キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

GOLD WARRIORS コジマ現る キサラギv.2016/7

2017-07-08 15:55:40 | 正統 ゴールドウオリアーズ
  • ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter
  • □コジマ現る
     この本の第一作目が出版された後にわれわれに新しいソースから接触があった。それは数千ページもある書類と残されていた数多くの質問に対する回答であった。
    その書類では、ベン・バルモレスは竹田宮の召し使えとして太平洋戦争時代をすごしたのだが、ベンが竹田宮の顔写真を知っていた。あるいは山下大将にも会っていたのである。竹田宮
    一九四四年山下は満州の奉天(CDでは黒龍江省牡丹江となっている。)にいたが、その脇に竹田宮が立っているのである。(訳者注:山下の脇に立っている日本人将校は竹田宮ではない。)その後ろにベンが立っている。竹田宮は裕仁陛下から、満州の軍隊をフィリピンへ連れて行けと命じられている。数日後(昭和一九年七月一七日)この写真が撮られている。そして、この写真は日本の新聞に載った。その写真記事ではベンは身元を確認されていない。この新聞の写真はベンが死んだ二年後、缶の入れ物から見つかった。もっと驚くべき事に、この資料に、一九四五年、ランズデールとサンティの拷問ノートを元に、彼らに、宝のありかを白状させられた「コジマ・カシイ」少佐の居場所を突き止めたことが書かれていた。彼は山下将軍とは別の場所に捕らえられていて、そのときコジマ少佐は三一歳だった。(訳者注:五五年経った二〇〇〇年にもし生きているとすれば八六才になる。)彼はニュービリバッド捕虜収容所に収容されて拷問を受けた。そこで自殺を図ったようだが生き延びている。
    現在(二〇〇〇年)、わかっていることだが、その当時、サンティは宝の隠し場所を白状すればコジマ少佐を解放すると約束している。コジマは四六年のいつの日か日本へ帰されている。GHQが占領を終了した五二年、コジマはフィリピンへ渡航している。旅行の目的はマニラの東洋風建築物を訪れるというものだ。(訳者注:そのころはまだ、日本人がフィリピンに観光に行ける状態ではなかった。何らかの力が加えられたのだろう。)多くの同僚たちとフィリピンに行った。そこでは採鉱とか地質調査とかのビジネスを装って、洞穴から、あるいは「幹部の小物いれ」からお宝を回収した。それらは戦争の最後の月(八月)中に隠されたものだ。
     これらの回収物はフィリピン政府の管轄下にある財産であり、それを国外に持ち出すには許可が必要だった。ので、またまた政府役人へはワイロを使って、また、フィリピン駐在CIAの助力を受け、彼らの飛行機(オピューム号)を使ってクラーク米空軍基地から運び出された。(行き先は台湾・沖縄経由、横田基地。われわれの註解にその詳細を書いている。)この五〇年でコジマはすっかり大金持ちの層に加わった。まさしく戦後、“ナリキン”だったわけだ。コジマの八八歳(二〇〇二年)の写真が下のものだ。マニラへは最終的に二〇〇二年に行ったことになる。まだまだ元気がある。フィリピンのソースによると一九九〇年代にコジマに会った事がある、あるフィリピン人は「彼の過去は私は何にも知らなかった」と云っている。コジマは自分の名は隠しておらず、コジマ・カシイと名乗ったというが、不幸なことにその日本語漢字名はわからなかった。コジマはその名が世に出てもそれが何も影響が無いことは知っていたのだろうと思う。
     その資料で、徐々にコジマは自分の過去を喋りだした。
    二〇〇二年コジマは「自分の健康を考えるとこれが最後のマニラ訪問になるだろう」と言ったというのだ。そして、最後のマニラ訪問に立ち会ったフィリピーノの一人がコジマの写真をわれわれの取材旅行中に提供して来たのである。彼らが一緒に宝探しをしていたときの事をしゃべりだした。
    そのフィリピ~ノの話では、コジマにとって最後になるトリップで、コジマらが見つけた二〇トンあまりのゴールドバーを、スービック湾にある米海軍軍港へ運ぶようフィリピン人ドライバーに命じている。(訳者注:これも在フィリピンCIAの手先がいたのでのであろう。)
     埠頭の脇には(輸出入貨物の)保税上屋があって、その横にステーム・ローラー(高速道路用砂利アスファルト圧延車・多分三菱キャタピラー社製だ。)が置いてあった。コジマらはそのフロントを覆うアーム部分から、油圧シリンダーをはずし、その部分にゴールドバーを流しいれた。(二〇トンものゴールドバーがシリンダーに納まるとはとても思えないが、)そして、すぐスティームローラーを船腹にリフトアップしてバラ積船に積みこみ(税関官吏へもちろんワイロを渡したと思われる。)、税関には「修理のため、日本へ返送する」と偽って、その船に乗り込み(入国管理事務所の職員にもワイロは必要だ。)、横浜めがけて出帆してしまったというわけだ。
     コジマは(その船には載っておらず、マニラに残って、カラオケか寿司バーに行き)最後にフィリピンの友人たちに終戦の年の春に何が起っていたか、(何も知らないフィリピン人たちに、)ウイスキーのグラスを傾けながら全ての宝探しのことを話してくれたという。
     最後の負け戦のとき、山下大将の部隊(第一四南方方面軍)がマニラから山岳州キアンガン・ポケットへ退却している際、山下はコジマに命じているとその資料に書かれている。「もはや車はいらぬ。お前はこれからディンガラン(Dingalan)湾へ直行せよ、日本船からまだ、陸揚げされていない宝を浜周辺のトンネルに隠せ」と命令を受けたそうだ。山下はコジマにお宝の搬送に当たっている途中で、米軍に捕まるチャンスを与えたのだと思う。それがコジマと山下将軍が別々に捕まった理由である。
     サンタ・ロマーナが、なぜ、コジマだけを尋問しているのか、なぜ山下にはお暗示様な行動にでなかったのか謎だったが、その資料が示す事実によって謎は氷解した。
     しかし、われわれの方も「サンティ」と言う人物が「本当にCIAの手下だったのか」ということにず~と悩まされていたのである。サンティは少なくとも一九七〇年代まではCIAの職員としては小物であったからだ。スペインのある権威あるソース(訳者注:スペイン大スパイ・ベラスケスかも知れない。)はフィリピンとつながりがあったので、知っていたことだが、サンタ・ロマーナは本当は「バチカン」の秘密代理人だったと言っている。サンティは戦争中はマッカーサーが指揮するGHQはオーストラリアに逃れていたが、ホイットニー准将や、ウイロビィー准将、あるいはマクミキン大尉などが組織したルソン地区対日ゲリラの一員だった。戦争が終わるとGHQの幹部たちは皆、東京へ行ってしまったので、かわりにアメリカ本土からCIA要員としてやってきたランズデール中佐に忠誠を誓っている。だがしかし、結局最後はサンティはバチカンに対する忠誠心があったというのだ。本当だろうか?
  • ◎ 樺沢副官・山下・吉田となっており、竹田宮は写っていない。吉田が竹田宮の偽名の可能性もあるが参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。(ウイキペデイア)、(竹田宮第二代)、陸軍軍人。一九四七年(昭和二二年)一〇月に皇籍離脱し、竹田恒徳と名乗る。皇籍離脱前は竹田宮恒徳王(たけだのみや・つねよしおう)。陸軍少将竹田宮恒久王の第一王子で、母は明治天皇の第六皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。 陸軍少佐(比島派遣軍参謀)当時の竹田宮恒徳王(ではないと思われる)。後方はベンの可能性も。
    ◎ コジマ少佐といわれる人
    ◎サンティといわれる人
  •  ボニファシオ基地にあるトンネル
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