キサラギ・ジュンの税務小説 『日本人のパナマ文書リスト公開ー住所別』『NORADテープー撃墜した戦闘機』

『イミテーション・ゴールド』『微風のマニラから』『天皇財産と課税』『ナピサン』『大統領になれなかった男』

マッカーサーの恋人  キサラギジュン2016/10

2016-10-19 09:37:30 | マッカーサー

イザベル・ロザリオ・クーパー
□イザベル・ロザリオ・クーパー
エリザベス・クーパー(本当はイザベル・ロザリオ・クーパーIsabel Rosario Cooper というフィリピ~ナらしい名前、父はスコットランド人、母は中国とフィリピ~ナとの混血、一九一四年~一九六〇年)というフィリピン生まれの女優、ダンサー、シンガーがいる。マッカーサーはルイーズと結婚を解消した翌年の一九三〇年、マニラでイザベルと恋人関係にあった。そのときマッカーサーは五〇歳、彼女は一六歳ということになる。そして本国のパーシング将軍が死んで、ようやくマッカーサーが陸軍参謀部に戻ると彼女を一緒に連れて行き、アメリカの銀幕のスターに押し上げる。これを著名人のゴシップをかき集めるジャーナリストのピアソンが見逃すはずもなく、将軍のソープ記事がワシントンポストの紙面を飾った。怒ったマッカーサーはピアソンを訴えるが、後日ピアソンがエリザベスからもらった、「パパからの恋文」をいくつも法廷に提出したため、マッカーサーは事実を認め、告訴を取り下げたという次第。証言台にイザベルは現れなかったが、マッカーサーは慰謝料一万五千ドル(現在ではおそらく一五〇万ドル)を払ったというからマッカーサーは相当のお金持ちだったということになる。
「それにしてもいつの世も男と女は同じだね」と吉田翁がため息をついた 。だが、その手切れ金はドワイト・アイゼンハワー(愛称アイク、第三四代アメリカ大統領、当時、陸軍参謀総長だったマッカーサーの副官だった。)が出したという話もある。アイクの方がマッカーサーよりも金持ちだと思えない、多分、陸軍省参謀部の官房機密費から出したに違いない。というのはアイゼンハワーは一九三五までマッカーサー大将の主任補佐武官を務め、一九三五年に陸軍参謀総長を退任して少将に戻ったマッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問を務めることになった時、マッカーサーの希望で副官とした経緯があるからだ。マッカーサーは着任後、アメリカ軍の威容を示すためにマニラ市内でパレードをすることを思いついた。アイゼンハワーに計画を立てさせ、各方面に折衝を行わせた。ところがこのパレード計画はフィリピン。コモンウエルス政府(半独立状態の政府)に無断で行われていたため、あのケソン大統領が抗議をした。
 「マッカーサーは“アイクのミスだ”と逃げた。そしてアイクをしかりつけたのさ。以降、マッカーサーはアイクの細かい失敗を指摘しつづけた(そういう執拗なところがある)んで、アイクは嫌になった。アイクがいくら転任希望を出してもそれを握りつぶし続けたんだよ。そういうわけだからアイクはマッカーサーを赤ん坊なような性格だと忌み嫌っている。自分のカネなんか出すわけがないよ」
「ところで、そのフィリピ~ナそれからどうなりました?」と足立が意地悪く話題の転換をせまった。 
「何でワシに聴く」
「別に他意はありません」
「それじゃ言うが、その後、すぐ、マッカーサーはマニラ行きのチケットを彼女に渡して"ワシントンから消えろ”と冷たく言ったそうだよ。だが二〇歳になったばかりのエリザベスはマニラに帰っても仕事がないので、中西部の方へ行ったそうだ。そこで美容サロンを開いた。その後ロスに行ってフィリピンには二度と帰らなかったそうだよ。彼女のマニラで撮った最後の作品は"IKAW PALA”というものだ。東京のタレント(プロローグに登場した)が言うには日本語で言えば"あら!貴方なの”というのだそうだ。どういう条件下でそれを使うのか、明確な回答がなかったが、ま、それはともかく可哀想なのは、イザベルが四六歳の時、一九六〇年か?、ロスでテンカンで死んだことさ」
「マッカーサーが亡くなる四年前ですね」マッカーサーは一九六四年四月に亡くなっている。
「ウ~ン、次郎、お前もマッカーサー通になったな、よろしい」

 この時点で、太平洋の軍事情勢は大きく変ってきていた。第一次世界大戦でマッカーサーがドイツと戦っている間に、日本は南洋群島からドイツ軍を追い出し、ドイツに代わって信託統治をおこなっていた 。その結果、フィリピンに拠点を置くアメリカとの対立の様相はますます高まる方向に向かっていった。
□二度目の妻、ジーン・フェアクロス

 二番目の妻ジーン・メリィ・フェアクロス((Jean・Mary・Faircloth)については前にちょっと触れたように母メアリーがマニラにいる息子ダグラスを訪ねての船旅中に出会った女性だった。ジーンは香港の友人と再会、旧交を温めたのち、その後の旅行スケジュールをキャンセルしてメアリーの誘いに応じ、マニラのマッカーサー母子のところにやってきた。
 息子ダグラスの暴走とも思われる、ルイーズとの最初の結婚に心労を重ねていた母メアリーはその後体調を崩し、心臓を病むようになっていた。
「息子の幸せと立身出世を生涯夢見て献身してきた母の愛は、ついに自身の生命のともし火がいまや消えんとする際に大きな実を結ぶことになった」と文学調の吉田翁。
「それはマッカーサーにとって最高の伴侶となったジーン・メアリー・フェアクロスを選び出してくれたことだ」
 「それでは翁、ジーンとはどんな女性だったんですか?」
 まず、ジーンの、最初の妻ルイーズとの決定的な違いは、派手とは無縁の地味で堅実な性格の持ち主であるということ。しかし、明るくてキビキビした動作、マックの母メアリーが、ジーンと会った瞬間「この娘こそダグにとって最良の妻となる女性」とひらめいたのだ。
 ペンの神様ジョン・ガンサーは東京で会ったジーンについて次のように描写をしている。『マッカーサー夫人はいかにも元気のよい、色は白くはないが、こじんまりした、美しいきびきびした女性である。彼女はなに不自由のない満ち足りた生活を送っている。彼女は夫にとってはなくてはならない人である。夫は妻に首っ丈、妻は夫を神様のように尊敬している。妻は夫を「元帥、ゼネラル」と呼ぶ。
 夫人は総司令官にとっての大事な協力者である。彼女は忙しい社交方面を一切引き受け、社交などぜんぜんやらない元帥に代わっていろいろなお偉方に敬意を表し、そして大使館でお客を招くときは、とても愛想のいい奥さんになる。
 マッカーサー夫人は、こうして自分の役割を果たすときに、彼女は総司令官夫人だというようなそぶりはぜんぜん外に現さない。宴会などに出席した場合でも、彼女は完全に他の将校連の夫人たちの間に入り込んで、自分が特別な人間だというような態度は少しも示さない。
 夫人が銀行で預金を引き出すときも、一般の人と一緒に並ぶし、PXに買い物に行くといった調子で、全くなんらの特権をも要求せず、あらゆる人々から賞賛されている。
彼女には一九三八年マニラで生まれ、今年一二歳になるアーサーという男の子がいる。アーサーには通称「ギビー」と呼ばれているイギリス人の家庭教師がついている。「ギビー」ことフイリス・ギボンズ夫人は戦前フィリピンで学校の教師をしていたが日本軍に捕らえ
られ、丸三年間も捕虜収容所で過ごしたという経験の持ち主である。アーサーは彼女に完全になつき、彼女もアーサーをこの上なく愛している』と言うのだ。
「まったくそういう気さくさと大胆不敵なところがある女性なんだろうな」
□マニラ・ホテル
一九三五年、ルーズベルトはフィリピン防衛に当たらせるため、マッカーサーをその地に送った。マッカーサーは一九三五年、参謀総長を最後に米陸軍を除隊し、フィリピン軍の軍事顧問団に就任した。フィリピンは自前の軍隊を持ってはいたが、脆弱なものでアメリカの助けを借りなければどうにもならなかったので、代々、アメリカ陸軍から顧問団の派遣(事実上、フィリピン総督)を受けていた。マッカーサーの父、アーサーも就任していたことは既に述べた。
「うまくできてるよな」と吉田翁。
「何が?」と足立。
「だって、フィリピンには若い恋人がおるではないか、南国でハネム~ンと言うわけか、やや年を食っておるがワシほどではない」
「なんのことですか?」
「君は知らなくてもよい」
そういわれると足立は発奮するタイプだ。
マッカーサーのフィリピン生活はどんなんだったんだろうか?
旧友のフィリピン大統領マニエル・ケソンが三顧の礼をつくし、フィリピン元帥として
迎え入れられたマッカーサーは彼としての四回目のフィリピン勤務を家族とともにマニラホテルで過ごすことになった。
ルーズベルト大統領は、マニラにいた彼を少将の身分で軍に復帰させ、その翌日には中将にして、南西太平洋における全アメリカ陸軍部隊の司令官に任命した。そして真珠湾の奇襲があった同じ日(12月8日、フィリピン日時)にフィリピン軍をアメリカ軍の指揮下に置いたのである。したがって、マッカーサーはフィリピン軍の元帥であり、アメリカ軍の元帥ではない。また、米比合同部隊の司令官であるが元帥ではない。国務省の外交政策や戦争省参謀部の命令には逆らえないのである。彼は戦線の指揮者であるからだ。
□「サザランドがクラークの靴下を脱がせてやっている」
「GHQ/SCAPの参謀長はサザランドだということは前に話したよな」と吉田翁。
「その人物が一度だけミスしたことがある」
「ミスといってもオーストラリアの大尉の奥さんだったがね」
「ハ~?」
吉田翁の情報はこういうことらしい。
南西太平洋の戦争は自分ひとりで行うしかないと考えていたマッカーサーはオーストラリアで開設したGHQ/SWAPA(南西太平洋軍)のメンバーを発表する。参謀長をサザランド(少将)としたのだ。サザランド はコレヒドールから脱出してきた一五人のバターンボーイズの筆頭格で、頭がよく、陰気な性質でよく仲間から孤立していた。ブレスベン、ニューギニア、レイテ、マニラと全勝を続けてフィリピンに戻ったマッカーサー元帥だったが、ひとつだけ気がかりなことがあった。サザランドの女性問題だ。女性とはクラークというオーストラリア人だった。彼女の夫はオーストラリア軍として中東で戦っていた。サザランドはこの女性を米婦人部隊(WAC)に入隊させ、大尉の資格でニューギニア、ホランデアまで連れてきていた。マッカーサーはそれを知り、サザランドを怒り、すぐブレスベンに帰すように説得したのだが、かえって、彼女はレイテのタナウアンまで連れてきてそこへ愛人用の宿舎まで作らせていた。元帥のお抱え医師エグバーグからそのことを聞いたマッカーサーは真っ赤に怒り、「デイックを呼んで来い」と命じた。その大声は道端まで響き、将兵は聞き耳をたてるより、自分の耳をふさいだような様になったということだ。
その場は丸くおさまったが、サザランドはマッカーサーの信任を失い、東京に進駐してまもなく、サザランドの参謀総長更迭につながっていく(増田二七七~二七九P)。
「マッカーサーだって恋人がいたじゃないですか?」と足立。
「あれは、マッカーサーが二度目の結婚をする前の独身時代のことだ」と吉田翁。
「マッカーサーは結局、不倫に対しては他を許せなかったということですか」
「そうかも知れんな」
「サザランドの奥さんはいたんですかね」
「どうかな」
「その情報はどこから仕入れたんですか?」
「前出の増田弘の『マッカーサー』という虎の巻さ」
「それでその注釈は何と?」
「あ~、う~、『ダグラス・マッカーサー』九一頁、一二五~一二六頁、一三〇頁参照となっておるな」「調べてみましょう」と足立は引き取った。
ウイリアム・マンチェスター著、鈴木主税、高山圭訳『ダグラス・マッカーサー 上下』(河出書房新社・一九八五年)にはこう書かれている。
《手前サザランド、奥は元帥、撮影場所はマリンタ・トンネル(コレヒドール)》
南西太平洋軍の司令部がメルボルンにあったころ、サザランドは社交界でエレイン・クラーク (Elaine Bessemer Clarke )という女性と知りあう。クラーク夫人の夫はオーストラリア陸軍将校で、中東方面に出征して不在だった 。1942年7月、司令部がブリスベンに移ったあと、クラークはのちにケニー副官およびマーシャルの秘書となる民間人女性2名を連れてブリスベンに移ってきた。サザランドはクラークを司令部が入居するビルの受付係とした 。もっとも、クラークはサザランドと知り合ったとはいえ、最初のころは「夜のお供」は若い士官相手に行い、次いで佐官、そしてサザランドと格上げをしてきた。また、受付の仕事にしても事務一切の仕事ができなかったがゆえのものであり、「サザランドがクラークの靴下を脱がせてやっている」という噂も流れた 。
やがて南西太平洋方面の戦局が赤道より上に移ると、マッカーサーは司令部も赤道以北に移すことを考えるが、その際にマッカーサーとサザランドはオーストラリアのジョン・カーティン首相と会談し、オーストラリアの女性や軍属は赤道以北には行かせないという取り決めがなされた。同時に、司令部の軍属をアメリカ陸軍婦人部隊の者と入れ替えるよう要請した。サザランドはケニーとマーシャルの秘書の地位保全も要請する一方、陸軍婦人部隊からの参加者がアメリカ国籍の者限定だったことの抜け穴を悪用した形で、どざくさにまぎれクラークの身分の保証をも要請していた。人事担当の陸軍次長ミラー・G・ホワイト少将や婦人部隊司令官オヴィータ・カルプ・ホビー大佐は派遣に賛同していたが、陸軍次長ジョゼフ・マクナニー少将は反対した。しかし、人員の増加が作戦の遂行に不可欠であるという認識と、アイゼンハワーの専属運転手にケイ・サマースビー・モーガン(Past forgetting : my love affair with Dwight D. Eisenhower)が就いていたことが決め手となって婦人部隊の派遣が決まった。ケニーおよびマーシャルの女性秘書も軍曹(第一秘書)として改めて配属されたが、クラークはなぜか大尉(秘書役)に任官した 。
マッカーサーがクラークの存在に気付いたのはホーランジの戦い を控えたころで、ある朝にジュースを配っているクラークを見て、周囲に「あの者は誰だ?」と聞いたところ、答えが返ってきた。「オーストラリア人でさしづめホステスといったところでしょう」。マッカーサーは事の真相を知るとサザランドにクラークを帰国させるよう命令したがサザランドの反応は不明で、マッカーサーはてっきり帰国していたものと思っていた。しかし実際にはクラークは帰国せずレイテ島の戦いの際にレイテ島にやってきており、さらにサザランドがタクロバン の海岸にクラーク専用の宿舎建設を命じていることをマッカーサーは知って仰天する。マッカーサーはサザランドを呼び出し、激昂しながらクラークを48時間以内に退去させるよう命じた。2日後、クラークは荷物をまとめてブリスベンに帰って行った。珍妙なことに、サザランドはその直後に「歯痛を訴え」、ホーランジアにいる歯医者のもとに行った。そして、歯の治療でホーランジアに行ったはずであったが、「なぜか」ブリスベンまで移動した。一連のクラークの一件以降、サザランドとマッカーサーの間には亀裂が生じることとなった 。
帰国後、サザランドは退役したものの、病身のため公的な仕事に就くことはなく引退生活に入った。また、妻ジョゼフィンにクラークとの一件を詫び和解し、クラークとの手紙は娘のナタリーが始末した。
サザランドは1957年12月30日にジョゼフィンに先立たれ、1962年にヴァージニア・ショウ・ルートと再婚したが、1966年6月25日にワシントンのウオルター・リート陸軍医療センターで亡くなった。72歳没。6月29日にアーリントンで家族と共に葬られている。
「だからサザランドにはジョセフィンという立派な奥さんがいたんですね、翁」
「そうだったか、ま、奥さんと和解したのだから善しとせにやな、オレとは雲泥の差がある・・・・」
「何のことですか?」
「足立君ご苦労だった。小説に採用させてもらうよ」
《マニラ湾の夕暮れ》
□ニューヨークで重光と会う
《初会見を終えて帰られる天皇陛下》  《一枚目マッカーサーが眼を閉じているので不採用、二枚目天皇陛下のお口が空いていたため不作用、三枚目があの有名な写真》
首席検察官のキーナンは、重光や木戸を起訴したのは間違いだったと述べたし、マッカーサーも東京裁判は失敗だったといった。少なくとも太平洋戦争の始まる前までに国際戦争法上、戦争を始めることは人道上も犯罪ではなかったからである。しかし、東条以下七人の指導層は今上天皇の誕生日(二十三年二月二十三日)にあわせて絞首刑になった。マッカーサーがその日を指定したかどうかはどこにも書かれたものはないが、少なくとも、東京裁判が誤りであるならば、その刑の執行に手を加えるような企てがGHQ側にはあったと派思えない。昭和三〇年九月二日。ミズーリ号での降伏文書調印からちょうど一〇年目、鳩山一郎内閣の外相として訪米した重光は、ニューヨークのウオルドーフ・アストリア・ホテルにマッカーサー元帥を尋ねている。日本を発つ前、重光が那須御用邸へ行って渡米の使命を内奏した。天皇はマ元帥のへのメッセージを託してきた。「自分は米国人の友情を忘れた事はない・・・・特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている」マ元帥は、重光が伝える天皇のメッセージを何よりも喜んで聴くと、「戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らない」として、十年前の天皇との第一回会談のもようをこう語った。「初めてお出会いしたのは東京の米国大使館内であった。どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心をもって御出会いしました。しかるに実に驚きました(much to my surprise)。
陛下は先ず戦争責任の問題を自ら持ち出されつぎのようにおっしゃいました・・・・。”私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件も全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様なものであろうとも、それは自分には問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい(go ahead!)。私は全責任を負います”
これが陛下のお言葉でした・・・・もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上ることを申(し)出るというこの国の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念はその後ますます高まるばかりでした」これを聞いた重光外相の「驚きと喜びとは、想像を絶したもので」、同席したスクリップ・ハワード通信のロイ・ハワード社主の速記録と照合して一部始終を記録して帰国すると、九月一四日付けの読売新聞で発表した。』と『決断した男 木戸幸一の昭和』(多田井喜生)の三六五頁あたりに書かれている。
「それじゃ、昭和三三年までにはマッカーサー回顧録は書かれていなかったのですか?」
「何でそんな質問になるのかね?」
「だって、重光さん、わざわざ、マッカーサーに会いに行くのに彼の自叙伝は全然、読んでいなかったということになるじゃないですか、だって、マッカーサーの一〇年前の昔話を聞いて、今(昭和三三年)驚いたというんですからね」。

 

There is a question whether Summersby consummated a romance with Eisenhower during the war, as there is no definitive evidence as to the matter. Many people knew both of them during the war but none alleged there was an affair. In Eisenhower Was My Boss, her 1948 memoir of the war years, written with journalist Frank Kearns, she made no mention of any affair. Her 1975 autobiography, Past Forgetting: My Love Affair with Dwight D. Eisenhower, was explicit about there being a romance, although it also said they had not actually had sexual intercourse. However she did not dictate the text. Past Forgetting was ghostwritten by Barbara Wyden while Summersby was dying of cancer.[12]This book was contracted after Eisenhower had died in 1969. The text states the omission of the affair from the 1948 book was due to her concern for Eisenhower's privacy. Summersby reportedly stated shortly before her death: "The General is dead. I am dying. When I wrote Eisenhower Was My Boss in 1948, I omitted many things, changed some details, glossed over others to disguise as best I could the intimacy that had grown between General Eisenhower and me. It was better that way."[13]
Those who dispute the claim of an affair maintain that the second book's description of the relationship was simply fabricated, presumably by the ghostwriter. By the book's account there were two unsuccessful attempts to have intercourse.[13]Instead of sex, wrote Summersby, the affair mostly consisted of "stolen kisses" during walks or on aeroplanes, holding hands, and horseback riding or golfing together. She kept a note from Eisenhower that asked, "How about lunch, tea & dinner today?" the note says. "If yes: Who else do you want, if any? At which time? How are you?"[6]
Eisenhower himself only mentioned Summersby once in Crusade in Europe, his memoir of the war, in a list of aides.[6]Historian Carlo D'Este notes that members of Eisenhower's staff denied that there was ever an affair between them, and dismisses Summersby's book as "fanciful".[14]However, rumours and jokes about their relationship were common among soldiers who did not know the two. Eisenhower's son John, who briefly served as an aide, described her as "the Mary Tyler Moore of headquarters. She was perky and she was cute. Whether she had any designs on the Old Man and the extent to which he succumbed, I just don't know."[6]
Field Marshal Bernard Law Montgomery wrote in his diary that Past Forgetting "should have never been written, it can do Eisenhower no good. If American generals were in the habit of dealing with women secretaries and drivers as Eisenhower did and others appear to have done if this book is true, then their characters slump in the eyes of the world. This book makes it clear that Eisenhower discussed with Kay Summersby, his woman car driver, his views on Generals under him, and disclosed to her the most secret matters; all this is now given to the public in her book. Her views on world figures are enlightening, since they are obviously Eisenhower's views."[15]
President Harry S. Truman reportedly told author Merle Miller that in 1945, Eisenhower asked permission from General George Marshall to divorce his wife to marry Summersby, but permission was refused.[13]Truman also allegedly said he had the correspondence between Marshall and Eisenhower retrieved from the Army archives and destroyed.[16]But Truman's account of the Summersby controversy has been rejected by most scholars.[17][18][19]Historians say Truman had a mistaken recollection, and emphasise that Eisenhower had asked permission to bring his wife to England. Others have speculated that Truman was not truthful about Eisenhower because of animosity between the two men that intensified during the Eisenhower presidency (Truman stated that Eisenhower did not invite him back to the White House during his administration).[20]Historian Robert H. Ferrell stated he found that the tapes of Miller's interviews with Truman contain no mention whatever of Summersby, and concludes that Miller concocted the story.[21]
Eisenhower biographer Jean Edward Smith wrote, "Whether he and Kay were intimate remains a matter of conjecture. But there is no question they were in love." He accepted Miller's account because Garrett Mattingly, who as a naval officer in Washington censored outgoing cables, told a similar story to his Columbia University faculty colleagues in the early 1950s. Smith cited several other people who believed in or were told of the existence of an affair. Omar Bradley in his autobiography wrote that the two were in love and that "Their close relationship is quite accurately portrayed, so far as my personal knowledge extends, in Kay's second book, Past Forgetting."[22]
Summersby was born Kathleen Helen MacCarthy-Morrogh in Ballydehob, County Cork, Ireland.[2][3]She was the daughter of Donald Florence MacCarthy-Morrogh and Vera Mary MacCarthy-Morrogh (née Hutchinson). Her father, descended from the MacCarthy Reagh Princes of Carbery, was originally from County Kerry, and her mother was born in Wales,[2]as the fourth of five sisters, to an English gentleman and Irish mother who was also descended from the Morrogh family.[4]
She described her father, a retired Lt. Colonel of the Royal Munster Fusiliers, as "black Irish" and her mother as English. As a young woman, she moved to London where she worked as a film studio extra, dabbled in photography, and eventually became a fashion model. She was married in 1936 to British Army officer Gordon Thomas Summersby; when they divorced,[when?][why?]she retained the name of her ex-husband.[3]There was an engagement to marry US Army officer Lieutenant Colonel Richard "Dick" Arnold that overlapped her initial period with Eisenhower; however, this ended with the death of her fiancé while mine clearing during the North Africa campaign.[5][6]
World War II[edit]
When Britain entered the Second World War in 1939, Summersby joined the British Mechanised Transport Corps (MTC). She drove an ambulance throughout the London Blitz in 1940 and 1941,[3]and was reportedly excellent at navigating London streets during blackouts and fog.[6]When the United States joined the Allies after the German declaration of war in December 1941, Summersby was one of many MTC drivers assigned as chauffeurs to high-ranking American military officers.
Summersby was assigned to drive then Major General Dwight Eisenhower when he arrived in London in May 1942. Though there was a brief interruption of several weeks due to Eisenhower's short return to the US, Summersby chauffeured Eisenhower and later became his secretary until November 1945, based at his home Telegraph Cottage in Warren Road, Coombe, Kingston upon Thames. During this time Eisenhower rose in rank to a five-star General of the Army and Commander of the European Theatre, and Kay, with his help, became a US citizen and a commissioned officer in the US Women's Army Corps (WACs), ultimately leaving the service as a captain in 1947.
Captain Summersby's military awards included the Bronze Star Medal,[7][8]Women's Army Corps Service Medal, European Campaign Medal, World War II Victory Medal and the Army of Occupation Medal with "Germany" clasp. (Although several online sources state that Summersby received the Legion of Merit, no documentary evidence has been found that she was ever awarded it. The Legion of Merit was normally awarded to senior officers in the rank of colonel and above, which reduces the likelihood that Summersby was awarded it.)[original research?]
Life after the war[edit]
Summersby was awarded the British Empire Medal (BEM) in the 1945 New Year's Honours List. The award, at the insistence of British Prime Minister Winston Churchill, was presented, with a signed photograph of the Prime Minister, aboard the MV Britannic in New York more than three years later.[9]
After leaving the service in 1947, Summersby settled in the United States, and was, at one point, engaged to a man in San Francisco who thought she had money.[6]She married the Wall Street stockbroker Reginald H. Morgan in 1952,[10]but was soon[when?]divorced.[why?][6]She died at her home in Southampton, Long Island, of cancer, on 20 January 1975.[11]

 

 

 

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