一九四二年五月までにはマニラの第十五桟橋に略奪品が山積みされていた、略奪された財宝は海で運ばれた。日本軍は四十四年後半まで東南アジから中国経由の陸路のルートを持っていなかった。フィリピンは海路の中継地点となった。装着品や備蓄材、日本へ仕送る前の仕分け作業、日本から来た貨物船の帰り船、修理を要する軍船、などがハブとして、マニラ港を使っていたのだ。
    この傾向は一九四三年早くまで改まらなかった。天皇陛下は、貴重な資源を運ぶ船として、一万トン級の貨客船を四隻投入した。これらの船は病院船に仕立てられた。船腹を白くし、緑の十字をペインテングした。(日本は赤十字のマークを拒否していた。)それぞれ、艤装を変え、煙突は一つ増やした。潜水艦の目視を混乱させるため、日本の合法的な病院船として敵国に通知した船名を船腹に書いた。偽装の病院船は宝の貨物を乗せて、シンガポール~バタビア(ジャカルタ)間を往復した。外交官や高級役人、軍人などVIP数百人も人質として乗せていた。そうすれば、国際法上、敵方は攻撃できないからだ。それに変えて日本の場合は敵方の病院や病院船は簡単に爆撃した。彼らはジュネーブ協定に入っていなかったと言い訳をした。しかし、連合国側が日本の病院船を攻撃しないことを知っていた。帆をあげて、日本の偽装病院船はメインなルートを避け、ジャワ島を東にセレベスの海を通り、ボルネオの北の頭をとおり、ミンダナオのサンボアンガに到達する。それからビサヤの多島海をぬけて、マニラ港までやってきた。
    □病院船オプテンノート
    拿捕された外国の病院船も活用された。主要なものでは、オランダの貨客船オプテンノート(Op ten Noort)号がある。蒸気船時代のパイオニアの有名人の名前が命名された。彼女は一九四二年二月ジャワ沖で捕まった。それから悲劇が始まった。彼女はフィリピン~日本間を幾度も航海した。黄金を積み込み舞鶴の軍港に運んだ。一九九〇年それが彼女の船体から日本人により発見されている。かつて政府の中枢にいた役人、あるいは日本の企業(戦後、五〇年、黄金のユリから利益を得ようとする)がその回収にあたった。(CD参照)
     オプテンノート号は一九二七年、アムステルダムで建造された。ロイヤルパケット・ナビゲーションカンパニィーの貨客船として東インド航路に投入された。ジャワを母港とし、スラバヤ、スマラン、バタビア、ベラワン・デリ、そしてシンガポール間を航行した。その航路を”超特急サービス航路”といった。彼女は美しかった。一本の高い煙突、優美な直立した船尾、ジャワの多島海でポピュラーだった。排水量は六〇〇〇トンあり、レンツ製のエンジンは一五ノットを出せた。一等船室と二等船室にはそれぞれ二百人を定員とし、その他の収容施設(三等船底及びデッキ)には現地人一二〇〇人を収容することができた。
    戦争が始まるとオランダ海軍は彼女を接収し、病院船として従事させることになった。船腹には明確に赤十字のマークをぬった。外交チャネルを通じ、日本は彼女が病院船としてジャカルタ方面に展開することを知らせ、東京は確かにそれを確認していた。にもかかわらず、一九四二年二月二一日、磁気機雷に感応しないよう修理を施すため、まさにスラバヤ港に入港しようと航行していた時、二機の日本の戦闘機に攻撃されてしまった。爆撃されて医者一名と看護婦二名が亡くなった。G.ツイジンガ船長はそのまま、スラバヤまで船を航行させた。
    六日後スラバヤ海戦が起こった。大殺戮の戦いだった。日本海軍は新型の魚雷を装備していて、射程距離は三万ヤード(二七㎞)を超えていた。酸素魚雷と云われるもので、触媒に酸素を使うので航跡を示す燃料の泡(窒素酸化物)が水面に現れないものだった。英国巡洋艦エクゼター(Exeter)はそれにより半壊、オランダ巡洋艦デ・ルイター(De Ruyter)、ジャワ(Java)と駆逐艦三隻は奮戦したがあえなく沈没した。
    スラバヤでの修理を急いで終え、オプテンノート号は水兵救出のため目的地に向かった。だが、途中で日本の駆逐艦二隻に停船を命ぜられ、通信室に乗り込まれてしまう。そして、負傷兵の救出は禁じられ、その位置にとどまるよう命令されてしまう。次の日の昼、ツイジンガ船長はオーストラリアへ逃走を試みる。ジャワの沿岸に向けてトップスピードで発進したのだ。三時間後、日本の爆撃機が追いつき、爆弾を投下され、引き返すよう命令される。命令にしたがって、バンダジャルマシン(Bandjarmassin)に行き、九七〇人の捕虜を載せてマッカサル(Makassar)まで連れていかれる。捕虜のうち八〇〇人は巡洋艦エグゼターの乗員だった。彼らの多くは絞首刑、惨殺された。そこで、八か月間、捕虜施設の病院として使用された。歩哨が殺菌された手術器具を汚そうとするので、それを止めようとした医官ウイエマンス(Wiemans)はそばにあった船の什器でひどく殴られた。
    一九四二年十月一六日、オプテンノートは横浜に曳航された。日本の病院船になるためだった。十二月五日、船長は国際赤十字のスイス派遣代理官に話を通すよう日本側に求めたが拒否された。代わりに二九人の医師たちと看護婦一五人が船から降ろされ、三好(Myoshi)にある元アメリカ人用のミショナリィースクールの施設に収容された。三好(Myoshi)は広島から七五キロ離れたところに位置し、そこで赤十字の医療団として、捕虜たちよりは少し増しな扱いを受けた。横浜では船が改造され、トンネルを増やし、船体を白く塗って緑の十字を船体に刻印した。名前を天応丸とした。四三年の三月には船名を氷川丸と変えた。(訳者注:「天応」丸が天皇に通ずることから不敬であり海軍が名前を変えた。)本物の氷川丸は一九二九年NYKライン(日本郵船太平洋航路)に就航した一一〇〇〇トンの快速船だった。その船は今横浜港に係留されてホテルや観光スポットになっている。
    偽装された彼女はシンガポールへ武器弾薬や軍属たちを載せて往来した。そして、戦争が終わるまで、シンガポール~マニラ間を黄金のユリに由来する宝物を運んだのだ。
    一九四四年十月七日、ジャワ海上で、オランダ潜水艦ソードフィッシュ号(Zwaardvisch)により目視されたが、艦長が日本の法定の病院船と認めたので攻撃をしなかった。十一月一日、船名を再び天応丸に改めた。オプ号は終戦の一か月前、横浜まで財宝を載せて航海している。またオプ号は別命を受けて舞鶴港まで回航されている。船には黄金のほか、プラチニューム隗、ダイヤモンドやルビーの宝石類も含まれていた。降伏宣言の二日前の夜、舞鶴港沖合に運ばれ、船長と少数の乗組員が自決した。船はキングストンバルブを抜き、自沈する。日本政府は戦後、オプ号は戦争中に機雷に当たって沈んだとアナウンスした。(一九九〇年にオプ号が引き揚げられたとき、日本の情報筋は積み荷に価値は三兆円(三〇〇億ドル)あると云っていた。そのことについては十三章で詳しく話す。)
    オプテンノート号の事件は宝船を病院船に仮装した一例である。このことが彼らがどうやって財物を搬送したか、魅力的で複雑な謎々になって、今日まで秘密とされて来ている。
    □パズルの一片が太平洋一円にちらばっている
    パズルは辛抱強く完成を待っている。われわれがこれらの一片一片を絵に押し込む者たちになろう。:一度略奪物が日本へ入れば、ボーキサイトやタングステンなどの戦略物資は軍需工場へ運ばれるか軍が用意した地下貯蔵施設に隠される。その施設から戦後、戦略品が続々と出てきている。舞鶴軍港付近にも地下貯蔵施設が数か所あった。
    □敵性通貨
    流通通貨に関しても、日本は兵站の事情で、侵略国の通貨をコピィーして使った。金貨や銀貨は損なわれずそのまま温存した。真鍮(しんちゅう)や銅(コパー)、銅合金(ブロンズ)貨幣は軍需産業に材料として供給するため鋳直された。後で日本政府が認めたことだが、日本は蘭領インドネシアでコイン、一億九千六百万ギルダー分を調略している。その多くはアメリカで鋳造されたものだった。というのは、オランダ本国が一九四〇年、ナチスドイツに占領されてしまい、蘭領インドネシアで流通するコインが不足してしまったのだ。それで、オランダ植民地政府はサンフランシスコ、デンバー、ワシントンDCの鋳造場に“自国”通貨の製造を頼んだというわけ。この通貨がインドネシアの島々で流通していた時に、日本が占領し、奪い獲ったということだ。
    一九四六年、アメリカのソースが語った、オランダ軍賠償使節団は、「日本軍が戦時中、一一〇箱のギルダー通貨を横須賀軍港から日本銀行の地下に運んだ事実を確認している」と。オランダ使節団長、チリング中将が一九四七年九月に自国政府に報告書を提出した。その内容:「オランダ銀貨三〇トン(五六三七枚のインゴット)が東京湾で発見された。この銀塊はジャワ派遣十六軍団が没収し日本へ運んだものである。使った船は偽装病院船で大阪貨幣鋳造所に運ばれている。他のオランダ由来のインゴットは越中島付近で発見されたものだ」と。戦後の調査隊に所属するA.A.ルーイジェン(Looijen)中尉が調査した内容によると、ジャワでは一八七トンのダッチギルダー銀貨が盗まれ、日本銀行に運ばれた。この報告書にもとづいて日本はそれをオランダ鋳造所に返している。ルーイジェン中尉は戦争中、捕虜として日本に拘留され、神奈川県で労役に服していたのでその事実を知っていたらしい。オランダ、インド、英国、フィリピン、中国、インドチャイナ(インドネシア)等のコインが石油ドラム缶に詰まって続々と送られてきたという。
    □コクショウ、国生?
    その受け皿はコクショウ・KOKUSHOという会社で、アサンドウリ・ASANDORIという通りにあった。その場所はアメリカのスタンダード・オイルの製油所があった地域で、川崎と横浜の間だった。(訳者注:鶴見区付近と考えられる。 )
    その貯蔵所の長は山崎大尉で、オランダの捕虜兵のブロークヘイゼン(C.H.L.Broekhuizen)がコインの仕訳を行っていた。彼の上司の日本人職長(山崎?)の話では、「日本は戦争が終わった後も金や銀のコインを隠しておくためにこうしているのだ」と彼(ブロークヘイゼン)に話したということだ。他の捕虜の話では、銅、真鍮、銅合金通貨は日立の工場へ送られた。日立は東京から百マイル北へ離れている。
    アメリカ人の捕虜、ジャックファート(Ed Jackfert)は東京地区第二捕虜収容所(川崎にあった。)にいて、鋳造作業に駆り出されている。「コクショウで働いたことがあるのでよく知っている。コクショウは製油所で二次大戦がはじまる前からスタンダード・オイルの川崎の工場で、下請けをしていた。敷地の中にはいたるところにスタンダード・オイルのマークが見つけられた」と。
    そこには巨大な貯蔵庫群があり、何回かそこへ行ったことがある。そこにはアジアから集められた収奪物が詰まっていた。あらゆるアジアの国の通貨の山がうづ高く積まれていた。その他にも目につかないように盗品や戦利品もあったであろう。他の品目、たとえば指輪などに固定されていないダイヤモンドの粒がドラム缶いっぱいに入っていたり、色付きの宝石がグレード別により分けられていたりしたはずだ。質のいいものは別にし、クズ粒は一緒に工業用として使用するためにより分けられた。残りは再び貯蔵用樽に投げ込まれ、高級将校たちの取り分となっていく。アジアにいた児玉親分と彼の子分の役人たちはより大きな粒のダイヤ、サファイア、ルビーを得ていただろう。児玉は飛行機で帰国できたので直接日本へ持ってきたと考えられるが、役人たちは、現地の事務所の秘密の場所にそれらを隠したと考えられる。戦争終結の後、それを取りに戻ろうと思っていたからだ。われわれのCDでは、日本の役人や軍人が自分の事務所の秘密の場所に大粒の宝石を隠し、それを戦後回収して、フィリピンで売ったことを示す文書が収蔵されている。
    金塊やプラチナは中国から陸路で、あるいはアジアの地域から船で日本へ運ばれ、一部は財閥の金庫や日本アルプスのふもとにあるトンネル(松代司令部跡)にしまわれたと考えられる。東京は爆撃や地震などの大災害が予測されていたからである。
    日本銀行の地下に運ばれたのはごく少ないと思われる。とういのはこの手に関する政府の役人の搬入命令など無視されていたからだ。搬入すべき第一の場所として、黄金のユリに由来する宝物がどこだろうかという質問があるとすれば、それは“帝国の家族”、“派閥”、”巨頭”たちのところであると答えるべき根拠なのである。
    □松代の巨大貯蔵庫
    松代の巨大地下施設は長野県の山岳部に作られたものだ。長野県は一九九八年の冬季オリンピックが開かれた場所だ。貯蔵庫(トンネル)の総延長はは一一〇キロもあり、容積は六万立方フィート(二万立方メートル)もある。全体が強化コンクリートで覆われている。そこには天皇家の臨時座所や、政治を行う執行官たちのメンバー、臨時省庁事務所などが置かれる準備が整えられていた。日本人のある消息筋は、「そこで戦後日本の復興を促す程度の金塊銀塊があった」と言う。松代の施設(複合トンネル群)は朝鮮人一万人を使って堀った。彼らは地上に戻ってこなかった、各トンネルを次々と封鎖するときに、生きたまま閉じ込められたからだ。
    悲しいことにこれが唯一の例外だったということではない。戦後、米・英・豪・蘭の捕虜三八七人が佐渡で同じ目に遭っていることが分かっている。この佐渡島というところは昔から天皇や政治家、僧侶、歌仙などが島流しにあったところだ。島では三菱の手により金が産出する、そこで捕虜たちに対する虐待的労働がはじまった。捕虜たちは相川金鉱のある立て坑のひとつで働かされていた。通常は五十人編成で抗から出てくる石炭を手押し車を押し、ロート上の穴から下に落とす作業をしていた。しかし、終戦の年の八月二日は、特別な任務を命令される。いつもの地上勤務をやめ、立て坑の一番深いところに行けというのだ。そこは地上から四〇〇フィートもあるところだった。そこは金塊の原石を他の岩石から「のみ」を使って切り出す「金児」(かねこ)たちが働く場所だった。夜になる前までに、軍隊の爆薬担当工作員が二百から三百フィートにある横坑にダイナマイトを仕掛けた。午前九時十分まだ、捕虜が一番深いところにいるのに、爆破は強行された。
    津田ヨシヒロ中尉、強制労働キャンプの副長は戦争犯罪捜査官に申し出ている:「本官は現場から百ヤードはなれたところから目視している。噴煙と粉塵が鉱山のトンネルからあがった。風や煙が止むのを待って、監視兵たちは間一髪で立て坑に落ちそうになっている鉄製の荷車をわざわざ、立て坑の中に投げ入れた。十時三〇分ごろ、全部の鉄製荷台の作業が終わった。(そして)追加の爆破作業が行われた。私がキャンプに帰る前に再び大轟音を聴いた。振り向くと岩や土の雪崩が元あった、立て坑の入り口を跡形もなく覆っていた」のだと言う。津田は宝が立て坑に埋もれてしまったことは気にしていなかった。だが、それ以外に全部の荷台を鉱口に放り込み、入り口を跡形もなく覆ってしまう理由があるのだろうか?もし三菱が隠すことが何もないというなら、三八七人の捕虜たちは無事に本国に帰還できて、他の例のように複雑な要因は何もなかったはずなのである。
    千人以上の朝鮮人が別の三菱金鉱山で働いていた。それも消されてしまった。これらの情報は一九九一年、(アメリカの)公式記録が公開され、三菱は労働の対価として一ダースのバット(たばこ)を賃金として彼らに与えていただけだということが分かったときに同時に表に現れたのである。
    アメリカの記録から日本の膨大な略奪の記録が消えてしまったのは大問題である。その記録は「マッカーサー将軍の報告書」と云われるもの、あるいは「日本におけるマッカーサー」と云われる記録である。
    内容は:占領軍編、第一巻・補足、将軍参謀部上程、議会図書館カタログ・カード番号六六-六〇〇〇六、ファクシミリをリプリントしたもの、一九四四年、軍歴史センター、発刊番号一三-四だった。
    その中には日本が所有する「金塊・銀塊の貴重な収集資料」、「脅迫・不正行為による没収、取り上げ、強奪品」、「財物は同盟国(中国)から日本へ詐欺的、あるいは強制的に移された」、「大量の金塊、銀塊、貴石類、外国郵便切手、墓碑石」、「貴金属あるいはダイヤモンドは日本人によってもたれ、管理されていた」、「三万カラットのダイヤモンドが一か所の隠し場所にしまわれた」などと記述されている。
    単一の発見では、プラチニウム五二.五ポント、その時の価格で五千四百万円(一九四七年の価額で一千三百万ドルを超えている。)、書類には占領時の大仕事として、「日本軍の大量の貴金属、外国通貨などの退蔵品をかき集め、MPの配下に置くこと・・・第八軍は日本人や枢軸国の政府の手にある貴金属やダイヤモンドの貯蔵品を自軍の保護管理下に置くこと」と書かれている。第八軍は横須賀に司令部を置き、日本の略奪品が発見され次第、没収し、東京か大阪にある(銀行の)“アメリカの預金”の管轄下に置く権利を有していた。
    この資料の意味は、日本がアジアの占領した国々から財宝を略奪していたことを“アメリカ”は知っていたということだ。これ以後、財宝の存在は“アメリカの秘密”となって今日まで続いている。
    一九四七年マッカーサー元帥は宝石鑑定人をたくさん東京に集めた。宝石鑑定人の一人にエドワードP.ヘンダーソンがいた。スミソニアン研究所が主催した口述歴史編纂インタビューで、マッカーサーは招かれたヘンダーソンに五千万ドルほどの宝石の鑑定をさせたそうだ。それらは米八軍が東京で回収したものだった。ある部分は焼け落ちた建物の灰の下から見つかった。ヘンダーソンは思い返している、「砂や砂利交じりのバケツを受け取った、その中にはダイヤもたくさん混じっていた。それでわれわれのの苦労は泥、ごみ、ほこり、などガラクタを取り除くことだった・・・日本銀行の中を歩き回った。地下の金庫室には彼らの金塊がいっぱい詰まっていた」と。
    ロバート・ウイッテング(ジャーナリスト)によると、八〇万カラットものダイヤモンドが日銀からマッカーサーの管理下に移ったそうだ 。そのダイヤ群は二度と公衆の目に触れられていない。どんな公文書を見てもそれは表れていない。公開は失敗したのだ。日本が八〇万カラットものダイヤをくすねたことは、ワシントンにとってトップシークレットだった。例のごとく国の安全保障のためだ。“誰の安全保障だって?”
    銀塊五トンは三井の倉庫で見つかった。それが日本が連合国から没収されることを防ぐ隠し場所としては、洞穴やトンネルや鉱山の坑内にしまうよりも安全とはいえなかった。日本尾ギャングスター、児玉でさえ、彼のお宝をどこへ隠すか困ったのだ。それで彼は特権階級の隠し場所を選んだ。皇居だった。東京ジャーナルによると、「児玉は皇居内の“インペリアル・ファミリイ”の貯蔵庫へそれをしまったという。突然、内大臣から注意され、“GHQが来る前にそれを持ち出せ”と云われた。噂ではそれは天皇陛下直々のリクエストだったといわれる」と書かれている。
    □すべての財宝はフィリピンにあるんじゃなかったのか?
    一九四三年早くまでに、アメリカは魚雷問題を解決した。米潜水艦はフィリピンの北側水域を制圧した。それ以降お宝の日本移送は止まってしまった。それが秩父宮とアドバイザーに新しいチャレンジを産ませることになる。その解決方法は?
  2.  
『小説』 ジャンルのランキング
Comment   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 四章 インドシナの嵐 (S... | TOP | 六章 目撃者(THE EY... »
最近の画像もっと見る

post a comment


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

Related Topics