キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

十四章 ガタガタの大砲 Ⅰ フジマル キサラギジュン訳 2017

2017-05-05 20:39:47 | ゴールドウオリアーズ
  1. ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter□富士丸(Huzi Maru)
    戦争時代、メジナ大尉ゲリラ部隊で活躍したジョン・バリンジャーとロハスは友達だった。病院船を装った日本のフジ丸(Huzi Maru)がスービック湾に沈没していた。トラック部隊がその船から銅製の箱を運び出し、山の洞穴にしまわれた。後にメデナ大尉の会社が組織され、部隊はバギオの海軍病院付近のトンネルをほっくり返した。バリンジャーはそのトンネルに入り、金塊を発見している。
    バリンジャーは戦後ニューメキシコに住んでいた。そこで息子ジェーンと素人の山師をやっていた。たびたびフィリピンを訪れ、サンティにあってそのバギオのトンネルのことを話したのだ。「俺たちみたいだな」と似瓦。確かに、神田ガード下、かめますでワシと足立と似瓦は会っったことがある。埼玉からわざわざ似瓦は出てきて、われわれ(ワシと足立)に埼玉の億万長者の情報をくれたことがある。ホッピィ片手に焼き鳥を食ったもんだ。
    確かに、バリンジャーは海軍病院の裏の高射砲陣地に突撃して、手榴弾で敵を洞穴の中に閉じ込めたことを思い出していた。しかし、地形はどんどん変わっており、樹木が当たり一面を覆って、その入口がどこに在るか今はわからないのである。
    ところが、バリンジャーたちはついにお宝を見つける。その洞窟を見つけ、入り口を探し、七五キロのゴールドバーを発見する。何列ものゴールドバーの入った箱の山をマッカーサーの情報部門に報告し、潜水艦でオーストラリアに送ってしまった。(この辺、年月日、時間、場所、トン数が無いので眉唾かも知れない。)バリンジャーの息子、ジェネ(Gene)が戦後、「私の父はOSSへそれを報告した」、「それほど単純な事実証明は他にはあまり無いと思うよ」、「ほらコレが送り状のコピィだよ」と言った。
    もっと後、ジェネはこういうことも云った。「父が言うには、そのころにの日本軍はもはや尻に火がついていて、どこに隠すか混乱していたと思う。最後はバギオの海軍病院の裏山に隠した」と。「その報告は父からOSSに届けられ、ここにコピィがある」と。
    こんな風にめまぐるしく、急いでことが運ばれると言うのは、「まるでウサギの穴の世界に落ち込んで、ウソつきや脱税者や馬鹿な帽子屋とかと付き合っていくようなものさ」とホラ、著者夫妻自身が自白しているよな。
    そのころ、アメリカの戦時監視網OSSの主な活動方針は、略奪された美術品や記念物などの追跡にあり、活動の中心はヨーロッパでアジアは含まれていなかった。アジア太平洋地域では、言葉の壁、地理的条件、文化的側面の障壁があり、OSSは活躍していなかった。だからそのバリンジャー報告も消え去る運命にあった。
    だが、真相は偶然に表れるものである。OSSはヨーロッパの略奪の追跡を他の情報機関と連携してやってきていた。だが、それはかなり緊張した、お互いがライバル意識に燃えるものだった。各機関のセクト争いはナチスの財宝を「アメリカ政府の内部に持ち込んでいいのか」、あるいは「元の持ち主や国に返還すべき」かどうかについて議論百中する中で起った。財務省長官、ヘンリィ・モーゲンソー(Henry Morgenthau)はもちろん前者であり、アレン・ダレス(Allen Dulless)OSSスイス支所長は後者だった。
    サンティは一九七四年に死んだが、新聞や雑誌は、マルコスがアジア一の金持ちで既に一〇〇億ドルとか一〇〇〇億ドルの資産を保有しているとはやし立てていた。マルコスの方も「私は山下トレジャーを発見したんだ。そのせいで金持ちなんだ」と非公式に発表していた。良識ある人は誰もそれを信用しなかったが、多くの人間が彼の別荘やマラカニアン宮殿で金塊の山に遭遇したと云うので、フィリピン人の半分(すなわち年中失業している男たち)は信じていたのかもしれない。だからウソじゃないと思う者もたくさんいたのだ。
    □シングローブ将軍
    シングローブ将軍、CIA長官で「冷戦の戦士」と言われるシングローブは、サンタ・ロマーナのお宝発見と預金に深く関与していた。シングローブは確かにこう言うのだ。「マルコス大統領の財産の内、少なくとも一二〇億ドルは山下・ゴールドから来たことは確かだ。保証するよ」と。
  2.  
    一四章 ガタガタの大砲(LOOSE CANNONS)

    ロバート・カーチス(本名はカーターだと思うが)がマルコスの宝探しに付き合って相当、まいったのは良くわかる。しかし、カーチスはタフで頑丈だった。
    ロバート・カーチスはフェルディナンド・マルコスとの金の探索に関係したことで大きな代償を支払った。しかし、カーチスは頑固に戦後明るみになる日本軍の財宝地図の唯一のフルセットを、今でも持っていた。
    ゆっくり自分の転落人生を元に戻そうと、彼はスパークスからラス・ベガスへ転居し、そこで大きなシボレー販売特約店の販売部長になった。暇なときに、彼は地図を調べ、ゴールデンリィリーの地図製作者が暗号化した謎の多くを解明し、次に(次があればの話だが)どのようにして金塊回収に取り組むかを決定した。
    だから一九七八年のある日、電話が鳴った時、彼は自分に幸運が巡って来た事をなかなか信じられなかった。信頼している彼の知人が、カーチスに外国の外交官と会うように依頼してきたが、その外交官の政府は、フィリピンで、大掛かりな秘密の戦争金塊の回収に対する支援を望んでいた。
    待ち合わせの場所はラス・ベガスホテルで、カーチスは西の大国の「首相」と直接の接点を持った。「首相 」は潜水艦を含むすべてを準備しており、半々で山分けしようと申し出てきた。われわれが、その国の名前も、首相の名前も明かさないという条件で、カーチスは以下のことを詳しく話した。(訳者注、参考までに、当時の日本の首相は福田十二月まで、と、オオヒラだ。「首相」は初期のマルコスの金回収活動も、カーチスが演じた重要な役割についてよく知っており、カーチスに、潜水艦による深夜の金塊回収に適した場所を選ぶよう依頼した。カーチスはコレヒドール島を選んだ、そこに三ヶ所の大きな貯蔵所があることを知っていたからだ。)
    国際的な紛争を避けるため、首相直属の海軍は、部下を海辺に配置して貯蔵庫を開ける様なことはしなかった。なぜなら、海辺に配置するだけで部下は逮捕される可能性があるからだ。一台の巡洋艦は南シナ海の国際水域のルゾン沖に停泊した。その潜水艦は海岸にかなり近づいたが、特殊部隊がゴムボートを出し、海岸から金の延べ棒を回収する夜まで水中に潜ったままだった。貯蔵所を開けるのも、金塊を海岸に運ぶのもカーチスまかせだった。
    マルコスはなおも権力を持っていたので、カーチス自身はマニラへ行けなかった。なぜなら彼は逮捕され、殺害されるだろう。そのかわりに、彼は数人の部下を送り金塊を発見させて海岸に金塊を運ばせることにした。そして彼の部下たちは潜水艦から送り出す事が出来た。
    「これはわくわくすることだった」 とカーチスはわれわれに言った。「私はマルコスには腹を立てていたから、これで五分五分になるわけだ。 でも、その辺の事情については、決して話すこ とはできないだろう」 だが、金持ちになることで、多くの傷は癒されるであろう。
    「私はコレヒドール島の南 端を選んだ。 そこはオタマジャクシ型の島の頭部にあたるとこだ。 と言うのは、潜水艦には海が深くて都合がいいからだ。大変狭い海岸に向かって断崖を下りるため、私の部下たちはふたつの峡谷のひとつを横断しなければならなかった」。
     満潮時に海岸は水面下に沈んでいるので、いいタイミングをはかることは、非常に重要なことだ。特殊部隊がゴムボートで近づくには、月の光がない夜で干潮時である必要があった。
    コレヒドール島はマニラ湾の入り口で、バターン半島沖にあった。バターン半島のマリベレスにマルコスは避暑用の宮殿を持っていた。島は東西に広がり、西側のオタマジャクシの頭の部分をトップサイドという。低地で東側のしっぽの部分は、ボトムサイドと呼ばれた。コレヒドール島の住人はボトムサイドのサン・ホセの町に住む六人だけだったが、毎朝観光船がマニラから到着する。
    狙いの場所として、カーチスは旅行者用に踏み固められた小道のはずれにあるモルタルの砲床、クロケット砲台の下にあるコンクリート製の防空壕を選んだ。アメリカ沿岸警備隊は、千九百一年にこれらのモルタル砲床を建設していた。コンクリートの厚板の下に、交差するふたつのトンネルが最初は軍用品の倉庫として使用された。
    千九百四十二年のバターンとコレヒドール防衛戦の間に、一斉射撃によるクロケット砲台への直接の着弾により、火薬庫は吹き飛ばされ、多くの防空壕が破壊された。日本軍が支配権を手にした後で、秩父宮は破壊された砲床の下のコンクリートに裏打ちされたトンネルを見て、そこに金の延べ棒(六十五ポンド、約三十kGのバー)を隠すことを決め、六フィート(一.八m)の厚みのコンクリートで覆い、元のままの砲床に見えるようにした。クロケット砲台が爆破されたことを誰かが覚えていることなどありそうもなかった。
    冶金化学者として、サーマイト(テルミット)を十分に強化できれば、それを使ってコンクリートの厚板に人間サイズの穴を焼ききることが出来る、とカーチスは考えた。サーマイトはアルミニウム粉と酸化鉄粉が等分の簡単な化合物である。ひとたび着火すると、大体三千℃ぐらいで燃焼する。サーマイトは第二次世界大戦の間、焼夷弾としても使用された。今日では、サーマイトは防壁を貫くため、あるいは熱感知ミサイルに対する熱おとりとして使用される。
    サーマイトを着火するのはかなりの熱が必要だ。最も簡単な方法は、 線香花火を着火するためのマッチを使うことだ。それはサーマイトを着火させるに十分な熱で燃える。
    ネヴァダ砂漠で、カーチスは六フィート厚さのコンクリート厚板を使ったテスト台を手配し、普通のサーマイトでは時間がかかり過ぎることを確認した。彼は他の配合物を加え、サーマイトを強化して、五千℃近くで燃える化合物を手に入れた。「こ いつは、四十分で六フィートの厚みのコンクリート板を焼き切り、一人の人間が這って入れるだけの大きな穴を開けることが出来た」、と彼は言った。
    カーチスは二人の男だったら金塊を発見し、浜辺まで運ぶことが出来ると考えた。彼は二人の男を知っていて、二人はこの仕事に適任のようだったし、彼らはやる気まんまんだった。二人とも“ボー„グリッツエ大佐と特殊部隊にいたので、カーチスは、彼らなら何とかやれると考えた。
    「一人は大柄の男くさい軍人タイプだった。ラスヴェガスの大会社で保安部の主任だった。彼には、ラスヴェガスの元保安官の息子で似たような経歴の友人がいた」、とカーチスは言った。
    彼らをゲーリーとマイクと呼んで置こう。二人は強化したサーマイトの使用法を学ばなくてはならなかったし、峡谷のあちこちを何度も行き来し、浜辺まで金塊を何とか運び出すことが出来るよう、肉体的に強化する必要があった。この仕事のために、カーチスは馬具職人に二つの頑丈な金の延べ棒をかたどったリュックサックを作らせた。何週間にわたる激しい訓練の末に、ゲーリーとマイクは、一度に二本の金の延べ棒を何とか運べるようになったと判断した。強化サーマイトが入ったふたつの二十五ポンドのバッグは、たくさんの予備を持っていたんだろう。 サーマイトは発火装置なので、飛行機では運ぶことはできなかったのだから。そこで、特別強化混合物は外交文書用の封印ポーチに入れられてマニラに運ばれた。
    ゲーリーとマイクは、コレヒドールの熱帯雨林の小さな所で二週間生きるのに必要なすべてを集めた。つまり、マシェティ(なた)、食料と水、ハイテク寝袋、防蚊ネット、薬、コブラ毒血清などである。二週間あれば、金の延べ棒を運び出して、西の大国の首相を満足させれるはずだった。
    フィリピン入国の口実として、カーチスはゲーリーとマイクが、福音伝道の任務にはじめて就くモルモン教の伝道師であるという人物証明書を手に入れた。二人は飛行機でマニラに飛び、安全な外交エリアである大使館邸に泊められた。
    二人は調査のため、コレヒドール行きの遊覧船に乗った。砲台付近には彼らが考えたとおり、人はいなかった。他の観光客と一緒にマニラに帰り、二人は道具類を集め、外交官にバターンまで車で送ってもらった。 そこはコレヒドール島の向かいにあるカブカベンと呼ばれる港町で、二人は明るく塗装されたアウトリガー(船外浮材)と、手ごろサイズで、 船外モーター付のフィリピンの小船であるバンカを借り、雇われ船長なしで小船を使えるよう高額の前金を払った。二人の道具類を積み込んだら、バンカは荷物の積み過ぎのようだったが、そのオーナーは大丈夫だと保証した。二人はオーナーにはキャンプに行くのだと説明した。
    潜水艦で彼らを浜のほうまで運ばせ、ゴムボートに乗せたほうが賢明だったろうが、ある理由でそれは考えられなかった。
    暗くなる一時間半前に、ゲーリーとマイクは目的地のコレヒドール島へ目盛を適当にセットし出発した。そこに着くには一時間かかった。彼らは漁師のように海上を動き回り、闇がやって来た時、急いで海岸に向かった。
    ゲーリーとマイクは兵士であって船乗りではなかった。彼らは海については殆ど知らなかった。漁師なら誰でもソッド法を知っている。状況が悪くなるなら、それは悪くなるのだ。(マフィーの法則のことだ。)
    マニラ湾からの流れる強い潮があるから、彼らは目的地へまっすぐ向かうべきではなかった。彼らは潮に向かって進むべきだったし、潮に彼らの目的地まで運ばせるべきだった。マニラ湾の入り口で潮に逆らって進むことは、 船外機のモーターでは大変なことだとわかった。しかも、モーターが動かなくなってしまった。バンカは南シナ海の大きな波のうねりで遠くまで流され、彼らは必死にモーターを再起動させようとした。
    いくつかの砕ける波が、船べりから彼らを襲った。彼らの低い幹舷を水あぶくだらけにした。
    殆ど彼らを水浸しにし、リュックサックもサーマイトも流れ去ってしまった。このエリアは悪名高い鮫が、大都会マニラからどっと流れてくる犬の死骸や生ゴミをあさって食べるところで、二人の男はひどく怖がった。ボートを軽くするため、彼らは装備の残りを捨てた。
    幸運にも、その時モーターは息を吹き返した。彼らはバンカをターンさせてバターンへ引き返すことが出来たのだった。真夜中過ぎ、 彼らはよろめくように浜へたどり着き、電話を見つけ、
    ネヴァダにいるカーチスを呼び出した。 カーチスはびっくりし、そしてがっかりした。彼は仕事を打ち切ろうと主張したのだが、ひとたび陸地に戻ったゲーリーとマイクは、恐怖から快復しつつあり、面目を保つことを必要とした。
    彼等は星型ドリルと大ハンマーを使いコンクリートの厚板に穴をあけようと主張した。カーチスはうまくいかないことを知っていたが、ゲーリーがどうしてもと主張し、しぶしぶ承知した。ゲーリーとマイクにとり、ショックと失望がとても大きかったため、外交官がより強化されたサーマイトを運んでくる間、二人がおとなしくしていることはできなかった。
    マニラに帰って、ゲーリーとマイクは新しい備品と道具を買い、ふたたび手数のかかるバンカを借りた。今度はバンカをコレヒドールに向けたのである。カーチスが予想したように、コンクリート板に穴を開けることは絶望的だとわかった。二日間で彼らはたった三インチの深さの穴を開けただけだった。彼らは再びバターンからカーチスに電話をして、もうお手上げだと言った。カーチスはワシントンの大使館に電話をして首相に言葉を告げた。バターン沖に潜水していた潜水艦は母港に呼ばれた。
     すべての金塊回収の努力が失敗に終わったわけではない。うまくいった発見は一九八〇年台にたまたま起こった。日本人グループはよく組織されており、秘密をしゃべらなかったので、彼らの情報管理対策は良かった。ひとつのグル-プは、われわれがトシと呼んだ東京郊外に住む一人の男に率いられていた。彼は戦争最後の年にゴールデンリィリーに従事した諜報員で、その時、彼は二〇代前半であった。トシは自分の名前をCIAに明らかにしないという条件で彼の情報を話した。
    取引での手数料を払ってもらったノーマン・「トニー」・ダカスによると、週に六十トンの金塊がクラーク基地から米空軍の飛行機で香港へ、運ばれた。最初の運搬分だけでも、マルコスがこれまでに行った最大級の取引のひとつだった。
    □トシ
    一九四四年から一九四五年にかけて、彼は秩父宮、三笠宮、竹田宮、南京事件の虐殺者である朝香宮鳩彦(やすひこ)と、しばしば一緒 にいたと言った。トシはベン・バルモレスが皇子の所へ、お茶や紙巻タバコを運んでいるのを見たと言ったし、その間、彼らはゴールデンリィリーの場所を見て回っていたのだ。戦後、トシは大学に戻り、父親からの財産を相続した。ハンサムで国際人、英語もフランス語も堪能なトシは、隠匿を手伝った金塊の回収に生涯をかけようと決意した。彼はマニラ郊外の庭付きの小さな家を買い、ひたむきな熱心さと、完璧な秘密主義で、彼の回収作業にとりかかった。彼の息子が大学を卒業すると、東京での金ビジネスを開業させた。
    一九八一年に、トシはサンタ・マリア連山の金塊貯蔵所から大量の回収をした際、マルコス大統領と関与した日本人グループの中の一人だっ た。その金塊はジョンソン・マセイ・ケミカル社により、マルコスが一九七五年にカーチスから盗んだ設備でこしらえた精錬所で処理された。マルコスが一九八三年五月に、ルクセンブルグにある一流の国際銀行を通して、多量の金塊を売った時、トシは自分が回収した金塊も含まれていると言った。
    最初の販売分だけで七十一万六千四十五本の金の延べ棒で、売価は千二百四十億ドルであった。取引は、仲買人を代表する大勢の弁護士により署名されたが、彼らはロンドン金プールのメンバーだった。フィリピン大統領のレターヘッドのついた便箋に書かれた合意の覚書は、マルコス家が信頼した金塊を扱う婦人の一人、コンセハラ・カンデラリア・サンチアーゴによって署名されていた。(を参照)ヤモンド、多量のチタニウムや他の戦略的物質を載せていた。
    飛行士、スコット・カーペンターとチャールズ・リンドバーグの息子トシはルクセンブルグの取引から分け前を使い、日本で不動産を購入した。いろいろ購入したなかで、彼は東京郊外の鉄道駅の向かいにある高価な土地を購入して大きなアパートを建設し、その最上階には親族の全てを住まわせた。そして、その他の階をすべて賃貸にした。彼はアメリカに旅行をして、フィルター・キング・プラスを含む、地中の金属を探査する電子機器や地中スキャナーを購入したが、手の切れそうな新しい百ドル札の大きな札束から全ての代金を支払った。
    親切でのんきなトシは、いろいろな住居の前にいる自分が写っているカラー写真を取り出して満足していた。われわれはこれらのカラー写真の幾枚かを持っているが、その複製を作れば必ずトシが誰かを特定することができるだろう。
    おまけに沖での発見もあった。一九七六年、カーチスは中国沖に沈んでいる偽の日本病院船「阿波丸」を引き揚げて金を発見しようとするアメリカ人グループと接触した。「阿波丸」 は一九四五年四月に米軍の潜水艦「クイーンフィシュ」に沈没させられた。潜水艦の艦長、チャールズ・エリオット・ローリン司令官は軍法会議にかけられた。というのであるジョンリンドバーグは海軍公文書の中で、沈没はどこで起こったかを正確に示している潜水艦の航海日誌のコピーを見つけ、さらに、当時も健在であった潜水艦の上級職員と共に、その事実を確認した。 沈没船は中国の領海の近くに沈んでいたので、中国政府と取引をし、共同事業を実行し、回収された財宝を山分けにしようとしたが、うまくいかなかった。彼らが自分たちで引き揚げ作業を始め、場所を正確に突きとめた時、彼らは中国海軍によって場所から追い払われた。中国政府はそれから回収作業を独力で行ったのだ。
    もっと面白い発見はオランダ客船、オプ・テン・ノート号の発見である。ジャワ沖でのこの船の捕獲は五章で述べられている。この船の名前は天王丸・氷川丸などと数回にわたり変えられた。オプ号は戦争の後半にはゴールデンリィリー作戦の業務につくため、病院船として時を過し、マニラ・横浜間で財宝を運んだ。戦争が終わる直前に、オプ号は二千屯の金を積んで横浜に到着した。数日後、オプ号は日本の西海岸にある舞鶴海軍基地に移された。舞鶴は殆ど陸地に囲まれた湾なので、そこに沈められたどんな船も、強い海流や津波により動かされなければ、沈んだ場所の近くに残るということを意味していた。 そこでオプ号は、海軍基地付近の丘にある地下壕からさらに多くの財宝を積み込んだ。ある夜の遅い時間に、オプ号は湾内に引き出され、船長と二十四人の乗組員は殺害され、船はキングストン・バルブを開けられ、船体は水にあふれた。殺害者たちは日本海軍の高官グループで、この財宝を自分たちで保持したいと願っていたのだ。彼らは、いつの日か帝国海軍の力を再構築するために財宝が使われると自慢げに言った。
    戦後、阿波丸が偽の病院船で、軍需品や木枠に入れた戦闘機、重要人 物の家族を南太平洋へ運び、戦争略奪品や、重要人物を日本に運んでい たことを示す記録が発見されたときに、ローリン司令官の正当性が立証された。
    実際、沈められた時には、阿波丸は五十億ドルの価値のある財宝を運ん でいた。阿波丸は四十トンの金、プラチナ十二トン、十五万カラットのダイヤを積んでいたと言われる。
    一九八七年、オプ・テン・ノート号の回収作業は、この高官グループの残った生存者たちが、ヤクザの黒幕で、一九三〇年代から一九四〇年 代に児玉と仕事をしていた笹川に近づいた時に出だしでつまづいてし まった。笹川はその後、インドネシアとフィリピンで、スカルノ大統領やマルコス大統領と協力して財宝を回収することになる。
    水中の回収専門家と、深い潜水に必要な機材が苦労して集められた。 しかし、笹川の分け前をめぐる争いが原因で話し合いは決裂してしまっ た。
    一九九〇年にモリチョー社製の巨大な海上用起重機を所有する日本 の大企業も参加して回収作業は再開された。またしても、深海の回収作 業における国際的な専門家が集められた。
    彼らはディヴィコン・ インターナショナル社所有の潜水艦を用意し、 トレンス・タイド号と呼ばれるオーストラリア製の回収船に積み込んで運んだ。トレンス・タイド号は、シドニーにあるタイドウオーター・ポシンブローブは、数十年の間軍事独裁政権をバックに、とりわけ芳しくない評判をたてられた韓国CIA(KCIA)の設立に関与していた。 シンブローブは長いCIA勤めのなかで、テッド・シャクリーやクライン、ランズデールを含む、全ての最も有名な冷戦主義者たちと一緒に仕事をした。一九七〇年代に彼は、韓国におけるアメリカ軍最高軍司令官であったが、その時、ジミー・カーター大統領といくつかの世論に対する基本的な意見の相違があり、彼は早期退職を余儀なくされた。
    彼は極右ではヒーローのままで、世界中の血で汚れた体制を支援する PMFsの軍補助的代理人の一人だった。ランズデールやクラインのようなエンタープライズにいる彼の元CIAの仲間たちは、一九四〇年代サンタ・ロマーナの回収、一九七〇年代のマルコスの回収について全て を知っていた。
     回収作業の参加した者はわれわれに言うには、「財宝は無事にトレンス・タイド号に積み込まれ、 参加した日本人がその晩、 お祝いに海岸でお祭り騒ぎをしていた。
    彼らが騒いでいる留守中に、そのオーストラリア船はこっそりと錨を 揚げ、財宝を積んだまま公海へ出て行ってしまった。船がいなくなった と判ったのは日の出前のことだった」と語った。
    この三〇年間で良く知られた財宝ハンターはジョン・シングローブ将軍のニッポン・スターグループで、PMFsSのエンタープライズ組織のひとつである。シングローブは太平洋戦争の終わり近くに、パラシュー トでハイマン島に降り、日本軍の強制収容所から数百人の連合軍捕虜を解放し、国民的英雄となった。
    ニッポンスター探査会社と呼ばれる二つのPMFssがマニラへ金塊探索のためにCIAの情報と協力をもとにやって来た。ニッポンは香港で法人化され、フェ ニックスはロンドンで法人化された。リベリアに・登録されているヘルムット貿易と同様、両社はコロラドに拠点を置き、フェニックス・アソシエイツと密接につながっていた。フェニックス・アソシエイツは「未来の兵士」マガジンの発行人で、シングローブと親密な友人で隣人である ロバート・ブラウン大佐によって設立されている。
    シングローブは言った 、「本来なら、埋蔵財宝の回収計画に関心など持たなかっただろう。しかしニッポン・スタグループは愚直な海岸の物あさりではない。そして、私は過去の経験で、フィリピンに埋蔵されてる日本の金塊の話はホンモノだと知っていた」
    一九八〇年代半ばを通し、多くの新聞記事は、ニッポン・スターが行ったフィリピンでの財宝発掘作業が幸運に恵まれず、失敗したことを明らかにした。カーチスは彼等をショールームの外に放り出そうとした時、フォリンジャーが時計を指差し、「三分以内に国防総省の電話交換台から、たいへん重要な電話を受けるだろう。その電話で、これがどうしてこんなに重要なのかを説明されるだろう」、と言った。
    九時きっかりに電話が鳴り、カーチスは陸軍補ロバート・L.シュバイツァーと話すことになった。シュバイツァーは、ホワイトハウス近くの エグゼクティブ・オフィス・ビルにある国家安全保障会議(NSC)で、レーガンの上級軍事顧問をしていた。一九八六年、イランコントラ武器ス発掘失敗が続いたため、彼らの資金支援者たちは、ロバート・カーチィスを呼ぶことを提案した。
    □「フィリピンの財宝」
    フォリンジャー一九八七年一月の初め、カーチスはシアトルのアラン・フォリンジャーという名の人物から電話を受けた。フォリンジャーは「フィリピンの財宝」についてカーチスと会って話したいので、翌朝ラスヴェガスへ行きたいと言った。
    「それをどうして知っているのだ」とカーチスは言った。
    「私はジャック・シングローブやニッポン・スターと一緒に仕事をして いる」、とフォリンジャーは言った。
    キャンダルが発生した時、現役勤務から退き、エンタープライズ組織でシングローブの仕事に加わった。しかし、彼はまだNSCのビルに事務所を持っており、レーガン大統領が軍事面で助言を求める人物であり続けた。 シュバイツァーはNSC時代の副官、ディック・チルドレス大佐を通じてNSCと関係を維持していた。ディック・チルドレスは極東担当大臣の地位にあった。この集団には他の人間として、防衛情報局の元局長ダニエ ル・グラハム将軍、統幕事務局の元会長ジャック・ベッセイ将軍、ジョージタウン大学の戦略研究センターを率いる元CIA副長官レイなどがいた。
    「君らはCIAだろう。私には興味のない話だね」とカーチスは言って、受話器をたたきつけた。
    翌朝、カーチスが九時前にシボレー販売代理店に仕事で到着した時、彼のオフィスに、二人の男、フォリンジャーと彼の次席のジョン・デンバーが待っていた。 彼らは、実際はニッポン・スターと共同事業をしている、デンバーのフェニックス調査会社と呼ばれる団体であると言った。後にカーチス が言うには、フェニックス調査会社はCIAの隠れみのであり、フォリンジャーは本当はマニラのマグサイサイビルにあるCIA局の管理長カーチスが言うには、シュバイツァー将軍は、いまエグゼクティブ・オフィス・ビルから電話をしていると彼に告げた。シュバイツァーは、レー ガン大統領は(隣の部屋にいる変な老人だが、)フィリピンの戦争略奪品の回収をしようとするニッポン・スターとフェニックス調査会社の取り組みを是認しているという。ホワイトハウスとCIAは否認権を維持しなければならないので、レーガンはその計画に公式の認可を与えることができないが、シュバイツァー将軍が言うには、スービック湾海軍基地とクラーク空軍基地の司令官に加え、前もってマニラのアメリカ大使館にも指令が十分に伝えられている。司令官たちは兵士ヘリコプターの形で 支援をし、地中の防空壕の中の金塊の保管を引き受けたのだという。
    シュバイツァーはカーチスの愛国主義につけ込み、シュバイツァー、フォリンジャー、ヴォス、そして他の大物たちと香港で会うように急き 立てた。まさにその朝、レーガンはコーリー・アキノ大統から、「百%協力する」というメッセージを受け取っていたとシュバイツァーが言った。
    カーチスはジョン・バーチ協会や、マルコスや、バーチャーズと共謀しているアメリカ政府機関にはひどい煮え湯を飲まされていたので、こうした連中の誰とも何もしたくはなかった。 一九七五年以来、彼はフィリピンからマルコスの金塊を動かす際の、CIAとエンタープライズの関与について多くを知っていた。彼はこうしたことの証明を満足するだけの数千ページの書類を集めていた。彼はふたたびひどい目に遭わされるのではないかと不安な気持ちを抱いた。しかし、彼は愛国主義者であり、もしこのことで彼が経済的に立ち直ることが出来るのであれば、リスクを冒す価値はあった。
     少なくとも、彼は将軍たちが言うべきことや、レーガン大統領が将軍を通して言わねばならなかった事を聴くことができた。カーチスはしぶ しぶ同意をして、一九八七年二月十一日、香港のマンダリンホテルにチェックインし、そこに連中が待っていた。彼は国内税収サービスの主席犯罪調査官だ。もし、誰かがカーチスは今回間違って告訴されることはないと保証するとしたら、それは、バートンだろう。 週の終わりに、彼らのもとにオロフ・ジョンソンが参加した。彼はスウェーデン人の霊能者でカーチスが絶対必要だと考えた人物だった。
    会議が始まった時、シングローブは仲間に自分たちの最大の危険は、日本に略奪された国々が、戦争略奪品のこれ以上の回収を真の所有権が確立するまで、世界裁判所に凍結をさせるべきだと結束することだと言った。 合計三十二ヵ国が、数千トンの金塊を収奪されたと主張していると彼は言った。彼はどこでこれらの数字を知ったかを言わなかったが、彼のグループは、一般国民が見ることができないアメリカ政府の書類を見ていたのだ。
    カーチスが驚き、怒り、失望したのは、シングローブがニッポン・スターへの資金援助を、ジョン・バーチ協会に引き受けるよう説得していたことだ。
    フォリンジャーにカーチスを引っ張り込ませたのは、ジェイ・アグニューの息子のダンだった。フォリンジャーのカーチスへの最初の電話は、シアトルのアグニュー法律事務所からのものだ。このことは全く奇妙なことで、一九七五年に経済的に、そして職業的にカーチスを破滅させ、彼を刑事罰に追い込んだのはアグニュー家だったのだ。それは十二章で述べた通りである。カーチスを破滅させていたが、アグニュー家は、もしシングローブとフォリンジャーがカーチスを仲間に組み込み、彼の地図と四日間彼らはホテルの会議室で会い、一緒に食事をした。カーチスは分析技術を活用できれば、ニッポンスターのフィリピンでの回収作業に資援助するだろうとシングローブに伝えた。
    今回、自分を守るため、会議のはじめから終わりまでの全てを録音すると主張した。(彼 は全てのテープのコピーをわれわれに渡しており、以下に 述べる多くのことをわれわれは知ることができた 。)再び騙されな いよう、 カーチスは自分のパートナーとしてデニス・バートンを連れてきた。
    「アグニューは俺の人生を台無しにしたんだ、」とカーチスは言った。
    「そのくせ奴らは俺の助けを求める。あなたたちは、そんなことを許せると思うか。俺は二〇世紀最大の犯罪者、もしくはそんな意味の言葉で呼ばれてきたんだ。もし、それでも協力するなら、俺は本当に大馬鹿野郎だ。 一九七五年にフィリピンから帰ったときまったくの無一文だったし、現在 も無一文のままなんだぞ」
    シングローブ、シュバイツァーの両将軍は、香港のマンダリンホテル でカーチスと取り組む間、アグニュー家の関与をごまかしていた。
    彼らはカーチスに、大掛かりな回収をするための最良のチャンスを申し出ているのだと言った。その回収には、レーガン大統領、アメリカ政府 がずっと支援しており、アメリカ大使館やスービック基地やクラーク基地の司令官も支援している。それ以上の事はできないだろうと、彼らは言っ た。この連中は大物たちである。それは力強い口調だった。一九七五年、全てのアメリカの組織は大型のマックトラックのようにカーチスに迫り、 同じ組織が、秘密の地図と特別の情報を使えるよう、路上轢死動物のよう にこびへつらい、強く要請をしてきた。カーチスは気分が悪くなったが、 ここまで来た以上、しぶしぶだがその成り行きを見てみようと決めた。
    彼はとりわけシングローブは好んだが、彼らをみんな馬鹿だと思った。 シングローブは先の一三ヵ月間に、二百万ドル以上を使い、数ヶ所で財宝回 収を試み、失敗したことを認めた。彼は、二人の案内人、ドクター・シーザー・レイランというフィリピン人歯科医とその親友ポル・ジーガに、問題の場所へ案内してもらった。二人はニッポン・スターに信頼できるもの だと主張して地図を与えていた。カーチスは地図を見て、すぐにそれが ニセモノだとわかった。カーチスはポル・ジーガと一九七五年に仕事をしたことがあったし、ジーガが戦中からの日本の財宝の埋蔵場所について直接 情報をいくつか持っていることも知っていた。しかし、レイランを信頼することは全くなかった。もし二人が一緒に仕事をし、こんなニセモノの地図を悪用したとすれば、彼らはお人よしの将軍を簡単にだましていたことになる。しかし、二人のアメリカ人の将軍に、おまえらは馬鹿だと、どのように伝えるというのか。
    アラン・フォリンジャーはまじめで三〇台半ばの見栄えのする、かなり教養のある男であるが、彼はカーチスに言った。「最初のわれわれの作戦は、海の下のわれわれが支配している小さな埋蔵場所から個人な財産を探り当てる ことだ。そして、その中から金の延べ棒を一本取り出して、コリー(コリ ー・アキノ大統領)に見せることだ。そうすれば、われわれは他の埋蔵場所に ついてアキノ政府の十分で完璧な探索と回収の許可を得るはずだ」。
    問題はこの場所が、カリタガン湾の礁にあるアンカー地域だとカーティ スが気付いたことだった。ジーガとレイランは、数年にわたりだまされやすい人々に、ブルックリン橋を売るかのごとく、情報を不当に売りつけていたのだ。
    この二人の詐欺師たちは、無垢のプラチナで出来た錨が、日本海軍港の突端から押し出され、金の延べ棒がつまった銅箱を鎖で繋ぎ礁に沈めていると主張した。カーチスはこれがウソだと知っていたが、自分たちは二人 組みの詐欺専門家に騙され、金を巻き上げられていることを、冷戦主義者 ジョン・シングローブのような男に言うすべを知らなかった。
    ニッポン・スターのダイバーが礁で何も発見できなかった時、ジーガは、錨と銅箱は「岩の裂け目に滑り落ちたに違いない」と主張した。財宝を覆 っている日本軍のコンクリート厚板は硬くて突き破れないし、潮の流れは ニッポン・スターの潜水台を動かし続けたと投資家達に説明をした。
    あるとき、カーチスは将軍たちに錨の場所について騙されていたと認めさせ、彼らが仕事をしている陸上の場所について教えるよう強く求めた。 将軍等はカバイトはずれの町であるアルフォンソのこの場所へ、シーザー・レイランに連れてきてもらっていた。レイランは財産家だ。フォリンジャーがそのことを述べた時、カーチスは自分の耳が信じられなかった。 レイランはニッポン・スターに、自分が少年のとき日本軍が隣家の下に掘った深い穴に財宝を隠すのを見たと言っていた。その家もまたレイラン家の所有だったのだ。のぼせ上がった将軍たちは、レイランに多額の月々の情報料をあたえ、掘り始めたのだ。何も見つけられなかった時、穴はもっと深かったと考え、さらに掘り続けた。一三ヵ月以上かけて、台所の下を まっすぐ四百フィート掘り下げ、泥を袋に詰め、夜にそれを運び去ったので、多くの隣人は何が起こっているのか知る由もなかった。この時までに 将軍たちはかなりの金を使っていたので、あきらめることは出来なかった。 地下水位は百フィート下だったので、次の三百フィートは海面以下を掘らなければならず、将軍たちはアメリカ海軍から深海専門のダイバーを連れてこなければならなかった。そうした深さでは、ダイバーたちは上に上がる度に、減圧室を使わねばならなかった。
    「想像してみろよ」とカーチスはいった。「六フィート、六フィート の縦抗を三百フィート以上も潜り、その深さで、海中で穴を掘り、泥と岩を袋に入れるんだぜ、彼らは、日本人野郎が四十年台に、この穴をどうやって掘ったのだと考えもしなかったのかよ。彼らの財務記録を見ると、彼らはこのひとつの穴に百五十万ドルも費やしたんだ。俺は、彼らがレイランみたいな典型的なにせ情報に無駄な金を使うのをやめろと、彼らと大喧嘩しなきゃあならなかったんだ」
    カーチスはまた香港での陰口に驚いた。彼らは昔からの友達だと言っ たが、テープの記録を聞くと、シングローブ将軍とシュバイツァー将軍は 内心ではいがみ合っていたことがわかる。
    シングローブは個人的に安全対策は引き受けると主張した。彼は自分が信頼する唯一のフィリピン人は、アキノ大統領内閣の情報担当大臣であるテオドロ“テディ„ロシンだと言った。シングローブは、ロシンはアメリカ大使ステッペン・ボスワースとも親密な関係であると言った。「コリーは本当に何もやらない」シングローブは言った。「ボスワースと相談すること無しではね」。
    シングローブは、アキノ政権との合法的な契約書を持っているので、国の所有地も含め、フィリピン国内のどんな財宝隠匿場所も掘ることができると保証した。彼はカーチスに、大統領機動部隊の便箋に書かれウイル フレド・P.サン・ジュアンが署名した許可証を示した。(後日、サン・ジュアンには財宝回収に関するどんな種類の合意書も発行する権限がないことが判明した。)
    シングローブはマラカニアン宮殿の連中、大統領保安部隊、カバイトの マフィアのボス、特別の保安のために左翼新人民軍のゲリラ・リーダーにもわいろを贈った事を自慢した。とても多くの連中がワイロを受けたので、 その噂はひろまった。その結果、大変多くのフィリピン人はニッポン・スターとフェニックスの探索活動のことを知ることとなった。
    フォリンジャーは知的で理性的だったのに、全部隊には命令を出してい なかったとカーチスは言った。そのため、将軍たちに怒鳴りつけられ、 黙ってしまったのだ。彼らはフォリンジャーを詰問し、彼を厳しく責めた のだろう。
    彼らはせっぱ詰まり、カーチスに自分たちの失敗を何とかするように 言った。彼は、どこを掘ったらいいかを教えることが出来たし、そうすれ ば、彼らも回収分の一パーセントは与えただろう。その謝礼額はカーティ スがマルコスから受けていた申し出のように多額である。
    まず、最初に彼らは、カーチスに迅速に財宝の回収が出来、マニラとワシントンの信頼を取り戻せる、簡単な場所の情報をくれるよう頼んだ。 シングローブが実際にアキノ大統領からフィリピン共和国の土地で財宝回収をやっていいという許可を得ていると仮定して、(それはまず考えられないことだが、)カーチスは、コレヒドール島の目的の場所をほのめかした。 彼はそこにいくつかの大きな場所があるし、すでに明るみに出ているけど、本気でめざし、世界の金市場に売りつける新フィリピン(PAFF)を設立しようとしていた。
    □ニッポンスター
    ニッポン・スターは、CIA、国防総省、国務省、国家安全保障会議出身の超愛国主義者(シングローブやシュバイツァーのような連中)のクラブとして存続する。しかし、その主要な目的は、現実に起こっていることから関心をそらすことにあった。そこで勇者たちは、戦争略奪品の回収を簡単な小さな場所もあると説明した。彼らは確かに注目されていたので、許可は絶対に必要なものだ。シングローブは彼の許可は正しいと主張した。 シングローブはこの回収を達成するために部下を配置した。この時までに、シングローブは三七名のアメリカ特別軍と、デルタフォース(米陸軍特殊 部隊)の将校を呼び寄せていた。彼らはマニラ国際空港に二人、三人のグ ループで到着したが、偽名と偽パスポートを使って旅行してきた。
    将軍たちが作戦を練っている間、カーチスはシボレーの販売部長としてサラリーマンの仕事を再開しにネヴァダへ帰ることにした。飛行機の中 で、彼はとんでもない愚か者の船に乗り込んでしまったことに気付いた。 シングローブとフォリンジャーは違った風に魅力的だし恰好よかったが、 カーチスは彼らが目的を達成できるかは大いに疑問だと深刻に考えてい た。一週間後、彼はフォリンジャーから手書きの手紙を受け取った。彼の コードネーム“ジョージ„の呼びかけで手紙は始まっていた。「次の内容は、 私が電話で話したくないいくつかの急ぎの覚書だ。ニッポン・スターの取締役会が開かれ、シングローブは予見される将来のために、フィリピン政府とは関係を持つべきでなく、公にはニッポン・スターから引き離されるべきだと決定した。このことは彼にとって承服しがたいことになるだろう。 われわれはシングローブに忠実な投資家による、敵対的乗っ取りに対処することになるだろう」、彼はカーチスに、シングローブの現状行っている三つの金塊回収プロジェクト全てが中止されることになると言った。
    フォリンジャーは、自分たちの回収した最初の相当量の金塊はベンゲッ ト社の買収するために使ったと言った。ベンゲット社は、フィリピンの一 流金採掘会社で、マルコスがマイアミやナッソーに基盤を持つマフィアの 助けを借りて、再精錬した戦争略奪品を輸出するために使っていた。ベン ゲット社は世界の金市場へ黒の金を動かすためのPAFFのトンネル会社 であった。フォリンジャーは、売上の多くがB―一爆撃機やレーガン政権 のスター・ウォーズ計画のような防衛計画の資金供与に使われ「結局、われわれ が支配する新産軍複合体制を構築したのだ」と言った。この手紙に添えて、 フォリンジャーは、これら全ての連中と組織の関係を示す相関図を描いて いた。(CD参照)
    この共同事業のフェニックス調査会社とニッポン・スターの相棒として、 フォリンジャーはカーチスとその友人、バートン(彼らをC&B引き揚げ屋と呼んでいた。)にこの政治的計画を支援してほしいと言った。
    カーチスは自分のために、是が非でも金塊の回収をして経済的に立て 直しをしたかった。しかし、彼はこの連中と仕事をすることにひどく不安 を感じていた。彼はフォリンジャーに、コレヒドール島の映画館の跡地で の金塊回収に急いで集中するように説得した。この場所はカーチスが彼 らに教えた最も容易で、最も簡単で、最も早くできる地点だった。数年前 なら彼は一人で回収をやっていただろう。この地点はすべて周知の事実で、 みんな知っていたので、政府所有地を掘る公式の許可が必要だった。どんな子供もそれをやる。しかし将軍たちにそれが出来たろうか。
    □トップサイド
    トップサイドにあったマッカーサー将軍の本部の向かい側に、爆破された映画館がある。映画館のそばの小さな隠匿場所に十八本の金の延べ棒が隠されているはずだ。もしどこを掘るべきかを知っていれば、シャベルで 簡単に掘り出せるやわらかい土壌のたった十五フィートの深さにある。十八本の七十五キロの金の延べ棒は、数百万ドルの価値があった。カーチスは一九七五年にそのことを知っていた。当時、彼とマルコスはヘリコプターで観光のためにコレヒドール島へ飛んだ。その日撮った一枚の写真を見 ると、映画館のそばを二人がぶらぶら歩いており、その壁は銃弾を浴びせられているのが分かる。
    ビラクルシス大佐はその写真を見た時カーチスに、東京で目撃者から聞いていた面白い話を聞かせた。それは竹田皇子とイチバラ(Ichivara?)卿との会談の時のことである。目撃者は、日本海軍高級将校をコレヒドール島の本部ビルに訪ねていた、それはアメリカ軍が島を奪還するための攻撃をはじめた一九四五年二月一六日の事だったと言った。
    大型爆弾が映画館そばの通りに着弾し、十五フィートの深さの爆弾穴を開けた。
    海軍指揮官はまだ十八本の金の延べ棒を自分の部屋に置いていて、これはチャンスだと考えた。彼は事務所の職員に、金の延べ棒をその爆弾穴に 降ろさせた。近くにあった小型ブルドーザーを使ってすばやく穴を埋めた。数分後、第十一空挺師団と第五〇三落下傘連隊、コンバット・チームの落下傘部隊員が地上に降り立った。
    戦闘は熾烈で、ひとりの海軍将校が殺された。 三十年後、目撃者は、爆弾穴は正確にはどこかわからないが、映画館の近くにあったことを記憶していた。
    カーチスは、リーバー・グループと仕事をしていたときに、コレヒドール島に戻って太平洋戦争記念館を訪れた。ロタンダ(円形大広間)の壁には、貴重なモノクロの空中写真が展示してあり、それは一九四五年の爆撃と攻撃を示しており、それぞれは数分間隔で偵察機から撮影されていた。 午前十時十六分の写真は、映画館そばの爆弾穴が写っていたが、十時三十 八分の写真では爆弾穴は埋められていた。それで、カーチスは例の十八 本の金の延べ棒がどこに隠されたかを正確に知ったのである。
    この金塊のおかげでフェニックス探索とニッポン・スターは、誠に厄介な財政支援者たちから解放させ、カーチスの知っている他の場所での数年にわたる金塊回収プロジェクトが可能になったのである。
    全ての準備が整った時、フェニックスとニッポン・スターから十人のアメリカ人がコレヒドールに到着した。彼らは一緒に周辺を警備するために フィリピン人の兵士を連れてきたが、彼らは大統領保安部隊から派遣され た軍曹に指揮されていた。アメリカ人の中にはフォリンジャー、レーガンの部下のシュバイツァー将軍、五人の大佐、ひとりのアメリカ海軍シール部隊員(特殊部隊員)、カーチスの仲間のデニス・バートンとジョン・レモンがいた。五人の大佐のひとり、エルドン・カミングスは、エル・サルバドルで秘密工作を行ったCIAのベテランだった。他の二人は‘ロック‚ マイヤー大佐、ジェイムス・ヨーク大佐で伝説に残るような人物だった。 シール部隊員は同様に伝説的な人物のトム・ミックスで、GIMCOまた はGEOインナースぺースと呼ばれるなぞの多い会社に所属し、日本の財宝船の海上での金回収でニッポン・スターと緊密に仕事をした。この連中は重要人物だった。あの日、彼らは全員トラブルに備えて重装備をしてい た。映画館地点の回収作業を管理している五人の大佐と別れ、シュバイツァーはマニラ南部のアラバングにある彼らの隠れ家に戻った。
    まず大佐たちは地中抵抗性感知機を取り出した。一九八〇年代までに、感知器は三十フィート下の金塊がどの辺りにあるかを感知できるよある
    ニッポンスターがマニラで最初に設立された時シングローブは闇市場程度進歩していたので、大佐たちは金塊がまだそこに眠っていることを知った。
    次の五日以上、彼らは十フィートの深さの穴を掘った。彼らは次の日には金の延べ棒に突き当たることを期待した。そしてその日のあと、突然シューと言う音が聞こえ、三機のフィリピン陸軍ヒューイ・ヘリコプターが 彼らの頭上までやって来て、騒音をひびかせた。ヘリコプターには防弾チ ョッキを来た重装備の兵士でいっぱいだった。二機が威嚇するように空中静止している時、一機が着陸して軽機関銃を持った兵士の一団が飛び降りてきた。
    シングローブは武器を買った。その中にはアルマライト製の武器や、グレネード・ランチャー(擲弾発射筒)も含まれていたが、シングローブは所持免許を取れなかった。それらの武器が盗品であることが判明したからである。彼はまた車をまとめて安く買ったが、その車も盗んだばかりの商品であることが 判明した。それらの車は、マルコス秘密警察の長、フェビアン・ベールの所有であり、彼が亡命した時、車はひそかに売られ、バーはその金を着服した。 シングローブがその車を・登録しようとした時、その車は行方不明になっていた政府のものであることが明らかになった。
    こうした出来事は、フィリピン上院のジュアンポンセ・エンリレと狡猾に、自分は軍隊の長であるフィデル・ラモス将軍から、共和国の資産であるコレヒドール島からアメリカ人を放逐するために派遣されたと言った。 フォリンジャーは彼に、シングローブが見せびらかしていた共和国に滞在できる大統領の許可書の手紙を見せた。将軍は署名を見て、「それはホンモノでな詐欺師たちが、ニッポン・スターはフィリピンの島々を踏みにじり、国家遺産の美観を台無しにしたと主張したことが物語っている。 一人の熱烈なジャーナリストが次のように書いている。「もし、フィリピンが自由で民主的な社会を維持したいなら、内乱を工作したCIAの深淵はない。サンジュアンはそうした許可証を発行する権限をもっていない」
    一人のフィリピン陸軍の将校が続いた。将校はアメリカ人たちにぞんざいに落ちたくなければ、アメリカ軍の武力侵入と配置という局面に備えるなと言った。彼は直ちに島を退去するよう命令を繰り返した。
    アメリカ人はテントをたたみ立ち去った。
    シュバイツァーは彼の厳選されたチームがコレヒドール島から強制退去させられたと聞いて、怒りのあまり青ざめた。彼はレーガン大統領に電話して、レーガンにアキノ大統領と個人的に仲裁させると脅した。カーチスは、それはよい考えではないので止めるように彼を説得した。
    フェニックスとニッポンスターがコレヒドール島から追放された時、シングローブはワシントンでイラン・コントラ事件について議会で証言をしていた。「私はジャックシングローブを好んだ」と、カーチスはわれわれにきっぱりと言った。「しかし、彼は口を閉ざすことが出来なかったのだ」。
    カーチスがフォリンジャーに、自分は共同事業から抜け出すつもりだ。
    フィリピン政府や軍部の多くの人間が、ニッポン・スターの傲慢なふるまいに腹をたてていた。マニラのジャーナリストは、ニッポン・スターはジョンとジョンブレイザーの席に座った。
    ハリガンによって、統一教会の金で資金援助を受けていたこと伝言した時、フェニックスとエンタープライズの幹部がラスヴェガスの彼の家に大急ぎで飛んできた。
    □証拠がないことが、なにもないことの証拠ではない。
    しかし、カーチスは腹を決めていた。その決定的要因は、彼が、アラバンのニッポンスターの隠れ家は、将軍シュバイツァーとシングローブと全ての大物がマニラ滞在時に住んでいたところで、その隣家はソビエト大使館のKGB諜報員が借りており、彼らが全てを監視し、録音していることに気付いたことにある。
    「われわれは全ての窓を開いていた」とカーチスは言った。「だから、彼らは窓のそばに機械を設置するだけで、無線通信も含めてわれわれの会話がすべて聞こえるのだ。その会話はその家で解読されたのだ。この件を知り、気が狂いそうになった」。
    その後の数ヶ月で、フォリンジャーは何度も何度もカーチスと接触して、彼に考え直すように頼んだ。シングローブとシュバイツァーもまた電話をした。カーチスは頑として受け入れなかった。将軍たちは自分たちを責めることはなかった。だれもがフォリンジャーを責めたのだ。
    その後まもなく、フォリンジャーはマニラに戻る途中にハワイにいた、泳いだ後ワイキキの混んだ道を水着姿でぶらぶら歩いていたが、はだかの足を何か鋭いものを持つ通行人に切りつけられた。数日後、彼は呼吸困難をともなう激しい苦痛で病院に担ぎ込まれた。医者は貝毒を疑った。しば らくのあいだ、彼は殆ど虫の息だった。徐々に彼の調子は回復して、マニラの自分のマンションへ健康を回復させるために帰った。そのマンション はジュン・ミトラという名前のフィリピン人と共同使用していたものだった。友人がある朝訪ねて来た時、フォリンジャーは体重をひどく落としていて、呼吸困難をふたたび訴えた。彼は少しの食欲はあったので、友人にイタリア料理を買って来て欲しいと頼んだ。その友人が一時間後に帰った時、フォリンジャーは発作を起こしていた。彼らは近くのクリニックに飛び込んだ。彼は重症の気管支肺炎で、何かが彼の免疫体系をダメにしていた。すぐにもう一回の発作が出た時、彼の心臓は止まり、彼を蘇生させる試みはうまくいかなかった。
     ワイキキ海岸での出来事について、カーチスは言った、「アランの仲間のひとりは後に暗殺であったに違いないと私に言った」。
    ハワイで何が起こったにせよ、マニラの病院の臨床記録に殺人を示すものはない。しか し、証拠がないことが、なにもないことの証拠ではない。
    フォリンジャーはたいへんな精神的抑圧の中にいた。精神的重圧はカーチスにも同様に大きな犠牲を強いていた。カーチスが 一九八七年七月、サン・フランシスコへ旅行した時、そこで将軍たちと続いていた関係をすべて解消したのだが、ひどい胃の不調を覚え、緊急手術を受けねばならなかった。彼が麻酔からさめた時、ひどくへばらせる鎮痛剤を打たれ続けていた。病院での彼の見舞い客の一人は、チャールズ・マクドゥーガルという名の全くの見知らぬ人物で、山下将軍の金塊について本を書いていると言った。元グリーン・ベレー隊員のマクドゥーガルは、フィリピン大学で暫く勉強をし、そこでノエル・ソリアーノ保安局長と親密な友人になったと言った。ノエル・ソリアーノ保安局長は当時アキノ大統領の国家安全顧問をしていた。
    マクドゥーガルは病院をたびたび訪れ、カーチスにいろいろな財宝隠匿場所について語った。カーチスは頭がぼんやりした状態で、マクドゥーガルであればソリアーノ保安局長との関係さえ確かなものだとすれば適当な相手かもしれないと考え始めた。彼らはサンチアゴ要塞で、復興計 画を装った財宝保管所の探索をするのはどうかを議論をした。マクドゥーガルはソリアーノ保安局長にその考えを切り出し、ソリアーノ保安局長はアキノ大統領と相談をし、大統領は了承した。
    彼らは、秩父宮が砦の地下三階にある通風孔の下に隠していた金塊を探すつもりだ。計画はカーチスに率いられた国際貴金属(IPM)と呼ばれた新会社によって行われる。マクドゥーガルも参加し、フィリピン政府が上前をはねた後、儲けを確保する。
    掘削は各段階で必要なアキノ大統領の許可のもと、徐々に進められる。
    彼らは日本人がわからないように置いていた埋め戻しを掘り、ドリルの先っぽで金塊をさぐり、金塊にめぐり合えるよう、そして、彼らが掘削を続けるために必要なアキノ大統領の要求する証拠、つまりコアサンプルを得ることを期待して穴を開けた。
    作業は、まる一日中掘り続ける若いフィリピン人のチームで始まり、落盤を防ぐため木製の支柱が組み込まれた。そこには四つのタイプのわながあった。最もはっきりしているのは百、二百五十、五百もしくは千ポンドの航空爆弾で、バネをいじると爆発する。埋め戻しの中に置かれたシアン化物のびんは簡単に壊れる。いくつかの場所に、簡単に穴の中を水浸しにするテラコッタ、素焼きの大樽があった。まれではあったが、 砂のわなもある、粘土層と細かい砂を互い違いに作られている。もし作業員がそれをいじれば、粘土が崩れ、掘る人間を困らせ、細かい砂はひとを窒息させるだろう。だから、丈夫な支柱は欠かせなかった。
    カーチスは、支柱は掘削の進行に合わせて設置しなければならないと厳しい命令を与えた。しかし、彼は丸一日現場にいることは出来なかった。 金塊にたどり着くための重圧が重なったので、作業者も監督も注意を怠る ようになった。ある深夜、トンネルの奥深くで作業をしていた三人の男た ちが、支柱の上でかなり動いた。急に砂のわなが破裂した。多量の砂が流れ落ち、二人の男が粘土の厚板のために命を落とした。三人目は、瓦礫の中から足を突き出していて、生きて引っ張り出された。
     カーチスと保安局長ソリアーノ保安局長は事故の通知を受けていたが、誰も民衆の抗議に備えていなかった。ジャーナリストはサンチャゴ要塞に殺到し、フィリピン上院は調査を要求した。マルコスの取り巻きは攻撃を先導し、死者を出したうえ、「国の記念物を冒涜した」と、カーチス等を責めた。彼は、もう少しで回収できそうな金塊はフィリピンの国家負債の支払いに充てることが出来ると反論した。アキノ大統領は彼を支持した。 大統領はIPMにあと九十日間発掘を続ける許可を与えた。
    カーチスは金の貯蔵場所にぶち当たるほんの数メートルにいることを知った。それを証明するために、掘削機を持ち込み掘り下げた。十二番の穴を掘削したとき成果があったのだ。一九八八年、四月二十三日にドリルの先端が金塊、大理石、木のかけらをさぐりあてた。ゴールデンリィリーの地図は、金の延べ棒が大理石の厚板の上の木箱にある事を示していた。カーチスは金脈を掴まえたのだ。
    またしても、舞台裏で困ったことが発生していた。資金調達者のジョージ・ワーティンガーはネヴァダから、アーニー・ウイッテンバーグと一緒にもどった。
     ウイッテンバーグの資金は麻薬取引によるもので、後に起訴され、収監されたのだ。
    ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルの二人は最初から、ワーティンガーがウイッテンバーグの麻薬マネ ーをつぎ込んでいることを知っていたが、誰もカーチスには言わなかった。
    カーチスが抗議した、すると、ウイッテンバーグは、カーチスが解任され帰国する条件で、計画の利権を五十万ドルの現金で買取ってやると対抗してきた。 カーチスが金塊の場所を突き止めたとなれば、彼はもはや用なしだった、 テレサⅡの場合の二の舞だ。フィリピンで金塊の回収を望む金の亡者(投資家)は、誰でもカーチスの力を必要とした。それは彼が地図を持っており、地図をよく分っているからだ。しかし、カーチスが、金塊のあり場所を特定してしまえば、彼は用なしだろう。これは財宝探索の典型で、本や映画「シエラ・マドレの宝」でもパロディ化されている。貪欲は自己 中心を増大させ、自己中心は、貪欲を増大させるのである。
    「ソリアーノ保安局長は、私に、ウイッテンバーグの金をもらってやれといったのさ」、とカーチスはわれわれに言った。「でも、そいつは麻薬マネーなので、ビタ一文欲しくはないんだ」
    ソリアーノ保安局長はその時、カーチスにサンチャゴ要塞の財宝地図を、そしてマニラのあとひとつの重要な場所、ボニファシィオ橋の財宝地図をこっそりと渡すよう頼んだ。カーチスがきっぱりと拒絶した時、国家 保安局長は厳しく非難した。彼はカーチスに、直ちにフィリピンから出て行かないと、アキノ大統領にIPMに与えた金塊探索の許可を取り消させると言った。もしカーチスが協力するなら、ソリアーノ保安局長はカーチスをいずれ呼び戻しただあろう。もし彼が退去を拒否したなら、彼は逮捕され、彼に対し告訴状が提出されただろう。顔をゆがめて彼は荷物をまとめアメリカへ帰った。
     大陪審証言によると、カーチスが去った時、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルは全面的な協力者としてウイッテンバーグを雇い、サンチャゴ要塞での発掘作業を進めた。チームのメンバーは、彼 らが二四本の小さな金の延べ棒、金貨・銀貨、宝石の原石を詰め込んだドラム缶を発見したと証言した。カーチスが穴を開けていた主たる目的物はそこから数メートル下にあった、しかし、彼らは程なくその上に到達したのだろう。
    彼らはまた、ボニファシオ橋で掘り始めたが、そこにウイッテンバーグを責任者として配置した。一九四二年に、パシグ川に架かるこの鉄道橋は、アメリカ軍の退却の時に爆破された。橋はすでに落ちていたがその大きなコンクリート製の橋脚台はまだもとの場所にあった。 その後に、ゴールデンリィリー部隊はひとつのコンクリートの橋脚台の下に深い貯蔵場所を掘り、おばけ金庫の中に五十キロの金の延べ棒三百四十屯分を隠した。(一九八八年の相場で四五億ドルの価値である)、貯蔵物はも ともとのコンクリートに似た厚板で隠された。彼にとって不運だったのは、 カーチスは彼のパートナーに、貯蔵庫の側面から掘削すれば突き破るのは簡単だとはっきりと言っていたのだ。彼がその場所で単独の作業をいつも避けたのは、近くにハイウエイがあり、人目につきやすかったからだ。 アキノ政府がタイミングよく、ハイウエイのルート変更をしたので、ウイ ッテンバーグ、マクドゥーガル、そしてソリアーノ保安局長は全ての通りかかる車やトラックに見られることなく、掘削装置を使うことが出来た。ソリアーノ保安局長は令状をとり、不法居住者数人を追い払った。
    バオンファシロ橋での作業は、急速に進んだ。カリフォルニアの投資家のクレイグ・ネルソンが十万ドルを出して、直径六フィートの穴を開けられる掘削機を持ち込んだのだ。
     十一月の三十日までに、彼らは橋脚の下、百七十フィートまで掘り進んだ。ネルソンが進行をチェックするためその朝現場に到着した時、 彼はウイッテンバーグが相当、興奮しているのに気付いた。
    □「ジャップに触ったぞ!」
    「ジャップに触ったぞ!」、とウイッテンバーグはわめいたが、それは、彼らが目指すものにたどり着いたことを意味する合言葉だった。
    ネルソンは後に証言した。「ウイッテンバーグはわれわれに、エレベーターで穴の下に下りた時、はっきり見える八台の金庫のうち、二つに触れたと話したんだ」、ネルソンが言うには、ソリアーノ保安局長は発見した金塊を運ぶため、陸軍のトラックを持ち込む腹だった。金塊が相当に重かったので、一回につき、たった二五本の金の延べ棒がエレベーターで運び上げられた。そこには、六千本以上の金の延べ棒があったのだ。
    ソリアーノ保安局長は直ちに太平洋横断電話をマクドゥーガルにかけ、マクドゥーガルはカリフォルニアへの旅行を切り上げてマニラへ飛んで帰った。
    翌日ネルソンは言った。「マクドゥーガルが言うには・・・・、私 ネルソンのことはアーニー・ウイッテンバーグを誤解していたに違いない、・・・・ウイッテンバーグは、実際には金庫を見ていなかったのだ」と。
    ネルソンは言う、「マクドゥーガルの奴、自分たちは金庫のある部屋にはまだ届いてないと言うんだ」と。
     ネルソンは自分が騙されていたことを知り、探索場所に戻り調べようとしたが、掘削機の支払いまでさせておきながら、入ることも許されないことに気づいた。すべてのフィリピン人作業員は家に帰され、橋周辺の警備は二人の重装備したアメリカ軍特別部隊に引き継がれていた。二人はマクドゥーガルの知人で、一人はこの警備のために通常任務から休みを取っていたと言われている大佐である。マクドゥーガルはすべての関係者に、「水穴に溢れてしまったのでこの計画をあきらめなければならなかった」と言った。
    リサル州の警察局長であるキャンソン大佐によれば、マクドゥーガルに二台の軍務トラックをあてがったのは、一九八八年十二月二日から六日までの五夜、深夜から朝の五時までである。他の情報筋によると、多くの装甲車もまた参加していた。目撃者は、トラックと装甲車がボニファシオ橋からサンチャゴ要塞へ大量の荷物を運び、そこで荷物がパシグ川ではしけに乗せられたと主張している。その後、マニラ国際空港の保全倉庫で三百二十五屯の金塊が売りに出ているという噂がひろまった。計算と合わない金塊は十五トン以下だった。
    回収事業に関わった残党たちはお互いに攻撃しあった。資金調達者のワーティンガーはネヴァダの連邦大陪審で、総計百五十万ドルの麻薬マネーがウイッテンバーグによって、砦や橋での掘削作業につぎ込まれたと証言した。
     ワーティンガーは法廷で証言した。「マクドゥーガルとソリアーノ保安局長のふたりとも麻薬マネーだと承知していたさ」
    「マクドゥーガルは、『いいかい、これがマスコミに流れたりしたら、・・・・ソリアーノ保安局長はまずいことになるよと』、と言ったんだ」
    「麻薬マネーだったさ。俺が言っている意味は、海の向こうのアメリカでマスコミにもれたらわれわれははりつけになってしまう、ということだ」と。
    実際、マニラの新聞が、ウイッテンバーグの麻薬マネーの幾らかが、ソリアーノ保安局長の個人口座に移されたと報じた時、アキノ大統領は一九八九年二月十五日付けでソリアーノ保安局長に国家安全顧問を辞任するよう要求した。
    ウイッテンバーグは、マクドゥーガルのためにマニラに買った住宅の家具代、五万ドルを支払った。さらに、マクドゥーガルがサン・フランシスコに買った新家屋のためにも資金援助をしたと証言した。そして、ウイッテンバーグはまた、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルにそれぞれに現金五万ドルを与えたと証言した。それで大陪審はマクドゥーガルを召喚することにした。
    政府の検察官はまず、マクドゥーガルのサン・フランシスコにある新家屋の没収を要求した。しかし、マクドゥーガルは司法取引で、彼の事業パートナーについての報告書を準備するよう説得された。マクドゥーガルの証言に負うところが多いが、ウイッテンバーグは裁判を受け、麻薬売買のかどで終身刑の判決を受けた。
    映画「黄金」(シエラマドレ山の財宝)のハンフリー・ボガートや相棒たちのように、すべてのこれらの男たちは金塊に取り付かれ、お互いに攻撃しあった。 しかし、その場で預金として金塊を受け入れて、手品師みたいに金塊を消えてなくした国際バンカーに比べると、彼らは取るにたりない雑魚みたいなものだ。
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