キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

十四章 パラデンスⅡ キサラギジュン訳 2017

2017-05-05 20:37:25 | ゴールドウオリアーズ
  1. ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter□財閥解体を不問にされた三つの銀行
    裕仁陛下に関しては、ジャーナリストで米軍占領時代初期にSCAPの記録を読むことが出来たポール・マニングによると、天皇は戦前から海外に作った口座に金塊と通貨で秘密の十億ドルを所有していた。天皇は米軍占領中に海外投資からの利益で年に五千万ドルを引き出しており、SCAPの財務相談役はこれらの収入を生み出す資産に気づいていた。重要なことに、三和銀行はSCAPのマッカート将軍の経済科学局(ESS)によって不問にされた三つの日本の銀行のひとつだった。他のふたつの銀行は東海銀行と第一勧業銀行で、田中クラブによってM資金からの引き出しが増加していることと関係していた。今日、三和銀行は「われわれは世界で成功してきた」というスローガンとともに世界規模の銀行活動を宣伝している。フェルディナンドとイメルダは、サンティの死後、その書類を整理するなかで、三和銀行にあるショーワ・トラストの存在を知った。われわれがコピーした資料によると一九八一年までにショーワ・トラストは四半期ごとに三億ドル以上の利益、または年に十億ドル以上の利益を生み出していた。銀行オーナーの一人、裕仁陛下は間違いなく有利な利率の権利を有していた。(これらを示す資料はマルコスが権力を剥ぎ取られ、フィリピン政府にマラカニアン宮殿が民衆革命で占拠された後、マルコスの地下の金庫で発見された。)
    マルコス一族は、もし自分たちがうまくカードを使えばショーワ・トラストを手に入れることが出来たと考えた。少なくとも、自分たちに利子支払い分のいくばくかを手に入れられたのにと思った。もし、合同信託のニュースが漏れ出たならば、いくつかの理由で日本政府やアメリカ政府にとってかなり具合の悪いことになるであろう。
    第一に、裕仁陛下は大変貧しく、生計を維持するためには年俸二万二千ドルを与えねばならないという見せ掛けを日本政府はなおも維持していたし、第二に、日本自民党はその時、田中贈収賄を含むもうひとつの大きなスキャンダルにもがいていたのである。アメリカ政府にしても、日本はまったく無一文だと繰り返し宣言していたので、一九四五年以来の裕仁陛下・マッカーサー合同信託(ショーワ・トラスト)の存在が開示されると、手の込んだやっかいな対策が必要になるであろう。
    □「沈黙を守る」ために
    交渉人ナティビダッドM.ファジャルド(Natividad M. Fjardo)を含むマルコスチームは、ショーワ・トラストの三人の受託者(ひとりの日本人とふたりのアメリカ人)を含む日本政府の役人と非公式の協議のために東京へ飛んだ。ファジャルドは数多くの金塊輸送でマルコスのために行動した仲買人だった。東京へのファジャルドの旅はロナルド・レーガン一期目の大統領就任指揮と重なっている。レーガンはマルコス家の重要な友人だった。レーガンと妻ナンシーは一九七〇年、マニラのイメルダ文化センターの開館式にニクソンの個人的代表として参加するため、初めてフィリピンへ行った。それがマルコスとレーガンがお互いにたたえあう長い友情の始まりだった。
    ファジャルドとそのチームは東京に着いた時はじめて、彼らの東京訪問の真の目的を明らかにした。簡単に言うならば、マルコスは、フィリピンのための財政支援策として偽装した膨大な支払いを受け取る代わりに、ショーワ・トラストについて「沈黙を守る」ことを申し出たのだ。彼らは信託からの四半期分の利息をマルコスに譲るべきだと要求した。
    これは強請のごときしろものだ。日本政府は大変驚いて、ファジャルドと彼の連れを武装警備のもとで日本滞在中、都ホテルの部屋にずっと隔離した。そのせいで、いつも彼らは自分の部屋で食事を取らねばならなかった。
    ファジャルドが東京からイメルダに送った一九八一年二月二二日づけの手紙には、「日本のフィリピン向けの財政援助は、マッカーサーが皇室に対し、信託の形で残したドル基金(原文ママ)からの蓄積した利息収入で構成されます。・・・・・われわれは日本大蔵省の許可のもとでいかにして金塊を香港へ持ち出すかの手段を考案し・・・・フィリピンで大事業をなしている日本企業に対し融資されます。日本政府はその企業にカワサキがふさわしいと判断したことが明らかになるでしょう。皇族の手のもとにある信託金は、すでに大阪の三和銀行へ預金されており、香港への振替手配が整っています。これを実施するため、三〇年間、無利子でカワサキへ融資されることが明らかにされるでしょう。フィリピンのファーストレディのための大型経済発展計画を財政支援する金を出すのはカワサキになるでしょう」と書かれている。
    ファジャルドにより交渉された取引が行われたかどうかは分からない。しかし、銀行の書類によれば、今日でも三和銀行香港支店に多くのマルコスの口座が存在している。
    日本政府は多分アメリカ政府にこの脅しについて訴え、そのことが直後(訳者注:マルコスの失脚は一九八六年二月)のマルコスの失脚につながったはずである。しかし、アメリカ政府が最終的にマルコスに見切りをつけた主要な理由は、レーガンによる『虹のドル』戦略の失敗にある。
    □「虹のドル」
    レーガン大統領は政権のはじめに、一九七一年にニクソンにより廃止された金本位制にもどり、『虹のドル』と呼ばれる金本位の新しい通貨を導入すると宣言した。ニクソンの決断以来の一〇年間で、米国はひどいインフレーション、不況、そして高金利の時代を経験した。レーガンの対策は金本位制に戻ることだった。財務長官ドナルド・リーガンはこの政策が「途方もない好況」をもたらすだろうと言った。
    大量のドル紙幣が世界に循環していたので、もしその紙幣が金塊に兌換できるようになれば一九三三年以前の事態のように、アメリカ政府は金塊の需要に振り回されるはずだ。解決策は二段階方式だった。
    『虹のドル』は徐々に現行のドル紙幣と置き換えたとしても、一般大衆は『虹のドル』を金に換えることが出来なくする。『虹のドル』は中央銀行に保持されたときだけ、金に換るというのが『虹のドル』の特別な解決策となるだろう。
    この政策を実行するために、アメリカは、金価格を操作できるに足る大量な金塊の備蓄を必要とする。金価格があまりにも下落したなら、アメリカ政府は通貨価値を安定させるために金を買えばよい。もし金価格が高騰したなら、中央銀行は政府からの金塊を必要とし、政府は市場へ金塊を放出することで価格の高騰を抑制するだろう。これがレーガン政権の主要なプランだった。
    『虹のドル』制度に変更することは、ヘロインやコカインの麻薬ボスのように犯罪資金の現金紙幣を蓄えている連中が古い紙幣を新しい紙幣に換えなくてはならず、多くの金塊が隠匿場所から出てくるということを意味した。このことで連邦政府の赤字を減少させることになるだろう。
    □マルコスの失脚の本当の原因
    レーガン大統領は非公式にマルコスへ『虹のドル』を支えるため、黒の金塊の貯蔵分を貸してくれるよう頼んだ。いつものように、彼は金塊を貸すにあたり手数料をレーガンに請求することができた。マルコスにとって不幸だったのは、彼が要求した手数料がアメリカ政府が公正と考える以上に高かったことだ。
    当時ホワイトハウス職員だった人物を含むわれわれの情報筋によると、レーガンは古い友人が自分を失望させたことを嘆いたそうだ。
    ショーワ・トラストについて日本政府を恐喝した当時の試みを考えても、レーガンのアドバイザー、特にキャセイ(元CIAのボス)はマルコスはやりすぎたと唱えた。
    マルコスを退陣させ、その過程で彼が貯めこんでいた多量の金塊を剥奪する時機が来ていた。
    キャセイは即座に行動に移った。ヒグドン(Higdon)教授、弁護士ローレンス・クリーガー(Lawrensce Kreager)をマニラに送った。
    マルコスのクローニー(取り巻き)たちの話では、会合の主旨は七万三千屯の金塊の処理についてだったらしい。
    キャセイとリーガンはマルコスに最後のチャンスを示していた。リーガンはマルコスに、米国債務証書で八〇%、現金で二〇%と引き換えに金塊を譲渡する署名をするよう繰り返し説得した。マルコスは終末が近いと感じながら、現金で八〇%、債務証書は二〇%だけにするよう要求した。押し問答が無駄だとはっきりした時、ホグドン教授はマルコスに、「二週間以内」に権力の座から降ろされるだろうと通告したと言われている。実際、数週間の後、マルコスはハワイで事実上自宅軟禁状態だったのである。
    同じマルコスの側近によると、大詰めでの次の動きはキャセイ、リーガン、ヒグドンとの会談の数日後にあり、「三極委員会」(トライラテラル・ロックフェラーの世界征服諮問会議)の使者が、マルコスに「地球開発基金」に対して金塊で五百四十億ドルを提供することを求める内密の要求書を手渡した。その場に居合わせていたわれわれの情報筋によると、マルコスは文体が華麗なその文書を一瞥し、軽蔑したように発送済書類入れの中に放り投げたと言うことだ。特使は急いでマカティにある三人委員会(三極委員会)の事務所にもどり報告した。
    三日後、マルコスはレーガン大統領の仲介者、ネバダ州上院議員ポール・ラグゾールトから最終提案を与えられた。
    明け方、荷を積んだ船はマニラ湾そして、最終目的地のスービック湾の海軍基地まで曳かれた。その基地で金塊は最初に軍用品地下倉庫に保管され、その後アメリカ海軍の大型船に載せられたと言われている。(アメリカ政府は一九五〇年以来公式に金塊の在庫を監査していないので、その後に金塊に対して何が起こったかを述べるのは難しい。ただ、アメリカ政府は八千トンの金塊を所有していることは認めている。)
    マルコスとその取り巻き達はマラカニアン宮殿で事実上立てこもり状態だった。狼瘡(ろうそう)をわずらい腎臓と肝臓が衰えた重病の男、マルコスはあきらめて米軍ヘリコプターで救出される見返りに自分の「金塊」を剥奪された。その晩、荷船がパシグ川を宮廷まで引かれ宮殿の地下倉庫、大統領保安部隊の敷地や宮殿に隣接したビルの地下倉庫から多量の金の述べ棒が積み込まれた。この作業は一晩中続けられ、多くの人々に目撃された。
    その晩、アメリカ陸軍のヘリコプターがマラカニアン宮殿の庭を急襲し、マルコスファミリーとその取り巻きを積み込んだ。マルコスたちが驚いたのは、マラカニアン宮殿からイロコス・ノルテにある彼らの本拠地に連れて行かれたのではなかったことである。彼らはイロコス・ノルテで自分たちの領地のための防御物を築く計画だった。彼らはハワイの軟禁所に連れて行かれた。
    「われわれは救出されたのではなく、誘拐されたのよ」とイメルダは噛み付くように言った。イメルダはホノルルに彼らが到着した時、持っていた数十億ドルの価値のある「金信託証明書」をアメリカの税関職員が押収したと言った。だが、税関が用意した公式リストにはその証明書は載っていなかった。その後、イメルダは「アメリカ財務省が証明書を押収したことは認めた、がそれはニセモノだといった」と主張した。
    専門家は証明書のすべては偽造であると決定した。われわれが見てきたように、「金の信託証明書」を偽造品だと非難することは、本物であったとしても、決まりきった手順だ。これが押収品に対して一般的に行われるやり方である。
    このような事情を考えると、今もしくは将来に銀行が金持たちから預かった「金信託証書」(そもそも価値のある有価証券ではないので、それのみでは換金できない。)を偽物だと告げる大きな可能性があるにも拘らず、金持ちが銀行に金を信託し続けるのは不思議に思える。
    そんな詐欺の気配があるなかで、財務省が押収された「金の信託証明書」に対してどうしたかを詳しく知ることは興味深いことである。
    リーガン財務長官は確かに多くを語っていない。彼とCIA長官キャセイは、イラン・コントラ時に資金洗浄と銃密輸で果たした役割で不評を招き辞任せねばならなかった。
    イラン・コントラ事件でキャセイが果たした役割を見れば、外国政府を操作したり、アメリカ国内の右翼民兵に資金援助をするため、日本の略奪品を不法に使った事件でも彼が任務を果たしたことは十分認識できるものだ。
    マルコス家がハワイに到着したときに、彼らから金品をまきあげたり、彼らの金信託証明書を押収したりしたことは十分に価値のあることであったが、多くの疑問がうやむやのままである。
    はじめに、どうしてイメルダとマルコスは自分たちの黒の金を他人に管理されている銀行に移そうと主張したのか。全てを押収されたらどうするつもりだったのか?ハワイで、ふたりは苦労して海外に隠した金塊を引き出すことが出来ないことを理解した。腐敗し失脚した独裁者がやったように、金塊が不正に取得されたという口実で彼らの口座は封鎖された。これがアメリカ政府の態度であったが、アメリカは三〇年以上マルコスと同盟を結んでいたのだ。スイス政府はマルコスがスイスの銀行にいくばくかの金を所有していることを簡単に否定して、より現実的な態度をとった。世界中の銀行家たちはマルコスの口座については何も知らないと言明した。
    □困ったときの借金申し込み
    ホノルルで彼らがもはや勘定を払うことが出来なかった時に、フェルディナンドは旧友ドン・エンリケ・ゾーベルに危機を乗り切るために二億五千万ドルの借金を頼んだ。ゾーベルによると、マルコスは借金の返済能力があることを示すためにゾーベルに「金信託証明書」(それのみでは換金性がない。つまり有価証券ではないのだ。)を見せた。その証明書はアメリカ税関に押収されていなかったものだった。これらもまた後になって、アメリカ財務省によっていかさまであると宣告された。
    □マグドナルドバーガーとポテトチップス
    数ヵ月後、ますます、むくんで黄疸症状の進んだマルコスは、自分と友人に大量のマクドナルド・バーガーとポテトフライを買いにやらせた。食事のさなか、マルコスはビッグ・マックをのどを詰まらせ、ひどく咳き込んだ。翌朝、一九八九年一月一五日、彼は肺の虚脱のためホノルル・セント・フランシス・メディカルセンターに入院し、同九月の彼の死まで、生命維持装置をつけたままだった。そんなふうに、アメリカ政府の歴史の中でもっとも腐敗した関係のひとつが終わった。もしくはそのように思われた。
    サンティは死んだ。マルコスも死んだ。一九八七年の五月にキャセイは死んだ。しかし、エンタープライズを作った多くの民間組織の指導者たちはフィリピンの地中に多くの戦争の金が残っており、サンティの世界中の銀行口座は手つかずのままだということを知っていた。
    彼らは地中から、もしくは銀行から金を回収できるかどうかを確認しようと決めた。どこをさがすべきか正確にはわからないので、ジョン・バーチ・ソサエティは彼らにロバート・カーチスに接近して、過去のことは本当に過去のことなのか確認するようにせかせた。(訳者注(マヨのぼやきさん):マルコス政権の崩壊は私たちはリアルタイムで見ていた。今から思えば民主化運動と言うのはこのような理由で行うのかと言う事に驚く。そして、今でもその手法は世界のあらゆるところで実施されている。きっと、そんな程度なのだろう。まさに、びっくりだ。レーガンのレインボーダラーも初耳だ。もし本当なら暗殺されかけたのもうなづけるし、成功していたら大変に良かったのに。)
    □五七年債
    マルコスが大統領になる前から、彼の選挙対策チームはランスデールのために働いていた。マルコスは宮殿に入る時、新しいマグサイサイ、つまり、親米家として送り込まれたのだった。マルコスはホワイトハウスに対して、彼が香港、東京、台北、シンガポール、シドニーの銀行にあるサンティの預金をワイロとして注ぎ込めば、東南アジアの指導者にヴェトナム戦争への協力が得られる様にできると説いて回った。それらの現金でのワイロは一晩で浪費される程度のものだったが、金引換証書などの派生商品の形式でその持ち主には莫大な預金の金利が手に入るものがあった。受取人として振舞っている間は、利息を引き出し続けることができた。しかし、仮に彼のことが気に入らないとなれば、その証書はニセモノと宣告されるのだ。ちょうど、自民党が「五七年債」を偽造品と言ったようにだ。
    マルコスが大統領だったとき、彼はインドシナにおけるアメリカの戦争を支持していたが、それは自由のためにではなく、自分がマラカニアンに居続けられるように、アメリカと公共投資で取引をしたのだった。
    一九八六年、レーガン大統領によって倒されるまで、彼はホワイトハウスのお気に入りだった。第一期の四年が終わる頃、彼の評判は散々だった。イメルダが週末のショッピングで一〇〇万単位の浪費をして、非難が沸き起こった。一九六八年に彼女と娘のアイミーはニューヨークの週末ショッピングで三三〇万ドルを散財した。そしてまた、税務署の記録から、イメルダが大量の預金をしたマンハッタンのシティバンクにはサンティも大量の現金と金の貯蓄口座を持っていたことが明らかになっている。ある噂(後日、本当だと証明されたが・・) マルコスの給与自体は最低水準だったのに、海外の預金口座には数十億ドルが塩漬けになっていた。
    □厳戒令の夜
    多くの批判にもかかわらず、一九六九年、マルコスは不正投票のおかげでもう一期その地位を勤めることになった。フィリピン憲法では三選は禁止されていた。憲法の改正に失敗したマルコスと防衛大臣は、一九七二年、政権に残るためには戒厳令を適用することが必要になり、共産主義の反乱をでっちあげた。そのハイライトは手榴弾によるミランダ・プラザの攻撃で、反対勢力へのテロ攻撃とロジャー・ロハスを黙らせることだった。
    □「黒い部屋」
    格別ずる賢かった事は、マルコスらがサンティにアンブレラの副長官と名づけさせたことだ。二五年間も次から次へと同じ事をして疲れきったサンティは酒に溺れていった。マルコスの制御ができなくなり、憂鬱になっていった。
    マルコスのお気に入りになり褒美にありつくのはCIA 高官のトップに成り上がる新しく気まぐれな性格の奴ばかりで、中国で暴れ回ったり、汚い策略を使って冷戦の兵士として活躍したO S S での昔の記憶などを共有しない連中だった。古い護衛兵達は彼を直接知っていたし、評価もしていた。マルコスはCIA の連中がサンティの預金に気付かず数年間もそのままになっているのを知った。彼はサンティにその休眠預金を譲渡させようと考えた。
    マルコスはサンティ基金には格別に執着した。マラカニアン宮殿では、肉体的な暴力は日常茶飯事だ。宮殿の一角にある「黒い部屋」で殺人や拷問がなされていた事は広く知られていた。大統領と対立した者はすべて酷い姿で暗殺された。目玉はくりぬかれ、バツ印のサインを付けられ死骸は路上に放置された。サンティは急いで自分自身を守り、なおかつ、個人預金を大統領により押収されない手段を考え始めた。
    彼が協力を求めた者はタルシアナ・ロドリゲスという名のフィリピ~ナだった。彼女を彼が持つすべての会社の正式な財産所有者とし、何十億ドルという現金、金の延べ棒、金引換書、世界中にある貯蔵品や財産の信託者とした。フィリピン裁判所へ提出された宣誓証書には、タルシアナが一九七一年八月にサンティに初めて会った時のいきさつが説明してある。
    従姉妹のルツ・ランバーノ(サンティの死ぬまでの最後三年間の愛人) に紹介された時、彼女は小さな会計会社で秘書をしていた。事実上、ルツは彼と結婚していたのだが、カソリックであるフィリピンでは離婚は許されないから、正式にはジュリエッタ・フェルトが彼と結婚していたことになる。
    ルツはサンティに信頼できる会計係と帳簿係が必要だと思い、タルシアナの事務所へ連れていった。後日、タルシアナはヒルトンの彼の部屋へ主任会計士として訪問した時、彼が世界の金融界での重要な人物だと知った。
    「私は彼が重要人物だとすぐわかったわ。七〇年代に普通のフィリピン人が五つ星ホテルに部屋をとっているなんて、とてもすごいことなんですもの。彼の部屋に行くと、銀行家、仲介人、仕事仲間とか、そりゃあいろんな人が次から次へと訪ねて来るのでびっくりしたわ。世界中の力のある銀行家の中で彼は有名人だったのよ」と。
    その時以降、タルシアナはサンティの中核会社の雑用兼会計係をすることになった。
    彼女は決して馬鹿な質問をしなかったが、彼の病的な癖には困っていた。ヒルトンに年間契約で住むようなゆとりがあるくせに、マグサイサイビルのCIA事務所から道路を渡ってくるとき、彼はどうしてあんなツギハギだらけの服を着ているんだろう?
    彼女はそのツギあては穴を補修しているものではないと知った。彼は狂ったフィリピーノの与太者を装って、出入りする人々を監視していたのだ。

    マルコスがロハスから金の仏像を盗み、彼を布切れのように打ち据えた後、サンティはルツ・ランバーノと一緒にファースト・ナショナル・シティ・バンク(現在のシティ・バンク)のマニラ支店へ行き口座を開設した。彼女の宣誓供述によると、「四千三百万ドルの現金を銀行家ジェームズ・J ・コーリン同席のもとで預金したのよ。小さな紙幣ばかりだったから、職員は六日もかかって数えたそうよ」。
  2. めったにおこらないことだが、銀行員は忘れたのだろう。後になり、ルツが弁護士のメル・ベリーを雇ってシティーを訴え、金を取り戻そうとしたら、「コーリン支店長はニューヨークへ宣誓証書を提出してたの。でもそれにはその口座の開設に関わったことを否定してたのよ、それどころかその取引自体までも否定して、一九七一年にセベリアーノ・サンタ・ロマーナが銀行にやってきて、何かの事業を始めるのに少しばかりのお金を借りたいと話していった事を思い出したって言うのよ」。
  3. 偽のボロ着を身にまとった風変わりな金持ちサンティはフィリピン中の家や事務所の壁の中の秘密金庫に金を貯めこんでいたにちがいない。それらは日本軍が東南アジアで没収した通貨で東京へ持って行かなかったものだったのだろう。マルコスを恐れたサンティとルツは洗濯袋に金を詰め込み、シティ・バンクへ持っていった。そこが安全だと思っていたとしたら、とんでもない間違いだった。
    ルツの話によると、サンティはそこで九個の貸金庫を借り、現金と宝石で中をいっぱいにしたという。この書面には、サンティが「自分の資産、不動産、動産、他国の通貨、財宝、貸金庫の安全と貯蔵のための個人的な理由でいろいろな名前えを使用している」とかかれてあった。さらに続けて、「私はマニラ、香港、カリフォルニア、ニューヨーク、アルゼンチン、シンガポール、台湾、ドイツ、オーストラリア、ほかのいろいろなアジアの国々の貸金庫に多くの資産を保有している」と。
    □マニラ支店からニューヨーク本店への本支店間送金なんてそんなに簡単じゃない。
    マルコス一族の話では、軍事裁判の直前、サンティはファースト・ナショナル・シティー・バンクのマニラ支店からニューヨークのシティ・バンクへ預金を動かし、八億ドルをフィリピンから海外へ振替えたそうである。しかし、彼はそんなにすぐに送金をしたわけではない。
    だいたいフィリピンは米ドルを海外に送るってことが許されていない。もしできるとすれば、マルコスに二〇%は払わなければならない。
    □無理やり欠かされた遺言書
    案の定、一九七三年二月二七日、サンティは大統領個人事務室のあるマラカニアン宮殿に出頭させられ、マルコスにタイプで書かれた「遺言書」に署名をさせられた。
    遺言書には「私の妻、ジュリエッタ・フェルトを上記のすべての財産の後継者とし、私が死にいたった場合、全権力と権威のもとに裁判所の検認に従い、私の管財人を執行するための第三者を指名するであろう」と銘記されていた。遺言書にサンティが署名し、立会人は仕事仲間のジョーズ・T・ベラスケス、そしてマルコスの従僕、ジル・デ・グツマンと大統領秘書ビクタ・G ・ニチューダだった。
    正式にジユリエッタ・フェルトを唯一の法定相続人にするものだったが、彼が死ぬとマルコスが容易に財産の管財人を指名できることになっていた。そうなればマルコスがサンティの預金を支配できることになる。
    数ヵ月後の一九七三年三月、他にも精神的な攻撃を受け、マニラから香港の香港上海銀行へ五億ドル移した。この合計、つまりニューヨークのシティバンクへ振り替えた八億ドルを加えると、彼はマニラの外へ現金で一三億ドル移し終えていた。(訳者注:ナンドも言うが海外送金はマルコスの許しが無ければできないし、フィリピンに一三億ドルの預金が在るはずが無い。フィrピンは貧乏なのだ。)
    □三和銀行登場
    同じ期間、彼は後日、日本の三和銀行に乗っ取られてしまうことになる一六四〇トンの金塊を香港(上海)銀行(実際はPoSangBank) へ移送した。それからすぐ、レイテ島のタクロバンへの旅行中、ルツとサンティは逮捕への恐怖からなのか、飲みすぎで大騒ぎをしてしまった。戒厳令の中、マルコスは誰でも逮捕することができる。タルシアナはサンティからキャンプ・バンパスの軍事基地に留置されていると長距離電話で告げられた。彼はタルシアナに「噂話で」逮捕されたと言った。(マルコスが裏で噂を流していた! ) できる限り早くレイテに来てほしいとタルシアナに叫んだ。タルシアナがやってきたので、彼はシティバンクの支店長代理へ私信を運ぶように話し、貸金庫の鍵を渡した。ひとつの貸金庫には他の八つの貸金庫の鍵が入っていた。二番目の金庫にはタルシアナが貸金庫の支払いをするための現金が、三番目には彼女に持ってきてほしい宝石類が入っている。
    タルシアナが手紙と鍵を持ってシティバンクへ行くと、コーリンは出国していつ戻るか分からないと聞かされた。
    何年にも渡ってサンティはCIAやランズデール将軍に格別に保護されてきた。しかし一九七三年、諜報部は大混乱に陥った。高官の多くは、「首になるか、左遷されるなんて馬鹿馬鹿しい」と辞職していった。彼らの関心は、自分達の秘密組織か影のCIA を設立する事に集中した。CIA はよく「ザ・カンパニー」と呼ばれていたから、新しく作った影のCIA は「エンタープライズ」とでも呼ばれていたのだろう。(あとの章でもっと詳しく説明しよう。そして不思議な成り行きも・・・。)
    この混乱の中、サンティはランズデール、ヘリウェル、クラインなどと共に昔なじみとしてワシントンに招かれた。
    一ヶ月以上にわたり、彼らはサンティと昔のO S S の話、例えばマオとの戦い、台湾脱出の話、どの様にしてC A T (クレイル・ケンナウルト市民航空)をエアー・アメリカ(オピューム号:麻薬号)に変えたのか、あるいはラテン・アメリカやアフリカ、そして鉄のカーテンの裏で行った数々の秘密作戦を説明し、大いに盛り上がっていた。サンティはメイフラワー・ホテルへ帰ると、毎晩グラスを片手に椅子に座り、知りえた事を日記に書いていた。ところどころ日付や綴りが間違っているあわれな文章は、タルシアに言わせるとウイスキーのせいだった。その日記の中には数年後にようやくアメリカ市民が知るようになる数多くのCIA 秘密工作の内容が説明してあった。例えばどうしてCIAが自らD N P エンタープライズの様なものを所有したのか。アンゴラなど、極秘の戦争支援のためにどのぐらいの会社が、航空、海運、軍事物資の供給、傭兵などで存在したのか・・などなど・・。
    人々は、「沈黙を守るために年金を払うのだ」と彼は言う。そして道徳的なジレンマを多くの諜報員の作戦で感じていたと述べている。
    「事件に対する倫理観があったかどうか疑問だし、戦時法はCIA には適用されないからね」。
    費用も法的な許可なしに使われ、諜報員への資金援助は彼らの好きにまかせた。
  4. サンティは神経質になっていたようで、「ラングレー本部は時々、財産は確かに増えていると曖昧にほのめかしただけだ」とある。日記の最後のあたりには、CIA とニクソン政権はアジア全体をだらしない地域だと信じており、長期間の米国介入を正当化したと書いている。
    強調したいのは、第三世界であるアジア独占企業の内部事情にあからさまなアメリカの干渉が継続していたことだ。
    さて、昔のサンティの保護者が望んでいたものは、今や私設CIA や私設の軍隊に寄って「黒の金塊」を手に入れることに変わった。
    彼らはサンティが大変な金額の個人預金を眠ったまま所有していることを知っていて、それを自由にしたかったのだ。
    マルコス、CIA 、新しい影のCIA の強い圧力に対し、サンティは自分自身と財産を守るために次の段階へ進まねばならなかった。
    彼はフィリピンへ引き返し、よく考えた後の一九七四年八月一日、タルシアナへ電話を入れ、カバイト市へ会いにくるように求めた。彼女がやってきた時、彼は、彼女に「すべての基金と有価証券、社債の管理と責任」を持ってもらうことにした。「DNPエンタープライズ」の会計士として彼女を正式かつ公式に指名する書類を渡した。彼の旧友であり同僚のDNPエンタープライズ社長、ホセT.バラスクィーズ・JRの助言に基づき預金も企業への融資も「ホセT.・バラスクィーズ・JR」名で行うことにしたのだ。
    ホセT.バラスクィーズ・JR、彼は又、ウェールズ・ファーゴ銀行とハノーバー銀行にあるサンティの口座をどうするかを指示した。
    タルシアナ、彼女は、どうしてもっとふさわしい人を選ばないのかをたずねた。
    サンテイは「信頼できるのは君しかいないよ」と言った。
    サンティは善悪の区別を失いつつあったマニラ虐殺の後の苦しかった時期、コジマ少佐を拷問してから三〇年がすぎていた。《つまりこの時は一九七〇年代の終わりのころだ。》
    ゴールデンリィリーの地下金庫からの回収作業は一九四七年で終わり、彼はその歩合から大きな収入を享受し始めた。質素な生活を好んだので、彼の財産は今までに比べとんでもないものに成長していた。
    心優しいサンティは、年がたつほど陽気になっていった。しかし、マルコスの裏切りと残酷さには耐えられなかった。ワシントンでは、暗殺、誘拐、残虐事件、人間性を問われるような大きな詐欺などの話で彼をkる占めた元CIAの連中と対決させられた。
    サンティと宝探し団にとって第二次大戦は終わっていない。彼は初めて自分が悪漢や暗殺団の雇い主であったと思い始め、それが彼を憂鬱な気分にさせていた。
    安全対策のため、タルシアナ、ルツ、ベラスクィーズの三人が預金をおろせるための口座として、香港上海銀行マニラ支店(一九二二年開設、フィリピン国庫金の管理をした。後に撤退し香港セントラル支店に吸収されたので金塊預金も香港に移ったと考えられる。)の口座開設届けの署名見本用紙に署名させた。彼はルツとタルシアナに彼のすべての偽名、会社、登記場所、彼の口座がある銀行すべてを記憶するように命じた。各銀行の口座番号、コードとキーワード、そしてその預金の引き出しに必要なすべての事務手続きを一覧表にして渡した。彼はいっそう深酒となり、肝臓は悪化した。八月後半、タルシアナは彼が「不安気で心配そうで・・・とても具合悪く、息も絶え絶えだ」と気づいた。
    一九七四年九月一三日、彼は倒れ、パサイ市のサン・ジュアン・デ・ディオス(San Juan de Dios)病院へ収容された。
    彼はベッド脇にいるタルシアナへ貸金庫を開ける時がきたと言った。
    彼は彼女に信託証書の保証約款を渡し、識別表と多くの説明書、彼の人生の「発掘と冒険」の話を書いたメモを渡した。
    九月二一日、彼は病院で新しく四ページの遺言書を書き上げた。「私は時間がほしい。どんなにつじつまが合わなくてもこの遺言が日の目を見るようにしてほしい」。
    彼はマルコスに強制されて署名したマラカニアン宮殿の遺書の内容に言及した。この新しい遺言で彼は、香港上海銀行の香港セントラル支店の預金口座と莫大な信託財産を挙げ、他にシティバンク・マニラ支店(一九〇二年開設、フィリピンで最大の商業銀行、現在はマカティに支店がある。シティは九〇年代フィリピン財閥に富裕者層財産運用口座を初めて導入した。)の預金口座と信託財産を挙げた。彼は銀行預金の受取人として全部で一四人の名前を出した。《名前は公表していない。》シティバンク・マニラ支店の銀行預金通帳からは六千五百万ドル以上の配分を決定した。香港上海銀行香港セントラル支店からは、二千万ドル以上と別に八百万ドルの配分を決めた。他に香港上海銀行の一億二千万ドルはレイテの人々と、言い忘れた人達のためにとっておいた。又、サン・ジュアン市(現在のボニファシィオグローバルシティ)のシティ・バンクにある個人口座から五千万ドルと、別の一千万ペソを配分した。受取人の中には最初の結婚での二人の息子、ピーターとロイ・ディアス、スペイン名でペドロとロランドが含まれていた。(この自筆の遺言書はフィリピンと米国の裁判以前に検認されていただろう。そしてCDに載せてある。)
    病院で十二日が過ぎ、彼の娘フロレデリッサ・タントコ・サンタ・ロマーナ(よくリザ・タンと呼ばれている)は父の看護から解放された。
    サンティは病院を出ることを恐れたが、リザは彼が自宅で死ぬ事を望んだ。
    彼女が自宅のあるカバナツアン市へ連れていった数日後、彼はベッドの上で死んだ。肝硬変だった。
  5. マルコス一族に精通している情報筋によると、ランズデール少佐はすぐにシティ・バンクのマニラ支店に残っているサンティの金の延べ棒すべてをニューヨークにあるシティ・バンク本店へ移すように手配したという。もし彼がサンティの名前による法廷弁護人の委任状を利用したのでないなら、それを実行できた説明は困難だろう。動機のひとつは、たぶんマルコスが没収する前にゴールドをマニラの外へ持ち出したかったことだろう。又、別の魔法の杖をふるうことで、別の銀行にある大きな預金、特にその中で特筆すべきは二万トンの金塊が収められていると言われ、名義人の記録にサンティが載っている口座がランズデール名義に書き替えられていた。( U B S の証書にはあきらかに合意のもとわざとLandsdale と綴られていた。)
    ラ ンスディールはその預金をより巨大なCIA 、あるいはジョンバーチ協会とか世界反共連盟などの保守陣営の権力者とエンタープライズ社の支配に委ねたのだろうか? その回答はあとで確かめよう。仮にマルコスがサンティの死で預金すべての支配をマルコスの与えられると考えていたとすればがっかりであろう。マルコスとCIA やホワイトハウスとの関係は険悪になっていった。
    マルコスはその預金に関わることができると考えていた。CIA とホワイトハウスは彼を操ることができると考えた。彼らはどちらも正しかった。回収する財宝がある限りサンティの休眠口座はそのままにされていただろう。
    □死亡診断書
    一九七四年九月三〇日、サンティがある病院で肝臓がんで死んだことは娘さんの供述書で確からしい。(下の死亡証明書に死亡日の日付がある。)
    一年後の七五年十月一日にある医者から、「私はサンティさんの死の床には立ち会っていなかったが娘さんがたしかに父は死んだと云われたのでその死亡診断書を書いた」と証言が得られた。(上の診断書に証明した日の年月日がある。)
    それから十二年後、八七年十二月三一日になってから、裁判に必要だからとある弁護士に言われた娘さんは、云われたとおり、公証人に「その死亡診断書がホンモノである」との宣誓書を公証してもらうことにした。これがその公正証書である。(上の診断書の末尾に公証した日の年月日が記載されている。)
  6. さあ、みなさんはどれが裁判の証拠として有効かわかるか?あるいはどれも証拠性はないのか?「答?もちろん一番目の娘さんの供述書だ」。だが、それから十二年もたってからサンティは確かに死んだという事実を証明しろと言う裁判があっていいものだろうか?これはその裁判官がサンティが実在の人物なのか疑っているせいかもしれない。第一にサンティとは誰か?空想の、あるいは伝説上の人物か?写真は?確かに存在したと言う証拠は?ってことになるね。ところで、今日ではフィリピン政府はサンタ・ロマーナが実在の人物であることを否定している。「彼は伝説上の人間なんだ」と言うのだ。彼の家族にも政府は云うんだ。だが、われわれ(シーグレーブ夫妻)は彼の兄弟、情婦、娘にもインタビューした。彼のお墓にも行った。数百ページの書類や、テープ、ビデオ、証人勘定、結婚証明、CIA上級幹部の確認書、マルコス一族やサンティの会社の確認書、銀行記録、裁判記録ー六〇年以上にわたる明白な記録がある 。
    サンティの発見した金塊は秘密のファンド、たとえば日本のMファンドみたいなファンドの基礎となっているカネだ。彼はアメリカが創成した「ゴールデンリィリー」の“ゲートキーパー”なんだ。マルコスが割り込んでくるまではな、マルコスはサンティに変わってゴールデンリィリーの新米の“門番”になった。
    四七年サンティがお宝を発見し二〇年が過ぎるまでは何事もなかった。二〇年後、今度はマルコスが同じことをしたので問題が起った。五〇年代日本の小さな団体がいろいろ理屈をこねて、宝探しに参加してきた。戦没者の遺骨収集のためとか、スクラップ船の回収のためとか。東京はフィリピン人に色々インフラ整備のプロジェクトを持ち込み、灌漑設備だとか、浚渫だとか、山深い開墾地の農道であるとかを無償で(つまり、日本の国家予算で)整備した。日本のサルベージ会社はマニラ湾で航行障害を引き起こしている沈没船の除去と言う名目で、湾岸のストックヤードへ全部陸揚げした。そしてそのスクラップを石炭船に積み込み全部持っていってしまった。お宝も全部。日本の工場が全部、フィリピンの僻地に作られた。工場の設置目的は「深層掘削」。その目的が達成されると雇用されているフィリピ~ノのために準備されていた、テレビとかテープレコーダーとか、コンピュータ(その当時そんなものが有ったとは思えないが、)とか冷蔵庫とか、エアコン(多分、クーラーと云うやつ)をラワン材を使って重梱包し、全部日本へ持っていってしまった。フィリピ~ノたちは文句を言った。「俺たちはそんなものを見たことも無い」と。
    CIA筋によると、「俺たちはそれが金塊の密輸だとは知っていたがね、何も云わなかったよ」と云った。何もしなくても分け前が転がり込むからだ。
    マルコスが金塊回収ゲームに最初に参加したのは偶然からだった。日本の二つの会社がイロコス・ノルテ州で掘削をはじめたからだ。イロコス・ノルテ(北州)とは、ルソン島の頭の方に在る州でマルコス一家となじみのある州だ。そこにはマルコスの遺骸が飾られている記念館があるし、イメルダは「まだ、夫は死んではいない、そこに眠っている」と云っている。その証拠に遺骸は液体窒素で眠らされている。マルコスの長女、アイミーはその州の知事だ。
    帝国の退役軍人(すなわち、旧日本軍幹部でその会社で働いている人)は、めいめい発見したゴールドバーを“どこか”に隠している 。
    第一〇章、傘で話したがその前に、頭のいいマルコス青年政治家(ー彼はフィリピン国立大学の法律科を最優秀で卒業した。フィリピン憲法の条文を尻の方からも正確に暗誦できる。)はサンティのお宝発見のニュースを聞き、彼を再教育することにした。すなわち、サンティの仕事の組織「傘」をのっとり、自分がその代表におさまるのだ。何しろマルコスは優秀な弁護士(タガロク語で「アボガ~ド」)で、自分のためならどんな悪辣な方法でもとれる。一九六五年マルコスは大統領に選ばれた。すると日本の裏社会のボス、笹川良一がマルコスに接近し、一緒にお宝を探索しないかと持ちかけてきた。児玉の取り巻きである(逆じゃないかと思うが、)笹川は大きな埋蔵物がある場所を知っていた。実際、マルコスは大統領令で何でもできる。たとえば、「全山進入禁止」の立て看板を立て、特別入山料で儲けるとか、こうした方が自分で宝探しをするより効率的で儲かるのだ。こういうこともある。かなり古いイワシの缶ズメを輸入したときのことである。その缶ズメを食った市民がたくさん死んだ。それでもマルコスは輸入権料をもらい続けたという話だ 。
    CIAのある上級幹部はいつでも「サンテイィはOSSのエージェント」だという。エージェントは秘密にしておかねばならないのでこの世に存在していないように扱っているのだそうだ。サンティはウイリアム・ドノバン将軍が率いるOSSの情報将校だったと言うのだが、この意味はあまり意味が無い。実在の人物を登場させ、その人を良く知っているという人も実在の人物だと錯覚させるオレオレ詐欺と同じだ。実はサンティはOSSと関係が無い。それにコジマを尋問したのもOSSの関与は公式にはなかった。だが、非公式にはOSSも関与した。
    □フィリピン・ゲリラ
    アパリ(カガヤン州)戦争の前半、アメリカはフィリピンから撤退したのではない。マッカーサーたち幹部はオーストラリアに逃げたが、フィリピンの各地の山や海、村に隠れた米比軍兵士たちもいたのである。米比軍の若い幹部たちはフィリピンの人々でゲリラ部隊を組織し、日本軍基地を襲った。たとえば、ミンダナオ島のファーテイング大佐、パーソン司令官、サマール島のメリット大佐、コージング中佐、ネグロス島のアブシード大尉、ゲイダー大尉、セブ島のクッシング中佐、ボホール島のインジェニエロ中佐、ルソン島北部カガヤン州アバリ町のヴォルクマン少佐、同中部バギオ町のラファム少佐、レイテ島のカングレオン大佐などだ。ゲリラ活動は一九四三年七月、フィリピンに連合軍諜報局(AIB)の支部が設置されるとホイットニィー大佐が責任者に任じられる。それまで、南西太平洋軍参謀第二部(GⅡ)、ウイロビィ-大佐(在キャンベラ)と連絡を取っていたフィリピン・ゲリラがホイットニィーの下で総合に連絡を取り合い、翌四四年十月二〇日、アメリカ軍のフィリピン侵攻作戦(レイテ島上陸)を機に一斉に蜂起し日本軍を後方から苦しめた。
    ここに登場するホイットニィー大佐とウイロビィー大佐は犬猿の中で、日本のGHQの幹部となってもお互いが衝突していたことは別の機会に述べる。このゲリラ組織の誰かが日本軍がフィリピンの各地にアジアの略奪物資を隠しているのを目撃していたわけである。詳細は他の連合国軍、英国軍とは共用されなかった。
    戦いの最中にマニラに近い軍港、スービック湾に在る病院船が入稿し、中から多数の銅製の箱が運び出された。それを目撃したのは海軍准士官のジョン・C.バリンジャー(John C. Ballinger)だった。彼は漁夫に身をやつしており、派手に塗装した現地の双胴の丸木舟に乗ってこっそり写真撮影をした。「病院船なんかじゃない」とわれわれ(夫妻)は思った。分析して見ると、それは一九三七年に日本で建造された貨物船「フジ丸」(Huzi Maru)だった。病院船に見せるため全体が白く仮装されており、舷側に大きな緑の十字マーク。シンガポールからマニラへ秩父宮のため、ゴールデン・リイリィを運んでいたのだ。バリンジャー下士官が所属するメジナ大尉(Cap. Medina)のゲリラ隊は、次いで、ジャングルの奥にトラックで運ばれていくのも目撃している。
 
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