キサラギ・ジュンの税務小説 『日本人のパナマ文書リスト公開ー住所別』『NORADテープー撃墜した戦闘機』

『イミテーション・ゴールド』『微風のマニラから』『天皇財産と課税』『ナピサン』『大統領になれなかった男』

マニラベイの西の方角に黒い重たい雲がかかり、 微風のマニラから キサラギ最終版

2016-10-12 12:19:35 | 微風のマニラから

挿絵 160*120

・・・それでマニラなんだ」とツチヤがボソリという。
マニラ都市の歴史(ラモンマリアサラゴーサ著・西村幸夫・学芸出版社・1996)によると
「ミゲール・ロペス・デ・レガスピ(1505~72)が、1571年マニラを占領、初代総督
になっている。その後、明朝のリム・アホンに海賊行為を受けている。
1859年にマニラを訪問した香港総督ボーリングは「既にマニラには商社が多かった。
米国3、スイス2、佛国2、独国2が既にあった」と報告している。

1896年ホセ・リサール(1861~96)が独立運動をしている。フィリピン人はビン
ロウの実とサンゴの焼き灰をキンマの葉に包んだものを常習的に噛んていた。
それでアヘンは中国からもたさせなかったといっている。
1942年から45年に掛けて日本軍の進攻があった。マニラの全ての発展は停止した。
大戦終結後のマニラは米国がオープン・シティを宣言した・・・にも関らず、
徹底的に破壊された。マニラはワルシャワについで徹底的な戦災にあった都市だ。
スペイン統治下で政治・宗教・生活の中心だった「イントラムロス」は完全に破壊
され、マニラはその心のセンターを失っていた」となっている。

□マニラベイの西の方角に黒い重たい雲がかかり、
観光客が知っておくべきフィリピンの歴史といえば少ないものだが、常識として知っていたほうが現地のフィリピ~ナにレスペクト(尊敬)されることがある。

46年7月フィリピン共和国独立。ロハス(対日本協力者)が大統領に
83年8月21日アメリカから帰国したアキノ元上院議員がマニラ国際空港で暗殺
12月22日アキノ暗殺事件26被告全員無罪判決
86年2月25日コラソン・アキノ大統領就任宣言、翌日マルコス、米ハワイへ脱出
86年11月15日若王子信行三井物産マニラ支店長誘拐,翌年3月31日解放
87年12月20日フェリーとタンカー衝突、死者3千人
89年9月28日マルコス、ハワイで死去
90年7月16日ルソン島北部大地震、バギオ死者3千人
91年6月4日サンバレス州ピナツボ火山痕跡最大の噴火
同7月16日クラーク空軍基地撤収

マニラ湾の夕日を眺めて彼女を口説きたいという人はちょっとした詩人になるべきだ。それとカラオケのラブソングを歌えたほうがいい。

マニラベイの西の方角に黒い重たい雲がかかり、
その合間を縫って太陽が雲のベッドに沈んでいくときの厚い光の束
漆黒と金貨とのコントラスト

対する東の空に残されるコバルトブルーの青空。
マニラ湾の夕陽はそれを見たことのない人生の旅人を感動させる。

古の大名も、倭寇も、兵隊たちも、犯罪者も、逃亡者も、退職者も、職業戦士たちも、ボランテアも。会社の慰安旅行の奴らも、暴力団関係者でさえ、「人生の終焉をこの地で迎えるのも悪くはない」と思う。

ツチヤはマニラ行きを決意した。
 
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