キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

十四章 ガタガタの大砲Ⅱ キサラギジュン訳 2017

2017-05-05 20:43:50 | ゴールドウオリアーズ

ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter西の大国の「首相」
ロバート・カーチスはフェルディナンド・マルコスとの金の探索に関係したことで大きな代償を支払った。しかし、カーチスは頑固に戦後明るみになる日本軍の財宝地図の唯一のフルセットを、今でも持っていた。
ゆっくり自分の転落人生を元に戻そうと、彼はスパークスからラスヴェガスへ転居し、そこで大きなシボレー販売特約店の販売部長になった。
 暇なときに、彼は地図を調べ、ゴールデンリィリーの地図製作者が暗号化した謎の多くを解明し、次に(次があればの話だが)どのようにして金塊回収に取り組むかを決定した。
だから一九七八年のある日、電話が鳴った時、彼は自分に幸運が巡って来た事をなかなか信じられなかった。信頼している彼の知人が、カーチスに外国の外交官と会うように依頼してきたが、その外交官の政府は、フィリピンで、大掛かりな秘密の戦争金塊の回収に対する支援を望んでいた。
待ち合わせの場所はラスヴェガスホテルで、カーチスは西の大国の「首相」と直接の接点を持った。「首相」は潜水艦を含むすべてを準備しており、半々で山分けしようと申し出てきた。われわれが、その国の名前も、首相の名前も明かさないという条件で、カーチスは以下のことを詳しく話した。(訳者注:参考までに、当時の日本の首相は福田十二月まで、と、大平だ。)
「首相」は初期のマルコスの金回収活動も、カーチスが演じた重要な役割についてよく知っており、カーチスに、潜水艦による深夜の金塊回収に適した場所を選ぶよう依頼した。カーチスはコレヒドール島を選んだ、そこに三ヶ所の大きな貯蔵所があることを知っていたからだ。
国際的な紛争を避けるため、首相直属の海軍は、部下を海辺に配置して貯蔵庫を開ける様なことはしなかった。なぜなら、海辺に配置するだ けで部下は逮捕される可能性があるからだ。一台の巡洋艦は南シナ海の国際水域のルゾン沖に停泊した。その潜水艦は海岸にかなり近づいたが、特殊部隊がゴムボートを出し、海岸から金の延べ棒を回収する夜まで水中に潜ったままだった。貯蔵所を開けるのも、金塊を海岸に運ぶのもカーチスまかせだった。
マルコスはなおも権力を持っていたので、カーチス自身はマニラへ行けなかった。なぜなら彼は逮捕され、殺害されるだろう。そのかわりに、彼は数人の部下を送り金塊を発見させて海岸に金塊を運ばせること にした。そして彼の部下たちは潜水艦から送り出す事が出来た。
カーチスはわれわれに言った。「私はマルコスには腹を立てていたから、これで五分五分になるわけだ。でも、その辺の事情については、決して話すことはできないだろう」
「私はコレヒドール島の南端を選んだ。 そこはオタマジャクシ型の島の頭部にあたるとこだ。 と言うのは、潜水艦には海が深くて都合がいいからだ。大変狭い海岸に向かって断崖を下りるため、私の部下たちはふたつの峡谷のひとつを横断しなければならなかった」
満潮時に海岸は水面下に沈んでいるので、いいタイミングをはかることは、非常に重要なことだ。特殊部隊がゴムボートで近づくには、月の光がない夜で干潮時である必要があった。
コレヒドール島はマニラ湾の入り口で、バターン半島沖にあった。バターン半島のマリベレスにマルコスは避暑用の宮殿を持っていた。島は東西に広がり、西側のオタマジャクシの頭の部分をトップサイドという。低地で東側のしっぽの部分は、ボトムサイドと呼ばれた。コレヒドール島の住人はボトムサイドのサン・ホセの町に住む六人だけだったが、毎朝観光船がマニラから到着する。
□クロケット砲台の下
狙いの場所として、カーチスは旅行者用に踏み固められた小道のはずれにあるモルタルの砲床、クロケット砲台の下にあるコンクリート製 の防空壕を選んだ。アメリカ沿岸警備隊は、一九〇一年にこれらのモル タル砲床を建設していた。コンクリートの厚板の下に、交差するふたつのトンネルが最初は軍用品の倉庫として使用された。
一九四二年のバタンとコレヒドール防衛戦の間に、一斉射撃によるクロケット砲台への直接の着弾により、火薬庫は吹き飛ばされ、多くの防空壕が破壊された。日本軍が支配権を手にした後で、秩父宮は破壊された砲床の下のコンクリートに裏打ちされたトンネルを見て、そこに金の延べ棒(六十五ポンド、約三十kGのバー)を隠すことを決め、六フィート(一.八m)の厚みのコンクリートで覆い、元のままの砲床に見えるようにした。クロケット砲台が爆破されたことを誰かが覚えていることなどありそうもなかった。
冶金化学者として、サーマイト(テルミット)を十分に強化できれば、それを使ってコンクリートの厚板に人間サイズの穴を焼ききることが出来る、とカーチスは考えた。サーマイトはアルミニウム粉と酸化鉄 粉が等分の簡単な化合物である。ひとたび着火すると、大体三千℃ぐらいで燃焼する。サーマイトは第二次世界大戦の間、焼夷弾としても使用され、現在では二〇〇一年の同時多発テロでワールドトレードセンタービルの崩壊に関係しているという説もある。今日では、サーマイトは防壁を貫くため、あるいは熱感知ミサイルに対する熱おとりとして使用される。
サーマイトを着火するのはかなりの熱が必要だ。最も簡単な方法は、 線香花火を着火するためのマッチを使うことだ。それはサーマイトを着火させるに十分な熱で燃える。
 ネヴァダ砂漠で、カーチスは六フィート厚さのコンクリート厚板を使ったテスト台を手配し、普通のサーマイトでは時間がかかり過ぎるこ とを確認した。彼は他の配合物を加え、サーマイトを強化して、五千℃近くで燃える化合物を手に入れた。「こいつは、四十分で六フィートの厚みのコンクリート板を焼き切り、一人の人間が這って入れるだけの大きな穴を開けることが出来た」と彼は言った。
カーチスは二人の男だったら金塊を発見し、浜辺まで運ぶことが出来ると考えた。彼は二人の男を知っていて、二人はこの仕事に適任のようだったし、彼らはやる気まんまんだった。二人とも“ボー„グリッツエ大佐と特殊部隊にいたので、カーチスは、彼らなら何とかやれると考えた。
「一人は大柄の男くさい軍人タイプだった。ラスヴェガスの大会社で保安部の主任だった。彼には、ラスヴェガスの元保安官の息子で似たような 経歴の友人がいた」とカーチス言った。
□彼らをゲーリーとマイクと呼んで置こう。
彼らをゲーリーとマイクと呼んで置こう。二人は強化したサーマイトの使用法を学ばなくてはならなかったし、峡谷のあちこちを何度も行き来し、浜辺まで金塊を何とか運び出すことが出来るよう、肉体的に強化する必要があった。この仕事のために、カーチスは馬具職人に二つの頑丈な金の延べ棒をかたどったリュックサックを作らせた。何週間にわたる激しい訓練の末に、ゲーリーとマイクは、一度に二本の金の延べ棒を何とか運べるようになったと判断した。強化サーマイトが入ったふたつの二十五ポンドのバッグは、たくさんの予備を持っていたんだろう。サーマイトは発火装置なので、飛行機では運ぶことはできなかったのだから。そこで、特別強化混合物は外交文書用の封印ポーチに入れられてマニラに運ばれた。ゲーリーとマイクは、コレヒドールの熱帯雨林の小さな所で二週間生きるのに必要なすべてを集めた。つまり、マシェティ(なた)、食料と水、ハイテク寝袋、防蚊ネット、薬、コブラ毒血清などである。二週間 あれば、金の延べ棒を運び出して、西の大国の首相を満足させれるはずだった。フィリピン入国の口実として、カーチスはゲーリーとマイクが、福音伝道の任務にはじめて就くモルモン教の伝道師であるという人物証明書を手に入れた。二人は飛行機でマニラに飛び、安全な外交エリアである大使館邸に泊められた。二人は調査のため、コレヒドール行きの遊覧船に乗った。砲台付近には彼らが考えたとおり、人はいなかった。他の観光客と一緒にマニラに帰り、二人は道具類を集め、外交官にバタンまで車で送ってもらった。 そこはコレヒドール島の向かいにあるカブカベンと呼ばれる港町で、二人は明るく塗装されたアウトリガー(船外浮材)と、手ごろサイズで、船外モーター付のフィリピンの小船であるバンカを借り、雇われ船長なしで小船を使えるよう高額の前金を払った。二人の道具類を積み込んだら、バンカは荷物の積み過ぎのようだったが、そのオーナーは大丈夫だと保証した。二人はオーナーにはキャンプに行くのだと説明した。潜水艦で彼らを浜のほうまで運ばせ、ゴムボートに乗せたほうが賢明だったろうが、ある理由でそれは考えられなかった。暗くなる一時間半前に、ゲーリーとマイクは目的地のコレヒドール島へ目盛を適当にセットし出発した。そこに着くには一時間かかった。彼らは漁師のように海上を動き回り、闇がやって来た時、急いで海岸に向かった。
□ゲーリーとマイクは兵士であって船乗りではなかった。
彼らは海については殆ど知らなかった。漁師なら誰でもソッド法を知っている。状況が悪くなるなら、それは悪くなるのだ。(マフィーの法則のことだ。) マニラ湾からの流れる強い潮があるから、彼らは目的地へまっすぐ向 かうべきではなかった。彼らは潮に向かって進むべきだったし、潮に彼らの目的地まで運ばせるべきだった。マニラ湾の入り口で潮に逆らって進むことは、船外機のモーターでは大変なことだとわかった。しかも、モーターが動かなくなってしまった。バンカは南シナ海の大きな波のうねりで遠くまで流され、彼らは必死にモーターを再起動させようとした。
 いくつかの砕ける波が、船べりから彼らを襲った。彼らの低い幹舷を水あぶくだらけにした。殆ど彼らを水浸しにし、リュックサックもサーマイトも流れ去ってしまった。このエリアは悪名高い鮫が、大都会マニラからどっと流れてくる犬の死骸や生ゴミをあさって食べるところで、二人の男はひどく怖がった。ボートを軽くするため、彼らは装備の残りを捨てた。
幸運にも、その時モーターは息を吹き返した。彼らはバンカをターンさせてバタンへ引き返すことが出来たのだった。真夜中過ぎ、彼らはよろめくように浜へたどり着き、電話を見つけ、ネヴァダにいるカーチスを呼び出した。 カーチスはびっくりし、そしてがっかりした。彼は仕事を打ち切ろうと主張したのだが、ひとたび陸地に戻ったゲーリーとマイクは、恐怖から快復しつつあり、面目を保つことを必要とした。
彼等は星型ドリルと大ハンマーを使いコンクリートの厚板に穴をあけようと主張した。カーチスはうまくいかないことを知っていたが、 ゲーリーがどうしてもと主張し、しぶしぶ承知した。ゲーリーとマイクにとり、ショックと失望がとても大きかったため、外交官がより強化されたサーマイトを運んでくる間、二人がおとなしくしていることはできなかった。
マニラに帰って、ゲーリーとマイクは新しい備品と道具を買い、ふたたび手数のかかるバンカを借りた。今度はバンカをコレヒドールに向けたのである。カーチスが予想したように、コンクリート板に穴を開けることは絶望的だとわかった。二日間で彼らはたった三インチの深さの穴を開けただけだった。彼らは再びバタンからカーチスに電話をして、もうお手上げだと言った。カーチスはワシントンの大使館に電話をして首相に言葉を告げた。バタン沖に潜水していた潜水艦は母港に呼ばれた。
うまくいった発見は千九百八十年台にたまたま起こった。日本人グループは組織化されており、秘密をしゃべらなかったので、彼らの情報管理対策は良かった。ひとつのグル-プは、われわれがトシと呼んだ東京郊外に住む一人の男に率いられていた。彼は戦争最後の年にゴールデンリィリーに従事した諜報員で、その時、彼は二〇代前半であった。トシは自分の名前を素性を明らかにしないという条件で彼の情報を話した。
一九四四年から千九百四十五年にかけて、彼は秩父宮、三笠宮、竹田宮、南京事件の虐殺者である朝香宮と、しばしば一緒にいたと言った。トシはベン・バルモアが皇子の所へ、お茶や紙巻タバコを運んでいるのを見たと言ったし、その間、彼らはゴールデンリィリーの場所を見て回っていたのだ。戦後、トシは大学に戻り、父親からの財産を相続した。ハンサムで国際人、英語もフランス語も堪能なトシは、隠匿を手伝った金塊の回収に生涯をかけようと決意した。彼はマニラ郊外の庭付きの小さな家を買い、ひたむきな熱心さと、完璧な秘密主義で、彼の回収作業にとりかかった。彼の息子が大学を卒業すると、東京での金地金ビジネスを開業させた。
 一九八一年に、トシはサンタ・マリア連山の金塊貯蔵所から大量の金塊を回収をした際、マルコス大統領と関与した日本人グループの中の一人だった。その金塊はジョンソン・マセイ・ ケミカル社により、マルコスが一九七五年にカーチスから盗んだ設備でこしらえた精錬所で処理された。マルコスが一九八三年五月に、ルクセンブルグにある一流の国際銀行を通して、多量の金塊を売った時、トシは自分が回収した金塊も含まれていると言った。
  最初の販売分だけで七十一万六千四十五本の金の延べ棒で、売価は千二百四十億ドルであった。取引は、仲買人を代表する大勢の弁護士により署名されたが、彼らはロンドン金プールのメンバーだった。フィリピン大統領のレターヘッドのついた便箋に書かれた合意の覚書は、マルコス家が信頼した金塊を扱う婦人の一人、コンセハラ・カンデラリア・サンチャゴによって署名されていた。( CDを参照)
取引での手数料を払ってもらったノーマン・「トニー」・ダカスによると、週に六十トンの金塊がクラーク基地から米空軍の飛行機で香港へ、運ばれた。最初の運搬分だけでも、マルコスがこれまでに行った最大級の取引のひとつだった。
トシはルクセンブルグの取引から分け前を使い、日本で不動産を購入した。いろいろ購入したなかで、彼は東京郊外の鉄道駅の向かいにある高価な土地を購入して大きなアパートを建設し、その最上階には親族の全てを住まわせた。そして、その他の階をすべて賃貸にした。彼はアメ リカに旅行をして、フィルター・キング・プラスを含む、地中の金属を探査する電子機器や地中スキャナーを購入したが、手の切れそうな新しい百ドル札の大きな札束から全ての代金を支払った。
親切でのんきなトシは、いろいろな住居の前にいる自分が写っているカラー写真を取り出して満足していた。われわれはこれらのカラー写真の幾枚かを持っているが、その複製を作れば必ずトシが誰かを特定することができるだろう。
□阿波丸引き揚げ
おまけに沖での発見もあった。一九七六年、カーチスは中国沖に沈んでいる偽の日本病院船「阿波丸」を引き揚げて金を発見しようとするアメリカ人グループと接触した。「阿波丸」 は一九四五年四月に米軍の潜水艦「クイーンフィシュ号」に沈没させられた。潜水艦の艦長、チャールズ・エリオットローリン司令官は軍法会議にかけられた。というのは、日本はチャールズがホンモノの病院船を沈め、死んだ二〇〇九人は殆どが患者だったと主張したからである。(ただ一人の生存者は読み書きの出来ない甲板員で、潜水艦に救助された。)
戦後、阿波丸が偽の病院船で、軍需品や木枠に入れた戦闘機、重要人物の家族を南太平洋へ運び、戦争略奪品や、重要人物を日本に運んでいたことを示す記録が発見されたときに、ローリン司令官の正当性が立証された。
実際、沈められた時には、阿波丸は五十億ドル価値のある財宝を運んでいた。阿波丸は四十トンの金、プラチナ十二トン、十五万カラットのダイヤモンド、多量のチタニウムや他の戦略的物質を載せていた。
 飛行士、「スコット・カーペンター」とチャールズ・リンドバーグの息子である「ジョン・リンドバーグ」は海軍公文書の中で、沈没はどこで起こったかを正確に示している潜水艦の航海日誌のコピーを見つけ、さらに、当時も健在であった潜水艦の上級職員と共に、その事実を確認した。
 沈没船は中国の領海の近くに沈んでいたので、中国政府と取引をし、共同事業を実行し、回収された財宝を山分けにしようとしたが、うまくいかなかった。彼らが自分たちで引き揚げ作業を始め、場所を正確に突きとめた時、彼らは中国海軍によって場所から追い払われた。中国政府 はそれから回収作業を独力で行ったのだ。
□オプ・テン・ノート号の引き揚げ
 もっと面白い発見はオランダ客船、オプ・テン・ノート号の発見である。ジャワ沖でのこの船の捕獲は五章で述べられている。この船の名前 は天王丸・氷川丸などと数回にわたり変えられた。オプ号は戦争の後半にはゴールデンリィリー作戦の業務につくため、病院船として時を過し、マニラ・横浜間で財宝を運んだ。戦争が終わる直前に、オプ号は二千ドンの金を積んで横浜に到着した。数日後、オプ号は日本の西海岸にある舞鶴海軍基地に移された。舞鶴は殆ど陸地に囲まれた湾なので、そこに沈められたどんな船も、強い海流や津波により動かされなければ、沈んだ場所の近くに残るということを意味していた。 そこでオプ号は、海軍基地付近の丘にある地下壕からさらに多くの財宝を積み込んだ。ある夜の遅い時間に、オプ号は湾内に引き出され、船長と二十四人の乗組員は殺害され、船はキングストン・バルブを開けられ、船体は水にあふれた。殺害者たちは日本海軍の高官グループで、こ の財宝を自分たちで保持したいと願っていたのだ。彼らは、いつの日か帝国海軍の力を再構築するために財宝が使われると自慢げに言った。
一九八七年、オプ・テン・ノート号の回収作業は、この高官グループの残った生存者たちが、やくざの黒幕で、一九三〇年代から一九四〇年代に児玉と仕事をしていた笹川に近づいた時に出だしでつまづいてしまった。笹川はその後、インドネシアとフィリピンで、スカルノ大統領やマルコス大統領と協力して財宝を回収することになる。
水中の回収専門家と、深い潜水に必要な機材が苦労して集められた。 しかし、笹川の分け前をめぐる争いが原因で話し合いは決裂してしまった。
一九九〇年にモリチョー社製の巨大な海上用起重機を所有する日本の大企業も参加して回収作業は再開された。またしても、深海の回収作業における国際的な専門家が集められた。
彼らはディヴィコン・インターナショナル社所有の潜水艦を用意し、トレンス・タイド号と呼ばれるオーストラリア製の回収船に積み込んで運んだ。トレンス・タイド号は、シドニーにあるタイドウオーター・ポシンブローブは、数十年の間軍事独裁政権をバックに、とりわけ芳しくない評判をたてられた韓国CIA(KCIA)の設立に関与していた。
 シンブローブは長いCIA勤めのなかで、テッド・シャクリーやクライン、ランズデールを含む、全ての最も有名な冷戦主義者たちと一緒に仕事をした。一九七〇年代に彼は、韓国におけるアメリカ軍最高軍司令官であったが、その時、ジミー・カーター大統領といくつかの世論に対する基本的な意見の相違があり、彼は早期退職を余儀なくされた。
彼は極右ではヒーローのままで、世界中の血で汚れた体制を支援するPMFsの軍補助的代理人の一人だった。ランズデールやクラインのようなエンタープライズにいる彼の元CIAの仲間たちは、一九四〇年代のサンタ・ロマーナの回収、一九七〇年代のマルコスの回収について全てを知っていた。
□ニッポンスター・グループ
この三〇年間で良く知られた財宝ハンターはジョン・シングローブ将軍のニッポンスター・グループで、PMFsSのエンタープライズ組織のひとつである。シングローブは太平洋戦争の終わり近くに、パラシュートでハイマン島に降り、日本軍の強制収容所から数百人の連合軍捕虜を解放し、国民的英雄となった。
回収作業の参加した者はわれわれに言うには、「財宝は無事にトレンス・タイド号に積み込まれ、 参加した日本人がその晩、 お祝いに海岸でお祭り騒ぎをしていた。彼らが騒いでいる留守中に、そのオーストラリア船はこっそりと錨を揚げ、財宝を積んだまま公海へ出て行ってしまった。船がいなくなったと判ったのは日の出前のことだった」と語った。
ニッポンスターとフェニックス探査会社と呼ばれる二つのPMFssがマニラへ金塊探索のためにCIAの情報と協力をもとにやって来た。ニッポンは香港で法人化され、フェニックスはロンドンで法人化された。リベリアに登録されているヘルムット貿易と同様、両社はコロラドに拠点を置き、フェニックス・アソシ エイツと密接につながっていた。フェニックス・アソシエイツは「未来の兵士」マガジンの発行人で、シングローブと親密な友人で隣人であるロバート・ブラウン大佐によって設立されている。
シングローブは言った。「本来なら、 埋蔵財宝の回収計画に関心など持たなかっただろう。しかしニッポンスター・グループは愚直な海岸の物あさりではない。そして、私は過去の経験で、フィリピンに埋蔵されてる日本の金塊の話はホンモノだと知っていた」。彼は付け加えた。「本当のところ、マルコスの百二十億ドルの財産はこの財宝に由来するもので、アメリカの援助を掠め取ったものじゃない。しかし、マルコスは、一ダースやそこらの最大の埋蔵場所からピンハネをしようとしただけだった。 だから、百以上の埋蔵場所が手付かずの状態で残っているんだ」。
 シングローブは、ニッポンスターが取り分の一%を彼の「世界貿易国内委員会」に与える事と引き換えに保安顧問になった。
一九八〇年代半ばを通し、多くの新聞記事は、ニッポンスターが行ったフィリピンでの財宝発掘作業が幸運に恵まれず、失敗したことを明らかにした。
カーチスは彼等をショールームの外に放り出そうとした時、フォリンジャーが時計を指差し、「三分以内に国防総省の電話交換台から、たいへん重要な電話を受けるだろう。その電話で、これがどうしてこんなに重要なのかを説明されるだろう」と言った。
九時きっかりに電話が鳴り、カーチスは陸軍補ロバート・L.シュバイツァーと話すことになった。シュバイツァーは、ホワイトハウス近くのエグゼクティブ・オフィス・ビルにある国家安全保障会議(NSC)で、 レーガンの上級軍事顧問をしていた。
一九八六年、イランコントラ武器スキャンダルが発生した時、現役勤務から退き、エンタープライズ組織でシングローブの仕事に加わった。しかし、彼はまだNSCのビルに事務所を持っており、レーガン大統領が軍事面で助言を求める人物であり続けた。 シュバイツァーはNSC時代の副官、ディック・チルドレス大佐を通じてNSCと関係を維持していた。ディック・チルドレスは極東担当大臣の地位にあった。この集団には他の人間として、防衛情報局の元局長ダニエル・グラハム将軍、統幕事務局の元会長ジャック・ベッセイ将軍、ジョージタウン大学の戦略研究センターを率いる元CIA副長官レイなどがいた。
一九八七年一月の初め、カーチスはシアトルのアラン・フォリンジャーという名の人物から電話を受けた。フォリンジャーは「フィリピ ンの財宝」についてカーチスと会って話したいので、翌朝ラスヴェガスへ行きたいと言った。「それをどうして知っているのだ」とカーチスは聞いた。「私はジャック・シングローブやニッポンスターと一緒に仕事をしている」、とフォリンジャーは言った。「君らはCIAだろう。私には興味のない話だね」とカーチスは言って、受話器をたたきつけた。
翌朝、カーチスは九時前にシボレー販売代理店に仕事で到着した。彼のオフィスに、二人の男、フォリンジャーと彼の次席のジョン・デンバーが待っていた。 彼らは、実際はニッポンスターと共同事業をしている、デンバーのフェニックス調査会社と呼ばれる団体であると言った。後にカーチスが言うには、フェニックス調査会社はCIAの隠れみのであり、フォリンジャーは本当はマニラのマグサイサイビルにあるCIA局の管理長なのだという。カーチスが言うには、シュバイツァー将軍は、いまエグゼクティブ・オフィスビルから電話をしていると彼に告げた。
香港のホテルで会議が始まった。シングローブが冒頭、くぎをさした。「自分たちの最大の危険は、日本に略奪された国々が、戦争略奪品をこれ以上オレたちに回収されることを望まないということだ。奴らは真の所有権が確立するまで、国際司法裁判所に凍結させるべきだと言ってる」。
先の大戦でアジアの関係国、三十二ヵ国が、数千トンの金塊を略奪されたと主張しているとシングローブは言いたいのだ。彼はどこでこれらの数字を知ったかを言わなかったが、シングローブのグループは、一般国民が見ることができないアメリカ政府の書類を見ることができるようだ。
 カーチスが驚き、怒り、失望したのは、シングローブがニッポン・ス ターへの資金援助を、ジョン・バーチ協会に引き受けるよう説得していることを彼にばらした時のことだ。
 フォリンジャーにカーチスを引っ張り込ませたのは、ジェイ・アグニューの息子のダンだった。フォリンジャーのカーチスへの最初の電話は、シアトルのアグニュー法律事務所からのものだ。このことは全く奇妙なことで、一九七五年に経済的に、そして職業上もカーチスを破滅させ、彼を業務上横領で刑事罰に追い込んだのはアグニュー家だったのだ。(それは十二章で述べた通りである。)
カーチスを破滅させてはいたが、アグニュー家は、もしシングローブとフォリンジャーがカーチスを仲間に組み込み、彼の地図を利用できるのであれば、再び応援すると言ってきていた。
四日間彼らはホテルの会議室で会い、一緒に食事をした。その場でカーチスはシングローブに伝えた。「分析技術を活用できれば、ニッポンスターのフィリピンでの回収作業に資金援助するよ」と。「今回、会議のはじめから終わりまで全て録音する」とも云った。(彼は全てのテープのコピーをわれわれに渡しており、以下に述べる多くのことをわれわれは知ることができた。)再び騙されないよう、 カーチスは自分のパートナーとしてデニス・バートンを連れてきていた。「アグニューは俺の人生を台無しにしたんだ、」とカーチスは言った。「そのくせ奴らは俺の助けを求める。あなたたちは、そんなことを許せると思うか。俺は二〇世紀最大の犯罪者、もしくはそんな意味の言葉で呼ばれてきたんだ。もし、それでも協力するなら、俺は本当に大馬鹿ものだ。 一九七五年にフィリピンから帰ったときは逃げて帰ったのでまったくの無一文だった。それが今も無一文なのに事業に再び協力するなんてな」。
シングローブ、シュバイツァーの両将軍は、香港のマンダリンホテルでカーチスと取り組む間、アグニュー家の関与をごまかしていた。彼らはカーチスに、大掛かりな回収をするための最良のチャンスを申し出ているのだと言った。その回収には、レーガン大統領、アメリカ政府がずっと支援しており、アメリカ大使館やスービック基地やクラーク基地の司令官も支援している。それ以上の事はできないだろうと、彼らは言った。この連中は大物たちである。それは力強い口調でいうのだ。
一九七五年、 アメリカの組織はカーチィスの「地図」と「情報」を使うため大型のコムトラックのようにカーチスに迫ってきた。まるで路上で轢かれたカエルのようだ。カーチスにこびへつらい、地図と情報を強く要請をしてきた。カーチスは気分が悪くなったが、ここまで来た以上、しぶしぶだがその成り行きを見てみようと決めた。
カーチスはシングローブは好きだが、他はみんな馬鹿だと思っている。 シングローブは先の一三ヵ月間に、二百万ドル以上を使い、数ヶ所で財宝回収を試み失敗している。
二人の証人、ドクター・シーザー・レイランというフィリピン人歯科医師とその友人、ポル・ジーガが問題の場所へカーチスらを案内した。二人はニッポンスターに地図を渡していた。カーチスは地図を見て、すぐにそれがニセモノだとわかった。カーチスはポル・ジーガと一九七五年に仕事をしたことがあったし、ジーガが戦中からの日本の財宝の埋蔵場所について、いくつか情報を持っていることも知っていた。しかし、レイランを信頼することは全くなかった。もし二人が一緒に仕事をし、こんなニセモノの地図をホンモノだと悪用していたら、お人良しの将軍たちを何人も簡単にだませていたろう。しかし、目の前の二人のアメリカ人の将軍に対し「おまえらは馬鹿だ」とどうして言えようか。
アラン・フォリンジャーはまじめで三〇台半ばの見栄えのする、かなり教養のある男である。彼はカーチスに言った。「われわれの作戦は、海の底の小さな埋蔵場所から個人的な財産を探り当てることだ。そして、その中から金の延べ棒を一本だけ取り出して、コリーに見せることだ。そうすれば、われわれは残りの延べ棒と他の埋蔵場所についてアキノ政府から十分で完璧な探索と回収の許可状を得ることができるはずだ」。
 問題はその場所が、カリタガン湾の礁にあるアンカー地域だということだ。そこにはお宝はない。ジーガとレイランは、数年にわたりだまされやすい人々に、生活のためブルックリン橋を売るニューヨーカーのごとく、彼らもその海域を不当に売りつけていたのだ。自分の持ち物でもないのに。
この二人の詐欺師たちは、無垢のプラチナで出来た錨が、沈んだ日本海軍艦の突端から押し出され、金の延べ棒がつまった銅箱を鎖で繋ぎ礁に沈まっていると主張した。そんなことがあるはずがないじゃないか、プラチナの錨、そのものが柔らかくて錨の用をなさない。カーチスはこれはウソだと知っていたが、自分たちは二人組みの詐欺専門家に騙され、金を巻き上げらようとしていることを、冷戦の戦士、ジョン・シングローブに言うすべを持たなかった。
ニッポンスターのダイバーは案の定、が礁から何も発見できなかった時、ジーガは、錨と銅箱は岩の裂け目に滑り落ちたに違いないと言い訳を云った。財宝を覆っている日本軍のコンクリート厚板は硬くて突き破れなかったし、潮の流れはニッポンスターの潜水台を動かし続けた。
しばらくして、カーチスは将軍たちに錨の場所について騙されていたのだと認めさせ、二人の詐欺師が陸上の場所で仕事をしている場所に連れて行ってもらった。将軍等はカバイトのはずれの町であるアルフォンソという場所へ連れていった。レイランはニッポンスターに自分が少年のとき、日本軍が隣家の下に掘った深い穴に財宝を隠すのを見たのだと言っていた。その家もレイラン家の所有だったのだ。のぼせ上がった将軍たちは、レイランに多額の月々の情報料をあたえ、その隣家なるものの台所を掘り始めたのだ。
またしても何も見つけられなかった時、穴はもっと深かったとレイランは云い、さらに掘り続けた。一三ヵ月以上かけて、台所の下をまっすぐ四百フィート(百三十二㍍)掘り下げ、泥を袋に詰め、夜にそれを運び去ったので、多くの隣人は何が起こっているのか知る由もなかった。この時までに将軍たちはかなりの金を使っていたので、あきらめることは出来なかった。
 地下水位は百フィート下だったので、次の三百フィートは海面以下を掘らなければならず、将軍たちはアメリカ海軍から深海専門のダイバーを連れてこなければならなかった。《民家の台所の地下にダイバーだって?》そうした深さでは、ダイバーたちは上に上がる度に、減圧室を使わねばならなかった。《訳者注:減圧室も持ち込んだのか?》
「想像してみろよ」とカーチスはいった。「六フィート×六フィートの縦抗を三百フィート以上も潜り、その深さで、海中で穴を掘り、泥と岩を袋に入れるんだぜ、彼らは、日本人野郎が四十年台に、この穴をどうやって掘ったのだと考えもしなかったのかよ。彼らの財務記録を見ると、彼らはこのひとつの穴に百五十万ドルも費やしたんだ。俺は、彼らがレイランみたいな典型的な詐欺野郎のにせ情報に無駄な金を使うのをやめろと、彼らと大喧嘩しなきゃあならなかったんだ」。
カーチスはまた香港での陰口に驚いた。彼らは昔からの友達だと言ったが、テープの記録を聞くと、シングローブ将軍とシュバイツァー将軍は内心ではいがみ合っていたことがわかる。
シングローブは個人的に安全対策は引き受けると主張した。彼は自分が信頼する唯一のフィリピン人は、アキノ大統領内閣の情報担当大臣であるテオドロ“テディ„ロシンだと言った。シングローブは、ロシンはアメリカ大使ステッペン・ボスワースとも親密な関係であると言った。「コリーは本当に何もしない女だ」とシングローブは言った。「ボスワースと相談すること無しではね」。
シングローブは、アキノ政権との合法的な契約書を持っているので、国の所有地も含め、フィリピン国内のどんな財宝隠匿場所も掘ることができると保証した。彼はカーチスに、大統領機動部隊の便箋に書かれウイルフレド・P.サン・ジュアンが署名した許可証を示した。(後日、サン・ジュアンには財宝回収に関するどんな種類の合意書も発行する権限がないこ とが判明した。)
シングローブはマラカニアン宮殿の連中、大統領保安部隊、カバイトのマフィアのボス、特別の保安のために左翼新人民軍のゲリラ・リーダーにもわいろを贈った事を自慢した。とても多くの連中がワイロを受けたので、その噂はひろまった。その結果、大変多くのフィリピン人はニッポンスターとフェニックスの探索活動のことを知ることとなった。そして、これらのプロジェクトは皆失敗したのである。
□コレヒドールのお宝
彼らはせっぱ詰まり、カーチスに自分たちの失敗を何とかするように言った。カーチスは、どこを掘ったらいいかを教えることが出来た。そうすれば、将軍たちは回収分の一パーセントをカーチスに還元するだろう。その謝礼額はカーチスがマルコスから受けていた申し出と同じように多額である。
まず、最初に彼らは、カーチスに迅速に財宝の回収が出来、マニラとワシントンの信頼を取り戻せる、簡単な場所の情報をくれるよう頼んだ。
シングローブが実際にアキノ大統領からフィリピン共和国の領土で財宝回収をやっていいという許可を得ていると仮定して、(それはまず考えられないことだが、)カーチスは、コレヒドール島の目的の場所をほのめかした。
 彼はそこにいくつかの大きな埋蔵場所があるし、すでに明るみに出ているけれど、まだ発見されていない小さな場所もあると説明した。彼らグループの行動はマスコミから注目されていたので、動き回る先の許可は絶対に必要なものだ。シングローブは彼がアキノ政府から受けた許可書は正しいものだと主張した。 シングローブはこの回収を達成するために部下を配置した。この時までに、シングローブは三七名のアメリカ特別軍と、デルタフォース(米陸軍特殊部隊)の将校を呼び寄せていた。彼らはマニラ国際空港に二人、三人のグループで到着した。偽名と偽パスポートを使って少人数で観光に来た振りをしていた。《だから『微風のマニラから』のような空港風景だったろう。》
将軍たちが作戦を練っている間、カーチスはシボレーの販売部長としてサラリーマンの仕事を再開しにネヴァダへ帰ることにした。飛行機の中で、彼はとんでもない愚か者の船に乗り込んでしまったことに気付いた。
シングローブとフォリンジャーは違った風に魅力的だし恰好よかったが、カーチスは彼らが目的を達成できるかは大いに疑問だと深刻に考えていた。一週間後、彼はフォリンジャーから手書きの手紙を受け取った。彼のコードネーム“ジョージ„の呼びかけで手紙は始まっていた。「親愛なるジョージ、次の内容は、 私が電話で話したくないいくつかの急ぎの覚書だ。ニッポンスターの取締役会が開かれ、シングローブは予見される将来のために、フィリピン政府とは関係を持つべきでなく、公にはニッポンスターから引き離されるべきだと決定した。このことは彼にとって承服しがたいことになるだろう。 われわれはシングローブに忠実な投資家による、敵対的乗っ取りに対処することになるだろう」。フォリンジャーはカーチスに、「シングローブの現状行っている三つの金塊回収プロジェクト全てが中止されることになる」と書いてきたのだ。
フォリンジャーは、自分たちの回収した最初の相当量の金塊はベンゲッ ト社の買収するために使ったと言った。ベンゲット社は、フィリピンの一流金採掘会社で、マルコスがマイアミやナッソーに基盤を持つマフィアの助けを借りて、再精錬した金塊を輸出するために使っていた。ベンゲット社は世界の金市場へ黒の金を動かすためのPAFFのトンネル会社だった。(マッカーサー親子もフィリピン時代経営に参加している。)
フォリンジャーは、「ベンゲット社の金塊の売上の多くが、B―一爆撃機の製造やスター・ウォーズ計画の資金に使われた。結局、われわれが支配する新産軍複合体制を構築したのだ」と書いている。
この手紙に添えて、フォリンジャーは、これら全ての連中と組織の関係を示す相関図も描いていた。(CD参照)
 フォリンジャーはカーチスとその友人、バートン(彼らを「C&B引き揚げ屋」と呼んでいた。)にこの政治的計画を支援してほしいと言った。一方、カーチスは自分のために是が非でも金塊の回収をして経済的に立て直しを図りたかったのだ。それに彼はこの連中と仕事をすることにひどく不安を感じていた。てっとり早く仕事を終わらせるため、カーチスはフォリンジャーに、他の現場は止めてコレヒドール島の映画館の跡地の金塊回収を急ぐように説得した。この場所はカーチスが彼らに教えた最も容易で、最も簡単で、最も早く回収できる地点なのだ。数年前なら彼は一人で回収をやっていたぐらいだ。この地点はすべて周知の事実で、みんな知っていたので、政府所有地を掘る公式の許可が必要だった。どんな子供もそれをやる。しかし将軍たちにそれが出来たろうか。
コレヒドールのトップサイドにあったマッカーサー将軍の本部の向かい側に、爆破された映画館がある。映画館のそばの小さな隠匿場所に十八本の金の延べ棒が隠されているはずだ。もしどこを掘るべきかを知っていれば、シャベルで簡単に掘り出せるやわらかい土壌のたった十五フィートの深さにある。十八本の七十五キロの金の延べ棒は、数百万ドルの価値があった。カーチス は一九七五年にそのことを知っていた。当時、彼とマルコスはヘリコプターで観光のためにコレヒドール島へ飛んだ。その日撮った一枚の写真を見ると、映画館のそばを二人がぶらぶら歩いており、その壁は銃弾を浴びせられているのが分かる。
ビラクルシス大佐はその写真を見た時カーチスに、東京で目撃者から聞いていた面白い話を聞かせた。それは竹田皇子とイチバラ(Ichivara?)卿との会談の時のことである。目撃者は、日本海軍高級将校をコレヒドール島の本部ビルに訪ねていた。それはアメリカ軍が島を奪還するための攻撃をはじめた一九四五年二月一六日の事だったと言った。大型爆弾が映画館そばの通りに着弾し、十五フィートの深さの爆弾穴を開けた。海軍指揮官はまだ十八本の金の延べ棒を自分の部屋に置いていて、これはチャンスだと考えた。彼は事務所の職員に、金の延べ棒をその爆弾穴に降ろさせた。近くにあった小型ブルドーザーを使ってすばやく穴を埋めた。 数分後、第十一空挺師団と第五〇三落下傘連隊、コンバット・チームの落下傘部隊員が地上に降り立った。
戦闘は熾烈で、ひとりの海軍将校が殺された。 三十年後、目撃者は、爆弾穴は正確にはどこかわからないが、映画館の近くにあったことを記憶していた。
カーチスは、リーバー・グループと仕事をしていたときに、コレヒドール島に戻って太平洋戦争記念館を訪れた。ロタンダ(円形大広間)の壁には、貴重なモノクロの空中写真が展示してあり、それは一九四五年の爆撃と攻撃を示しており、それぞれは数分間隔で偵察機から撮影されていた。
 午前十時十六分の写真は、映画館そばの爆弾穴が写っていたが、十時三十八分の写真では爆弾穴は埋められていた。それで、カーチスは例の十八本の金の延べ棒がどこに隠されたかを正確に知ったのである。
この金塊のおかげでフェニックス探索とニッポンスターは、誠に厄介な財政支援者たちから解放させ、カーチスの知っている他の場所での数年にわたる金塊回収プロジェクトが可能になったのである。
 全ての準備が整った時、フェニックスとニッポンスターから十人のアメリカ人がコレヒドールに到着した。彼らは一緒に周辺を警備するためにフィリピン人の兵士を連れてきたが、彼らは大統領保安部隊から派遣された軍曹に指揮されていた。アメリカ人の中にはフォリンジャー、レーガンの部下のシュバイツァー将軍、五人の大佐、ひとりのアメリカ海軍シール部隊員(特殊部隊員)、カーチスの仲間のデニス・バートンとジョン・レモンがいた。五人の大佐のひとり、エルドン・カミングスは、エル・サルバドルで秘密工作を行ったCIAのベテランだった。他の二人は‘ロック‚ マイヤー大佐、ジェイムス・ヨーク大佐で伝説に残るような人物だった。 シール部隊員は同様に伝説的な人物のトム・ミックスで、GIMCOまたはGEOインナースぺースと呼ばれるなぞの多い会社に所属し、日本の財宝船の海上での金回収でニッポンスターと緊密に仕事をした。この連中は重要人物だった。あの日、彼らは全員トラブルに備えて重装備をしていた。映画館地点の回収作業を管理している五人の大佐と別れ、シュバイツァーはマニラ南部のアラバンにある彼らの隠れ家に戻った。
まず大佐たちは地中抵抗性感知機を取り出した。一九八〇年代までに、感知器は三十フィート下の金塊がどの辺りにあるかを感知できるようある程度進歩していたので、大佐たちは金塊がまだそこに眠っていることを知った。
ニッポンスターがマニラで最初に設立された時シングローブは闇市場で武器を買った。その中にはアルマライト製の武器や、グレネード・ランチャー(擲弾発射筒)も含まれていたが、シングローブは所持免許を取れなかった。それらの武器が盗品であることが判明したからである。彼はまた車をまとめて安く買ったが、その車も盗んだばかりの商品であることが判明した。それらの車は、マルコス秘密警察の長、フェビアン・ベールの所有であり、彼が亡命した時、車はひそかに売られ、ベールはその金を着服した。 シングローブがその車を登録しようとした時、その車は行方不明になっていた政府のものであることが明らかになった。
次の五日以上、彼らは十フィートの深さの穴を掘った。彼らは次の日には金の延べ棒に突き当たることを期待した。そしてその日の午後、突然シューと言う音が聞こえ、三機のフィリピン陸軍ヒューイ・ヘリコプターが彼らの頭上までやって来て、騒音をひびかせた。ヘリコプターには防弾チョッキを来た重装備の兵士でいっぱいだった。二機が威嚇するように空中静止している時、一機が着陸して軽機関銃を持った兵士の一団が飛び降り、一人のフィリピン陸軍の将校が続いた。将校はアメリカ人たちにぞんざいに、自分は軍隊の長であるフィデル・ラモス将軍(Fidel Valdez Ramos )から、共和国の資産であるコレヒドール島からアメリカ人を放逐するために派遣されたと言った。
 フォリンジャーは彼に、シングローブが見せびらかしていた共和国に滞在できる大統領の許可書の手紙を見せた。将軍は署名を見て、「それはホンモノではない。サンジュアンはそうした許可証を発行する権限をもっていない」と云った。
こうした出来事は、フィリピン上院のファン・ポンセ・エンリレ(Juan Once Enrile )と狡猾な詐欺師たちが、ニッポンスターはフィリピンの島々を踏みにじり、国家遺産の美観を台無しにしたと主張したことが物語っている。 一人の熱烈なジャーナリストが次のように書いている。「もし、フィリピンが自由で民主的な社会を維持したいなら、内乱を工作したCIAの深淵に落ちたくなければ、アメリカ軍の武力侵入と配置という局面に備えるなら、そして、アメリカ軍基地の保持を進めるなら、このような民主主義の敵となる運動や活動は、緊密に監視され縮小されるべきだ」と言った。彼は直ちに島を退去するよう命令を繰り返した。
アメリカ人はテントをたたみ立ち去った。シュバイツァーは彼の厳選されたチームがコレヒドール島から強制退去させられたと聞いて、怒りのあまり青ざめた。彼はレーガン大統領に電話して、レーガンにアキノ大統領と個人的に仲裁させると脅した。カーチスは、それはよい考えではないので止めるように彼を説得した。
フィリピン政府や軍部の多くの人間が、ニッポンスターの傲慢なふるまいに腹をたてていた。マニラのジャーナリストは、ニッポンスターはジョンとジョン・ハリガンによって、統一教会 の金で資金援助を受けていたことを突き止めた。きっぱりと言った。「しかし、彼は口を閉ざすことが出来なかったのだ」。カーチスがフォリンジャーに、自分は共同事業から抜け出すつもりだと伝言した時、フェニックスとエンタープライズの幹部がラスヴェガスの彼の家に大急ぎで飛んできた。シュバイツァー将軍とシングローブも一緒だった。彼らは考え直すように懇願した。ある時、フォリンジャーは内密でカーチスと話したいと頼んだ。二人は外へ出て、エアコンが効いて、ラジオが鳴っているシェビィ・ブレイザー(Cevy Blazer)の席に座った。
□GMT・KGB
「彼は、なんとしても俺を連れ戻さなければならないし、さもなければ 彼らは、俺を抹殺すると言うんだ。俺は、あんた等はCIAなのかとたずねた。彼は、そんなもんじゃないと言った。彼は、ジオ・ミリ・テック(GeoMiliTech)から脅されていて、俺をどうしても留めなければいけなかったのだと言った。 また、アグニュー(Agnew)は、彼に厄介な問題を押し付けているとも言った」。しかし、カーチスは腹を決めていた。その決定的要因は、彼が、アラバングのニッポンスターの隠れ家は、将軍シュバイツァーとシングローブと全ての大物がマニラ滞在時に住んでいたところで、その隣家はソビエ ト大使館のKGB諜報員が借りており、彼らが全てを監視し、録音していることに気付いたことにある。
「われわれは全ての窓を開いていた」とカーチスは言った。「だから、彼らは窓のそばに機械を設置するだけで、無線通信も含めてわれわれの会話がすべて聞こえるのだ。その会話はその家で解読されたのだ。この件を知り、気が狂いそうになった」。
その後の数ヶ月で、フォリンジャーは何度も何度もカーチスと接触して、彼に考え直すように頼んだ。シングローブとシュバイツァーもまた電話をした。カーチスは頑として受け入れなかった。将軍たちは自分たちを責めることはなかった。だれもがフォリンジャーを責めたのだ。
 

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