キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

マッカーサーが大統領になれなかった本当の理由 キサラギジュン2017rv.

2017-06-22 21:49:29 | 大統領になれなかった将軍
  • ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter
  • マッカーサーが大統領になれなかった本当の理由
  • キサラギジュン2017rv.
  • ヨシダ「結局、熟した柿は落ちてこなかった」
    アダチ「柿ですか?」
    「次郎、参謀総長を50歳で卒業したマッカーサーがルーズベルトから懇願されてマニラに行ったのではないということは理解しなくちゃならんぞ」
    「また、翁の歴史小話がはじまるんですね」、
  • 「だが、ルーズベルトはこの秀才肌のマッカーサーがやがて、将来の大統領選の脅威になると思っていたのも事実だ」。だからこういった。「君は軍人としてはアメリカ陸軍史上、最高のスピードで出世したのは認めるが、それは軍人としてであって、政治家としてはキミは最低だと思うよ」と。
  • 「もう一献、で、風が吹けばおけ屋がもうかる式のその歴史観は?」
    「そうじゃな、どの辺から始めるかな」。
  •  そのころのアジアの勢力地図は、中国北端はロシア、中国本土は群雄割拠、太平洋はアメリカとドイツ帝国、東南アジアは英仏、インドネシアは蘭という図式だったのだ。富国強兵策で日本は着々と国力をつけ、日清戦争を通じて、朝鮮を独立させ、遼東半島、満州南部、台湾、膨鼓島を割譲した。遼東は三国干渉(ソ仏独)で還したが、関東軍を満州に派遣した。
    ひきつづき日露戦争では、非ヨーロッパ勢力としては日本が初めて勝った戦争で、南満州と南サハリンの権益を受けた。その後、朝鮮を日本に併合し、台湾に50年治世体制を敷くとアジアの勢力地図は日本一色となり、アメリカはこれは大変だと思い始めた。
  •  中国は、国民党の蒋介石が重慶から日本と協力しながら毛沢東軍に対峙していたが、義弟の宋子文が、アンチ日本の旗印でアメリカの協力を依頼し、アメリカも非共産の蒋介石と共調した。屑鉄の禁輸措置、原油供与禁止と対日包囲網を構築していった。経済封鎖だな、そのほか、政治的にもいろいろ画策があった。たとえば、ヨーロッパで力をつけたヒットラーのドイツ、ムッソリィーニのイタリアと日独伊三国同盟(枢軸)をマツオカが成功させ、それにソ連を加えた四か国同盟などの構想があった。こうすれば、英米に対抗する一大軍事国家連合ができる。だが、チャーチルは必死にこれに対抗するため、アメリカを戦争に引っ張り込もうとした。ドイツと対抗するため、ソビエトと友好条約を結び、ソビエトの力を抑えるため、極東の日本軍の力を必要とし、その日本軍の力を拡散させるため、友好国のアメリカを太平洋部に展開させたんじゃ。まったくもって奇妙な三角関係なんだ。
    「これをソビエトから見るともっと面白いぞ、次郎」。
  •  スターリンは、さんざん日本に苦い汁をすわされたが、結局、日本と中立条約を締結するに至る。ヨーロッパ戦線と極東戦線の二面作戦は国力が消耗するからな、それで、日本がハルノートで最終通牒が示され、もう開戦が不可避となるとトーゴー外相はドイツ大使に打電、ソビエトとの中立条約は固く守ると約束させた・・ので、スターリンは安心して極東精鋭をヨーロッパに回すことができたというわけだ。
    「次郎、ここにも奇妙な連鎖がある」、すなわち、英国米国はドイツを抑えるためソビエトを必要とし、日本とドイツと枢軸を組みながら、ソビエトとは中立を護る。アメリカとソビエトは連合軍同士だったが(少なくとも大戦の中ごろまでは)、戦後ソビエトが日本、中国を好き勝手に占領しては困る。「ヤルタ会談はそのことに触れていないが、ルーズベルトとスターリンの心の葛藤はワシにはよくわかる 」。
    「何のことですか?翁」
    「ウゥホン、そのソビエトの仇敵日本の国体を奪って弱体化してしまうことはアジアの冷戦体制の崩壊を招く。だから、マッカーサーに指令して象徴天皇制を導入させ、民政を安定化したように見せる傀儡政権、ソビエト・共産中国へ対抗する偽装植民地、「日本」を創造するシーザーになることをマッカーサーに求めた・・んだと思う」。
    「考えすぎでしょう、ま、一杯」。
    とにかく日本にとって、独ソ戦の第三者的利益、熟れた柿は落ちてこなかったのである。1941年7月の日本軍のインドシナ侵攻は、副大統領トルーマンから引退したばかりの(マニラにいる、フィリピン元帥の)マッカーサーを極東軍司令官として復帰させた。そして、日本軍がフィリピン空軍基地を急襲した12月8日、その日に大将に昇任させた。マッカーサーを復帰させた功罪はこの後詳しく述べる。
  • □ダグラス・マッカーサー
    「じゃ~な、マッカーサー元帥について語ろうじゃないか、あのサングラスとパイプと元帥帽の男のいわれをな」と吉田翁。
    「できるだけ手短にお願いしますよ吉田翁」と足立。年寄りの話は長いからだ。

    ダグラスマッカーサー、アーサー・マッカーサー の息子、一八八〇年一月二六日アーカンソー州リトルロック(クリントン元大統領の出生地)に生まれた。母、メアリィーが溺愛した。一九〇三年、マッカーサーはウエストポイント陸軍士官学校を首席卒業、クラスメートは九三人だった。
    卒後、フィリピンの工科隊に配属、数年後、彼の父アーサーがセオドア・ルーズベルト大統領(一九〇六年)から極東軍司令副長官に指名され、マニラに来ると早速その下に着任、アメリカ陸軍少佐となる。
    一九二八年にはアメリカオリンピック委員会長に指名されている。
    一九三〇年には米陸軍の幹部になっている。一三万五千人のアメリカ陸軍の近代化に取り組んでだ。具体的には三二年六月、戦車を導入する。騎馬強襲団(機械化部隊)、武装歩兵旅団を強化し、予備役召集部隊を作った。彼は以前の米軍指導部層を批判し、米国は共産化の瀬戸際にあるとした。アイゼンハワーやパットン将軍がこの動きに追随した。
    戦車軍団の創設と装備近代化である。
    ■ルイズ・クロムウエルとの結婚破綻
    ピアソンがマッカーサーの自伝を書いた。彼の先妻ルイズ・クロムウエルから情報を得た。マッカーサーはルイズの愛の手紙からヒントを得ていろいろ書いたのだが、マッカーサーが将軍候補となった時、ルイズの継父、エドワードTストートバリィ から政治的嫌がらせを受けている。ピアソンがマッカーサーの伝記を出すと、マッカーサーは激怒し、ピアソンを告訴し、百七十万ドルを要求した。法廷に立つはずのルイズはやって来なかった。 (Edward T. Stotesbury)
     彼の継娘がルイーズ・クロムウエル 、二九年に離婚。ピアソンはマッカーサーのフィリピンへ送られた若い恋人(ジーン・メリー・フェアクロス)に接触、マッカーサーの自伝を書いた。彼女はマッカーサーの恋文を多数見せてくれたと云っている。マッカーサーは怒って告訴している。ピアソンは法廷でこれらの証拠を提示し、裁判を闘い、ついにマッカーサーの告訴を取り下げさせることに成功している。
    「マッカーサーの最初の妻はルイーズ・クロムウエル・ブルックスだ。彼が四十二歳、一九二三年に結婚した。このとき彼は母校ウェストポイントの校長職についていた。彼女の継父はフィラデルフィアの百万長者ストートスベリィという裕福な家系で、彼女はワシントン社交界の花形だった。
     母、メリーはこの結婚には絶対反対だった。一九二二年六月、二度目のフィリピン勤務を命ぜられたマッカーサー(四二才)は、ルイーズを伴い一八年ぶりにマニラに向け出発した。マニラに到着早々マニラ軍管区司令官、ついでマッキンレイ司令官に任命されたマッカーサーは、バターン半島の防衛をさらに固める準備に情熱を傾け、多くの時間を費やした。
     この時点で、太平洋の軍事情勢は大きく変ってきていた。第一次世界大戦でマッカサーがドイツと戦っている間に、日本は南洋群島からドイツ軍を追い出し、ドイツに代わってその支配権を手に入れていた。その結果、フィリピンに拠点を置くアメリカとの対立の様相はますます高まる方向に向かっていった。
     二人は一九二九年に離婚し、ルイーズはマッカーサーのもとを去っていった。
     マッカーサーが自書した自伝の中ではルイーズのことには一切触れていない。ルイーズとの結婚について「マッカーサーは、あまりにもマザコンの自分に嫌気がさし、母への反逆から独断専行でルイーズを選んだ」のだとの説もある。いずれにしてもマッカーサーにとってこの選択はかなりつらい経験になった。ルイーズはマッカーサーと別れてから二度結婚している。そのうちの一人は有名な俳優、ライオネル・アトウィルで、彼女は実に奔放で夢多き女性だった。

     
  • 一九三五年ルーズベルトはフィリピン防衛に当たらせるため、マッカーサーをその地に送った。
    「うまくできてるよな」と吉田翁。
    「何が?」と足立。
    「だって、フィリピンには恋人がおるではないか、南国でハネム~ンと言うわけか、やや年を食ってるがワシほどではない」
    「なんのことですか」
    「君は知らなくてもよい」
    三.二度目の妻、ジーン・フェアクロス
    (Jean・Mary・Faircloth)
  •  
     二番目の妻ジーンについては前にちょっと触れたように母メリーがマニラにいる息子ダグラスを訪ねての船旅中に出会った女性でしたね。ジーンは香港の友人と再会、旧交を温めたのち、その後の旅行スケジュールをキャンセルしてメリーの誘いに応じ、マニラのマッカーサー親子のところにやってきました。
  •   息子ダグラスの暴走とも思われる、ルイーズとの最初の結婚に心労を重ねていたメリーはその後体調を崩し、心臓を病むようになっていました。息子の幸せと立身出世を生涯夢見て献身してきた母の愛は、ついに自身の生命のともし火がいまや消えんとする際に大きな実を結ぶことになりました。それはマッカーサーにとって最高の伴侶となったジーン・メリー・フェアクロスを選び出してくれたことでした。
  •   それではジーンとはどんな女性だったのでしょうか。
  •   まず、ジーンの、最初の妻ルイーズとの決定的な違いは、派手とは無縁の地味で堅実な性格の持ち主であるということです。しかし、明るくてキビキビした動作、マックの母メリーが、ジーンと会った瞬間「この娘こそダグラスにとって最良の妻となる女性」とひらめいたのでしょう。
  •   ペンの神様ジョン・ガンサーは東京で会ったジーンについて次のように描写しています。『マッカーサー夫人はいかにも元気のよい、色は白くはないが、こじんまりした、美しいきびきびした女性である。彼女はなに不自由のない満ち足りた生活を送っている。彼女は夫にとってはなくてはならない人である。夫は妻に首っ丈、妻は夫を神様のように尊敬している。妻は夫を「元帥、ゼネラル」と呼ぶ。
  •   夫人は総司令官にとっての大事な協力者である。彼女は忙しい社交方面を一切引き受け、社交などぜんぜんやらない元帥に代わっていろいろなお偉方に敬意を表し、そして大使館でお客を招くときは、とても愛想のいい奥さんになる。
  •   マッカーサー夫人は、こうして自分の役割を果たすときに、彼女は総司令官夫人だというようなそぶりはぜんぜん外に現さない。宴会などに出席した場合でも、彼女は完全に他の将校連の夫人たちの間に入り込んで、自分が特別な人間だというような態度は少しも示さない。
  •   夫人が銀行で預金を引き出すときも、一般の人と一緒に並ぶし、PXに買い物に行くといった調子で、全くなんらの特権をも要求せず、あらゆる人々から賞賛されている。
     彼女には一九三八年マニラで生まれ、今年十二歳になるアーサーという男の子がいる。アーサーには通称「ギビー」と呼ばれているイギリス人の家庭教師がついている。「ギビー」ことフイリス・ギボンズ夫人は戦前フィリピンで学校の教師をしていたが日本軍に捕らえ
    丸三年間も捕虜収容所で過ごしたという経験の持ち主である。アーサーは彼女に完全になつき、彼女もアーサーをこの上なく愛している』
  •  二番目の妻ジーンについては前にちょっと触れたように母メリーがマニラにいる息子ダグラスを訪ねての船旅中に出会った女性でしたね。ジーンは香港の友人と再会、旧交を温めたのち、その後の旅行スケジュールをキャンセルしてメリーの誘いに応じ、マニラのマッカーサー親子のところにやってきました。
  •   息子ダグラスの暴走とも思われる、ルイーズとの最初の結婚に心労を重ねていたメリーはその後体調を崩し、心臓を病むようになっていました。息子の幸せと立身出世を生涯夢見て献身してきた母の愛は、ついに自身の生命のともし火がいまや消えんとする際に大きな実を結ぶことになりました。それはマッカーサーにとって最高の伴侶となったジーン・メリー・フェアクロスを選び出してくれたことでした。
  •   それではジーンとはどんな女性だったのでしょうか。
  •   まず、ジーンの、最初の妻ルイーズとの決定的な違いは、派手とは無縁の地味で堅実な性格の持ち主であるということです。しかし、明るくてキビキビした動作、マックの母メリーが、ジーンと会った瞬間「この娘こそダグラスにとって最良の妻となる女性」とひらめいたのでしょう。
  •   ペンの神様ジョン・ガンサーは東京で会ったジーンについて次のように描写しています。『マッカーサー夫人はいかにも元気のよい、色は白くはないが、こじんまりした、美しいきびきびした女性である。彼女はなに不自由のない満ち足りた生活を送っている。彼女は夫にとってはなくてはならない人である。夫は妻に首っ丈、妻は夫を神様のように尊敬している。妻は夫を「元帥、ゼネラル」と呼ぶ。
  •   夫人は総司令官にとっての大事な協力者である。彼女は忙しい社交方面を一切引き受け、社交などぜんぜんやらない元帥に代わっていろいろなお偉方に敬意を表し、そして大使館でお客を招くときは、とても愛想のいい奥さんになる。
  •   マッカーサー夫人は、こうして自分の役割を果たすときに、彼女は総司令官夫人だというようなそぶりはぜんぜん外に現さない。宴会などに出席した場合でも、彼女は完全に他の将校連の夫人たちの間に入り込んで、自分が特別な人間だというような態度は少しも示さない。
  •   夫人が銀行で預金を引き出すときも、一般の人と一緒に並ぶし、PXに買い物に行くといった調子で、全くなんらの特権をも要求せず、あらゆる人々から賞賛されている。
     彼女には一九三八年マニラで生まれ、今年十二歳になるアーサーという男の子がいる。アーサーには通称「ギビー」と呼ばれているイギリス人の家庭教師がついている。「ギビー」ことフイリス・ギボンズ夫人は戦前フィリピンで学校の教師をしていたが日本軍に捕らえ
    丸三年間も捕虜収容所で過ごしたという経験の持ち主である。アーサーは彼女に完全になつき、彼女もアーサーをこの上なく愛している』。
  • マッカーサーは一九三七年、米陸軍(フィリピン駐留)をリタイヤした。定年退職だったがそのままフィリピン国軍の軍事顧問として残っている。
    一九四一年六月、米国務省と日本外務省(野村全権大使)との交渉が決裂すると、ルーズベルトはマッカーサーをフィリピン・アメリカ混成軍(USAFE)の総司令官に任命、一千万ドルの軍事援助費をフィリピンに供与する。さらに、フィリピンにB一七爆撃機百機をプレゼントしたが、旧式で役に立たないものだった。マッカーサーは全く、このプレゼントを評価していない。ヨーロッパステージの余り物だった。
    マッカーサーはマニラとミンダナオ二島防衛のために戦争資源の大部分を使った。
    一九四一年一〇月、ジョージ・マーシャル将軍は一三万五千人の兵隊と二二七機の戦闘機、爆撃機、輸送機をフィリピン防衛のため供与した。マーシャル将軍は“とてつもなく強い防衛・強襲部隊が投入された”といったがそれほどでもないとマッカーサーはこのときも評価していない。

    「日本の強大さを知らなかったのかね、マーシャルは?」
    「イヤそうじゃない。マッカーサーはルソン北部のベンケット鉱山とマニラホテルの恋人ルーシーを守るためには後、十万人はほしかったのさ、だが、国務省は欧州の方が気になっていて、しかも日本は、財閥の連中がいて、それらが日本の軍閥や東條の好戦的な野心を制御し、米国との戦いを阻止してくれると淡い期待を抱いていたのさ」事実、日本の穏健派、親米の経済家などが、ワシントンやニューヨークでロビィー活動を展開していた。マッカーサーはそれらの情報を入手することはできなかったが、陸軍省からはある程度の情報を得ていた。フィリピン、マニラ湾沖のコレヒドール島には、東南アジア・極東ゾーンの中短波通信傍受施設があって、日本軍、台湾軍、満州部、ソビエト極東の発する情報は逐次、コレヒドールに集積されていたのである。無論、その情報の管理はワシントンに集約され、一部の高級幹部しか見れないものだった。しかし、日本海軍の暗号の解析は、マッカーサーに所属する情報分析官によって行われ、成功していたのである。マッカーサーがそれを知らないわけはない。
  •  一九四一年一二月七日、日本空軍(海軍)がパールハーバーの太平洋艦隊を襲うと直ぐフィリピンを襲ってきた。空爆でマッカーサーの飛行機部隊はその大半を失ってしまう。米本土では「パールハーバーがあって、すぐ、彼は飛行機を避難させることができたのにそれをしなかった」ことをなじられた。
  •  日本軍はフィリピンを侵略し始める。ルソン北方にある三つの飛行場は占領され、一二月二二日にはリンガエン湾から上陸する。フィリピン軍の脆弱な体制を突破し、すぐマニアを制圧してしまう。マッカーサーはマニラを空にし、バタアン半島に逃げこむが日本軍の度重なる攻撃にさらされ、オーストラリアに脱出することにした。マッカーサーはこの奇襲のt時、ルソン中部の避暑地にいた。マニラ空襲の知らせを聞いて急いで帰ったという。それほど、彼は事態を甘く見ていたのだろうか。空襲の二日前、国務省は日米開戦が間近なことを知らせ、各軍は厳重警戒体制に入るよう指示していた。具体的には、飛行場に配置している爆撃機、戦闘機は各サイロに避難しておくこと、海軍乗務員は日曜日も外出してはならないこと。
    にもかかわらず、マッカーサーは飛行機避難を放置している。日曜の外出は自由だった。なぜ?
    これには深いわけがある。ルーズベルトが過度の臨戦態勢を取るなと指示していたのである。「彼らからまず、奇襲させろ。事態はそれからだ」と。それはハワイも同じだった。
    □マッカーサー回想記ーコレヒドールからの脱出
    『私はフイリピンから脱出に当たって、潜水艦でもぐるよりはPTボート(高速魚雷艇)で封鎖線を突破しようと決心した。高速魚雷艇隊にこの船がまだ四隻の残っていた。私たちは作戦計画を練った。敵に発見された場合には攻撃する計画で逃げることは考えなかった。 各艇には前部後部に計十六発の魚雷がついていた。魚雷一本は優に駆逐艦一隻、時には巡洋艦一隻をも撃沈することができる。日本の巡洋艦に見つかった場合には、直ちに攻撃に転じて一斉発射で魚雷の列を発射し、後は早いスピードに頼るという計画であった。この脱出行は、ジョン・D・バルクリー海軍大尉指揮下にある。この、残っていた四隻のPTボートに分乗、マッカーサーおよびその家族、それにマッカーサーに随行するため選ばれた十五人の軍人たちを乗せ、夜陰にまぎれてコレヒドール島から脱出した。
     一九四二年(昭和十七年)三月十一日の夕刻、私の時計で午後七時十五分に、私は玄関に座っていた妻のところへ行き“ジーン、もう車に乗る時刻だよ”とやさしく言った。私たちは静かなドライブの後、バルクリーがPTボートで待機している南波止場に着いた。一行のほかの連中はもう艇に乗り込んでいた。』と回顧録に書いている。

    『その日は終日、波止場付近は断続的に砲撃されていた。かっては美しかったこの場所が、なんと変わり果てたことか。私は眼前に広がる、無残に荒れ果てた情景、焼けただれた穴だらけの岩肌を見渡した。高い木々や小さな木むらに花を交えた、鮮やかな緑の景色はもはやなく、ビルというビル、小屋という小屋、地から生えてる一切のものが消し飛んでいた。
     およそ目に映るすべてのものが、片時もやまぬ爆弾の雨に引き裂かれ、あるいは崩れ落ち、島の端から端まで燃え盛った火の後が、真っ黒いシマ模様を残していた。ところどころ、大きく口を開いた裂け目からまだチラチラ炎が吹き出ていた。すべてが灰色一色の廃墟だった。』(同)

     残されたジョナサン・ウエンライト少将は一万一千人の微力で五月まで持ちこたえる。米軍本部はマッカーサーを再編成した南西太平洋軍司令長官に任命、太平洋の海はチェスター・ニミッツ将軍 に任せた。加えてアーネスト・キング将軍 を米海軍コマンダーの司令官とした。マッカーサーとニミッツは二人とも太平洋~オーストラリアの補給線を守ることが最大の使命だと考えていた。 (Chester Nimitz)
    珊瑚海海戦やミッドウエイ海戦がこのことを示している。日本軍はこの海戦で四空母を失っている。
     (Ernest King)
     四二年夏、ラバウルの近郊に戦いが集中した。ソロモン諸島が戦のかなめだったからだ。ソロモン島は日本軍の飛行場がある。八月七日米軍はガダルカナルへ上陸する。続く八ヶ月間、主力による白兵戦が一〇回、海でも七回のバトルが繰り返された。マッカーサーの飛び石作戦、水陸両用艇を使った上陸作戦、要塞化した日本軍陣地のある島々は迂回する作戦。この作戦は人員の損傷を和らげる。
  •  一九四四年の春までにラバウルの日本軍は一〇万人の戦死者を出した。日本第一八軍はニューギニアで包囲網に捕まったのだ。九月には米軍はモロタイを落とし、全ニューギニアは米豪連合軍のものとなった。
    一九四四年までマッカーサーはフィリピン作戦を展開することを許されていない。最初のフィリピン作戦はレイテを奪還することになった。レイテ島はルソン島とミンダナオ島の中間に位置する。二日間にわたる艦砲射撃の後、ウオルター・クルーガー将軍 と第六旅団は一〇月二二日、レイテへ上陸した。
  •  レイテ沖海戦は歴史上最大の海戦である。日本海軍は空母四隻、戦艦三隻、駆逐艦一〇隻を失った。米軍の圧倒的勝利だった。勝った友軍が太平洋をコントロールし、フィリピンを制圧するのは確かであるように見えた。
    一二月一〇日、米軍は激戦の末、オルモックの重要拠点を落とした。この戦いで米軍は三千五百名を失っている。日本軍は五万五千人に達している。四五年一月九日米軍はルソン島へ上陸した。フィリピン最大の島である。ヤマシタ・トモユキ大将のもとで日本軍は勇敢に抵抗したが、米軍は一月もしないで、ルソンの中央平原を突破し、マニラに迫った。
    ヤマシタの軍はルソン北方に退却したが、マニラを防衛する軍隊(イワブチ)は残った。四五年三月四日米軍がマニラを制圧する日の前までに一万六千人の日本兵が殺された。
  •  三月一〇日、ロバート・エイチェルバーガー将軍と第八軍はミンダナオに上陸、北進した。パナイ島、セブ、ネグロスそして(この間地震があった)ボホール島を次々と占領した。
    マッカーサーの最後の陸海軍共同作戦の最後は沖縄だった。日本本土から五六三キロ(三五〇マイル)に沖縄は位置し、良港が揃っていた。飛行場や軍施設が充実していた。そこから日本本土を空爆するのが完璧な作戦だった。したがって日本も猛反撃した。ウシジマ・ミツル将軍のもと、十二万の将兵が配置されていた。一万機の飛行機も用意されていた。例によって四日間の艦砲射撃ののち、沖縄東海岸に千三百隻の船で米軍が突入した。四月一日のことである。サイモン・バックナー准将 が指揮した。最初は一五万五千人を投入したが、  (Simon Buckner)
  •  沖縄戦が終わるまでに米軍は三〇万人に達した。この数は四四年六月、ヨーロッパでノルマンディー作戦に投入した人員に匹敵する。最初の日は六万人が少し反対側のハグーシ(Haguushi)の海外に投入された。次の日には二つの飛行場が制圧された。首里に迫った時、彼らは重火砲をもって反撃し、多数の死者が出る。
    五月四日第三上陸強襲団と第六海兵団がミツルウシジマ将軍の反撃を受けたのだ。四月六日、沖縄の沖では七〇〇機の神風特攻が繰り返され、駆逐艦一三隻が沈むか損傷を受けた。
    五月七日、巨大戦艦大和が片道切符の燃料を積み、自殺使命を帯びて近海に到達し、沈んだ。
    五月一一日、サイモン・バッカー准将は別の指令を発し首里奪還を目指した。日本軍は退却を始めたが、その日バッカー准将が戦死した。彼に代わってロイゲイガー将軍が指名され、ついに沖縄は米軍の手に落ちた。ミツル・ウシジマはそれを悟ると腹切りした。米軍はこの戦闘で四万九千人の死傷者を出した。そのうち一万二五二〇人は戦死した。日本兵は一一万人が戦死した。沖縄は日本侵攻の基地となった。
     (B二九スーパーフォートレス爆撃機)
  •  一九四五年八月六日、B二九スーパーフォートレス爆撃機が広島に原爆を落とした。
    それでも戦争が終わらなかったので三日後長崎に原爆を落とした。
    八月一〇日、日本は降参した。そしてWWⅡ(セカンドワールドウオー)が終了するのである。
    「本当は八月一〇日に降伏した?」と足立。
    「わからん」
    マッカーサーは連合軍の最高司令官(SCAP)となった。彼は日本の降伏を受け、GHQの長となった。トルーマン大統領 はマッカーサーに対し日本の戦争責任を追及するよう求めた。  (Harry S. Truman)
  •  一九四六年二月二三日のヤマシタ将軍の死刑執行は批判を受けた。そうとはいえ、ともかくマッカーサーは日本に民主的な体制を作った。宗教の自由とか、市民権とか、土地開放政策とか婦人参政権とか労働組合の結成権とかだ。
  •  一九五〇年、朝鮮戦争が勃発する。マッカーサーは国連軍の総司令官に指名される。マッカーサーはインチョン(仁川)に米韓合同部隊を上陸させる。北朝鮮軍の二〇〇マイル後方だ。 次の日北朝鮮軍に反撃を加える。マッカーサーの軍隊は北方へ戦線を拡大する。
    五〇年一〇月二四日には朝鮮と中国を隔てるヨル河(Yalu River) に到達する。
    ハリー・トルーマンとアチソン国務長官はマッカーサーに戦争を朝鮮半島内に限定することを命令していたが、彼は反対だった。「ジ~っとしているだけではこの戦争に勝てない」マッカーサーは反対意見をアメリカ議会に提出した。
    マ元帥「トルーマンはアチソン側に立った時には米軍を扱いかねていたのだ」 (Douglas MacArthur)
     朝鮮戦争の間中、マッカーサーはトルーマンの意見を聴かず中国本土へ突進した。戦線を拡大する路線をとったのだ。核兵器も場合によっては使うべきだと主張する。
    マッカーシィー議員「たとえば米市民の家族が殺し屋に命を狙われているときに、“静かにしろ、何もするな”ということができるか?アチソン長官は殺人という忌まわしい言葉を避けようとしているにすぎない」。
    マッカーシィー議員「コリアには五〇万人も共産主義者がいるのだ。アメリカ人を殺そうとしている」 。(Joseph McCarthy)
  •  一九五一年四月、トルーマンはジェネラル、ダグラス・マッカーサーを在韓国連軍の司令官ポストから外した。マッカーシー議員 はトルーマンから呼ばれた時のことを話す。「彼は酔っ払っていたよ、マッカーサーを首にする命令をした時にはナ。へなちょこどもに囲まれていたのさ、アチソンは古臭いヒス野郎で、彼(トルーマン)が機嫌のいい朝の内に裁断を申し出たのさ」
    マ議員「朝って?・・午前一時半か二時ごろさ、酔っ払っているからナ」
     (Dean Acheson )
    「アチソンはトルーマンを事実上牛耳っていたのサ、アチソングループは催眠術を使っていた。ワレワレは彼(アチソン)の“たこ”のような心を正さなくちゃナ」
    マッカーサーは右寄りの上院議員の側にいた。ジョセフ・マッカーシィー議員だ。
    「あの赤狩りで有名な・・・」日本の占領政策にも大いに影響が出た。

     マッカーサーは帰国後、議会で演説し、トルーマンと民主党を攻撃した。
    その後、すぐ(一九五二年)ドワイト・アイゼンハワーが大統領に選ばれた。共和党から大統領を出したのだ。アイゼンハワーはマッカーサーを軍事顧問としたが、「朝鮮に原爆を使用しろ、次いで中国へ侵攻しろ」という要求ははねつけた。ので、マッカーサーは共和党の政策に何も助力しなくなった。

     マッカーサーは後日(一九六三年)、バリー・ゴールドウオーターのインタビューを受けている。
    「アイクをどんな風に評価しますか?」
    退役したマッカーサー「あ~アイクはね、多分軍隊で一番いいスタッフ(幹部)のうちの一人だろうな。彼は人々とうまくやっていくたぐいまれな才能を持っていたさ。パットンやモン(ト)ゴメリィー、ブラドリィーたちと部屋の中で議論し、部屋を出る時までに互いにアグリーする」
    「アイク(アイゼンハワー)は違う意見を克服する潜在的に善良な意思を持ってはいた、・・がそれは多分、君(ゴールドウオーター)が君の意見に反対するアイクであっても、なんとなく彼を憎めないナ・・ていうところにあるんじゃないかな」

    「~とま~そういう具合だ」と吉田翁。ようやく話が止まった。
    足立は聞く。「結局、マッカーサーは金塊をもっていなかった?」
    「あたり前だろう。マッカーサーはカネのことは書かない主義だ。彼は義務はどんなことがあっても履行する。正義という義務については特にだ。母親メアリーにしかられるよ、カネなんか云々していたら」
    「そうか、クエーカー教徒としては当たり前だったか」
  • (Dwight Eisenhower )
    だが、一九六四年四月五日、マッカーサーはワシントンのウオーターリード病院 で静かに息を引き取った。八四才だった。あるともないともわからないマッカーサー資金の「秘密」は母メアリーの故郷、バージニア州ノーフォークの記念会堂の大理石の棺の中で深く眠っている。同じ大理石の棺の中にジーンが納まったのはマッカーサーの死後三六年経った二〇〇〇年のことである。「遅い帰り」をなじることもなかったと思われる。何しろ、ジーンは彼よりも一九才も若く、一〇一才まで長生きしたのだから・・。
  • ここで、「先史」をおわります。ようやく「プロローグ」の出番だ。
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