キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

ゴールドウオリアーズ・ゴールデンブッタ・カンパニィ キサラギジュン2017

2017-05-05 20:47:13 | ゴールドウオリアーズ

ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter□フォリンジャーがマルコスのいるハワイ・ワイキキで暗殺される。
その後まもなく、フォリンジャーはマニラに戻る途中にハワイにいた。泳いだ後ワイキキの混んだ道を水着姿でぶらぶら歩いていたが、はだかの足を何か鋭いものを持つ通行人に切りつけられた。数日後、彼は呼吸困難をともなう激しい苦痛で病院に担ぎ込まれた。医者は貝毒を疑った。しばらくのあいだ、彼は殆ど虫の息だった。徐々に彼の調子は回復して、マニラの自分のマンションへ健康を回復させるために帰った。そのマンションはジュン・ミトラ(Jun Mitra)という名前のフィリピン人と共同使用していたものだった。友人がある朝訪ねて来た時、フォリンジャーは体重をひどく落としていて、呼吸困難をふたたび訴えた。彼は少しの食欲はあったので、友人にイタリア料理を買って来て欲しいと頼んだ。その友人が一時間後に帰った時、フォリンジャーは発作を起こしていた。彼らは近くのクリニックに飛び込んだ。彼は重症の気管支肺炎で、何かが彼の免疫体系をダメにしていた。すぐにもう一回の発作が出た時、彼の心臓は止まり、彼を蘇生させる試みはうまくいかなかった。
ワイキキ海岸での出来事について、カーチスは言った、「アランの仲間のひとりは後に暗殺であったに違いない」と。
ハワイで何が起こったにせよ、マニラの病院の臨床記録に殺人を示すものはない。しかし、証拠がないことが、なにもないことの証拠ではない。
□イントラムーロスから数百万ドルの金塊(一九八八年四月二十三日)
マクドゥーガル(MacDougald)は病院をたびたび訪れ、カーチスにいろいろな財宝隠匿場所について語った。カーチスは頭がぼんやりした状態で、マクドゥーガルであればソリアーノ保安局長(Noel Soriano )との関係さえ確かなものだとすれば適当な相手かもしれないと考え始めた。彼らはサンチャゴ要塞で、復興計画を装った財宝保管所の探索をするのはどうかを議論をした。マクドゥーガルはソリアーノ保安局長にその考えを切り出し、ソリアーノ保安局長はアキノ大統領と相談をし、大統領は了承した。
彼らは、秩父宮が砦の地下三階にある通風孔の下に隠していた金塊を探すつもりだ。計画はカーチスに率いられた国際貴金属(IPM )と呼ばれた新会社によって行われる。マクドゥーガルも参加し、フィリピン政府が上前をはねた後、儲けを確保する。
掘削は各段階で必要なアキノ大統領の許可のもと、徐々に進められる。 彼らは日本人がわからないように置いていた埋め戻しを掘り、ドリルの先っぽで金塊をさぐり、金塊にめぐり合えるよう、そして、彼らが掘削を続けるために必要なアキノ大統領の要求する証拠、つまりコアサンプルを得ることを期待して穴を開けた。
作業は、まる一日中掘り続ける若いフィリピン人のチームで始まり、落盤を防ぐため木製の支柱が組み込まれた。そこには四つのタイプのわながあった。最もはっきりしているのは百、二百五十、五百もしくは千ポンドの航空爆弾で、バネをいじると爆発する。
カーチスは、支柱は掘削の進行に合わせて設置しなければならないと厳しい命令を与えた。しかし、彼は丸一日現場にいることは出来なかった。 金塊にたどり着くための重圧が重なったので、作業者も監督も注意を怠る ようになった。ある深夜、トンネルの奥深くで作業をしていた三人の男たちが、支柱の上でかなり動いた。急に砂のわなが破裂した。多量の砂が流れ落ち、二人の男が粘土の厚板のために命を落とした。三人目は、瓦礫の中から足を突き出していて、生きて引っ張り出された。
 カーチスと保安局長ソリアーノ保安局長は事故の通知を受けていたが、 誰も民衆の抗議に備えていなかった。ジャーナリストはサンチャゴ要塞に殺到し、フィリピン上院は調査を要求した。マルコスの取り巻きは攻撃を先導し、死者を出したうえ、「国の記念物を冒涜した」と、カーチス等を責めた。彼は、もう少しで回収できそうな金塊はフィリピンの国家負債の支払いに充てることが出来ると反論した。アキノ大統領は彼を支持した。
 大統領はIPMにあと九十日間発掘を続ける許可を与えた。カーチスは金の貯蔵場所にぶち当たるほんの数メートルにいることを知った。それを証明するために、掘削機を持ち込み掘り下げた。十二番の穴を掘削したとき成果があったのだ。
一九八八年四月二十三日にドリルの先端が金塊、大理石、木のかけらをさぐりあてた。ゴールデンリィリーの地図は、金の延べ棒が大理石の厚板の上の木箱にある事を示していた。 カーチスは金脈を掴まえたのだ。
彼の電子感知機が、掘削した穴のすぐ左に小さいが重要な物質を捉えた、それは恐らくベンが言った、最後の瞬間に財宝のつまったドラム缶を埋め戻しに加えたものだ。
数百万ドルの値打ちのシロモノだろう。アキノ大統領はずいぶん喜んだ。 またしても、舞台裏で困ったことが発生していた。資金調達者のジョージ・ワーティンガー(資金調達者 )はネヴァダから、アーニー ウイッテンバーグ( )と一緒にもどった。 ウイッテンバーグの資金は麻薬取引によるもので、後に起訴され、収監されたのだ。ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルの二人は最初から、ワーティンガーがウッテンバーグの麻薬マネーをつぎ込んでいることを知っていたが、誰もカーチスには言わなかった。
□シエラ・マドレの宝
カーチスが抗議した、すると、ウイッテンバーグは、 カーチスが解任され帰国する条件で、計画の利権を五十万ドルの現金で買取ってやると対抗してきた。
カーチスが金塊の場所を突き止めたとなれば、彼はもはや用なしだった、テレサⅡの場合の二の舞だ。フィリピンで金塊の回収を望む金の亡者(投資家)は、誰でもカーチスの力を必要とした。それは彼が地図を持っており、地図をよく分っているからだ。しかし、カーチスが、金塊のあり場所を特定してしまえば、彼は用なしだろう。これは財宝探索の典型で、本や映画「シエラ・マドレの宝 」でもパロディ化されている。貪欲は自己中心を増大させ、自己中心は、貪欲を増大させるのである。
「ソリアーノ保安局長は、私に、ウイッテンバーグの金をもらってやれといったのさ」、とカーチスはわれわれに言った。「でも、そいつは麻薬マネーなので、ビタ一文欲しくはないんだ」。
ソリアーノ保安局長はその時、カーチスにサンチャゴ要塞の財宝地図を、そしてマニラのあとひとつの重要な場所、ボニファシィオ橋の財宝地図をこっそりと渡すよう頼んだ。カーチスがきっぱりと拒絶した時、国家保安局長は厳しく非難した。彼はカーチスに、直ちにフィリピンから出て行かないと、アキノ大統領にIPMに与えた金塊探索の許可を取り消させると言った。もしカーチスが協力するなら、ソリアーノ保安局長はカーチスをいずれ呼び戻しただあろう。もし彼が退去を拒否したなら、彼は逮捕され、彼に対し告訴状が提出されただろう。顔をゆがめて彼は荷物をまとめアメリカへ帰った。
 大陪審証言によると、カーチスが去った時、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルは全面的な協力者としてウイッテンバーグを雇い、サンチャゴ要塞での発掘作業を進めた。チームのメンバーは、彼らが二四本の小さな金の延べ棒、金貨・銀貨、宝石の原石を詰め込んだド ラム缶を発見したと証言した。カーチスが穴を開けていた主たる目的物はそこから数メートル下にあった、しかし、彼らは程なくその上に到達したのだろう。
□ボニファシオ橋の三四〇トン(四五億ドル)の金塊
彼らはまた、ボニファシオ橋(Bonafacio)で掘り始めたが、そこにウイッテンバーグを責任者として配置した。一九四二年に、パシグ川に架かるこの鉄道橋は、アメリカ軍の退却の時に爆破された。橋はすでに落ちていたがその大きなコンクリート製の橋脚台はまだもとの場所にあった。 その後に、ゴールデンリィリー部隊はひとつのコンクリートの橋脚台の下に深い貯蔵場所を掘り、おばけ金庫の中に五十キロの金の延べ棒三百四十トン分を隠した。(一九八八年の相場で四五億ドルの価値である)、貯蔵物はもともとのコンクリートに似た厚板で隠された。彼にとって不運だったのは、カーチスは彼のパートナーに、貯蔵庫の側面から掘削すれば突き破るのは簡単だとはっきりと言っていたのだ。彼がその場所で単独の作業をいつも避けたのは、近くにハイウエイがあり、人目につきやすかったからだ。 アキノ政府がタイミングよく、ハイウエイのルート変更をしたので、ウイッテンバーグ、マクドゥーガル、そしてソリアーノ保安局長は全ての通りかかる車やトラックに見られることなく、掘削装置を使うことが出来た。ソリアーノ保安局長は公式の許可を手配し、数人の無断居住者を追い払った。
□ネヴァダ連邦大番審で麻薬マネーが金塊発掘作業に投入されたことの審理
リサール州の警察局長であるキャンソン大佐によれば、マクドゥーガルに二台の軍務トラックをあてがったのは、一九八八年十二月二日から六日までの五夜、深夜から朝の五時までである。他の情報筋によると、多くの装甲車もまた参加していた。目撃者は、トラックと装甲車がボニファシィオ橋からサンチャゴ要塞へ大量の荷物を運び、そこで荷物がパシグ川ではしけに乗せられたと主張している。その後、マニラ国際空港の保全倉庫で三百二十五トンの金塊が売りに出ているという噂がひろまった。計算と合わない金塊は十五トン以下だった。
回収事業に関わった残党たちはお互いに攻撃しあった。資金調達者のジ ョージ・ワーティンガーはネヴァダの連邦大陪審で、総計百五十万ドルの麻薬マネーがアーニー・ウイッテンバーグによって、砦や橋での掘削作業につぎ込まれたと証言した。 ワーティンガーは、「マクドゥーガルとソリアーノ保安局長のふたりとも麻薬マネーだと承知していたさ。マクドゥーガルは、『いいかい、これがマスコミに流れたりしたら、・・・・ソリアーノ保安局長はまずいことになるよと』、と言ったんだ。麻薬マネーだったさ。私が言っている意味は、海の向こうのアメリカでマスコミにもれたらわれわれははりつけになってしまう、ということだ」と証言した。
□ソリアーノ局長更迭
実際、マニラの新聞が、ウイッテンバーグの麻薬マネ ーの幾ばくかがソリアーノ保安局長の個人口座に移されたと報じた時、アキノ大統領は一九八九年二月十五日付けでソリアーノ保安局長が国家安全顧問を辞任するよう要求した。ワーティンガー(資金調達者)はまた、ウイッテンバーグは、マクドゥーガルがマニラに買った新家屋に備える家具の五万ドルの支払いをし、マクドゥーガルがサン・フランシスコに買った新家屋のために資金援助をしたと証言した。 そして、ワーティンガーは、「ウイッテンバーグがソリアーノ保安局長とマクドゥーガルにそれぞれに現金五万ドルを与えた」と証言した。それから大陪審はマクドゥーガルを召喚した。
政府の検察官はまず、マクドゥーガルのサン・フランシスコにある新家屋の没収を要求した。しかし、マクドゥーガルは司法取引で、彼の事業パートナーについての報告書を準備するよう説得された。マクドゥーガルの証言に負うところが多いが、ウイッテンバーグは裁判を受け、麻薬売買のかどで終身刑の判決を受けた。
 映画「黄金」(シエラマドレ山の財宝)のハンフリー・ボガートや相棒たちのように、すべてのこれらの男たちは金塊に取り付かれ、お互いに攻撃しあった。 しかし、その場で預金として金塊を受け入れて、手品師みたいに金塊を消えてなくした国際バンカーに比べると、彼らは取るにたりない雑魚みたいなものだ。

一五章 点をつなぐ(CONNECT THE DOTS)
戦時略奪金塊の回収や秘密の裏金を隠すための偽情報が続いた半世紀の後、調査や訴訟、情報漏洩や大失敗などから、論争の余地のない明白な証拠が出現しつつある。マルコスが権力を失うまで、日本の略奪品の存在は事実とかけ離れているとうまくごまかしてきた。 もし、日本の略奪がほとんどなかったと言うなら、略奪品がどうなったかをどうして尋ねるのだろう? (CONNECT THE DOTS)
□ゴールデン・ブッタ・カンパニィ
しかしながら、マルコス家はあるときアメリカの領内で回収された財宝を窃盗し横領したこと、その財宝に係わる人権侵害、不公正な商売をしたかどで訴訟され、攻撃を受けた。裁判所で次に明らかになった新事実は、秘密のベールを押し上げ、アメリカ政府の秘密行動が予期せず露見することになった。レーガン政権のイラン・コントラ事件中の被害対策についての不手際は、とりわけこれまで知られていなかった違法な活動や、民間の軍事情報会社の組織がアメリカの外交政策や国家安全保障を私物化しようとしたことを明らかにした。 彼らの真の目的が、法律問題をうまく避け、議員による調査を避けることにあることが明らかになった。法廷で陪審員団に示され、それは歴史上、金額としては最大のものである。
それは次のように起こった。数年間姿を隠した後で、ロジャー・ロハスは一九八八年に再び・登場した。マルコスはホノルルで自宅軟禁状態にあったので、ロハスは訴訟を起こし、一九七一年に自分が盗まれた金の仏像と金塊を取り戻しても安全であると考えた。彼はジョージア州アトランタの近くに住む子供時代の友人フレックス・ダキャニーと連絡を取った。彼はアメリカ社会で成功しており、アナポリス海軍兵学校に通う二人の息子がいた。ロハスを守るために彼とダキャニーは、「金の仏像会社」、つまりGBCを設立し、ロハスはGBCに財宝におけ る彼の権利を譲渡した。ロハスはもはや要求に対して支配権を持たないので、脅されたり権利を騙し取られることはあり得ないだろ。
ダキャニーのジョージア州の弁護士は外部の助けを探し、ロサンゼルスにある有力なダニエル・キャスカートの会社と合意に達した。一九八八年二月に、キャスカートはホノルルのマルコスに対し、殴られたり拷問されたりしたけがの補償も含んだ損害賠償を求め訴訟を起こした。
訴訟では、マルコスはロハスから金の仏像、ダイヤモンド、金塊を盗み、ロハスが発見のため数年を費やしたトンネル(坑道)から多くの金塊を持ち去ったと訴えた。法的に言えば、ロハスは、金の仏陀、ダイヤモンド、そして彼が家に持ち帰った金塊だけでなく、後に、マルコス側兵士によって貯蔵場所から回収された日本軍の戦争略奪品のすべての発見者なのである。
二十五年間、サンタ・ロマーナの後継者(相続人)もまた捜査の妨害をされたが、アメリカの銀行に隠されている多くの金塊を回収するために訴訟を起こした。金塊の多くはわれわれが今示しているようにまだ銀行に眠っている。
ハワイでマルコス一家は嘲笑していた。軍副官のアルツロアルイザは報道陣に、「山下将軍の金塊話は十六年前に出てきた夢物語だよ、・・・フィリピン上院による調査も行われたが、何にも出てこなかったじゃないか。十六年も前に却下した話さ、もううんざりだね」と言った。
確かな証拠としてのかなめとなる事例は金の仏像である。なぜなら、これがアジアでの日本の略奪行為と、この略奪品の戦後の回収を証明する間違いのない基本的な物証なのだから。
キャスカート弁護士の会社は七年をかけ、フィリピンに日本人の盗賊がいたこと、ロハスは中味の詰まった二十二カラットの金の仏像とインゴットを発見していたこと、マルコスはその金の仏像とインゴットを盗み、それをもみ消すためロハスに拷問を加えたことを立証する目撃者の証言を集めた。
目撃者を突き止める過程でいかにして略奪品が島内に隠され、いかにして略奪品をマルコスが回収し、いかにしてマルコスが世界市場へ金塊を持ち込むためアメリカ政府の助けを借りたのか、という日本軍の略奪品の全貌に係わる証拠が大量に浮かび上がってきた。
これら全ては書類、宣誓供述書として集められ、その多くはビデオテープの形に保存され、結局は大きな部屋をいっぱいにするほどの量だった。
取材調査は、キャスカート弁護士に雇われたロサンゼルスの元気のいい私立探偵アイリン・フリードマンによって行われた。彼女にとって、 ロハスが最初に話した話は全くの夢物語だった。山下将軍の金塊は量 があまりにも莫大で、ドルに換算すると大変な額だったのでにわかには 信じられなかった。陪審員団を納得させるために、キャスカート弁護士 と探偵フリードマンは表に出たがらない(世評を避ける)金のブローカー、秘密にしておくことを切望する財宝ハンター、殺害されることを怖がる目撃者を突き止めた。小柄な女性だけれど非情な探偵フリードマン は、第二次世界大戦以来、何が多くの調査人を威圧し、何をたくみに避けてきたかを明らかにし、その過程で日米政府のもみ消し工作に関する驚くべき発見をした。
「その調査が合法で私に精神的荒廃をもたらさない限り、私は情報を得るためならどんなことでもするわ。それが無口女や、浮気女の振りをすることでも、シャーリー・テンプルの衣装を身に着けることだとしても、私はやっちゃうわ」とフリードマンは私たちに言った。キャスカート弁護士がフリードマンを呼び出しロハスに会った時、彼女はロハスのでこぼこで不恰好な形の顔と、突き出して失明した左眼にギョッ とした。(マルコスの暴漢にゴムの槌で殴られた後遺症である左眼の件は第一〇章で報告されている。)
キャスカートは五日間に渡ってロハスに余す所なくインタビューをした。ロハスの記憶から、やっと細かなことまで聞き出して、キャスカートは何が行われたかを知っている十人の人間がまだ健在だろうと結論をだした。
 キャスカート弁護士は探偵のフリードマンに、その十人のひとりずつを徹底的に調べるよう依頼した。多くの年月が過ぎていたので調査は簡単ではなかっただろう。
□ロハスはフィリピンに配置された一人のアメリカGIを思い出した。
ロハスはフィリピンに配置された一人のアメリカGIを思い出した。彼はバギオにあるロハスの家を訪ねて、金の仏像が盗まれる直前にその仏像と一緒にロハスの写真を撮ったのだ。そのGIの名前は「ティム」か「チム」だったようだ。フリードマンは国防総省の記録を熟読するうんざりする作業を始めた。一年以上たって、彼女はケン・ チーザムにたどりついた。彼はラスべガスのホテルで夜の警備員として働いていた。「それはユーレカ!( わかったぞ!)のようなものだったわ」と彼女は言った。
チーザムが後に陪審員に語ったことによると、一九七〇年代初め二十六才だったチーザムはクラーク基地に配置された空軍情報将校だった。アマチュアの財宝ハンターのチーザムは山下将軍の金塊の話に興味をそそられて、日本軍の隠匿場所をさがすためバギオに車でやって来た。
この時がまさにロハスが金の仏像を回収し家に持ち帰った時で、行楽地では現地の人間達がなにか驚くべきものを見つけたといううわさで持ちきりだった。チーザムはドアをノックし、自己紹介をした。二人は、ジーン・バリンジャーが運営する同じ財宝探索クラブのメンバーだった。 ロハスはチーザムを奥の寝室へ連れて行き、金の仏像を覆っているベ ッドカバーを取りはずした。金の仏像はまだ頑丈な紐でぐるぐるに巻かれていた。
チーザムはカメラを取り出し、ロハスと仏像とチーザム自身も一緒に写真を撮った。それはチーザムがそこにいて、金の仏像が存在したことの反論できない確かな証拠だった。クラーク基地へ帰って、チーザムはロハスと金の仏像が写っている写真を同封してバリンジャーに手紙を書いた。バリンジャーは財宝探索人の会報に、回収に関する記事を発表したが、間違ってチーザムをロハスの相棒として扱っていた。この話は有線ニュースに取り上げられ、また、アメリカ軍事新聞、スター・アンド・ストライプスにも紹介された。
マルコスはその記事を見て、かんかんに怒った。チーザムは基地の保安部に呼び出され、そこでCIA将校とマルコスの代理人と対峙した。 チーザムは探偵のアーリーン・フリードマンに「CIAの奴は、その仏像は純金製ではないと言えと言った。話を控えめにしろと言ったのだ。 そうすればマルコスがお前への関心を緩めるだろう。お前がこの件に関与するなら、船でヴェトナムに運んでしまうぞと言ったのだ」と。
チーザムは怖がった。CIA将校の無理強いするとおり、仏像が金で出来ていないことを証明する供述書に署名をした。チーザムはキャスカートに、その時からずっと仏像は真鍮製であり、とにかく純金製ではないとウソを言ったと話した。ハワイでの裁判で、チーザムの写真は、ロハスが動かせる頭部のついた仏像を所有していたこと、マルコスによって急いですげ替えられた固定した頭部のついた真鍮製の仏像とは違ったというはっきりした物的証拠を提供したことになる。
次に、キャスカートとフリードマンは金の仏像を盗んだのはマルコスだったことを立証せねばならなかった。ラスべガスでフリードマンはロバート・カーチスと接触し、結局カーチスは一本の長い宣誓供述の入ったビデオテープを彼女に与えた。
□「マリベレスの避暑用宮殿内の大統領執務室で見た」
 ビデオテープには、一九七五年に彼とマルコスが多くの時間をどのように過ごし、動かせる頭部を持った純金の仏像をマリベレスの避暑用宮殿内の大統領執務室で見たことが述べられていた。カーチスは、自分はその仏像を念入りに調べ、頭部のねじを廻し、冶金学者として仏像は純金製と確信できたと証言した。チーザムの撮ったカラー写真をみてカーチスは、写真の仏像は彼がマルコスの避暑用宮殿で見たものと確かに同一だったと証言した。(この仏像には形・色・細部において間違えようのない独特の特徴があった。)
弁護士ダニエル・キャスカートはまた、仏像は本当に純金製だったのかという疑念を振り払う立証をしなければならなかった。その立証の答えは、フィリピン人の金細工職人のルイス・メンドーサによりなされた。 彼は一九七一年にロハスの家で仏像を検査しており、仏像の首に近い 背中に小さな穴を開けて必要な検査が出来るように金粉を取り出した。 メンドーサは、検査の結果、仏像は当時のアジア標準で二十二カラットだったと証言した。
□フィリピン人の軍隊料理人のジュアン・クィジョン
金の仏像はさておき、ロハス自身が後で回収しようとトンネルに封印していた金の小さな延べ棒や数千の金塊が盗まれたのだ。フィリピン人の軍隊料理人のジュアン・クィジョンは、マルコスとベール将軍によって一九七二年に作られた陸軍チームで、ひそかにフィリピンの財宝隠匿場所を発掘する「回収特別作業班」に配属されたとホノルルの法廷で証言した。
クィジョンはほぼ一年間(一九七四年〜一九七五年)、バギオの病院裏でト ンネルを掘る兵士たちと共に過したが、そこでロハスは金の仏像を発見していた。
クィジョンは一度に三、四人の男たちが大きな木の箱を運び出すのを見ていた。クィジョンはいくつかの腐った箱が壊れ、大きな金の延べ棒が地面に落ちるのを見た。延べ棒はひとつの箱に三本入っていた。金の延べ棒の入った箱が十二か月の間、一日に平均十箱がトンネルから運び出されたとクィジョンは言う。病院の職員もこの間の作業を見ていたので、この事実を追認している。クィジョンが言うにはイゴロット族の男たちは大変過酷な作業をしたのだと。全ての金の延べ棒が運び出されたときに、イゴロット族の男たちはトンネルに連れ込まれ、撃ち殺された。目撃者としての彼らを抹殺するためであった。
マルコスが、知られているフィリピンの金の備蓄よりもはるかに上回る莫大な量の金塊を所有していたことの証拠として、探偵フリードマンは、一九八〇年代の初めに、一兆六千三百億ドルの金を売るための九件の契約をマルコスと結んだ二人のオーストラリア人の仲買人を突き止めた。
陪審員にとって満足のいくものだったのだが、二人は金塊の取引は行われ、作り話ではなかったという裁判記録を立証した。二人が提供した証拠文書のおかげで、マルコスが本当に一兆六千三百億ドル相当の金塊を所有し、本当に売ったのかどうかという疑念を払拭することになった。
□「一時間半後に彼は死んでいたんだ」
金の仏像の公判がようやく一九九三年五月二五日に決まった。 裁判の日が近づいたので、キャスカートはロハスに身を隠すように言い、マニラからホノルルへロハスを連れて行くためのボディガードを手配した。五月二十四日に、キャスカートはロハスに電話をかけ、すぐにハワイ行きの飛行機で飛ぶように指示した。
「一時間半後に彼は死んでいたんだ」とキャスカートは言った。 ロハスの未亡人と多くの知人はロハスが毒殺されたと信じている。
未亡人が説明したのは、彼女の夫ロハスは疲れて元気がないように見えた。二人が身を隠していたアパートの階下にあるパン屋に彼女が行ったとき、身なりのいい男性が近づいてきてロハスのために無料の薬を上げよ うと申し出た。ロハスはその錠剤を飲んで死んでしまったのだ。
二、三時間後、キャスカートや探偵フリードマンと知り合いのCIAの情報提供者がマニラからキャスカートの法律事務所へ電話をかけ、フリードマンに、「おまえの依頼人は死んだぞ。毒殺された。イメルダがそれを命じ、われわれが実行したのだ」と伝えた。
その知らせにキャスカートは肝をつぶした。「私はロハス夫人に、残っている薬を国際便ですぐに私のところへ送るようにと指示したんだ。しかし荷物が到着した時、封筒の中は空っぽだった」とキャスカートは言った。 キャスカートはすぐに死体解剖を手配したが、それは不可能だった。ロハスは慌ただしく火葬されていた。
「検視官は毒物検査をこれまでやったことがないし、ロハスの死因について本当の事を話すことはなく、ロハスは結核で死んだと断定したのだ」とキャスカートは言った。
何度も延期されながらもようやく裁判はホノルルで始まり、陪審員は金の仏像、金の延べ棒でいっぱいの部屋、数千トンの金塊の取引について目撃者が述べるのを聞いた。フィリピンにあるいろいろな日本帝国軍の財宝隠匿場所に関する審議のなかで、ある時イメルダ夫人自身は、マルコスが自分の倉庫に所有していた金塊は「こうした隠匿場所のいくつかから持ってくる事はできた」と証言した。
ロハスファミリーのメンバーは、イメルダ婦人から数千ドルの支払を受けたロジャー・ロハスの兄弟、ホセは、ロハスの仏像は金製ではなくただの真鍮製だと述べるウソを言い、偽証したと証言した。 公判中に、陪審員はホセの背中にある大きな文字の刺青が写っている写真を見せられた。
 こうしたすべての証言から、日本軍の戦争略奪品がフィリピンに隠され、 ロジャー・ロハスがその主要な隠し場所を発見し、金の仏像は純金製であり、その財宝をマルコスが盗み、回収された略奪金塊のうちの数十億ドル分をマルコスが大きな金塊取引で売ったことなどが明らかになった。 陪審員はロハスとその相続人に対して有利な裁定して、マルコス家に対し、金の仏像会社(GBC)に四百三十億ドルの賠償金を払うように裁定した。四百三十億ドルという金額は当時史上初の大きな民事判決だった。(二二〇億ドル+窃盗以来の単利一〇%)
後に上告で、ロハスのトンネルからマルコス一派の兵士が回収した木製の箱すべてに何が入っていたかを確実に知る者は誰もいないと言う主張を基に、この賠償金は二十二億ドルの低い額に減額された。この案件は現在キャスカートがハワイ最高裁判所へ上告し審議中である。
スイスのチューリッヒの主任政府任命検事はジャーナリストたちに、金の仏像自体は、チューリッヒ・クローテン空港地下の特別保管室のマルコス金塊貯蔵所にあったと断言した。 アメリカ人の陪審員はこれ事態、議論の余地のない明白な事実だと判断しているものの、日米政府はそれを否定し続けている。
□兵士たちの宣誓供述書
兵士たちの宣誓供述書によれば、金の延べ棒の入った仕切り箱はマニラ国際空港からC一三〇軍用機を使ってフィリピンから運びだされた。
ロハスの訴訟に勢いを得て、他の被害者たちが名乗り出た。一九九九年に、ロハスのトンネルや他の隠匿場所から金塊を運び出したフィリピン人兵士たちが、マルコスの財産に対し異議申し立ての訴訟を準備した。 ほぼ百人の兵士たちが署名をした宣誓供述書によると、彼らは国家史跡の復旧作業を装った大掛かりな発掘作業を行い、数千トンの金塊、他の貴金属、大量の宝石用原石を回収した。マルコスは発掘場所にやって来るときにしばしば日本人を連れていたと兵士たちは証言した。
彼らの最初の大きな発掘成功は一九七三年でラグナ州ルンバンのカリラヤ湖の近くだった。そこで掘削機のひとつが、いくつかのコンクリート製貯蔵庫を始めて掘り当てたのだ。
「アンブレラ」の組織としてベール将軍がマルコスのために保有し運営しているタマロー保安サービス社が手配し、金塊のいくつかがキャセイ・パ シフィック航空、アメリカン・プレジデント汽船会社により商業的に輸送された。
これは、われわれが先の章で詳しく述べたことやロバート・カーチスや他の人間が別々に証言で述べた事とは別個の共同作業で、回収チーム自身により行われた。
□休眠口座
サンタ・ロマーナの休眠銀行口座は彼の相続人に対して特別に高金利であったし、又、エンタープライズやアメリカ財務省、そしてサンティの現金と金塊を保有している主要銀行に対しても同様であった。このようにいろいろな言い争い、策謀、中傷があり、彼等はたいへん興味深い訴訟に巻き込まれることとなった。ばらばらに見ると、その断片はとても興味深い。 しかし、まとめて見るとそれらは驚くべき物であり、しかも政府の記録で立証されているのだ。
サンティが死んだ時、サンティは十四人の相続人に、弁護士が五百億ドル以上の価値があると評価した財産を残した。銀行に預けられたサンティの資産を回収しようとする彼らのすべての努力は、妨害されるか、しば しばうまくはぐらかされた。
三人の主な相続人はサンティの会社の会計士で、資産確保のための活動をしているタルシアナ・ロドリゲス嬢、内縁の妻のルツ・ランバノ(Ruz Rambano)、そして成人した娘、フロデリーザである。なかなかうまくいかないため、彼女らは高名なサン・フランシスコの弁護士、「メルヴィン・ベリ(Mel Belli)」、ニューヨークの弁護士、「エレノア・ピール」、元CIA副長官、「レイ・クライン(Ray Cline)」、そしてアメリカの著名な銀行家シティバンクのCEOの「ジョン・リード」に助けを求めた。フロリダのロビイスト、「ジョージ・デポンティス」、元バハマ最高裁判所判事「レオナルド・ノウルズ(Sir, Leonard Knowles)」、ワシントンの弁護士「ロバートA.アカーマン」もまたこの仕事に関わった。
□マルコスは「いいか、ここにあるすべての宝は全員で共有するのだ。しかし、分配は時機が来るまで待たねばならない」と彼らに言った。時機は決して来なかった。
掘削機をがんがんと何度も使い貯蔵所の一角を打ち破り、七五キロの金の延べ棒を掘り出した。マルコスは「いいか。ここにあるすべての宝は全員で共有するのだ。しかし、分配は時機が来るまで待たねばならない」と彼らに言った。時機は決して来なかった。
他のコンクリート製の貯蔵庫が発掘された時、それは六フィートx五フィートx五フィートの大きさだったが、巨大なクレーンが貯蔵庫を吊り上げ大きな陸軍の戦車輸送車に乗せ、輸送車は秘密の目的地まで運んだ。
□三人の主な相続人
サンティが死んだ時、サンティは十四人の相続人に、弁護士が五百億ドル以上の価値があると評価した財産を残した。銀行に預けられたサンティの資産を回収しようとする彼らのすべての努力は、妨害されるか、しばしばうまくはぐらかされた。
三人の主な相続人はサンティの会社の会計士で、資産確保のための活動をしているタルシアナ・ロドリゲス嬢、内縁の妻のルツ・ランバノ、そして成人した娘、フロデリーザである。なかなかうまくいかないため、彼らは高名なサン・フランシスコの弁護士、メルヴィン・ベリ、ニューヨークの弁護士、エレノア・ピール、元CIA副長官、レイ・クライン、そしてアメリカの著名な銀行家シティバンクのCEOのジョン・リードに助けを求めた。フロリダのロビイスト、ジョージ・デポンティス、元バハマ最高裁判所判事レオナルド・ノウルズ、ワシントンの弁護士ロバートA.アカーマンもまたこの仕事に関わった。
 サンティの資産があまりにも大きいので、そしてその秘密性ゆえ、内縁の妻ルツ、会計士タルシアナ嬢そして娘フロデリーザは回収活動のなかで考えられるありとあらゆる妨害を受けたようだ。 アメリカ政府とアメリカの銀行はサンティの資産をそのまま残しておきたかった。それはスイス政府も、スイスの銀行も、香港や他の金融センターにある銀行も同様であった。もう数年もたてば、サンティにつながりのある全員が死に、サンティの現金と金塊は銀行の中で何も手をつけられないように。
□トルーマン以来のすべての米国大統領の名声が傷つくような情報が出ることを望まない
このことは名声や経歴に傷をつけることになり、議会の会計監査室による調査を避けられないだろう。 フォード大統領は一九七五年に同じような問題に取り組み、CIAファミ リー・ジュエル事件への関心をおさえるために、ロックフェラー委員会を立ち上げ、トルーマン以来のすべての米国大統領の名声が傷つくような情報が出ることを望まないと述べた。
皮肉であるが、サンティの相続人たちは自分たちの貧乏を終わらせることに関心があっただけで、不正行為を暴露することに関心があったわけではないから、気前のいい和解金さえあれば二度と問題を持ち出さないという合意書に署名したであろう。けれども、銀行も政府も相続人を妨害することではいつまでもあいまいで強情のままだった。そのことは銀行や政府が多くの事を隠匿しているという確かな証拠なのだ。
三人の主要な相続人は、サンティが相続人に与えた検認済み遺言書、預金通帳、銀行取引証明書、領収書、全ての必要なパスワード、暗号単語、秘密の口座番号などをこれらの銀行に示したが、反応は同じだった。まま残ることになるだろう。ちょうどホロコーストユダヤ人大虐殺で奪われた金塊のように。
四件の例外はあったが、銀行はそうした口座があることを否定したし、問題の口座が銀行の貸金庫なのか大きな金塊保存庫なのかの回答も拒否した。
例えば、われわれのCDに複製されているUBSスイス連邦銀行の書類にだからだけでなく(事件の時のように)、弁護士が証拠開示を求めるのを妨害するためにも必要なことである。証拠開示はサンティの財務資料よりはるかに多くのことを明らかにできるのだ。
アメリカ政府にとって、事実を隠蔽しおくには関係する資産が膨大すぎる。
関係者によれば、UBSにあるサンティの最大の単一口座には金塊で二万屯があった。この口座はサンティの死んだ時、魔法を使ったように名義がサンティの持つクラウン・コモデティ・ホールディングから、エドワード・G.ランズデール少将(もしかすると、証拠開示によって隠された戦時略奪金塊の回収の目的すべてが公開されることにつながる。:原文ママ)に変えられたのである。
Mファンドと同じく黒の金を不正目的のために使うようになった黒い鷲信託の銀行が行った意図的なスペル間違いは暗号の要素だということを記憶しておいても良いだろう。ひとつの可能性として、この怪物口座に関して、サンティは黒幕の手先にすぎず、もう一人の手先、ランズデール将軍が取って代わったということである。
スイス銀単独で変更をしたとしても、新しい名義人として不適切なランズデール将軍を選ぶとは思えない。とは言え、一九七四年まで一〇年間ランズデールは政府の埒外にいて、エンタープライズ組織の創立者の一人だったし、アメリカの最富裕で保守の大物の幾人かと親密な仲間だった。
□UBS
どうだい、どこかの政府以外に誰がスイスの大銀行でそれだけの変更をするだけの大きな力を持てただろうか?
CDに入っている多くのスイス銀行幹部の署名入り資料群は、UBSが金塊やプラチナを含んで、しかもかなり多額である他の口座を所有していることを示している。 そうした巨額の口座はサウジ・アラビアのファハド国王のようなとてつもない金持ちにとってみれば不可能じゃない。 ファハド家は数十年間スイスに金塊を預けている。ジェミニ・コンサルティングによれば、世界的な民間銀行の資産は一九八六年、四兆三千億ドルだったが、二千年には十四兆ドルとなっていた。だからUBSのこの口座の金額もありえないことではない。
もしランズデール将軍とサンティがこの巨大なUBS口座の支配権を共有していたら、UBSスイス銀に名義をランズデールの名前に変させることも可能だったし、それなら口座を彼の仲間がアクセスするのも可能だったろう。たぶん、アメリカ政府は関与していなかったのではないか。
□『わが老いた父から』
UBSの資料によると、クラウン・コモデティ・ホールディングスはサンティのクラウンエンタープライズの子会社である。グループの代表はアルフレッド・P.ラモスで、彼はモナコに登録したサンティの会社ディアズ&ポイロッテ・エンタープライズの役員だった。ラモスは宣誓供述書で「私は故人のドン・セベリノ・ガルシア・サンタ・ロマーナ、ラモン・ポイロッテ、もしくはホセ・アントニオ・ディアズを『わが老いた父から』という暗号で知っている、そして、ひとたび仕事が始まれば終わるまで放りだすな、作業が大変でも簡単でもうまくやれ、できなければなにもやるな、ということも知っている」と述べている。
この訓戒は、われわれが見てきたように、サンティがランズデールから一九四五年に学んだものである。それはサンティが自分の自筆証書遺言で引用している訓戒と同じだ。その訓戒はサンティの銀行口座で一貫して暗 号文として用いられた。 半世紀以上たっての暗号文の再現は偶然ではない。
金一オンス三百ドルとして、この口座には一九二〇億ドルの価値があり、ビル・ゲイツの正味の資産よりはるかに高額である。この金額は信じられるだろうか? 信じられるのである。もしもこの口座にアメリカ政府の多額な黒の金が含まれている秘密口座としたらである。 ちょうどまじめな偽札つくりが馬鹿げたスペル間違いをしないと同じで、正気な詐欺師が口座を巨額すぎるとは考えないだろう。 ロハスの金の仏像事件を思い起こしてもらえば、マルコスがオーストラリア人の仲買人を通し、金塊を一六三〇億ドルで売却したことを証明する証拠を陪審員が見たではないか。
ビデオに録画された会計士タルシアナ嬢とのインタビューによれば、サンティの死後すぐにランズデールはシティバンク・マニラ支店のサンティの口座からニューヨーク支店への金塊を移すという不可解な動きに巻き込まれた。たぶん、マルコスが差し押さえる前にフィリピンから持ち出しが行われたのだ。口座はサンティ名義なので、彼の資産管理を認められた受託者もしくは主席会計士タルシアナ嬢のような法廷代理人の資格を有する人間の承認がなければそのような移転は違法である。 もしランズデールが法定代理人の資格を持っていたとしたら、いったい 誰のために彼は行動していたのだろう。
□UBS番号口座「七二五七」
アメリカ人のひとり、ジム・ブラウンによると、「私はルツともう一人のアメリカ人と一緒に座った。その間、ルツはUBSの副頭取にサンティの金口座ナンバー「金口座七二五七」を示した。この銀行家はその番号が正しい口座番号だと認めただけでなく、その口座についてはよく知っていると言った。 友人ブラウンはその副頭取がルツにこう話したと言う。「わたしはあなたがスイスにいる時に、この金口座の権利を主張することはお勧めできないね。なぜなら、スイスの銀行も政府もあなたがこの口座の中味を手にすることを認める前に、彼らはあんたを最初に殺しかねない。わたしはあなたがどんなスイスの弁護士を雇うこともお勧めできない。なぜなら銀行は簡単に弁護士たちを買収するからだ」。
ひとたびフィリピンを離れたこうした資産は、資料が示すようにサンティがすでに持っていたアメリカのシティバンク、チェイス、ウェル・ ファーゴ、ハノーバーバンク他の金塊と現金の口座に加えられた。
サンティの死後すぐに、サンティの自筆遺言証書はマニラで検認され、 会計士タルシアナ、内縁の妻ルツと娘フローデリザが裁判所によって正当な相続人として指名された。ルツはアメリカへ赴きシティバンク・マンハッタン支店の口座の公開を要求した。 そこで彼女は弁護士エレノア・ジャクソンピールに助力を求め、フィリピンの裁判所によって発行された行政証明書を預けた。こうしたことはニューヨーク裁判所に確認されるべきだった。弁護士ピールはサロゲート裁判所で行政の付属文書の発行を求めて仕事を進めた。その文書はシティバンク、チェイス、 ハノーバーのサンティの口座へのアクセス権を内縁の妻ルツに与えるものだった。これにはずいぶん時間がかかった。内縁の妻ルツは自分の用件を他の銀行にも強く求めたので、弁護士ピールは関係するすべての銀行の頭取に手紙を書き、サンタ ロマーナの口座について照会した。一行たりとも銀行は回答をしなかった。
一方、サンティ所有の会社会計係、タルシアナ嬢は香港にあるHSBC(香港上海銀行)のサンティの口座にアクセスしようと試みた。タルシアナ嬢はサンティの税金コンサルタントであった弁護士アルテミオ・ロブリンのアドバイスに従って、サンティの自筆証書遺言に言及されている口座の存在を確認するようHSBCに要請した。タルシアナがすべての必要な暗号、パスワード、書類を示した後で、銀行の役員は彼女に口座はまだ満期を迎えていないのでアクセスできない、と答えた。そして、一九八八年になってからもう一度来るようにと言った。
次にサンティの娘、フロデリーザは三和銀行香港支店のサンティの口座にアクセスを求めた。彼女は一九七三年に香港支店へ多額の現金預金を示す通帳を持っていた。 最初、その三和銀行は一九七三年には香港に支店があったことを否定した。 その時、あらゆる証拠書類が提出されたにもかかわらず、三和銀行はサン タ・ロマーナという顧客も彼の偽名を使った顧客もいないと断言した。
□クリストフ・メイリの場合
UBSの副頭取が殺人の脅迫をしたという見方を冷笑するかも知れないが、それならクリストフ・メイリの場合はどうなんだということだ。 チューリッヒのUBSで警備員として夜働いていた一人の学生が一九九七年一月に、シュレッダーにかけられる予定の非常に古い書類と本を発見した。その書類と本はナチの死の収容所で死んだ預金者の資産に関するものだった。
彼は数ヶ月前スイス政府が銀行に記録文書等を処分しないように命令したことを知っていた。彼はいくつかの書類を持ち帰り、それをチューリッヒのヘブライ協会に与えた。あとでどうしてそんなことをしたのかと聞かれて、メイリはこの間、映画「シンドラーのリスト」を見ていたのだと答えた。「何かをすべきなのは分かっていた」、と。
一ヶ月後、書類が別の人間によって公表されたとき、メイリはUBSでの一万八千ドルの仕事を解雇された。UBSの頭取のロバート・ステューダーはメイリが国際的ユダヤ人の陰謀団より金をもらっていたことをほのめかした。「スイスの銀行にある、いわゆる物言わぬユダヤ人の金のこうした問題は、何度も頭をもたげてくるのだ。われわれにとっては全く問題にならない。問題は第二次世界大戦後徹底的に議論され、われわれは誠実に銀行のどの金がユダヤ人大虐殺の犠牲者に帰属するものかを調査した。なぜなら、この疑問を今回限りで決着させたかったのだ。われ われにとって、この事件は決着している。
UBSはシュレッダー事件を不幸な出来事と言ってごまかした。「経営幹部の誰もそのような決定を認めたことはなかった」ロバート・ステューダーは全ての公職からはずされたが銀行の名誉会長のままだった。
メイリは一〇〇回以上の殺しの脅迫を受け、妻や子供たちも脅迫を受けた。彼らはアメリカへ逃亡し、そこで隠れ家を与えられた。メイリはスイスの銀行によるナチの資産隠匿を調査している米国議会委員会の前で証言をした。 上院議員アンソニー・ダマートーはクリストフ・メイリを国際的英雄と呼び、「犯人は資料をシュレッダーにかけるよう命じた連中だ」と言った。
□コーリーと金塊
コーリー・アキノが大統領になった時、アキノのスタッフがオーストラリア人の財務専門家ピーター・ネルソンに助力を求めた。専門家はコンピュータが打ち出したデーターとサンティの写真つきのパスポート四〇部を見せられ 、「パスポートは多数の銀行口座と細かい点まで一致していました。・・・・・多くの口座の移転は、世界中の別のところに動かされる前に、まず香港で始まっていたのです。私は計算を進めながら頭の中で勘定をしていったのですが、四百億ドルは多すぎて数え切れなくなりました。私は木箱の写真を見せられましたが、そのいくつかは開いていました。もちろん、 私はこの金塊の品質は保証できませんが、量的には十分保証しますよ」、 と述べた。
アキノ大統領の支援者の説明によると、サンティは自分の娘に資産の大部分を残していたので、娘のフロデリーザは地球上で最も裕福な婦人の一人になるはずだった。しかし、彼女が銀行に対し遺言書の意思を認定してもらおうとすると、パスポートに違った名前で載っている写真の男性のすべてが実際に彼女の父親であることを証明するように言われた。
一方、銀行は金については有利な状態だったはずだ。財務専門家ネルソンは言った。「私は、フィリピンの友人に方法は別にあると言った。もし、フロデリーザが発見の見返りに、およそ五パーセントの手数料をフィリピン政府へ渡すことに合意すれば、フィリピン政府は彼女に一生使うことの出来る以上の金を彼女に与えるだろうし、政府は口座からの金塊回収の推進に力を入れるだろうと言ってやった。彼らは私に感謝をして、シドニーに飛んで帰った」と。しかし何も起こらなかったし、フロデリーザは貧乏のままだった。
最終的に全ての回収の努力をシティバンクに向けることが決められた。シティバンクはジョン・リードが会長でCEOであった。リードの指導のもと、シティバンクは個人の海外財産の管理にしっかりと取り組むようになった。一千億ドル以上の海外預金額により、五千八百億ドルのUSB(スイス銀行)、二九二〇億ドルのクレディ・スイスに次いで三位にランクされるまでになった。 国から国へ金を動かすことで、海外の資産は債権者、元配偶者、相続人からの訴訟から守ることができる。資金洗浄、証券詐欺、または麻薬を含む事件を除き、多くの外国の裁判所はアメリカの裁判所の命令を認めようとしない。それで原告は口座がある国の裁判所を通してアクセスするため戦わねばならないが、結局、金はすでに別の裁判管区に移されたことを知るだけになってしまう。これが次に述べることの鍵となる。
□タルシアナ嬢ニューヨークヘ行く
一九九〇年十二月、会計係のタルシアナ嬢はマンハッタンのシティバンク本部に出かけた。財務アドバイザーと立会人として活動する一人の友人を伴っていた。
「私たちは案内されてジョン・リードに会いました」と彼女の友人が言った。
「私たちが口座に関する書類、パスワード、暗号文をリードに見せた時、 その重大性に彼はびっくりしたみたいね。彼は真っ青になって、ひどくうろたえたの。彼の顔を見ればそれは一目瞭然だったわ。リードは会議室を急いで飛び出して行き、数分後、彼は数人のシティバンク専属の弁護士を連れて戻ってきたのよ」 リードと弁護士はタルシアナ嬢に翌日来るように伝えた。
 「私たちが翌日会議室に入った時、リードは二〇人の弁護士と一緒に座っていました。そして、照会された口座は存在しないと私たちに伝えました」、 とタルシアナの友人は語った。
再びタルシアナ嬢と友人は立ち去った。思いついたことがあり、二人はアルバニーに飛びニューヨーク州の税務署を訪ねた。公的記録の書類の中に、二人はサンティがニューヨーク州のシティバンクや他の銀行にサンティの名前や偽名、彼の所有する会社名で作ったすべての口座のリストを入手した(CDに複製済み)。二人はまた、こうした巨額の口座が生み出す利息にすべての州税と連邦税が免除されていることを発見したが、奇妙な免税だった。
□サンティの「死骸」を連れてこい
シティバンクへ戻って、二人はもう一度リードと彼の弁護士連中と対決することになった。タルシアナ嬢と友人は、彼らにニューヨーク州の納税記録簿のコピーを見せ、銀行がウソをついていて、口座は存在したことを証明した。タルシアナ嬢が持っていたサンティ自身の記録と書類によれば、シティバンクはサンティの財産である四千七百トンの金塊を保有していたのだ。
もはや、シティバンクはサンティの口座を持っていることを否定できないので、弁護士たちは二人の女に「契約の当事者」を連れてくるように素っ気なく言った。弁護士たちは当事者がだれのことかを明言する事は拒否したが、当然サンティの「死骸」のことだ。 弁護士たちはまたタルシアナ嬢には「法律で認められた」書類が必要だと言ったのだが、彼女はすでにその書類を見せていたのだ。弁護士たちは、 シティバンクがフィリピン政府の金を引き渡したとしても責任を負わせることはないという声明を必要としていると言った。(またしても、銀行がその財産を保有していることを暗黙のうちに認めているということだ。) このことは、そのファンドがマルコスが盗んだ金塊であるとフィリピン政府が主張していることを暗示している、けれど、その口座はマルコスが権力をつかむはるか前にサンティが開いたものなのに。
弁護士はイメルダ・マルコスの権利放棄を求めていると言ったが、それはマルコス・ファミリーが(現実であれ想像であれ)サンティの財産に対して要求をしてくるかも知れないと言うことを意味している。最後に、弁護士はマニラのアメリカ大使館の権利放棄を必要としていると言ったが、明らかにアメリカ政府の権利放棄を意味していた。
□シティバンクはサンティの全財産をシティバンク・ニューヨーク支店からバハマのシティ・トラストへと国外に動かそうとした。
ジョージ・デポンティスは、引退した元バハマの主席判事レオナルド・ノウルズ卿との友情も含めてナッソーに強力なコネがあるフロリダのロビイストである。クラインがアメリカ政府の助けを必要とする場合、元法務省の弁護士ロバートA.アカーマンの助けを求めた。
解決策は簡単だった。シティバンクはサンティの全財産をシティバンク・ニューヨーク支店からバハマのシティ・トラストへと国外に動かそうとした。このことは金塊をニューヨーク裁判所の管轄外に動かす効果があり、サンティの相続人から行われる全ての訴訟を封じ込めようとするものだった。法的にはそうした財産は、口座所有者もしくは相続人、または譲受人(企業会計担当者としてのタルシアナを意味する)の承諾なしにニューヨークの管轄内から移転させることは出来ないはずだ。
しかし、もし金塊が口座所有者も相続人も知らずに海外に移転されたのなら、回収のための負担は所有者と相続人にかかるだろう。金塊の大規模な搬送はまた、アメリカ財務省と連邦準備制度理事会が知ることもなく、承諾なしでも起こりえない。 バハマ当局の承諾なしに金塊がナッソーに入ることも出来なかった。しかし、そうした障害を切り抜ける方法があったようで、たぶん金の所有者をシティバンク自体に帰することで、何人かの弁護士は「不適切な変更」と表現を弱めて屁理屈を言うのだろう。
この海外での策謀は一九九〇年の終わりまで進められた。一九九〇年と言うのは、その話が銀行職員によってエンタープライズのメンバーに漏らされた時なのだ。シティバンクの動きを中止させる対抗策は元CIA副長官レイ・クラインとジョージ・デポンティスによって始められた。
ジョー・クラインが言うには、これらの口座には多量の金塊と現金があった。そしてアカーマンに、フィリピン人の原告、会計士のタルシアナとアメリカ政府で交わされた合意書つまり、アメリカ政府に帰属する金の多くがアメリカ政府に戻ることになる合意書の調停に関心があると言った。
こうした訳の分からない話は、銀行が次の対応を決めている間に、タルシアナの要求をかわすためと言うことは明らかだった。対応を決めるのに時間はかからなかった。
弁護士アカーマンを急がせるために、クラインはアカーマンに手紙、メモそしてファックスを含む多くの書類を与えた。一九九一年一月にアカーマンが書いた手紙によると、クラインは、いかにして「ランズデール将軍のフィリピン時代に」サンティが、日本軍の戦争略奪品を回収し、それを「四二ヶ国の、百七十六行の銀行」に移したかをアカーマンに説明した。
戦争金塊が戦利品であると主張されなかったのに、どうしてそれを盗まれた人々の所有ではなく、アメリカ政府の所有になるのかが不鮮明だ。そういう場合、なぜ半世紀以上も、秘密にされていたのか?また、クラインがどのようにしてサンティの相続人の所有であるべきものからアメリカ政府の所有になるものを切り離すことが出来たのかもあいまいなままだ。もちろん、クラインの緊密なCIAとのコネにより、その切り離しをやり遂げたのであろう。
□「紫インクの書類」
デポンティスはバハマの裁判所にナッソーへの移転を防ぐために訴訟を起こす準備をした。訴訟を起こす前に、彼はシティバンクにある取引を持ちかけたと言った。テープに録音されたロバート・カーチスとの電話の会話の中で、デポンティスは、もしシティバンクがこの取引を受け入れたなら、かれは七十二億八千七百九十三万七千ドルになる一五%の手数料を受け取るはずだったと語った。 手数料一五%だとすると、このことは全体の取引が大体五百億ドルになることを意味する。この額はシティバンクが国外へ動かそうとしていた額なのだ。デポンティスはテープのなかで、こうした多くの金が必要だったと言っているが、「レイ・クライン、アカーマン、こいつにもあいつにも金を返さなくてはならなかったからだ」と言っている。
デポンティスはタルシアナ嬢と内縁の妻ルツからの代行権限を受けることが必要だった。一九九一年九月、タルシアナは一〇頁の個人的サービスについてのデポンティスと取り決めに同意した。代行権限についても同意したのである。しかし、デポンティがシティバンクにタルシアナがたったの二五〇〇万ドルを手にするだけでよしとする提案をしたため、タルシアナはデポンティスと絶交したのだ。タルシアナは十二の銀行から数十億ドルを追い求めているので、シティバンクとそんなちっぽけな取引を受け入れることは危険な前例をつくることだった。
それ以後、デポンティスはすべての活動を内縁の妻ルツの和解金を取ることにはっきりと集中した。一九九二年六月三日、彼はロバート・カーチスに「シティバンクは実にしぶとい、やつらは一流銀行になろうとしているぜ」と言っている。
数週間後、一九九二年七月、タルシアナ嬢と彼女の財務アドバイザーはシティバンクへ出かけ、CEOジョン・リードと彼の会議テーブルを挟んで顔を合わせた。二人はバハマへ移した金塊と現金の口座をニューヨーク支店へ戻すよう要求した。タルシアナ嬢によれば、リードは二人が資産が移されたことを知っていると分った時、再び「青ざめ動転し」、弁護士を呼んだ。またしても、女たちは得るものも無く立ち去った。
こんな侮辱を受けたためタルシアナ嬢はシティバンクを追求しようと決めた。彼女はデポンティスに再び自分の代行権限を任せた。エレノア・ピール弁護士はデポンティスから、バハマでの訴訟については今よりタルシアナ嬢と内縁の妻ルツの代理人となるという電話を受けた。一九九二年六月二十五日、一つの合意書がタルシアナ、ルツ、エレノア・ピール、デポンティス、レオナルド・ノウルズ卿、フィリピンの弁護士ゾシモ・バナーグにより作成された。その合意書はデポンティスが訴訟前に最後の取引条件をシティバンクに提案することを認めていた。彼らはシティバンクがバハマへ移していた金塊五百億ドルを当時の市場レートより五〇ドル安い一オンス三〇五ドルという有利なレートで購入する事を容認していた。シティバンクは、市場価格で金塊を転売でき莫大な利益を得ることになり、その上、不法な移転に対する訴訟を避けることにもなるのだ。
シティバンクが提案を拒否したので、デポンティスとレオナルド・ノウルズ卿はバハマ裁判所に訴訟を起こした。エレノア・ピールはナッソーへ飛び、そこでデポンティスとレオナルド・ノウルズ卿に会った。ピールはわれわれに、レオナルド卿はピールに訴状を開いて見せ、シティバンクはすべてを否定することで時間稼ぎをしているだけだという自分の解釈を述べた。
弁護士メル・ベリが論争に参加し、シティバンクの支店があるカリフォルニア州の裁判所でシティバンクへの側面攻撃を開始した。ベリがルツのために起こした二〇〇億ドル訴訟では、ジョン・リードは、サンティの資産をリードの個人使用に不正変更をした被告者として名指しされた。
□ラスヴェガス・サン紙
ベリの友人によれば、ベリは健康に問題があり、シティバンクとリードに対する素晴らしい勝利で彼の弁護士としての職歴を絶頂に持っていく考えを楽しんでいた。ベリはブライアン・グリーンスパンというラスヴェガス・サン紙の編集主幹に手紙を書いた。
「面白いネタだよ。最初からそんな気がしたね。しかし、今は世界中のいくつかの大変有力な銀行がサンティの預金を保有したことは確かだ。われわれは世界中の銀行職員からいくつかの宣誓証言を手に入れた。銀行職員は、われわれが領収書と預金通帳を示したにもかかわらず自分たちが受け入れた預金の存在を否定したのだ」、ベリは、サンティの財産は「山下将軍の財宝に由来している」に違いないと信じるだけの理由があると言った。
弁護士ベリの訴訟内容は個人財産の不正な移転に基づいていた。サンティの所有になる特別のシティバンク口座のリスト化をした後で、訴訟は次のように進められた。
「被告シティバンクの会長兼最高執行責任者ジョン・リードはシティバンクによるサンティ所有の金塊移転の陣頭指揮を執った」。訴訟の最も重要な点は、「リードとシティバンクが組織ぐるみで例の金塊を金の仲買人に販売し、現在も販売しており、販売の手続きを自分たちの都合のいいように変更している、ということであった」という容疑にあった。
ベリの訴訟はまたチェイス・マンハッタン銀行、HSBC、バンク・オブ・アメリカ、ウェルズ・ファーゴ銀行の不法な移転の容疑をもたらした。 こうした銀行は全てカリフォルニア州に事務所を持っていた。
各銀行はそれぞれサン・フランシスコの法律事務所の大層な陣容で反撃に打って出た。チェイス・マンハッタン銀行はフォルジャー&レヴィン事務所。ウェルズ・ファーゴ銀行はヘラー・エーマン・ホワイト事務所。
HSBCはリプリー・ダイヤモンド事務所。企業としてのシティバンクと個人的に被告として名指しされたジョン・リードはスティーフェル・レヴィット・ワイス事務所。バンク・オブ・アメリカは社内の総合弁護士を代表とした。銀行は都合のいい言い分だけを繰り返した。
更なる調査と発見の後で、ベリは重大な国家機密に偶然たどりついたと結論づけた。ベリは友人に、シティバンクのジョン・リードはレーガン大統領、ジェイムス・ベーカー、ビル・キャセイ、マーガレット・サッチャー首相らの陰謀に加担し、山下将軍の金塊を米英の秘密の活動に資金援助するために使ったのだと話した。ベリはその計画を「紫インクの書類」として言及した。
遅延、激変、妨害、脅迫そして挫折の才月の後、二〇〇〇年にエレノア・ピールはニューヨーク・サロゲート裁判所に新しい申請書を提出した。それはルツとピールにサンティの資産の共同管理者としての権利を与えニューヨーク州にあるサンティの資産の所在確認の活動を認めさせる内容だった。 ピールはわれわれに、自分は「ニューヨーク州にある銀行のサンタ・ロマーナの全ての金塊も、以前銀行にあってどこか別の場所にと移された金塊も回収する権利」を持っていると言った。
不幸にも、ベリの健康はそれからの二年半ちょっとで急激に悪化し、事件の解明があんまり進まないうちに一九九六年に死亡した。彼の法律事務所でベリの仕事を引き継いだ連中は同じような熱心さで追究しなかったし、リードやこれら五大銀行相手のベリの訴訟はまだ決着がついていない。
□台湾CIA局長・クライン「共産主義打倒のために、非情であれ」。
一九五八年から一九六二年の間、クラインは台湾のCIA局長をつとめたが、その職務は不正工作の責任者、フランク・ウィスナーから、彼が発狂する直前に引き継いだ仕事である。台北にいた時、クラインは東南アジア全域にわたる秘密の工作活動の責任を負っている。クラインは政治作戦学校(政治的戦争幹部養成学校)を設立し、そこではフィリピンや他の国からの訓練兵が教え込まれた。「共産主義打倒のために、非情であれ」。
□蒋介石大元帥の大酒飲みの息子
蒋介石が生きていた間、クラインは蒋介石大元帥の大酒飲みの息子、蒋経国(CCK)と友達になった。蒋経国は中国国民党の情報部局を支配していた。 クラインは「彼の中心的な飲み仲間」になった。蒋経国が台湾総統として父親の跡を継いだ時、クラインの運命もそれに呼応して上向きになっていった。彼はアメリカ政府に戻り、機密情報収集を担当するCIAの副長官になった。クラインは歴史的な事情に精通し、金融面においても熟達していたし、ジョンJ.マックロイがMファンドや他の政治活動資金の仕組みを立ち上げるキーマンになったのかのすべて知っていたのだ。
アラン・フォリンジャーによれば、「レイ・クラインはわれわれに、サンティとランズデールの金塊回収に関するCIAの資料ファイルは必ず全てに目を通したと言った」 、フォリンジャーが言うには、クラインはブレトン・ウッズでの秘密協定と、そこから生まれた「黒い鷲信託」のすべて、そして、いかにしてマッカーサー将軍とロバートB.アンダーソンがサンティとランズデールを連れてゴールデンリィリーの隠匿施設を回り巡ったのか、そしていかにして警察の長官、載笠(Tai Li)将軍、上海の麻薬王、杜月笙(Tu Yueh-sheng)、ヤクザの頭目、児玉、フィクサー笹川、岸首相、田中首相、CIAのウィスナーとキャセイ、ヘリウェル、ランズデール、サンタ・ロマーナ、マルコス、シングローブ、シュバイツアーと知り合いになったのかを話した。レイ・クラインは多くの著名人を知っていた。クラインは個人的に戦時の中国国民党の秘密も知っていた。
クラインがCIAで長いキャリアを勤めたことから、彼がフォリンジャー、アカーマン等に話したことは信頼の置けるものである。第二次世界大戦の終わりに、クラインは国民党政府の何を残存させるかを研究する若いOSSの分析官だった。彼はそこで三年間を韓国に関するCIA主席研究員として過し、ジョン・シングローブ、ポール・ヘリウェル、ビル・キャセイ(キャセイはウォール・ストリートヘ転出し、現在はダレス兄弟の仲間と法律事務所を経営している。)と親交があった。ビル・キャセイのようにクラインはいつも金融情報に特別の関心を払った。クラインはハーバード大学とオックスフォード大学からみごとな学業信任状を受けている。
一九六六年に、クラインはジョンソン大統領と極東政策に関してひどく衝突したため、CIA副長官の職を解雇され、ボンのアメリカ大使館へ追放された。ジョンソン大統領が再出馬しないことを決めた時、クラインは帰任が可能になり、国務省の情報調査局長となった。そこでの彼の仕事はマルコス大統領の黒の金の動きを監視する事だった。
 一九七三年、台湾との極めて緊密な繋がりがあったおかげで、クラインはニクソン大統領が中国と和解することを決めたことでケンカをし、政府部局から引退を勧告された。
□アカーマンの手紙
 アカーマンの手紙によると、デポンティスは、最初はタルシアナ嬢がシティバンクにサンティの会社の口座に幾枚かの小額小切手を預金することを余儀なくされ、ジョージワシントン大学の保守的なシンクタンクの長となった。今やエンタープライズの陰の組織の要となる人物、クラインはレーガン大統領特別顧問となり、キャセイ、シュバイツアー、シングローブとは緊密に繋がっていた。 香港での会合を録音した音声テープを聞くと、カーチスはおだてられてニッポンスターの金塊回収を助けることになり、クラインの名前がたびたび出てきている。
□インランコントラ事件ーシングローブはマニラにいた。
クラインがイラン・コントラ事件の聴聞会で議会を前に証言した時、彼はフィリピンのシングローブ将軍を訪ねたかどうかの質問を受けた。 クラインは、シングローブは空港で自分と会ったと言った。
「シングローブとシュバイツアー将軍から十分に説明を受けました。シングローブがそこで、私の知っていた探査した場所に埋められている金塊や貴金属の回収のために調査をしていること、彼がこの財宝を回収出来る確かな兆候を掴んでいたこと、シングローブが財宝を回収しようとしているグループを代表していたことなどの説明です。シングローブとは財宝以外に議論したことはありません。シングローブは多くのものを私に見せま した。また、そのことを信じさせることを話したし、シングローブが探査した埋蔵地域から多くの金塊や金が回収できそうだと感じたこと、回収がシングローブの唯一の目的だと話しました。私が知る限りの話です」。
この証言からは、クラインが議会に対して言い逃れをしており、クラインがアカーマンに話したことを打ち明けていないことが明らかである。彼の証言における基本的な歴史的、地理的な細部が徹底して調査されたが、そのことは公衆に明らかにしなかったのである。
 


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