キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

十三章 パラデンス Ⅰ  キサラギジュン訳2017

2017-05-05 20:33:07 | ゴールドウオリアーズ
ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter一三章  パラデンス (THE PALADINS)
アメリカの法廷で、この金塊が二〇年間のマルコス治世の時代に彼が稼いだ物でそれを貨物として船積み輸出したと言うことが証明された。だが、それが、フィリピン中央銀行の在庫から盗んだ物ではなく、ベンゲット金銅鉱山のアウトプットでもないと結論付けられると、「じゃ~それはいったいどこへ運んでいったのか?」が問題となる。(パラデンス THE PALADINCE)
□PIOsとPMFs
あるとき、マルコスがフィリピンの大統領だった二〇年の間に大量の金塊が運び出されたことがアメリカの裁判でわかった。金塊はフィリピンの中央銀行(旧フィリピン中銀、日銀との仲が良くスワップ協定などを結んでいる)やベンゲット鉱山(BenGuetバギオ山地のサントトーマスⅡ鉱山、父マッカーサーが株主だった)から持ち出されたものではなかった。 (ジョンソン・マッセイ・フィリピン銀貨・・五万ペソ)
ー問題は行き先である。マルコスが秘密裏に持ち出した金塊の多くは、マニラのジョンソン・マッセイ化学工場で精製された。ロバート・カーチス(Robert Curtis:ラスヴェガスのカーディーラーだったがフィリピン・コレヒドールに招かれ宝探しをした。)がテキサスから持ち込んだ精錬装置を使って鋳なおしたものだ。
金塊の所有と譲渡を示す書面がマニラのジョンソン・マッセイ銀行(訳者注:本当は英国人の香港商社だ)で作られた。その金塊はニューヨーク、チューリッヒ、ロンドンのゴールドプール(シンジケート)を通じて売却された(訳者注:といってもスイスの金塊の所有権証書の名義を切り替えるだけ)。その他サウジの皇子や中東のグループ、口の堅いルクセンブルグやリヒテンシュタイン国のバンカーを通じてヨーロッパ人たちに売られていった(訳者注:と云っても金証券の名前を切り替えるだけ)。運送状(訳者注:実際に金が移動する場合)やその他の書類を見ると金塊はアメリカへ船便、航空便で運ばれている(訳者注:実際に金塊が移動した)。また、香港やオーストラリアの軍事基地へはアメリカCIAの飛行機(麻薬航空)が使われて本当の金が移動した。
ここで言えることは、その金塊がフォートノックス(Fort Knox)へ運び込まれて消えてしまったもののことではないということだ。もしそれだったらアメリカ政府は決して許さなかったろう。「金がタングステンやモリブデンなどの非貴金属に代わることはないのだから)。 (フォートノックスの本当の金塊)じゃ~何処へいいたのか?
「誰がマルコスを援けそれを隠しておくことができるか?」
「CIAか?ペンタゴンじゃないかって?」
「だれがこの略奪物を取り返したのか?」
「連邦政府が民間に少し分け前をやったというわけか?」
あまりに質問が多いな。答えはこうだ。マルコスはCIAを超えるコネクションと接触できる立場にあった。コネクションとは陰のネットワーク、”企業家”と呼ばれるグループ。フィリピンでは私的情報機関(PIOs)と私的軍隊組織(PMFs)のことだ。
こいつらはCIAやペンタゴンの退職者たちが作った組織で、彼らは自分のことを冷戦時代のParadinsと呼んでいた。PIOsやPMFssは七〇年代遅くスタートしたフィリピンの私的組織だ。
□"家の宝物”
ジミー・カーター(大分前のアメリカ大統領)が蟻塚をかき回して(CIAを解体しようとした)司法省や国防省に人事の嵐を吹かせた。八〇年代に入るとその組織のキャリアーを温存するためCIAやペンタゴン以外の別の場所に退職者の組織を造る必要が生じた。
一九七二年リチャード・ヘルメスがCIA長官を更迭されてジェームス・シュレジンジャー(James Schlesinger)が長官になると、枯れ木の森のようなCIAのエージェントたちを次々と首にした。ダーティ・トリックス(汚いトリック野郎)といわれるヘルムス前長官の派閥に組する連中も首にしていった。
「ダーティ・トリックスの連中はず~とアメリカの法律を犯し続けてきた。殺人なんかへっチャラな奴らだ」とカーターが勝手に思っていたのだ。
ウオーターゲートの侵入劇、それも彼ら(CIA)の仕業だ。シュレジンジャーは彼らの犯罪行為を洗い出し、政府にどのような迷惑がかかるかリストアップして評価したのだ。
公文書館が次々と話題を提供した。 "家の宝物”("the family Jewels")が六九三pもの大書となって完成した 。「マングース作戦」、「死んだイカ作戦」、「フェニックス作戦」など国家機密の名で秘匿されていた陰湿な仕事が次々と明らかになった。これでCIAのエージェントたちは自主的に辞めるか早期退職勧奨を受けることになった。
ニクソンが弾劾を受ける前に辞め、フォードが大統領になるとCIAの悪事を暴きだそうとしたが、抵抗された。その理由は「トルーマン以来の悪事をあからさまにすれば、アメリカの歴代大統領の顔に泥を塗ることになる」というものだ。フェニックス事件に対する議会の審問、ロッキード事件審問、後のイランコントラ事件などCIAとペンタゴンの大掃除が続いた。これらの大事件はCIAのレイ・クラインとタッグマッチを組んだニクソン(キッシンジャー)、およびCIAのジョン・シングローブと手を組んだジミー・カーターとが起こしたものだ。カーターにいたってはあまりにもCIAの大掃除に力を入れすぎ、リタイヤ後に、本当は忙しくなるハズの講演事業など閑古鳥が鳴いたのである。だいたい、古代からローマの皇帝が自軍を解体するなんてことは考えられなかったことだった。それで、解体されたCIAの幹部たちは極右のバーチ協会(Birch Society)やムーニーズ(Moonies)、あるいは世界統一教会(World Anti-Communist League)、巨万の富豪たちから資金をもらって別の組織を作った。
□エンタプラズ
一九七二年の終わり、ジェイムズ・シュレジンジャーは、リチャード・ヘルムズに代ってCIA長官に就任した。彼は、もう役に立たない連中や、ヘルムズの下で暗殺も含め、アメリカの法を侵す活動に長期間従事してきた不正工作一派、数百人の工作員を強制的に退職させる意向をはっきり示した。CIAがウォーターゲート侵入事件や他の国内の侵入事件に絡んでいることが知られるようになった時、シュレジンジャーは内部調査と、政府に迷惑をかけるかも知れないCIAに関わる全ての諜報計画の完全なリストを作成するよう命じた。結果的に六九三頁の「家族の宝石」という報告書となったが、マングース作戦のような暗殺計画、フェニックス作戦における殺人部隊、国家安全保障のために隠された汚い仕事についての情報などが漏洩することになった。そして百人以上のCIA職員が首になるか早期退職を余儀なくされた。
フォード大統領はニクソンが辞任してから、CIAの悪事を調査するためにロックフェラー委員会を設置したが、「米国やトルーマン以後の各大統領の名前を傷つけそうな」事実を明らかにしないよう強硬な保守派を配置した。
フェニックス作戦、ロッキードワイロスキャンダル、その後のイラン・コントラ事件に関する議会聴聞会が開かれ、CIAと国防総省に対する追加的な粛清が行われることになった。
こうした追放に加えて、中国との和解についてCIA職員のレイ・クラインとニクソン大統領の間に、ジミー・カーターに対するジョン・シングローブ少将やジョージ・キーガン空軍司令官のような軍トップとの間に生じたのと同じような争いがあった。カーターが大変多くの職業軍人やスパイを排除した時、彼らが個人生活を楽しむために何をやるべきかということまで充分考えたようには思えない。どんなローマ皇帝でも軍団を解散するときにそれほど不注意であったことはなかったであろう。
賢明で攻撃的な男たちが、バーチ・ソサエティやムーニィズ、世界反共連盟、金持ちの保守派の大物などから資金援助を受けてこっそりと再結集した。
サンティの「傘グループ」のように、「エンタープライズ」は一九八〇年代の後半にパワーと影響力のある組織に成長した。彼らはすでに民間の市民であったが、こうした男たちは、軍当局者やCIAや国軍の長にたいして緊密なつながりを持ち続けた。こうした二重構造のため、公的なアメリカ政府の活動と秘密の目的を持れていた。事実、PMFsのいくつかは、軍司令官や提督や元スパイが政府業務から離れていないかのごとく、給料や年金を引き出し続けることが出来るように作られたみせかけにすぎなかった。多くのCIA職員は各種のごまかしの下で、数年いや数十年過してきたので、彼らがすでにCIAを辞めたのか単に地下に潜ったのかを、何の疑いもなく確定することは難しかった。
□ウィリアム・キャセイ
ひとつの完璧な例は、ウィリアム・キャセイ(William Casey)である。キャセイはOSSのオリジナルメンバーの一人である。彼は法科学校を終了後、会計会社で働き、同僚の弁護士であるジョン・ポップ・ハウレイ(Howley)と関係を維持した。ジョンはワイルド・ビル・ドノバン法律事務所、ドノバン・レジャー・ニュートン・アンド・アービーンで働いていた。ドノバンがOSSの長官に就任したとき、キャセイとハウレイは彼の組織、OSSに参加した。キャセイは戦時中のジョン・シングローブ事件の担当官だった。
一方、ポール・ヘリウェル(Pole Helliwell)はシングローブの直接の上司である。キャセイはまたアレン・ダレスやジョン・フォスター・ダレスの親密な友人であり、レイ・クラインと共に働き、コジマ少佐に対してサンタ・ロマーナが拷問で成果をあげていたころ、ランズデールに関係するようになった。このため、キャセイはブラック・イーグルについて多くを知ることになったのである。
ある情報筋は、このエンタープライズ組織の活動を公的なものか私的なものか厳密に区別することは、殆ど不可能であると云う。これらの元CIAの多くが、秘密の活動、詐欺行為、公共サービスの流用や秘密基金の使用などに長年従事してきたため、本当に分からなかったのだ。エンタープライズのメンバーは、民間企業の合法的な会社の姿であるが、実際は情報機関のための、もっと言えば軍部のための「トロイの木馬」の役割を果たすCIAの秘密企業と仕事をすることに慣のもとにブラック・イーグル・信託を開始するとき、ポール・ヘリウェルやエドウィン・ポーレイと同じように重要人物の一人となった。
戦後、キャセイと友人ハウエルは、彼らのウォール・ストリート法律事務所を設立した。しかし、キャセイを本当に金持ちにしたのは、一九五四年のメディア所有会社キャピタル・シティズを立ち上げるとき、別の元諜報担当者と関係を持ったことにある。多くの調査によれば、この時期、CIAは放送や出版における秘密の活動のためのみせかけ会社を設立するため、数百万ドルを注ぎ込んだし、キャセイは破綻したメディア会社を獲得し、赤字決算から抜け出すためキャピタル・シティズにこれらの資金のいくばくを注ぎ込んだといわれている。キャセイは決してCIAを去ったのではなく、ただ金融を扱う蝶々に生まれ変わっただけだった。自らの全職歴が不正の金融活動に巻き込まれた一人の男、キャセイは本書に登場する多くの主要人物と関係をもった。彼のDNAはサンティに出会う前からマルコスが終わるまで、あらゆる場所に存在している。彼はCIAの民営化を夢見た男の一人で、CIA長官としてレーガン大統領にその方法を示した。
レーガンの最初の行動は、大統領行政命令一二三三三号に署名することだった。上級のCIA工作員がウォール・ストリートで二重の仕事をしたのは初めてではなく、アレン・ダレスは同じことをやった多くの中の一人にすぎなかった。
一九七一年から七三年の間に、キャセイは証券取引委員会(SEC)の委員長としてニクソンに任命され、そこでSECの弁護士スタンリー・スポーキン(Stanley Sporkin)と緊密に仕事をした。(スポーキンは後にキャセイからCIAの法律顧問に任命され、チーレー事件に関与する。最終的にはマルコスの失脚と追放に関与し、そしてマルコスの金塊を陰で操った。)キャセイはニクソンの経済諮問会議の議長を任せられ、一九七八年には輸出入銀行の頭取になっている。キャッセイはマンハッタン研究所というシンクタンクを創設、CIAの卒業者を雇い、保守財団から保守的著作活動家に資金提供を行った。
この命令は、CIAや他の政府機関がPMFsと契約をすることを公認し、「公認された諜報目的のための契約や調停は、財政支援元を明かす必要がない」ことを公認するものだった。このことでキャセイはクライン、シングローブ、シャックレー、ランズデール、他の多くの追放された者たちとの仕事にもどることになった。そして、彼らの活動をあいまいにしながら、彼らを、少なくとも論理的には秘密の領域の人間にしていた。同時にキャセイは、個人的にマルコス大統領を丸め込む仕事を引き継ぎ、黒の金塊を提供するようにCIAの総合弁護士として指名され、事件に関与することになる)。キャセイはニクソン政権の経済担当次官として、また輸出入銀行の会長として仕えた。一九七八年、キャセイはマンハッタン研究所というシンクタンクを設立したが,そこは多くの元CIA職員を抱え、保守派の基金から保守派の作家まで回り、かき集めた金を注ぎ込んだ。キャセイがキャピタル・シティズを去り、レーガンの大統領の選挙参謀となり、その後レーガン政権のCIA長官になった時、キャピタル・シティズの株を七百五十万ドルも所有する最大の株主であったといわれている。彼はずっと大株主であったし、CIAの長官であった一九八五年、キャピタル・シティズはABCを買収している。
結局のところ、イラン・コントラ事件ではエンタープライズのメンバーと、選挙で選ばれたわけではない国家安全保障会議、国防総省やCIAの職員との間で親密な契約があったことを明らかにしている。
そうした二重構造は政府にとっては、例えばランズデールがマフィアに対してフィデル・カストロの暗殺を依頼するような時に役に立つのである。PMFsを使い、よその国で暗殺部隊を訓練させることは、ホワイトハウスが暗殺を含む秘密の海外での政治目的を実行することを可能にした。また米国とは戦争状態にない国で、代理軍事活動も可能になったのである。それは対外政策の汚い部分を実行するために、外科手術用手袋やコンドームをつけて、指紋もDNAも残さないようなものである。役人が委託殺人をうまくやってしまうことが許されるだろうか?これは、連続殺人の常習化につながるのではないか?これまでに、驚くほど多くの元帥、海軍大将が、国家安全保障会議の高級幹部がフィリピンでの財宝探しと、マニラからの秘密の金のせいで暗殺された。
□フェニックス作戦
フェニックス作戦は一九六九年から一九七二年までサイゴンのCIA局長で、後に作戦担当のCIA副長官になった、テッド・シャクリー(Ted Shackley)に監督されていた。ある情報筋によると、シングローブは軍事面でフェニックス作戦に関与していたと主張しているが、本人は強く否定している。彼は確かに、シャクリーを含む作戦に関与した多くの人間に近いところにいた。ウィリアム・コルビーは上院聴聞会で、フェニックス作戦では、共産主義者と疑われた二万人以上のヴェトナム市民(男・女子供)を殺したと述べた。別の人間は合計を七万人以上と言っている。
議会聴聞会は、フェニックス作戦は総じて非合法活動であると宣言した。それでも、フェニックス作戦は一九七五年に米軍がサイゴンから撤退するまで、議会の方針に従わないで続けられた。
「フェニックス作戦は退役軍人ネットワークの創造だった」と作戦の担当であったスタン・フルチャーは言っている。「最高レベルの男たちのグループ、つまりコルビーとそうした連中は自分たちのことをアラビアのロレンスと考えていた」同様の古い仲間がエル・サルバドルにいて、この時は、レイ・クラインは特別戦争学校で訓練された台湾の将校を含む代理軍を使っていた。ジャーナリスト、ダグラス・バレンタインは次のように説明する。「フェニックス作戦の全員が一般的に持っていたのは、強圧的な政府やコントラのような」反乱グループに武器や補給品を売って、彼らが反テロリズムから利益を得ていた。それらの名残が第三世界中の焼き尽くされた灰のあとなのだ。
シングローブとシャクリーは後にCIAを去り、エンタープライズの組織と緊密に一体化した。シングローブは公表されている一九七八年のカーター大統領との争いの後、野に下った。
ランズデール、レイ・クライン、そしてジョン・シングローブのようなエンタープライズの中で良く知られた人物の幾人かは、第二次世界大戦中にOSSで仕事を開始し、トルーマンやアイゼンハワー政府の時代に急速に出世をしたのだ。
当時、ナチや日本軍の金は不法活動を立ち上げるために、M資金のように使われた。「冷戦主義者」としての彼らの政治観は、蒋介石総統を救出しようとした時に、イランでシャー(最後のイラン帝国皇帝)に権力を持たせた時、スカルノやカストロを排除しようとした時、チリのアジェンデ政権を転覆させる動きを助けた時、カンボジアやラオス、ヴェトナムで不都合な市民を処分する自由をもっていた時などに形成された。
ランズデールは、まだ現役の提督であったが、カストロを殺す活動であるマングース作戦を指揮した。ランズデールはケネディ大統領により引退を余儀なくされた時、かれは簡単に野にくだり、エンタープライズの設立委員となって、一九八七年に死ぬまでその中心人物であった。
カーター政権のCIA長官、スタンスフィールド・ターナーとのケンカの翌年に野に下った。シングローブとランズデールはその時、ウイリアム・キャセイに率いられ、レーガンの選挙運動に参加した。
□シュレシンジャーによる「家族の宝石」
シュレシンジャーによる「家族の宝石」関連の追放と、それに続くカーター大統領による人事面の粛清という組み合わせの影響は、そのために思わぬ面倒を招いた。それは極右を地下活動や民間企業に追いやり、そこではチェック無しにかなりの程度まで活動が出来たし、政府の秘密の資産を自由に使え続けられたという意味においている。それゆえに、PMFsは少し名前を挙げるだけでも、南アメリカ、アンゴラ、コロンビア、クロアチア、エリトリア、エチオピア、シエラレオネの紛争に関与した。ホワイトハウスに雇われたわけではなく、彼らは政治体制への契約のもとで仕事をしたが、彼らの人権の扱いたるやひどいものだ。ビネル社はディック・チェニーのハリバートンが率いるPMFsの子会社で、ミャンマーの軍事独裁政権と仕事をした時は、地球上で最悪の人権の扱いだった。
彼らの目的のいくつかは合憲性の面で問題がある。エンタープライズ組織のメンバーからの手紙を再現してみよう、もし「エンタープライズ」が空軍機、海軍艦、(海軍特殊部隊)、特別作戦部隊を使うことを望んだら、それらが誰に気付かれることもなく、注文通りに準備される方法があったのだ。
ニューヨークタイムスのジャーナリスト、セス・ミダンスは信頼できる情報として「シングローブはフィリピンに入ったり出たりしている、彼は、われわれに知られないでクラーク基地に着陸することさえ出来るのだ」と紹介している。
われわれは、特殊部隊の高官が、シングローブやクラインなどに関係するPMFsのグループと一緒に、フィリピン財宝狩りに参加するために短い休暇を取ったことを確認している。このことは政府サービスと個人の利益との重大な区分をなくすもので、倫理規範の実践を求めることが出来なくなってしまう。
□監視されないと常習的になるものだ。
監視されないと常習的になるものだ。レーガン大統領、ブッシュ大統領のもとで、PIOsやPMFsは増殖し、ホワイトハウスの事実上、「秘密の拡大組織」となった。今日まで、エンタープライズのリーダーやPMFsの支持者達は、ホワイトハウスは事業家に転じた情報員によって運営される私的非合法組織を必要としていると主張して秘密のFBIスタイルの保安部隊を立ち上げた。アメリカ国民や「彼らの支配化にある」別の産軍複合体を守るため、発見された日本軍の戦争略奪品を利用した。
これはお金のかかることである。ムーニーズやバーチャーズのようなグループ、そして裕福な個人は必要とされる金額の一部だけしか提供しなかった。ひとつのはっきりした解決法はサンタ・ロマーナに管理されて遊んでいる口座(ブラック・イーグル・トラスト)を流用することだ。
これがサンティが一九七三年にワシントンヘ連れて行かれ、彼が所有する基金を譲り渡すよう圧力をかけられた理由である。
翌年サンティが死んだ時、彼の所有するシティバンクとUBSにあるいくつかの莫大な金額の口座が速やかにランズデールの管理下に入った。だが、それがどのように使われたかは知られていない。マルコスが一九七〇年代に第二期の探索活動を始め、黒の金を売りさばくための援助を必要とした時、マルコスとエンタープライズは共通の目標を持った。なぜなら、エンタープライズのメンバーはCIAの飛行機、米空軍機、米海軍艦の使用することができたのである。スービック湾やクラーク空港からマルコスの金塊が出発した時、こうしたことがアメリカ政府により公式に行われたのかエンタープライズによって秘密に行われたのかはなんとも言えない。十四章ではこの二重構造が示す数々のエピソードをお見せしよう。
次第にマルコスは自分が発見した金の管理、支払いについて、レーガンのアメリカ政府と主導権争いをしていることに気がついた。彼はアメリカ政府を出し抜くためにあらゆる策略を用いた。これが彼の失脚につながることになる。
国際金融当局は、中央銀行が直接民間から金を購入できるように決定した。マルコスはフィリピンで採掘したすべての金を中央銀行に直接販売しなければならないと布告した。これでマルコスは自分の金のいくらかを売れるようになったし、銀行はその時から、苦労なしに金を海外へ移動することができるようになった。
一九八一年の十一月、フィリピン政府は今回の布告のせいで国際金市場において「金保有以来の局所的な過剰」をもたらすだろうと言明した。三ヶ月以上にわたって、約三十万オンスの金が香港、ニューヨーク、ロンドンそしてチューリッヒに船で運ばれた。その金はフィリピン政府のゴールドバーとして印がつけられていた。関与した商業銀行はそのゴールドバーでの支払いを許されたが、金が短期間のうちに取引されれば、銀行は一%の手数料をマルコスに払わなければならなかった。
フィリピン人の元外交官によると、フェルディナンドの自家用機はスイスまで何回も往復した。民間機も使用され、そのことが貨物運送状によって証明されている。十二回の極秘輸送がKLM、PAL、エアフランス、サベナ機で行われた。たとえば、一九八三年九月には、KLM機のマニラ・チューリッヒ間のフライトで金塊七トンが運ばれている。同時期に別の一.五トンの金塊がロンドンまで運ばれている。その間に、CIAのパイロットと国防総省の貨物飛行機は定期的にマルコスの金をオーストラリアと香港に空輸した。
CIAがマルコスの金塊を物理的に移動している間、マルコスはアメリカに財産を貯め込むよう仕向けられた。このことが、一九八三年から一九八五年のロナルド・リウォルドのホノルル詐欺裁判で明らかになり、マルコスの投資財閥会社であるビショップ、ボルドウィン、リウォルド、デリィンハム&ウォンがCIA資金のための一般的なルートだったことを明らかにした。
その財閥会社はマルコスや他の裕福なフィリピン人がアメリカで不正の金を投資するのを助けた。イメルダが後にニューヨークで強請の罪で裁判にかけられた時、彼女の弁護人はイメルダと夫マルコスはホワイトハウスの友人からそうするよう働きかけられたのだと述べた。
ホノルルでの裁判証言によれば、フィリピンンの億万長者、マルコス一家の友人であるエンリケ・ゾーベルの援助によって、秘密ルートがリワォルドによってつくられた。
リワォルドは、ハワイでポロクラブを経営し、ゾーベルは世界一流のプレイヤーだった。リワォルドは、ゾーベルは自分同様CIAの協力者だと証言した。アヤラ・ハワイのような共同事業を通して、彼らとCIAは、「アメリカへ現金を持ち出したい外国の上級外交官やビジネスマンの金を保護し、いざと言う時にアメリカで役に立てるのだ」と云う。
ゾーベルとの関係は、当時、ジョー・マクミキン大佐が、コジマ少佐を拷問したGⅡのサンタ・ロマーナとランズデール大佐の直属の上官だった一九四五年までさかのぼる。その後、金をたっぷり持って、マクミキンはドン・エンリケの叔母、メルセデスと結婚し、ゾーベル・アヤラ一族が世界的な金持ちになるのを手伝った。この秘密を漏らさない境遇の中で、エンリケ・ゾーベルはひとかどの裏切り者である。UCLAで勉強した後、マニラの上流マカティ金融社交界を発展させて名前をあげた。
彼のマルコスファミリーとの関係は複雑で変わりやすいものだった。一九八〇年代のはじめには、大統領の後継者の可能性もあると言われるほどだった。マルコスの旧友エドアルド・コファンコはサンミゲル社、つまりサンミゲルビールの醸造会社で、アヤラ・コーポレーションの重要な所有会社のひとつを攻撃的にのっとろうととりかかった時、マルコスファミリーはドン・エンリケがごく簡単に屈服すると考えた。このことはおばのメルセデスとおじのジョーを大変不愉快にさせたので、彼らはゾーベルからアヤラ社の支配権を奪い彼の最初のいとこにそれを譲った。ドン・エンリケはその後、独自の道を歩んだ。
ゾーベルは戦争略奪品を発見しようとするマルコスの骨折りの多くを知っていた。一九七五年にリーバー・グループの使節ミュータックはゾーベルに、ゾーベルがペニンシュラホテルを建築中のネルソン飛行場の管制塔の下にゴールデンリィリー地下金庫室があると通告した。一九七五年六月三日、ミュータックは書いている。「私たちは、古い管制塔の内外の敷地に、少なくとも数億ドルの膨大な量の宝石や金塊から成る財宝の収集品が埋蔵されていることを証明する重要な地図と目撃者を抱えるグループと一緒にいる。われわれは前述の敷地が明け渡された事は知っている。そして、ある建築工事が当該の敷地で完了したかも知れないと危惧している。その場でやると計画したどのようなプランも私たちが財宝収集品を探し出し、取り戻すまでは待たなければならない」と。
一九八三年、ゾーベルはスポーツ花形選手のグレゴリー・アラネタと結婚するイレーヌ・マルコスの贅沢な結婚式の後援者だった。グレゴリーはランズデール配下のトップの殺し屋、ナポレオン・バレリアーノの継子だった。イメルダはその結婚式に二千万ドル使ったと言われている。オーストリアのカート・ワルトハイムから贈られた銀の馬車は、モロッコのハッサン王から贈られた七頭のアラブ種の馬に引かれた。お返しにマルコスはオーストリアとモロッコの銀行に多額の金を預けた。(この金の証拠は二〇〇一年に表ざたになったが、それはドイツ政府がイレーヌとその夫をスイスの銀行からドイツの銀行へおよそ一三四億ドルを不正に移そうとしたとして告発したときだった。)
このように金をみせびらかすのはマルコス家の習性のようなものだ。マルコスはアヤラ基金のような慈善信託を立ち上げられたはずだったし、イルコス・ノルテの邸宅に隠居できたはずだったがそうはしなかった。
 □「金持ちで死ぬ奴は馬鹿で死ぬ」
アンドリュー・カーネギーはかつて「金持ちで死ぬ奴は馬鹿のままで死ぬ奴だ」といったことがある。マルコスには慈善に費やす時間がなかった。なぜならレーガン政権から米国の対外政策の目的のために、もっと多くの黒の金を出すよう頻繁に圧力を受けていたからだ。
マルコスファミリーの情報筋によれば、アメリカ政府のビル・キャセイはフェルディナンドに、「“もしお前がCIA指定の銀行に黒の金を預けると云えば、お前は永遠にここの大統領でいられるよ”と言った」ということだ。
□中国指令
結果として生じたひとつの取引がいわゆる「中国指令」である。マルコスファミリーの情報筋によれば、一九七二年、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーは周恩来首相と秘密の取引をした。それはマルコスが差し出した多量の金と引き換えに、中国が台湾に関して米国との争いを避ける取引だったと主張している。われわれはその政治的詳細を確認できないでいた。しかしながら、長年にわたって明るみにでた銀行の書類は、はっきりと多量の金塊がこの時期に中国本土の銀行へ移されたことを示している。
そしてサンタ・ロマーナ、フェルディナンド、イメルダ・マルコス、一族のメンバー、そして裕福な仲間はその銀行の金塊口座をもっていた。こうした連中はみんな徹底した反共主義者で、彼らが冷戦のさなかに中国の銀行へ金塊を移すもっともな理由などないのだ。そうした理由だけでも、この話は十分に真実味がある。
この情報筋によれば、一九七一年から一九七二年にかけて人民共和国の経済はかなりひどい状況で、外貨準備高は底をつき、世界規模の石油危機と国内の飢饉でさらに悪化していた。そのすべては正しい情報である。共産党政治局へかかる圧力で、党のタカ派は発言力を増し、台湾の資産の支配力を得るため台湾侵攻を主張した。
CIAと国防総省のアナリストは、中国は今にも台湾侵攻を始めそうだ、しかしアメリカはヴェトナム対策で手いっぱいだとの結論を出した。この状況は核戦争につながりかねなかった。ひとつの方法が緊張を和らげるために見出される必要があった。CIAのアナリストが提案した新しい解決策は、マルコスから得た黒の金を多量に投入し、中国が自国経済を安定化させるのを助け、戦争の圧力を減じるというものだった。もしアメリカが中国を国内危機から救えば、フィリピンにも利益をもたらす平和の一時代を招来させることが出来る。
□マルコスが毛択東に六八〇億ドル供与
われわれの情報筋が言うように、ニクソンとキッシンジャーは秘密裏に、マルコスが中国へ金塊で六百八十億ドル(マルコスが持つと彼らが知った量)を提供し、五〜六年の間に多くの薄片の形でPRC銀行(中国国営銀行)に移すように依頼した。これは即金の贈り物ではなかったようだ。贈り物は追加的に香港や中国大都市のいろいろなPRC銀行に預金され、金塊は銀行に資産担保として残り、事前に協議したいろいろな目的のために割り当てられたのだろう。中国銀行は強化され、中国経済は安定化し、共産党政治局の穏健派は勢力を回復し、台湾侵攻を主張したタカ派は沈黙をさせただろう。米国基金はひとつも関与していない。
「それはマルコスが発見した日本軍の戦争略奪品のなかで、よい使われ方をした唯一のものだ」とわれわれの情報筋は言った。
周恩来はきわめて現実主義者で、その作戦を徹底して推進したと伝えられている。マルコスが協力したことは重大で、彼はアメリカ政府から十分に支援を受けただろうし、多くの形で報われただろう。アメリカ政府はマルコスに、彼とイメルダは北京を公式訪問ができ、それが世界中に彼らの名声を高めることになると保証し、取引を気に入るようにしたのだ。加えて、中国はフィリピンに対して農作物援助を実施してお返しをしたはずだ。
一九七四年、イメルダと息子のボン・ボンは北京を公式訪問した。彼らはびっくりした表情のひ弱な毛沢東を間に挟んで、のぼせて笑いながら写真を撮った、毛沢東が写っている写真の中で最も奇妙な一枚である。フェルディナンドは翌年北京を訪れたが、あけすけにものを言う冷戦主義者としてかれの行動は奇妙なものであった。予定外の余禄として、イメルダの兄弟コケイ・ロムアルデスは自分の知性以上の忠誠心を述べたおかげでフィリピンの中国大使となった。
われわれのマルコス情報筋によれば、中国指令はニクソンの歴史的中国訪問と、中国政府との外交関係設立の基盤であったと主張している。
資料によれば、中国指令は一九七二年に始まり、長年にわたってC銀行の口座から二十五億ドルを取り戻すために、イメルダは賞金稼ぎに三十五%払うことに同意した。イメルダの弁護士は、彼女は貧しい人を助けるために金を工面しようとしただけだと言った。その後、もうひとつ、秘密のマルコスの金塊口座がスイスのUSBにあるというニュースが流れた時、イメルダは「驚くことではないわ、昔はお金を持っていたんだから」と嘆いた。
中国におけるこれらの金塊口座の存在が明らかにされた時、冷たい戦争がなお続いていた一九七〇年代のはじめ以来、どのようにして金塊口座が中国にもたらされたのか誰も関心を持たなかった。誰も、金塊口座がもたらされた理由とニクソンの一九七二年の北京へ続き、マルコスの金塊は銀行と香港の中国銀行、シアメンの公式訪問とを結び付けなかった。
こうした銀行からの書類は、サンタ・ロマーナ、フェルディナンド・マルコス、イメルダ・マルコス、他の大変大きな口座の存在したことを示している。われわれのCDにはコピーした関係書類の中に、金仲買人が金の移転がうまく実行できた時に支払われるべき手数料を請求する手紙がいくつかある。マルコスファミリーと金持ちの友人たちは、その後にこうした口座を抱える中国銀行の新社屋落成式に参加するため、シアメンを旅行している。シアメンはアモイに隣接しており、フェルディナンド・マルコスの実父に長く関係のあった福建省グループの故郷なのだ。
二〇〇〇年には更なる証拠が出てきた。それはイメルダがこれらの金口座に近づくため銀行職員を買収し、中国人の女を雇った容疑で香港政庁から告発された時である。一九九九年の十二月に、香港政庁の検察官によれば、中国銀行、HSBCそしてシアメンのPRにある他の中国系銀行を含む中国政府所有の銀行に移されたことを示している。
□マッカーサーの遺産
一九八〇年代のはじめに、もうひとつおかしな展開があった。フェルディナンドとイメルダは太平洋戦争後にゴールデンリィリー略奪品をもとに開設された特別の秘密口座の存在を知った。これは、大阪の三和銀行の十億ドル金塊信託で、マッカーサー元帥と裕仁陛下の名前で開設されており、第九章で述べられた通りである。日本人はそれをマッカーサー基金と呼び、一方米国人はそれを裕仁陛下の在位時代の名前を使ってショーワ・トラストと呼んだ。三和銀行は日本の古い銀行のひとつで、裕仁陛下は第二次世界大戦前からかなりの量の株を所有していた。その信託はロバートB・アンダーソンによって開設されたが、それは彼がマッカーサーやランズデールとゴールデンリィリーの財宝の所在地を回ってまもなくのことだと明らかになっている。マーカーサーの名前は信託に使われているが、少なくとも直接的にはマッカーサーに利益をもたらすよう意図していたとは言えない。
□マッカーサーの遺産
裕仁陛下に関しては、ジャーナリストで米軍占領時代初期にSCAPの記録を読むことが出来たポール・マニングによると、天皇は戦前から海外に作った口座に金と通貨で秘密の十億ドルを所有していた。天皇は米軍占領中に海外投資からの利益で年に五千万ドルを引き出しており、SCAPの財務相談役はこれらの収入を生み出す資産に気づいていた。重要なことに、三和銀行はSCAPのマッカート准将の経済科学局によって不問にされた三つの日本の銀行のひとつだった。他のふたつの銀行は東海銀行と第一勧業銀行で、田中クラブによってM資金からの引き出しが増加していることと関係していた。今日、三和銀行は「われわれは世界で成功してきた」というスローガンとともに世界規模の銀行活動を宣伝している。
□ショーワ・トラスト
フェルディナンドとイメルダは、サンティの死後、その書類を整理するなかで、三和銀行にあるショーワ・トラストの存在を知った。われわれがコピーした資料によると一九八一年までにショーワ・トラストは四半期ごとに三億ドル以上の利益、または年に十億ドル以上の利益を生み出していた。銀行オーナーの一人、裕仁陛下は間違いなく有利な利率の権利を有していた。(これらを示す資料はマルコスが権力を剥ぎ取られ、フィリピン政府にマラカニアン宮殿が没収された後、マルコスの個人金庫で発見された。)
マルコス一族は、もし自分たちがうまくカードを使えばショーワ・トラストを手に入れることが出来たと考えた。少なくとも、自分たちに利子支払い分のいくばくかを手に入れられたのにと思った。もし、合同信託(スラッシュ・ファンド)のニュースが漏れ出たならば、いくつかの理由で日本政府やアメリカ政府にとってかなり具合の悪いことになるであろう。
第一に、裕仁陛下は大変貧しく、生計を維持するためには年俸二万二千ドルを与えねばならなかいという見せ掛けを日本政府はなおも維持していたし、第二に、日本自由民主党はその時、田中贈収賄を含むもうひとつの大きなスキャンダルにもがいていたのである。アメリカ政府にしても、日本はまったく無一文だと繰り返し宣言していたので、一九四五年以来の裕仁陛下・マッカーサー合同信託の存在が開示されると、手の込んだやっかいな対策が必要になるであろう。
交渉人ナティビダッド・M・ファジャルドを含むマルコスチームは、ショーワ・トラストの三人の受託者(ひとりの日本人とふたりのアメリカ人)を含む日本政府役人と非公式の協議のために東京へ飛んだ。ファジャルドは数多くの金輸送でマルコスのために行動した仲買人だった。東京へのファジャルドの旅はロナルド・レーガン一期目の大統領就任の間に発生した。レーガンはマルコス家の重要な友人だった。レーガンと妻ナンシーは一九七〇年、マニラのイメルダ文化センターの開館式にニクソンの個人的代表として参加するため、初めてフィリピンへ行った。それがマルコスとレーガンがお互いにたたえあう長い友情の始まりだった。
ファジャルドとそのチームは東京に着いた時はじめて、彼らの東京訪問の真の目的を明らかにした。簡単に言うならば、マルコス家は、フィリピンのための財政支援策として偽装した膨大な支払いを受け取る代わりに、ショーワ・トラストについて沈黙を守ることを申し出たのだ。彼らは信託からの四半期分の利息をマルコス家に譲るべきだと要求した。
これは強請のごときしろものだ。日本政府は大変驚いて、ファジャルドと彼の連れを武装警備のもとで日本滞在中、都ホテルの部屋にずっと隔離した。そのせいで、いつも彼らは自分の部屋で食事を取らねばならなかった。
□カワサキ
ファジャルドが東京からイメルダに送った一九八一年二月二二日付の手紙がある。その手紙には「日本のフィリピン向けの財政援助は、マッカーサーが皇室に対し、信託の形で残したドル基金からの蓄積した利息収入で構成されます。・・・われわれは日本大蔵省の許可のもとでいかにして金を香港へ持ち出すかの手段を考案し、フィリピンで大事業をなしている日本企業に対し融資されます。日本政府はその企業にカワサキがふさわしいと判断したことが明らかになるでしょう。皇族の手のもとにある信託金は、すでに大阪の三和銀行へ預金されており、香港への振替手配が整っています。これを実施するため、三〇年間、無利子でカワサキへ融資されることが明らかにされるでしょう。フィリピンのファーストレディのための大型経済発展計画を財政支援する金を出すのはカワサキになるでしょう」と書かれている。
ファジャルドにより交渉された取引が行われたかどうかは分からない。しかし、銀行の書類によれば、今日でも三和銀行香港支店に多くのマルコスの口座が存在している。
日本政府は多分アメリカ政府にこの脅しについて訴え、そのことが直後のマルコスの失脚につながったはずである。しかし、アメリカ政府が最終的にマルコスに見切りをつけた主要な理由は、レーガンによる『虹のドル』戦略の失敗にある。
□レインボー作戦
レーガン大統領は政権のはじめに、一九七一年にニクソンにより廃止された金本位制にもどり、『虹のドル』(レインボーダラー)と呼ばれる金本位の新しい通貨を導入すると宣言した。ニクソンの決断以来の一〇年間で、米国はひどいインフレーション、不況、そして高金利の時代を経験した。レーガンの対策は金本位制に戻ることだった。財務長官ドナルド・リーガンはこの政策が「途方もない好況」をもたらすだろうと言った。
大量のドル紙幣が世界に循環していたので、もしその紙幣が金に兌換できるようになれば一九三三年以前の事態のように、アメリカ政府は金塊の需要に振り回されるはずだ。解決策は二段階方式だった。『虹のドル』は徐々に現行のドル紙幣と置き換えたとしても、一般大衆は『虹のドル』を金に換えることが出来なくする。『虹のドル』は中央銀行に保持されたときだけ、金に換るというのが『虹のドル』の特別な解決策となるだろう。
この政策を実行するために、アメリカは、金価格を操作できるに足る大量な金の備蓄を必要とする。金価格があまりにも下落したなら、アメリカ政府は通貨価値を安定させるために金を買えばよい。もし金価格が高騰したなら、中央銀行は政府からの金塊を必要とし、政府は市場へ金塊を放出することで価格の高騰を抑制するだろう。これがレーガン政権の主要なプランだった。
『虹のドル』制度に変更することは、ヘロインやコカインの麻薬ボスのように不正な現金を蓄えている連中が古い通貨を新しい通貨に換えなくてはならず、多くの金が隠匿場所から出てくるということを意味した。このことで連邦政府の赤字を減少させることになるだろう。
レーガン大統領は非公式にマルコスへ『虹のドル』を支えるため、黒の金の貯蔵分を貸してくれるよう頼んだ。いつものように、彼は金を貸すにあたり手数料をレーガンに請求することができた。マルコスにとって不幸だったのは、彼が要求した手数料がアメリカ政府が公正と考える以上に高かったことだ。
当時ホワイトハウス職員だった人物を含むわれわれの情報筋によると、レーガンは古い友人が自分を失望させたことを嘆いたそうだ。ショーワ・トラストについて日本政府を恐喝した当時の試みを考えても、レーガンのアドバイザー、特にキャセイはマルコスはやりすぎたと唱えた。マルコスを退陣させ、その過程で彼が貯めこんでいた多量の金塊を剥奪する時機が来ていた。
キャセイは即座に行動に移った。その後数ヶ月の間に、国民のパワーはマニラの道路にあふれ、群集はマルコスの退陣を要求した。
民衆の抗議の声が通りにあふれたとき、キャセイはリーガン財務長官、CIAのエコノミストのフランク・ヒグドン(Frank Higdon)教授、弁護士ローレンス・クリーガー(Lawlence kreager)をマニラに送った。
マルコスはレーガン大統領の仲介者、ネバダ州上院議員ポール・ラグゾールトから最終提案を与えられた。その時までマルコスはマラカニアン宮殿で事実上立てこもり状態だった。狼瘡をわずらい腎臓と肝臓が衰えた重病の男、マルコスは故郷に帰って立てこもることをあきらめて米軍ヘリコプターで救出された。
その夜、荷船がパシグ川をマラカニアンの宮廷まで曳かれていった。宮殿の地下倉庫、大統領保安部隊の敷地や宮殿に隣接したビルの地下倉庫から多量の金塊が荷船に積み込まれた。バージ船は川を下り、第五桟橋までくると、大統領専用ボートや海軍の
マルコス側近によれば、会談の目的はフェルディナンドを説得して七万三千トンの金を譲るようにすることだった。キャセイとリーガンはマルコスに最後のチャンスを示していた。リーガンはマルコスに、米国債務証書で八〇%、現金で二〇%と引き換えに金を譲渡する署名をするよう繰り返し説得した。マルコスは終末が近いと感じながら、現金で八〇%、債務証書は二〇%だけにするよう要求した。押し問答が無駄だとはっきりした時、ホグドン教授はマルコスに、「二週間以内に権力の座から降ろされるだろう」と通告したと言われている。実際、数週間の後、マルコスはハワイで事実上自宅軟禁状態だったのである。
同じマルコスの側近によると、大詰めでの次の動きはキャセイ、リーガン、ヒグドンとの会談数日後にあり、三者委員会の使者が、マルコスに地球開発基金に対して金塊で五百四十億ドルを提供することを求める内密の要求書を手渡した。
その場に居合わせていたわれわれの情報筋によると、マルコスは文体が華麗なその文書を一瞥し、軽蔑したように発送済書類入れの中に放り投げたと言うことだ。特使は急いでマカティにある三人委員会の事務所にもどり報告した。
明け方、荷を積んだ船はマニラ湾そして、最終目的地のスービック湾の海軍基地まで引かれた。その基地で金は最初に軍用品地下倉庫に保管され、その後アメリカ海軍の大型船に乗せられたと言われている。(アメリカ政府は一九五〇年以来公式に金の在庫を監査していないので、その後に金に対して何が起こったかを述べるのは難しい。ただ、アメリカ政府は八千トンの金を所有していることは認めている。)
その晩、アメリカ陸軍のヘリコプターがマラカニアン宮殿の庭を急襲し、マルコスファミリーとその取り巻きを積み込んだ。
マルコスたちが驚いたのは、マラカニアン宮殿からイルコス・ノルテにある彼らの本拠地に連れて行かれたのではなかったことである。彼らはイルコス・ノルテで自分たちの領地のための防御物を築く計画だった。彼らはハワイの軟禁所に連れて行かれた。「われわれは救出されたのではなく、誘拐されたのだわ」とイメルダは噛み付くように言った。
イメルダはホノルルに彼らが到着した時、持っていた数十億ドルの価値のある金証明書をアメリカの税関職員が押収したと言った。税関が用意した公式リストにはその証明書は載っていなかった。その後、イメルダはアメリカ財務省が証明書を押収したことを認めたと主張した。
しかし、専門家は証明書のすべては偽造であると決定した。われわれが見てきたように、金の証明書を偽造品だと非難することは、本物であったとしても、決まりきった手順だろう。これが押収品に対して一般的に行われるやり方である。
このような事情を考えると、今もしくは将来に銀行が金持たちから預かった金証書を偽物だと告げる大きな可能性があるにもかかわらず、金持ちが銀行に金を預け続けるのは不思議に思える。
そんな詐欺の気配があるなかで、財務省が押収された金の証明書に対してどうしたかを詳しく知ることは興味深いことである。
□イラン・コントラ
リーガン財務長官は確かに多くを語っていない。彼とCIA長官キャセイは、イラン・コントラ時に資金洗浄と銃密輸で果たした役割で不評を招き辞任せねばならなかった。
イラン・コントラ事件でキャセイが果たした役割を見れば、外国政府を操作したり、アメリカ国内の右翼民兵に資金援助をするため、日本の略奪品を不法に使った事件でも彼が任務を果たしたことは十分認識できるものだ。
マルコス家がハワイに到着したときに、彼らから金品をまきあげたり、彼らの金証明書を押収したりしたことは十分に価値のあることであったが、多くの疑問がうやむやのままである。はじめに、どうしてイメルダとマルコスは自分たちの黒の金を他人に管理されている銀行に移そうと主張したのか。全てを押収されたらどうするつもりだったのか?
ハワイで、二人は苦労して海外に隠した金塊を引き出すことが出来ないことを理解した。腐敗し失脚した独裁者がやったように、金塊が不正に取得されたという口実で彼らの口座は封鎖された。
これがアメリカ政府の態度であったが、アメリカは三〇年以上マルコスと同盟を結んでいたのだ。スイス政府はマルコスがスイスの銀行にいくばくかの金を所有していることを簡単に否定して、より現実的な態度をとった。世界中の銀行家たちはマルコスの口座については何も知らないと言明した。
ホノルルで彼らがもはや勘定を払うことが出来なかった時に、フェルディナンドは旧友ドン・エンリケ・ゾーベルに危機を乗り切るために二億五千万ドルの借金を頼んだ。ゾーベルによると、マルコスは借金の返済能力があることを示すためにゾーベルに金証明書を見せた。その証明書はアメリカ税関に押収されていなかったものだった。これらもまた後になって、アメリカ財務省によっていかさまであると宣告された。
数ヵ月後、ますます、むくんで黄疸症状の進んだマルコスは、自分と友人に大量のマクドナルド・バーガーとポテトフライを買いにやらせた。食事のさなか、マルコスはビッグ・マックをのどを詰まらせ、ひどく咳き込んだ。翌朝、一九八九年一月一五日、彼は肺の虚脱のためホノルル・セント・フランシス・メディカルセンターに入院し、同九月の彼の死まで、生命維持装置をつけたままだった。そんなふうに、アメリカ政府の歴史の中でもっとも腐敗した関係のひとつが終わった。もしくはそのように思われた。
□皆、死ぬのを待っている。
サンティは死んだ。マルコスも死んだ。一九八七年の五月にキャセイは死んだ。しかし、エンタープライズを作った多くの民間組織の指導者たちはフィリピンの地中に多くの戦争資金金が残っており、サンティの世界中の銀行口座は手つかずのままだということを知っていた。彼らは地中から、もしくは銀行から金を回収できるかどうかを確認しようと決めた。どこをさがすべきか正確にはわからないので、ジョン・バーチ・ソサエティは彼らにロバート・カーチスに接近して、過去のことは本当に過去のことなのか確認するようにせかせた。(訳注、マルコス政権の崩壊はわれわれはリアルタイムで見ていた。今から思えば民主化運動と言うこのような理由で行うのかと言う事に驚く。そして、今でもその手法は世界のあらゆるところで実施されている。きっと、そんな程度なのだろう。まさに、びっくりだ。レーガンのレインボーダラーも初耳だ。もし本当なら暗殺されかけたのもうなづけるし、成功していたら大変に良かったのに。)
□PIOsやPMSs
マルコスは一九八六年二月失脚し、ハワイへ亡命した。ハワイでは、彼が大統領だった二〇年間に国外に流出させていた金塊を取り返すため、フィリピン国グッド・ガバメント、民間からの提訴がハワイの裁判所にされた。
マルコスがいくら外国に金塊を逃避させていたか、あるいはいったいこの金塊はどこからきたものだろうか?
わかっていることはこの金塊はマニラのジョンソン・マッセイ精錬所で鋳なおされてから船積みされたということだ。ジョンソン・マッセイは香港の精錬所だが、ロバート・カーチスがマニラに招致したものだ。金塊を海外に送る前までに、マルコスはジョンソン・マッセイ・バンクを使って、ロンドン、ニューヨーク、チューリッヒのゴールドプールとの譲渡証書を作成している。実際金塊の多くは中近東のアラブの王子たちに売却されたようだ。マルコスはいろいろ工作を行うCIAを相手としておらず、そのCIAの先のPIOsやPMSsと取引していた。これらの組織の構成員たちはCIAの元幹部だったり、アメリカ軍の元将軍たちだった。
一九七〇年代CIA長官のシュレジンジャーの改革の嵐が荒れ狂った。その火の粉を浴びた元幹部たちは「政府組織」という枠を乗り越え、自前で民間企業を作った。その会社名は「エンタープライズ」で、業務はCIAの下請けというわけだ。性格上極右の社団法人なのである。
□コジマ少佐のフィリピン再訪
コジマ・カシイとは山下将軍の運転士官で少佐だった。ランズデールやサンタ・ロマーナから尋問を受け、お宝を埋めた場所を白状した。コジマ少佐は山下大将が奉天から転属した一九四四年十月から、大将の戦争継続の強い意志が現れた視察が行われた。山下たちはマニラ撤退後の適地を求めてルソン島西部バギオ、中央部山岳州バンバン、北部アパリなどを見て回った。コジマ少佐はゴールデン・リリ-のありかを白状したようだ。しかし、全部を白状したのではない。十二か所しか白状していない。残りはサンタ・ロマーナにとっておかれたのである。
金塊の発見回収には二年近くを要している。当時三十一才だった、コジマ少佐にとって戦後だいぶたってマニラに帰ってくる時間は十分残されたのだ。彼は旅行中は数々の仮名を使った、CIAから暗殺されるおそれがあったからだ。
彼は日本に帰ってGHQが占領していた一九五一年まではおとなしくしていた。占領下ではフィリピンに行くこともできないし、マッカーサーが目を光らしている間は行動にはでにくかったろう。
一九九〇年代、八八才になったコジマは今や大金持ちである。このCDの中に今でも彼がタカラ探しをフィリピンで行っている写真がたくさんある。彼のために言えば、誰かが訪ねねてきたら「俺はもう死んだ」と答える方がいいだろうと助言する。
だがしかし、二〇〇二年にコジマは仲間とフィリピンンに最後の旅をしている。その時はおよそ二トンの金塊(ゴールドビスケット)をデインガラン湾(Dingaalan Bay)の浜辺近くで発見しているのだ。山下将軍がキアンガン・ポケット(kiangan渓谷)から日本へ送り返すため港に持ち込んだ船積み用の金塊だったようだ。お宝を発見したコジマはそのビスケットをトラクターのシャベル・シリンダーに突っ込み、トラクターの修理名目で横浜めがけて一目散に逃げかえったとフィリピンの作業員が証言している。《訳者注:この手の話は大抵ウソ話だ。》本書で取り上げたコジマ・カシイについては、『宋王朝』でも『マルコス王朝』でも取り上げている。『宋王朝』では、ランズデールがコジマのことをわれわれに質問されると御茶を濁したし、『マルコス王朝』では、ビラクルシス(Villacrusis)がコジマのことを「一九六八年東京でイチバラ侯爵にあったとき、侯爵はコジマのことを知っていた」と話している。
□PMFs
PMFsは少し名前を挙げるだけでも、南アメリカ、アンゴラ、コロンビア、クロアチア、エリトリア、エチオピア、シエラレオネの紛争に関与した。ホワイトハウスに雇われたわけではなく、彼らは政治体制への契約のもとで仕事をしたが、彼らの人権の扱いたるやひどいものだ。ビネル社はディック・チェイニーのハリバートンが率いるPMFsの子会社で、ミャンマーの軍事独裁政権と仕事をした時は、地球上で最悪の人権の扱いだった。彼らの目的のいくつかは合憲性の面で問題がある。エンタープライズ組織のメンバーからの手紙を再現してみよう、そこには彼らが秘密のFBIスタイルの保安部隊を立ち上げアメリカ国民や「彼らの支配化にある」別の産軍複合体を守るため、発見された日本軍の戦争略奪品をいかに利用しようとしたかが書いてある。
ニューヨークタイムスのジャーナリスト、セス・ミダンスは信頼できる情報として「シングローブはフィリピンに入ったり出たりしている、彼は、われわれに知られないでクラーク基地に着陸することさえ出来るのだ」と紹介している。
われわれは、特殊部隊の高官が、シングローブやクラインなどに関係するPMFsのグループと一緒に、フィリピン財宝狩りに参加するために短い休暇を取ったことを確認している。このことは政府サービスと個人の利益との重大な区分をなくすもので、倫理規範の実践を求めることが出来なくなってしまう。
監視されないと常習的になるものだ。レーガン大統領、ブッシュ大統領のもとで、PIOsやPMFsは増殖し、ホワイトハウスの事実上、「秘密の拡大組織」となった。今日まで、エンタープライズのリーダーやPMFsの支持者達は、ホワイトハウスは事業家に転じた情報員によって運営される私的非合法組織を必要としていると主張している。
これはお金のかかることである。ムーニーズやバーチャーズのようなグループ、そして裕福な個人は必要とされる金額の一部だけしか提供しなかった。ひとつのはっきりした解決がサンタ・ロマーナに管理されて遊んでいる口座のような現存のブラック・イーグル・トラストを流用することだった。これがサンティが一九七三年にワシントンヘ連れて行かれ、彼が所有する基金を譲り渡すよう圧力をかけられた理由である。
翌年サンティが死んだ時、彼の所有するシティバンクとUBSにあるいくつかの莫大な金額の口座が速やかにランズデールの管理下に入った理由を説明している。それがどのように使われたかは知られていない。
マルコスが一九七〇年代に第二期の探索活動を始め、黒の金を売りさばくための援助を必要とした時、マルコスとエンタープライズは共通の目標を持った。なぜなら、エンタープライズのメンバーはCIAの飛行機、米空軍機、米海軍艦を使用することができたのである。スービック海軍基地やクラーク空軍基地からマルコスの金塊が搬出された時、こうしたことがアメリカ政府により公式に行われたのかエンタープライズによって秘密に行われたのかはなんとも言えない。十四章ではこの二重構造が示す数々のエピソードをお見せしよう。
次第にマルコスは自分が発見した金の管理、支払い、管理について、レーガンのアメリカ政府と主導権争いをしていることに気がついた。彼はアメリカ政府を出し抜くためにあらゆる策略を用いた。これが彼の失脚につながることになる。
国際金融当局は、中央銀行が直接民間から金を購入できるように決定した時、マルコスはフィリピンで採掘したすべての金塊を中央銀行に直接販売しなければならないと布告した。これでマルコスは自分の金塊のいくらかを売れるようになったし、銀行はその時から、苦労なしに金塊を海外へ移動することができるようになった。
□金塊保有以来の局所的な過剰
一九八一年の十一月、フィリピン政府は今回の布告のせいで国際マーケットにおいて「金塊保有以来の局所的な過剰」をもたらすだろうと言明した。
三ヶ月以上にわたって、約三十万オンスの金塊が香港、ニューヨーク、ロンドンそしてチューリッヒに船で運ばれた。その金塊はフィリピン政府の金塊として印がつけられていたが、関与した商業銀行はその金での支払いを許されたが、そのことは金塊が短期間のうちに取引されたことを意味している。この特権のために、銀行は一%の手数料を支払いそれはマルコスのもとに流れた。
フィリピン人の元外交官によると、フェルディナンドの自家用機はスイスまで何回も往復をした。民間機もまた使用され、それは貨物運送状によって証明されている。十二回の極秘輸送がKLM、PAL(フィリピン航空)、エアフランス、サベナ機で行われたと言われている。たとえば、一九八三年九月には、KLM機のマニラ・チューリッヒ間のフライトで金塊七トンが運ばれている。同時期に別の一.五トンの金塊がロンドンまで運ばれている。その間に、CIAのパイロットと国防総省の貨物飛行機は定期的にマルコスの金塊をオーストラリアと香港に空輸した。《筆者注:これくらいの金の量なら本当にありそうだ。》
CIAがマルコスの金塊を物理的に移動している間、マルコスはアメリカに財産を貯め込むよう仕向けられた。このことは、一九八三年から一九八五年のロナルド・リウォルドのホノルル詐欺裁判で明らかになり、マルコスの投資財閥会社であるビショップ、ボルドウィン、リウォルド、デリィンハム&ウォンがCIA資金のための一般的なルートだったことを明らかにした。
その財閥会社はマルコスや他の裕福なフィリピン人がアメリカで不正の金塊を投資するのを助けた。イメルダが後にニューヨークで強請の罪で裁判にかけられた時、彼女の弁護人はイメルダと夫マルコスはホワイトハウスの友人からそうするよう働きかけられたのだと述べた。
ホノルルでの裁判証言によれば、フィリピンンの億万長者、マルコス一家の友人であるエンリケ・ゾーベル(フィリピン財閥)の援助によって、秘密ルートがリウォルドによってつくられた。
リウォルドは、ハワイでポロクラブを経営し、ゾーベルは世界一流のプレイヤーだった。リウォルドは、ゾーベルは自分同様CIAの協力者だと証言した。アヤラ・ハワイのような共同事業を通して、彼らとCIAは、アメリカへ現金を持ち出したい外国の上級外交官やビジネスマンの金を保護し、いざと言う時にアメリカで役に立てるのだ。
□ペニンシュラホテルの地下
ゾーベルは戦争略奪品を発見しようとするマルコスの骨折りの多くを知っていた。一九七五年にリーバーグループの使節ミュータックはゾーベルに、ゾーベルがペニンシュラホテルを建築中のネルソン飛行場の管制塔の下にゴールデンリィリー地下金庫室があると通告した。一九七五年六月三日、ミュータックは書いている。「私たちは、古い管制塔の内外の敷地に、少なくとも数億ドルの膨大な量の宝石や金塊から成る財宝の収集品が埋蔵されていることを証明する重要な地図と目撃者を抱える一グループと一緒にいる。われわれは前述の敷地が明け渡された事は知っている。そして、ある建築工事が当該の敷地で完了したかも知れないと危惧している。その場でやると計画したどのようなプランも私たちが財宝収集品を探し出し取り戻すまでは待たなければならない」と。
一九八三年、ゾーベルはスポーツ花形選手のグレゴリー・アラネタと結婚するイレーネ・マルコス(マルコスの次女)の贅沢な結婚式の後援者だった。グレゴリーはランズデール配下のトップの殺し屋、ナポレオン・バレリアーノ(NapoleonValeriano)の継子だった。イメルダはその結婚式に二千万ドル使ったと言われている。オーストリアのカート・ワルトハイム(KurtWaldheim)から贈られた銀の馬車は、モロッコのハッサン王(KingHassan)から贈られた七頭のアラブ種の馬に引かれた。お返しにマルコスはオーストリアとモロッコの銀行に多額の金塊を預けた。(この金塊の証拠は二〇〇一年に表ざたになったが、それはドイツ政府がイレーヌとその夫をスイスの銀行からドイツの銀行へおよそ一三四億ドルを不正に移そうとしたとして告発したときだった。)
このように金塊をみせびらかすのはマルコス家の習性のようなものだ。マルコスはアヤラ基金塊のような慈善信託を立ち上げられたはずだったし、イルコス・ノルテの邸宅に隠居できたはずだった。アンドリュー・カーネギー(Carnegie)はかつて「金持ちで死ぬ奴は馬鹿ものだ」といったことがある。マルコスには慈善に費やす時間がなかった。なぜならレーガン政権から米国の対外政策の目的のために、もっと多くの黒の金塊を出すよう頻繁に圧力を受けていたからだ。
マルコスファミリーの情報筋によれば、「ビル・キャセイはフェルディナンドに、もしお前がCIA指定の銀行に黒の金塊を預けることに同意するなら、アメリカ政府は永遠に権力の座を維持させるだろう」と言った。
□マルコスはイヤイヤ、毛沢東に金塊を送った
結果として生じたひとつの取引がいわゆる「中国指令」である。マルコスファミリーの情報筋によれば、一九七二年、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーは周恩来首相と秘密の取引をした。それはマルコスが差し出した多量の金塊と引き換えに、中国が台湾に関して米国との争いを避ける取引だったと主張している。われわれはその政治的詳細を確認できないでいた。しかしながら、長年にわたって明るみにでた銀行の書類は、はっきりと多量の金塊がこの時期に中国本土の銀行へ移されたことを示している。そしてサンタ・ロマーナ、フェルディナンド、イメルダ・マルコス、一族のメンバー、そして裕福な仲間はその銀行の金塊口座をもっていた。こうした連中はみんな徹底した反共主義者で、彼らが冷戦のさなかに中国の銀行へ金塊を移すもっともな理由などないのだ。そうした理由だけでも、この話は十分に真実味がある。この情報筋によれば、一九七一年から一九七二年にかけて人民共和国の経済はかなりひどい状況で、外貨準備高は底をつき、世界規模の石油危機と国内の飢饉でさらに悪化していた。そのすべては正しい情報である。共産党政治局へかかる圧力で、党のタカ派は発言力を増し、台湾の資産の支配力を得るため台湾侵攻を主張した。CIAと国防総省のアナリストは、中国は今にも台湾侵攻を始めそうだ、しかしアメリカはヴェトナム対策で手いっぱいだとの結論を出した。この状況は核戦争につながりかねなかった。ひとつの方法が緊張を和らげるために見出される必要があった。CIAのアナリストが提案した新しい解決策は、マルコスから得た黒の金塊を多量に投入し、中国が自国経済を安定化させるのを助け、戦争の圧力を減じるというものだった。もしアメリカが中国を国内危機から救えば、フィリピンにも利益をもたらす平和の一時代を招来させることが出来る。われわれの情報筋が言うように、ニクソンとキッシンジャーは秘密裏に、マルコスが中国へ金塊で六百八十億ドル(マルコスが持つと彼らが知った量)を提供し、五〜六年の間に多くの薄片の形でPRC銀行(中国中央銀行)に移すように依頼した。これは即金の贈り物ではなかったようだ。贈り物は追加的に香港や中国大都市のいろいろなPRC銀行に預金され、金塊は銀行に資産担保として残り、事前に協議したいろいろな目的のために割り当てられたのだろう。中国銀行は強化され、中国経済は安定化し、共産党政治局の穏健派は勢力を回復し、台湾侵攻を主張したタカ派は沈黙をさせただろう。米国基金はひとつも関与していない。「それはマルコスが発見した日本軍の戦争略奪品のなかで、よい使われ方をした唯一のものだ」とわれわれの情報筋は言った。周恩来はきわめて現実主義者で、その作戦を徹底して推進したと伝えられている。マルコスが協力したことは重大で、彼はアメリカ政府から十分に支援を受けただろうし、多くの形で報われただろう。アメリカ政府はマルコスに、彼とイメルダは北京を公式訪問ができ、それが世界中に彼らの名声を高めることになると保証し、取引を気に入るようにしたのだ。加えて、中国はフィリピンに対して農作物援助を実施してお返しをしたはずだ。一九七四年、イメルダと息子のボン・ボンは北京を公式訪問した。彼らはびっくりした表情のひ弱な毛沢東を間に挟んで、のぼせて笑いながら写真を撮った、毛沢東が写っている写真の中で最も奇妙な一枚である。フェルディナンドは翌年北京を訪れたが、あけすけにものを言う冷戦主義者としてかれの行動は奇妙なものであった。予定外の余禄として、イメルダの兄弟コケイ・ロムアルデスは自分の知性以上の忠誠心を述べたおかげで駐中国フィリピン大使となった。われわれのマルコス情報筋によれば、「中国指令」はニクソンの歴史的中国訪問と、中国政府との外交関係設立の基盤であったと主張している。
□スイスUBSの金塊
資料によれば、中国指令は一九七二年に始まり、長年にわたってPRC銀行の口座から二十五億ドルを取り戻すために、イメルダは賞金稼ぎに三十五%払うことに同意した。イメルダの弁護士は、彼女は貧しい人を助けるために金を工面しようとしただけだと言った。その後、もうひとつ、秘密のマルコスの金塊口座がスイスのUSBにあるというニュースが流れた時、イメルダは「驚くことではないわ、昔はお金を持っていたんだから」と嘆いた。中国におけるこれらの金塊口座の存在が明らかにされた時、冷たい戦争がなお続いていた一九七〇年代のはじめ以来、どのようにして金塊口座が中国にもたらされたのか誰も関心を持たなかった。誰も、金塊口座がもたらされた理由とニクソンの一九七二年の北京へ続き、香港の中国銀行、シアメン(アモイ)の公式訪問とを結び付けなかった。マルコスの金塊はある他の中国系銀行を含む中国政府所有の銀行に移されたことを示している。こうした銀行からの書類は、サンタ・ロマーナ、フェルディナンド・マルコス、イメルダ・マルコス、他の大変大きな口座の存在したことを示している。われわれのCDにはコピーした関係書類の中に、金塊仲買人が金塊の移転がうまく実行できた時に支払われるべき手数料を請求する手紙がいくつかある。マルコスファミリーと金持ちの友人たちは、その後にこうした口座を抱える中国銀行の新社屋落成式に参加するため、シアメンを旅行している。シアメンはアモイに隣接しており、フェルディナンド・マルコスの実父に長く関係のあった福建省グループの故郷なのだ。二〇〇〇年には更なる証拠が出てきた。それはイメルダがこれらの金口座に近づくため銀行職員を買収し、中国人の女を雇った容疑で香港政庁から告発された時である。一九九九年の十二月に、香港政庁の検察官によれば、中国銀行、HSBCそしてシアメンのPRC銀行から金塊を引き上げようとした容疑である。一九八〇年代のはじめに、もうひとつおかしな展開があった。フェルディナンドとイメルダは太平洋戦争後にゴールデンリィリー略奪品をもとに開設された特別の秘密口座の存在を知った。これは、大阪の三和銀行の十億ドル金塊信託で、マッカーサー元帥と裕仁陛下の名前で開設されており、第九章で述べられた通りである。日本人はそれをマッカーサー基金と呼び、一方米国人はそれを裕仁陛下の在位時代の名前を使ってショーワ・トラストと呼んだ。
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