キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

JFK暗殺はブッシュ・パパが計画した?キサラギ最後のレポート

2017-04-20 18:31:29 | JFK暗殺
  1. ジュン・キサラギの税務小説Flag Counter■ランズデール=ブッシュ(パパ)つながり
    これは本当の話です。1963年11月22日、午後零時30分、第35代大統領、ジョン・フィジツラルド・ケネデイはテキサス州ダラスで何者かに狙撃され即死しました。
    その時、George H.W. Bush(ブッシュ・パパ)はCIAの要人であり、教科書ビル(Dal-Tex)からの狙撃に関して、指導的地位にいた。彼は実際に現場近くにいたという疑惑があるのです。
  2.  George H.W. Bush (GHWB)は少なくとも1961年という早い時期にCIAのために活動していた。おそらく彼は、Skull and Bones 結社(学生懇親クラブだが、それ以上の政治活動を行う)に属していたYale大学での大学時代に、リクルートされたと考えられている。彼と彼の妻Barbaraはヒューストンに引越し、海底石油採掘ビジネス、Zapata Offshore Co.を経営していた。これは採掘設備を世界中に配備していたCIAの秘密の石油政策(メジャーの味方をして、日本やドイツの石油国策会社作りを妨害する、たとえば海賊と呼ばれた男の題材となった、出光のイラン石油購入を妨害した)トンネル会社であり、何を行っているのか疑われるCIAのビジネスで彼(パパ・ブッシュ)が一度に数週間姿を消す上では都合が良かったのである。
    また、Bush は、ZAPATA. Col.作戦とのコードネームで呼ばれていたピッグス湾侵攻作戦(今年なくなったキューバ・カストロ将軍の暗殺計画=CIAマングース作戦=主役はランズデール将軍=拙書『ゴールデンリリィ』にでてくる)の主要な組織まとめ役、リクルート担当者でもあった。元ペンタゴンの高位にあった高官、Fletcher ProutyはOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」(ポトマック河畔で政府高官として現れる)のモデルになった人物であったが、Proutyはこの作戦のために二艘の海軍船舶を調達していた。この二艘は非海軍色に塗り替えられ、HOUSTON 、BARBARA(パパブッシュの妻)と改名されたのだった。
    ■ブッシュパパはそのときどこにいたか、どうしても思い出せない。
    George H.W. “Poppy” Bush はJFKが暗殺された時に自分がどこにいたか、何をしていたかを思い出すことが出来ない少数者の一人である。
    事実、20年以上にわたり、彼はその詳細を全く思い出せないというのだ。パパ・ブッシュは当時39歳で、ハリス郡(ヒューストン)の共和党の議長であり、JFKに対する辛らつな批評家であった。しかし1963年11月21日に、パパ・ブッシュはダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、その日の夜、石油採掘契約者アメリカ協会にむけて講演していたのであった。しばらくして、パパ・ブッシュ彼は報じられる所によれば、Clint Murchison, Srの自宅での「承認のための会合」に出席しており、暗殺実行の前夜に最終指示を受け、JFK殺害予定の祝杯を上げていたという。 
    ■パパ・ブッシュは拘束されていた
    保安官代理Roger Craig はDealey Plaza でその日に12人を拘束したとJim Garrison に報告した。その内の一つは、特に、ダラス警察署のR.E. Vaughn によってなされたもので、Dal-Tex ビルから出て来る男の拘束であった。彼は自分のことを「テキサス州ヒューストンの自営石油操業者である」と述べたという。この拘束された人物はダラス警察署の刑事によってVaughnのもとから連行され、彼がその人物を見たのはそれが最後であったという。
    この謎の人物の存在については、顔写真も撮影されず、インタヴューも行われず、指紋も取られず、名前も分からなかった。
    「ヒューストンの自営石油操業者」という身分提示は常にGeorge Bushの(CIAの)隠れ蓑であった。実際の所なぜ彼は拘束されたのであろうか。Garrisonはその人物がDal-Tex ビルから走って出て来たし、見物人の騒ぐ声を聞いて、拘束せざるを得なかったのだと述べた。その人物は取調べのため保安官オフィスに連行されたというが、取調べの記録は存在していない。その後、二人の警官がその人物を同伴して保安官オフィスから外に出てきて、待ち受ける群集のやじに直面した。その人物と警察官達はパトカーに乗り走り去った。
    おそらくDealey Plazaへと戻ったのであろう。なぜならそこで彼は、アメリカ空軍将軍Edward Lansdaleと共に写真に撮影されることになるからである。
     
     
    Ed Landsdale は「三人の浮浪者」(真ん中の写真)のそばを歩いている人物である。
    秘密活動のためのペンタゴンとCIAの連絡役であり-またOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルでもあった-L. Fletcher Proutyが語った。また、元アメリカ海兵隊司令官、 Victor Krulakからも確認されている写真の証拠だ。両人共にLandsdale のことをよく知っていたのである。
     
     パパ・ブッシュの本人確認に関しては、私達にはプロのカイロプラクターで、人物の身体や服装に対処する専門家であるRalph Cinqueによる観察がある。
    「George HW がそこにいるということの確定は簡単です。他にどんなまじめな代替案があるのですか。全く彼に似た人物がたまたま偶然そこにいたという全く驚くべき偶然が起きたというのですか。何度V(映画「V for Vendetta」中のVendetta =復讐)は私達に、自身は神と同様、サイコロ遊びをするものではなく、偶然を信じるものではないと告げねばならないのでしょう。私も、あるいは殺害についての他の真剣な研究者は誰も、JFK暗殺に際しては、特にそのような偶然はないと言わざるを得ないのです」とヤヤ、難解な英語で述べている。
    ■パパブッシュが教科書ビルの玄関に立っている写真~本物か?
    私達には、①テキサス教科書倉庫ビルの前にBushが立っている写真、②その時Dealey Plaza でEd Lansdaleを写した写真、③世界中で暗殺を準備したことで有名なLansdaleがパパブッシュに話すのを待っている写真がある。
    この件については、「これらの写真にはまぎれもなく千の言葉以上に値する」と言っても過言ではないであろうということだった。本当だろうか?
     ■偽りのアリバイ
  3. 次に私達が1963年11月22日のGeorge H.W. Bush について知るのは、FBIの覚書メモによってである。それによれば、GHWBはダラスの保安官オフィスでの記録には残っていない取調べから解放され、ヒューストンのFBIオフィスのSAC Graham W. Kitchel のもとに電話をかけたという。
    パパブッシュはFBIに対し、「James Parrottという名の人物が大統領がヒューストンに来た時大統領を殺害すると話していた」ことを思い出したので電話したというのである。そのときパパブッシュは、現場にはおらず、偽りのアリバイを確立しようとしていたものであった。
    Bushパパがこの電話をかけ、FBI職員がParrot の自宅へ行った。別のFBIメモでは、Parrotの母親は、JamesはFBIが自宅に到着した時自宅にいなかったが、彼は一日中自宅におり、彼女が息子Gary.の面倒を見るのを手伝っていたと語ったという。
     
    Parrot 夫人は、午後1時直後にReynolds 氏が訪れて、Waugh Driveの共和党本部の看板を塗ることについて息子に話したという。要点は、Kerney Reynoldの助けとGeorge Bushの助けがParrot にアリバイを与え、Parrot がBushのアリバイであったという相互的なものである。全員がお互いをかばい合っているように見える。
    Bushの共和党看板描きの一人であった暗殺者志望者について通報する偽りの電話;彼自身もまたBushの仲間の一人によるアリバイによって見逃されるもので、実際にはうまく機能していない。
    これはCIAのアリバイテキストの101番(常習的方法)である。こうした類のものが歴史の代役を務めることは許されないと思われる。
    もしBushがそれほど看板絵描きについて懸念していたのであれば、なぜ彼はKennedy大統領がダラスに来る前に、FBIにケネデイを殺す企みがあると警告の電話をしなかったのであろうか。⇒本当にその通りだ。しかもパパブッシュは20年間、このときの自分の行動のことを覚えていなかったのだ!つまり、大統領になるまで忘れていたのである。
     
    Bushはこのメモによって自分の頭部を銀の皿にのせて私達に差し出した。Bushは自身が目撃されたことを懸念していたため、パニックになり、その日にDal-Tex ビルの前で拘束されたのは彼ではなかったことを示す証拠を提示することで自分は賢明であると考え、愚かにもFBIに電話をかけたのだと思う。
    ■オレは教科書ビルなんかにいなかった、そこから100キロも離れたタイラーでライオンズクラブで講演していたんだ。
    これはその時点では、良い考えのように思えただろう。しかしパパブッシュは実際には自身の関与の永遠に残る記録を創造していたのである。このメモはBushを、テキサス州のタイラーから長距離電話をかけてきた、ヒューストンのオイルマンとして確定している。Bushは暗殺の間、あるいは暗殺の直後にダラスにいなかったことを確証しようとしていた。パパブッシュは、誰かが自身を、Dal-Tex ビルから走り出て来るところを拘束され、ダラス保安官オフィスに連行され、そのビルから連れ出されたオイルマンとして特定することを懸念するべきであったのだ。
  4.  
    この1963年11月22日の日付のあるFBIメモは、Bushがテキサス州タイラーから電話したと述べている。しかし彼が実際にそこにいたという証拠は存在していない。暗殺の後20年以上にわたり、Bushはダラスで12時30分に暗殺が起きた時、自分はどこにいたのか記憶していないと言っていた。私がそのような話を聞いたことのある唯一の人物はRichard Nixonであった。彼はJFKが飛来するわずか2時間前にLove Fieldから飛び立っていたのである。
    ■FBI特別保安官殿
     ヒューストン、担当特別捜査官殿
    1963年11月22日
  5. 発信者:特別捜査官 GRAHAM W. KITCHEL
     
    件名:JOHN F. KENNEDY大統領の暗殺 
    午後1時45分にテキサス州ヒューストンにある住所ヒューストン5525ブレアーのZapata海洋採掘社の社長であるGEORGE H. W. BUSH氏がテキサス州タイラーから長距離電話をかけ、以下の情報を電話で私に提供した。BUSHは内密にしておきたいと望みながらも、何日であったのかと情報源については分からないが、ここ数週間の間に聞いたことを思い出したうわさ話を提供したいと述べた。彼は、JAMES  PARROTT という人物が「統領がヒューストンに来たら、殺害すると話していた」と述べた。 
    BUSHは、PARROTT はおそらくヒューストン大学の学生で、この地域で政治的な活動をしている可能性があると述べた。 彼は、ハリス郡共和党本部の電話番号SU 2-5239のFAWLEY夫人か、電話番号AJA 9-9194のRLINE SMITHが「PARROTTの身元に関する追加情報を提供出来ると思う」と述べた。
     BUSHは、「テキサス州ダラスに向かい、シェラトン‐ダラスホテルに滞在し、1963年11月23日に自分の自宅に戻るつもりである」と述べた。彼のオフィスの電話番号はCA 2-0395である。
    当たり前だが、このFBIメモはGeorge Bush が実際にどこにいたのかに対する答えになっていない。しかしながら、このメモがパパBushが自由になり、偽りのアリバイを創作した最初の瞬間は午後1時45分だったと私達に告げている。
    パパBushはDealey Plazaからわずか数ブロック離れた、ダラス中心街のシェラトンホテルに滞在していたにもかかわらず、午後1時45分にテキサス州タイラーにいたと私達に言おうとしている。
     George BushのCIAの任務はダラスにおいて執行されるものだった。そのために彼はダラスに滞在していたのだ。なのに彼はタイラーで何をしていたというのだろう。JFKは午後0時30分に撃たれた。他の全ての人と同じように、Bushも午後12時30分にダラスにいなかったのだろうか。
    彼はおそらくダラス・シェラトンホテルにいたと考えられる。パパBushは他の全の人と同じように、大統領の状態を確認するためにパークランド病院に車を走らせたろう。だが、途中で保安官のオフィスで取り調べを受けることになる。 
    ■FBIの覚書メモ
     パパBush は国家反逆罪で起訴される米国初の大統領候補者であると考えられる。
     彼の1963年11月22日のアリバイは捏造されたものだ。彼がそこにいたことを示す証拠が我々にはある。彼がテキサス州タイラーからFBIへ電話したときのメモを入手した。彼はCIAのテキストにのっている教科書的アリバイを主張している。彼は嘘をついており、おそらくJFK殺害への共犯者であったことを否定するために、わざわざFBIへ電話をかけることになってしまった結果を証明する「メモ」である。
    パパBush は暗殺後20年以上にわたり、暗殺時に自分が「何をしていたのか全く記憶していない」と主張していた。実際の所、彼は自分の自叙伝でも説明しなかったのである。
     そしてその後、突然、彼はテキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたという話をでっち上げたのだ。Aubrey Irby は、Bushが講演している時、ホテルのベルボーイがやって来て、Aubrey にJFKが死亡したことを連絡したと述べた。 Aubrey 氏はこの情報をWendell Cherry Irby氏に渡し、彼がそれをBushに渡し、Bushは講演を中止したという。Irby氏によれば、Bushはこの状況の下では政治に関する講演は不適切であると考えると説明し、講演を終わらせ、すぐに着席したのだという。⇒タイラーの講演が真実なのか、受講者が多数いたはずだが誰に対してもFBIは証拠固めの尋問をした様子がない。これがアメリカだ。パパBUSHは、はじめからJFK暗殺とは何の関係もない人間として扱われるように仕組まれていた。 
     George Bush がこの出来事を20年以上にわたり思い出せなかったとは、想像出来ないことである。JFKが死亡したというWalter Cronkiteの世界に対する発表は午後1時38分になされた。大統領と知事Connally が午後12時30分に撃たれたことが判明していた後に、Bushがその時、テキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたと考える人がいるのであろうか。
     Kennedy 大統領はDealey Plazaを通過した後に、ダラス貿易マートで昼食時のスピーチを行う予定になっていた。ダラス周辺にいた人は皆そのスピーチに参列しようとしていた;そしてJFKが撃たれた後大部分の人々は、重傷を負った大統領と知事に関する最新ニュースを知るために、パークランド病院へと殺到した。右派人物が所有するビル内でのJFK嫌いの共和党集団に対するテキサス州タイラーでの講演は、Bushがダラスにはいなかった証拠とは認められないのである。
    ■現場の銃声
     入手可能な証拠では、BushはCIAの任命を受けており、Dal-Tex 暗殺チームの監督をしていたことを示しているためである。Dal-Tex からはMannlicher-Carcanoを用いて三発が放たれたと考えられており、この銃は使用された凶器のうちで唯一消音装置を取り付けていない凶器であったと考えられている。: 
     次に、George Bush が、暗殺の直後に、Dealey Plazaで撮影された写真がある。その写真はブッシュがテキサス教科書倉庫ビル出入り口の隣に位置し、その左隣にEd Lansdaleがいる(下を参照)。これらの写真は、紛れもなくGeorge Bushを写しており、彼がダラス保安官オフィスを出て行った直後に、どこに行ったのかを告げるものである。⇒見逃した最新情報を得るために犯罪現場に戻った犯人のようなものだ。
     パパブッシュは James Parrot (JFKを殺すと宣言した男)についてFBIへ通報する電話を、ダラス保安官オフィスから午後1時45分にかけた。なぜなら Bush は午後2時頃 Dealey Plazaを立ち去り、「三人の浮浪者」(おとり)のそばを通り過ぎ、駐車場へ向かった。そのときLansdaleとすれ違う。
    パパBushは、Oswald が午後1時50分にテキサス劇場で捕らえられる頃にはDealey Plaza周辺にいたことになる。パパブッシュはDealey PlazaでLansdaleと一緒に写真に収められた時間帯は午後2時頃である。彼は保安官事務所からまっすぐ、Dealey Plaza に向かわなければその時間帯に間に合わないことがわかる。
    ■ランズデール:プランB
    もしLee が捕らえられなかった場合には、Lansdaleは「プランB」として、有蓋貨車に行くよう指示されていた「三人の浮浪者」–Charles Rogers、Charles Harrelson、 Chauncey Marvin Holt(しばしばE. Howard Huntと誤認されている)–を罠に嵌めていたであろう。JFK暗殺の新犯人は三人の浮浪者だったとするためだ。
  6. 帽子をかぶった浮浪者Holt (CIA)は、「自分達は有蓋貨車中で捕まった。Oswald が捕らえられた直後にわざわざ、plazaを通って連行された」と述べた。その浮浪者はOswaldの逮捕を、CIAが提供した無線で盗み聞きしていたため、知っていたのだという。無線機をこのおなじみの写真で彼が手に持っている紙袋の中に隠していたのだ。
  7. ■有罪を示す覚書メモ
  8.  1988年にJohn McBride が発見した、 J. Edgar Hooverによる FBI の覚書メモ(上)は暗殺のわずか7日後に書かれたものである。
  9.  1963年にGeorge H.W. Bush が CIAの関係者であり、反Castro 派キューバ人に関する最新情報を与えられていたという内容である。George Bush は、「当時、自分はCIA にいなかったため、このメモは別の「George Bush」について言及しているものだ」と述べている。しかし同名の人物がいたにせよ、その人物は文書係かどこかの馬の骨で、ピッグス湾作戦についての重大な秘密が詰まる覚書メモを受け取るはずもなかったのである。
  10. この文書中のGeorge Bushは間違いなくGeorge H.W. Bush だ。この覚え書きの住所はたしかにBushの住所と同じであることを示す別の情報(住民票)も明らかになっている。
  11.  1976年、Ford 大統領はWilliam Colbyの後任としてGeorge Bush を CIA長官に任命した。Bushはこの役職を、1976年1月30日から1977年1月20日まで、357 日間にわたり務めた。
  12.  Bush は自分はCIAのために活動したことはないと議会の前で偽りの証言を行い、また民間人が同局の運営に任命されることは初めてであると広く報じられた。しかしこれは「ばかげた」という以上に、「たわ言」である。George Bush はおそらく、Yale大学の学生時代から、CIAから直接リクルートされた、「CIA に捉えられた終身雇用の囚人」だったのだ。
  13.  日付:1963年11月29日 
    宛先:国務省情報研究局局長 
    発信者:長官、John Edgar Hoove 
    件名:1963年11月22日のJOHN F. KENNEDY大統領の暗殺
     国務省は、一部の誤って導かれた反カストロ派のキューバ人グループが、事実ではないが、John F. Kennedy大統領の暗殺がアメリカの方針の変化の前触れとなる可能性があると考えていた。現在の状況に乗じて、キューバに対し未承認の急襲を仕掛けるのではないかと考えていた。
  14. 1963年11月23日マイアミの「キューバ問題調整オフィス」(CIAの下部機関)から報告があったと、フロリダ州マイアミのオフィスから報告があった。
  15. その報告の内容は「我々のマイアミ地域のキューバ問題に通じている情報筋並びに情報提供者は、反カストロ派のキューバ社会での一般的な感情は「漠然」としており信じられない」というものだ。
  16. 「キューバについての大統領の方針と全面的には賛成しない者の中でも、感情は大統領の死はアメリカにとってのみならず、ラテンアメリカにとっても大きな喪失を意味する」と報告してきている。こうした情報筋は、キューバに対する未承認の行動の計画については知らなかったであろう。 
     信頼に足る情報を提供してきた一人の情報提供者は、「マイアミの賛カストロ派の小さな集団と近い関係にある賛カストロ派も感情的には暗殺を遺憾に思うものであるが、こうした人々は大統領の暗殺が彼らに対して強硬な抑圧的施策の結果を招くのではないかと恐れている」と報告している。 
  17.  上述の情報の要旨が中央情報局の George Bush氏と国防情報局のCaptain William Edwards に対して、同局のW. T. Forsyth 氏により1963年11月23日に、口頭で提供された。
    ■CIAの同僚の死
    George H.W. Bush (CIA) はまたGeorge De Mohrenschildt (CIA)の親しい友人でもあった。両人はダラス石油クラブのメンバーであった。1970年代後半にJFKと MLK(キング牧師)の死を調査するHSCA(暗殺に関する上院調査委員会)のため、Gaeton Fonzi による聞き取りが行われた。
  18. その前日に、De Mohrenschildt が撃たれて死亡しているのが発見された。
  19.  De Mohrenschildtの住所録中に以下のBushの名前と住所が発見された:
  20. “Bush, George H.W. (Poppy) 1412 W. Ohio also Zapata Petroleum Midland.” 
  21.  CIA の文書により、ピッグス湾作戦(オペレーションZapata)の計画の最中、De Mohrenschildt はメキシコとパナマを頻繁に旅し、 CIAに報告書を提出していたことが明らかにされている。彼の義理の息子もまた、Warren 委員会に対してDe Mohrenschildt はキューバ侵攻のためのスパイ活動をしていたと自分は信じると告げていた。
  22. George De Mohrenschildtはとりわけ、Lee Harvey Oswaldの親友であり、またOswald が1963年の秋にダラスに出て来て、テキサス教科書倉庫ビルでの仕事を見つけた後の彼の側近であったと考えられている。
     ■Bush は窓にいたのか?
  23. 著書The Killing of a President (1994)は、Robert Grodenは窓に外見の暗い人物が見えると述べている。
  24. この人物の身元をJames Richards はJim Fetzer に対して、フロリダ州マイアミの「リトルハバナ」のフリーダム公園に彫像が建てられている Nestor “Tony” Izquierdoであったと特定している。
  25. 彼は反Castro 派のキューバ人で、 GHWBはピッグス湾の時から彼を知っていたと思われている。Dal-Texビルからライフルにより三発が放たれたと考えられるという、この場所について最も示唆に富む解釈を提供するDuncan MacRaeの以前の研究“Dal-Tex Shooter 2nd floor”を基に、私はさらに以下のように発展させた:
     
     
    Bushがその時そのビルにいたのであれば、彼は出しゃばらずに、Dal-Texビルの二階にあったウラン採掘会社(CIA の所有物)の物置の窓の内側にいたと私は推測する。
  26. 私の解釈はGHWB風の大きな左耳、高い身長、ボディランゲージ(首の傾げ方)、髪の生え際、額の特徴を持つお坊ちゃん髪型をした人物が、Dal-Tex 暗殺チームを監督していたというものである(下のコラージュを参照)。彼はある理由のためダラスにいたのだ。その理由とは、大統領の車両パレードを見るためではなく、狙撃者としてでもなく監督者として、無線装置を用いて監視人と通信するためであった可能性が高い。この監視人は、(上のAltgens6 写真で)ヒューストン通りでJohnny Roselli (CIA/マフィア)の隣に立って携帯無線機に話しかけている姿が見られるDanny Arce (CIA)であったと考えられる。
  27. Arce は、数発が放たれた間、誰かと話していたのであった。
  28. Ruth Ann (CIA) はタイミングを数えており、携帯無線機でテキサス教科書倉庫ビルの六階から情報を受け取っていたのだと、共謀を認めた参考人 Loy Factorによって告発された。 
     
  29. 傘の男の同伴者は、 Orlando Bosch (CIA)であった可能性があるが[注記: あるいはFilipe Vidal Santiago]、リムジンがStemmons Freeway の標識を通過し、傘の男が自分の傘を上げ下げする間、無線で話しているのではない。傘の上げ下げは、まだ標的が生きているので「射撃を続けろ」という合図であったと考えられる。[注記: そこは、私が上に確定した全ての発砲箇所から目に見える場所であった。]
  30. 最年長の浮浪者Chauncey Holt (CIA)は、自分は茶色の紙袋の中にCIAが支給した無線を隠し持っており、Rock Island鉄道の有蓋貨車内からであっても事件の最新情報を入手出来ていたと述べた。
  31. Holtは15組の偽のシークレットサービスの身分証明書を作成し、grassy knoll(芝生の丘)の後ろにある、その日の朝ダラス警察署が使用していた駐車場に駐車してあった赤色の小型トラック車中にその証明書を置いていた。grassy knoll(芝生の丘)の狙撃手の逃亡の手助けのため、その証明書が使われた。
  32.  鉄道塔転轍手、Lee BowersはWarren 委員会に対して証言した。「奇妙な男達がgrassy knollの抗柵の後から車で逃げていった」のを目撃している。「そのうち一人が携帯無線機を使っていた」と。
     
  33. ■GWHBがそこにいたという証拠の概略
  34. (1) Bushが1963年11月22日午後1時45分にFBIへ電話をかけており、テキサス州ヒューストンのオイルビジネスマンであると身元確認されたことを示すFBIの報告書(覚書メモ)がある。彼が電話したFBIオフィスはヒューストンオフィスだった。
  35. (2) 11月22日の12時35分頃Dal-Tex ビルから走り出てくるところを拘束された男は、(副保安官Roger Craigによれば)自身の身元を「ヒューストンのオイルマンである」と認めたと言われている。Bushはダラス警察署のR.E. Vaughn によって拘束された。
  36. (3) Bushは、James ParrotについてヒューストンのFBIオフィスの彼の友人であったFBI特別捜査官Graham W. Kitchelに知らせた。
  37. (4) James Parrot には破壊分子としての履歴はなく、George Bushの共和党上院議員選挙運動の際に看板描きとしてBush事務所で働いていた。
  38. (5) James Parrot には、Bushの支援者でもあった別の友人、Kerney Reynoldsから速やかにアリバイが与えられた。
  39. (6) George Bushはダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、そこで前日の夜(21日の夜)を過ごしていた。 
    (7) 午後12時30分にJFKが撃たれた直後にDealey Plaza でGeorge Bush (CIA) が警察と話している姿を写した写真が、少なくとも2枚存在している。
  40. (8)写真の一枚目は、Bush(CIA)がEd Lansdale (CIA)の隣に立っている姿を写している。 
    (9)写真の二枚目は、テキサス教科書倉庫ビルの出入り口付近にいるBushの姿を写している。その場所は警察が封鎖しており、特別な身元証明書(CIA)がなければ一般の人は入れない場所だった。
  41. (10) Lansdale の隣にいる写真は、FBIメモでBushが電話したという午後1時45分から、Lansdaleが三人の浮浪者の横を通ってplaza を出て行く姿が撮影された午後2時の間に撮影された可能性が高い。この浮浪者たちが有蓋貨車から連れ出された午後1時50分頃、Oswaldがテキサス劇場で逮捕された。
  42. (11) 20年以上にわたり、George H.W. Bush は、暗殺の際に自分が何をしていたのか記憶していないと述べていた。しかし突然彼は、自分が午後1時38分にタイラーのロータリークラブで講演をしていたことを思い出したのであった。一方、James Parrot を通報する彼のFBIへの電話は午後1時45分になされていた。
  43. (12) 彼が、LBJが私的に雇っていた暗殺者であった、Malcolm “Mac” Wallace とYale大学で同席していたこと並びに、Clint Murchison, Sr.の自宅での承認のための会合に出席していたことは、JFK暗殺における彼の共謀を示す力強い状況証拠である。 
    ■あとがき:子ブッシュもそこにいた。
  44. 注目に値することであるが、(DCA フィルム中に)ヒューストンとエルム通りの角から、「ヒューストンのオイルマン」(George H.W. Bush)が数分前に拘束されたDal- Tex ビルに向かって歩いている人物がいる。この人物は彼の息子、17歳のGeorge W. Bushに酷似している。この人物の耳、鼻(これらの三枚の画像の二枚目では鼻を改ざんするがさつな処理がなされている)、鼻梁の形状、下あごの輪郭はGeorge W. Bushのものとかなり一致している。彼が着用しているお坊ちゃん風のローファーと白い靴下はチアリーダーにふさわしいものである。W.Bushもまたそこにいたように見えるのである。
     
     
    (画像下の字幕:
    私の見解はこの人物は彼(George H.W. Bush )であるというものである。
    父親が保安官の事務所に連行されたため、彼は途方に暮れていた;彼は父親を探していたのだ...
    身長、体重、体格、鼻、耳、年齢、顎、歩き方;
    数分前に父親が逮捕されたビルに向かって歩きながら...
    白い靴下とお坊ちゃん風ローファー...
    これが事実である確率はどれくらいか...かなり高いと私は思う...
  45. この報告書はJFK研究者Richard M.Hooke により2013年3月28日によって書かれた。Richard M. Hooke はキャリフォルニア大学サンタバーバラ校の文化人類学研究者で、Bank of Americaの元システム分析者であり、またJohn F. Kennedy大統領の死に関する著述家、研究者でもある人です。  
  46. どうですか真相が浮かんできましたか?
    ではまた、なお、パパブッシュのZEPTA OILは次のウエブで。

     

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