キサラギ・ジュンの税務小説

『黄金武将』翻訳『天皇財産と課税』『SCOOPED』ニュージーランド活劇『大統領になれなかった男』『NORADテープ』

イミテーション・ゴールド キサラギジュン イランコントラ

2017-07-06 22:35:10 | イミテーション・ゴールド

□イラン・コントラ
 一九八五年冬、NYTのティム・ワーナー記者たちは中央アメリカのノース中佐の活動について詳しい記事の取材に取り組んでいた。しかし、CIAとホワイトハウスの極少数の人々以外には、誰一人として国家安全保障会議のノース中佐が何をしているのかを知らなかった。
 そのころ、表向きにレーガン大統領は、イラン・イラク戦争について「イランに武器を売ってはならない」し、「ニカラグアをはじめ中米の親米政権転覆を目指す、コントラに資金援助をしてはならない」という二重の縛りの通達を出していた。
もともとアメリカはイランのパーレビィー国王を支持していたのだが、ホメイニのイラン革命(七九年一月)によりイランの原理主義イスラム化が進むと、八〇年四月イランと断交し、日本や同盟国と連携を図ってイラクの応援を始めた。それに怒ったイランのゲリラ組織、ヒズボラがテヘランのアメリカ大使館を襲い、CIA系のアメリカ人七人を人質としてしまう。《後、イラクの独裁者フセイン大統領はアメリカのSATに捕まり、イラク国内法により処刑されるが、イランイラク戦争の頃はアメリカと仲が良かったのだ。イラクには武器・弾薬・原油が潤沢に供与された。日本も協力していた。》ところが、イランでアメリカ大使館が占拠されるという事件が起きる。
 カーター政権下のアメリカは人質救出作戦(八〇年四月二四日)を強行するが失敗する。カーターに変わって大統領になったレーガン政権が四四四日ぶりに人質を救出するという歴史的経過があった。その歴史の裏側としてノース・コントラ事件が起ったのだ。人質を解放する条件としてレーガン政権は「武器兵器弾薬をイランに渡さなければならない」と言われてしまったのだ。レーガンは窮地に落ちる。一九八六年四月四日、ノース中佐は国家安全保障問題担当の大統領補佐官となったジョン・ポインデクスター海軍中将のために大構想を打ち出した。
 ノース中佐は武器と人質と交換して余った資金を南米に回す「武器・人質・カネ」のスワップを考えていたのだ。「武器」はオーストラリアから供給され、「カネ」もオーストラリア・ニュージーランド・クック諸島・バミューダの南半球ルート の銀行が使われた。
「武器」の流れ(①)は、国防総省予算(ミサイル現物一千発)→CIA倉庫(オーストラリア西部)→イランへ供与。
 もう一つの「武器」の流れ(②)は、CIAがカネを調達し→武器仲介人(イラン人ブローカー・マルチェヌ・ゴルバニファル、Ghorbanifer)からミサイルを購入(一発一万ドル×数千発)→イランへ供与→人質解放の線だ。
 そして伏線としてコントラへの「カネ」の流れ(③)は、ゴルバニファルからCIAへキックバック(一発六五三一ドル×数千発)→そのうち、一千発(一発三四六九ドル×一千発)は国防総省へ現物分(①)の支払に充て→残りの「カネ」(④一発六五三一ドル×[数千発ー一千発])はコントラへ流した。
 カネの流れは議会報告を免れるため、一回の送金を九九九九九九.九九ドルつまり、百万ドルを切ることとした。こういうことをするとかえって目立つものだがさすがにCIAはマネロンの名手だけあって、CIAの自前の銀行、ヌガンハンド銀行(オーストラリア)を利用したのである。南半球ルートは、BCCI捜査(モーガンソー検事による犯罪銀行捜査)もマネロンのルートに上がっていなかった。
 問題は、②のCIAの「カネ」数千万ドルの調達はどこからされたのかである。アメリカは公的カネとして出すことはない。当然、アメリカ国内の右翼やユダヤ層、兵器産業、在サウジアラビア富裕層が絡んでいる。また、武器仲介人ゴルバニファルへ武器を売った中東系武器商人(Khashoggi  )も浮上する。そしてこの小説のテーマ、MファンドもCIAのスイス預金としてこれに関連して登場するんだ。本当の話だ。
□ヌガン・ハンド銀行
 CIAの銀行としてつとに有名なヌガンハンド銀行(Nugan Hand Bank)は、オーストラリア・シドニーに本拠を置き、一九八〇年にはCIAや数々の犯罪に絡んだとして、破綻している。同銀行は一九七三年にオーストラリアの弁護士フランシス・ジョン・ヌガン (Francis John Nugan)とベトナム・グリーンベレーの生き残り、ミッチェル・ジョン・ハンド(Michael Jon Hand)によって創立された。アメリカの陸軍情報部やCIA長官ウイリアム・コルビー( William Colby、一九七三~一九七六)とのつながりが強固だった。ヌガンは一九八〇年一月自殺したとされ、ハンドは八〇年代の中ごろ、行方不明となった。まだ、発見されていない。
こういうことだから少し調べて見る必要がある。
 ヌガンハンド銀行は一九七三年、豪州ニューサウスウエールズ州グリフィスの金融マフィア、“フランク”・ヌガン弁護士がシドニーに創設した。もう一人の創設者は“マイク”・ハンドで、彼はベトナム戦争時代は米国のグリーンベレー部隊の戦闘員をしていたというのはもう話したよね。ハンドはベトナム戦争の後、ラオス、北方のホモング族 地区(黄金の三角地帯)で、CIA・グリーンベレーが主催するゲリラ訓練学校を指導していた。訓練内容の主なものは、ケシの「栽培」、ヘロインの「生成」、オピュームエアーでフィリピンへ「密輸」、香港・シドニー・ハワイ・フロリダ等への「売却」、決済したカネで戦車やミサイルを中東の武器商人たちから「購入」、それをイランに「提供」することだ 。
 フランク・ヌガンは脱税とマネロンを担当、マイク・ハンドは麻薬のカネの管理と世界各地へ銀行網を広げることが任務とされていた。
 タックスヘイブンのオフショア銀行(たとえばクック諸島のEPBC)への送金手数料、すなわちマネロン手数料は送金額の二二%をとった。一方、タックスヘイブン支店への預金の利息は一六%をつけ、差し引き、六%、銀行側が得をする計算になる。たとえば一億ドル送金すれば、銀行側は六〇〇万ドル(六億円)もうかる。ヌガンハンド銀行が「麻薬マネー」を「兵器購入」に充てる国際送金は、「犯罪資金を違法資金」に変える行為なので、資金洗浄して、表社会のカネとする「マネロン行為」ではない・・・・とは言えないかも知れないがともかく、ヌガンハンド銀行はそうした 。
 そしてヌガンハンド銀行はクック諸島のオフショア銀行(HSBC)がオフショア(香港)で受け入れた預金(HSBC香港)に利息を一六%つけてやり、犯罪組織に支払いの際、クックの源泉所得税(税率五〇%)を天引きするのだ。
「エッ!、タックスヘイブンに源泉徴収って税制があるの?」と思うのが国際感覚だと思う。しかし、クックにはそういう税制がある世界でただ一つのタックスヘイブンなのだ。
「しかも、クック島内に入ってきていない、つまり香港に預金されたカネにクック税制を適用する?」とも思うだろう。
 しかり、その通りだ。クックの勅令、所得税法二二条に「クック島外で商売をする国際金融業が、クックに登録して、オフショア預金を受け入れ、その利息をクック島外の預金者へ払った場合は利息の五〇%を源泉徴収する。そして、税金の受け取り領収書は即、発行する」と書いてあるからだ。「書いてあるならしょうがないが、その犯罪者はわざわざ、源泉徴収のある絶海の孤島(実際、クック諸島は孤島ではなく、一五の島の集まりだが、)に預金をしようと思うのかい?」
至極当然だ。それには「からくり」がある。
 ヌガンハンド(本店登記はケイマン)は急激にグローバル・ネットワークを増やした。同時に支店も増やした。チェンマイ、ハワイ、ケープタウン、ホンコン、台湾、ケイマン、ワシントンDCなどだ。ヌガンハンドはCIAの退職者を大量に雇用した。海軍大将のイエーツ将軍( Earl "Buddy" Yates)やコルビーたちだ。オーストラリアのトラック輸送界の大物、ピーター・アベレス( Peter Abeles )などだ。銀行のサウジアラビアの代表はバーニー・ホートン(Bernie Houghton)だった 。
 一九八〇年一月二七日、ヌガンはオーストラリアのニューサウスウエール州リスゴーで、ベンツに乗ったまま射殺された。ヌガンの服から借金証文のリストが発見された。ボブ・ウイルソン( Bob Wilson)やコルビィーからの借り入れ手形だった。ヌガンの家が荒らされ、書類は大方無くなっていた。ヌガンの妻、リー(Lee Nugan)は失踪していた。
 ハンドによれば、「ヌガンは銀行のカネ、五千万豪州ドルを着服していた疑いで提訴された」と言う。。「シドニーの銀行事務所の家賃、月、二万ドルも着服していた」と。
 ハンドはシドニーの肉屋(殺し屋)、アラン・グレン・ウインター(Alan Glenn Winter)の名を使ってオーストラリアを脱出している。一九八一年六月遅く、フィジーへ逃げている。ウインターにまねて、髪型や付け髭をし、ニセのパスポートと二枚の写真を持って行ったらしい。フィジーへ飛んで一週間後、バンクーバー(ブリテッシュ・コロンビア州)経由、ニューヨークヘ飛んだ。
 それ以来行方不明になった。CIAが別の仕事をくれたかもしれないし、暗殺されたかもしれない。一九八三年四月、パース在住のビジネスマン、ムーレィ・・クオーターマイン(Murray Quartermaine)がスチュアート・ロイヤル・コミッション(the Stewart Royal Commission、麻薬に関する豪州王立委員会)で、「ハンドはハン ("Hahn")と言う名で南アフリカ共和国のプレトリア に住んでいる。」と証言している。 クオーターマインの前のビジネスパートナーのクリスト・モールとの訴訟でモールがヌガン・ハンド銀行へ預けていた四〇万豪ドルをクオーターマインに支払う判決が出たときだ。
 そのときクオーターマインは「ヌガンは他殺ではなく自殺だった」と証言している 。
 豪州王立委員会の調べでは、ヌガン・ハンド銀行はマネロン、武器輸出、麻薬取引、窃盗(サウジアラビアで勤務する米軍幹部から五百万米ドルを盗んだ、どうせろくなカネじゃないと思う。)、そして巨額の租税回避事件ー実在する取引から生じている節税だと信じられている事件 ー(これはやはり、クック事件か?)の罪がある。関係者は全員死んでしまったが・・・。
 ハンドから脅かされていたヌガン・ハンド銀行の幹部だったある証言者は、「われわれが言われたことをしなければ、そしてうまくやらなければ、われわれの妻たちは細切れにされ、箱に詰められて、自宅へ送りつけられるハメになる」と 。
 オーストラリアの「麻薬・流通共同調査チーム 」は一九八三年にヌガン・ハンドの罪状について纏めた。そのレポートはヌガン・ハンド銀行は王立委員会が調べたよりも残忍で、CIAのフロントとして戦争のカネの調達役だった。ラオスで麻薬を栽培し、それをホンコンやアメリカや日本へ売った。ベトナム戦争のときは、死んだGIの体に麻薬六オンスを詰め込み、横田や厚木に送った。同銀行のチェンマイ支店はイランへのスパイ電子船の代金回収やアンゴラ内戦の兵器を輸出する取引銀行に指定されていた 。

 ようやく、フィリピン大統領フェルディナンド・マルコスが登場する。麻薬タスクホースは、マルコスがその銀行とどのようにかかわっていたかを示した。ラッドウイッグ・ピーター・ロッカ( Ludwig Petre Rocka)、ビジネスマンの彼は同銀行に口座を持っていた。ロッカの妻はエリザベス・E・マルコス(Elizabeth E. Marcos )である。マルコスの妹だ。ロッカはヌガンに対し、「マニラに支店を作ってくれないか」と提案し、受け入れられた。場所はマカティの金融街、自分のオフィス(International Development & Planning Corporation) があるビルだった。
 ジョナサン・クイットニィー(Author Jonathan Kwitny )は「フィリピンからカネを持ち出し、金塊も持ってたんじゃないか」と邪推している。(彼女もうらやましいと見える。)「コミッションをCIAにやってラオスなんかに使うんじゃないか」とも 。
 アルフレッドWマッコイ(Alfred W. McCoy)とシーグレーブ夫妻は、ヌガンハンド銀行はポール・フェリウェルを通じてCIAの銀行だったと言っている。同銀行はキャッスルバンク&トラスト(Castle Bank & Trust)から引き継がれ、BCCI (Bank of Credit and Commerce International )へ引き継いでいった。
 このように戦争で培った資金をCIAが序々に多くしていったのである 。・・証拠は無いが。ヌガンハンド銀行の問題はゴー・ホイットラム( Gough Whitlam's )豪州首相事件にもつながるがここでは割愛する 。
□不可解な賠償交渉
 アサカ・コウイチローという大蔵省の役人がいる。彼は戦後最大の問題とされた賠償問題を終戦連絡委員会の総務部長としての立場で連合国〈主にアメリカ)と交渉をした。終戦連絡調整事務局長官時代には、来日した国務長官ダレスとも接触、第二次大戦中の阿波丸事件 や占領経費問題などを含めた賠償をめぐる問題のとりまとめを行った。しかし、阿波丸事件に由来する一切の請求権の承認や、南部仏印進駐時に凍結された日本の官民の在米資産、占領軍によって持ち去られた外貨準備としての金塊の返還 は、連合国との講和条約において否定された。
 戦後すぐ日本の疲弊を救うため、緊急に輸入された衣料・食糧・医療の代金を日本が払う場合には、それをさらにガリオワ・エロワ資金としてプールして日本の福祉のため役立てるという「見返り資金制度」が定着した。そのカネが少なくとも数十億円(現在の価値で数十兆円)ある。もし、アメリカが無償援助に切り替えた場合は、返済金はどこかにたまるわけである。たまる資金を元へ戻して、支給品は有償だったとして日本から取りあげれば、他の戦勝国(フィリピン、台湾、香港、英領・仏領・蘭領のアジア各国)に回っていく補償のカネは少なくなる。それで、アメリカとしては緊急支給を無償のままとし、日本に「請求しない 」からアジア各国にも総花的な戦時賠償は「あきらめてくれ」といった論調の説得をダレスがした。ところがインドやフィリピンはなかなかあきらめなかったのである。
 インドがなぜ、そんなに頑張ったのかは定かではないが、フィリピンの方には理由がある。マッカーサーが、コレヒドールへ持っていったフィリピン政府の金塊五一トン を、ホンマ軍によって日本へ持ち去られ、「ゴールデン・リリィ」として日本の奥深く(それがどこかは読者の想像力に任せる)に保管されていた。それが戦後、第八軍 によって回収され、アメリカに送られている ということを知ったフィリピン政府は、「それだけは返せ」と主張したからである。フィリピン各地に埋まっているかもしれないと信じたフィリピン国民も、いわゆる「ヤマシタ・トレジャー」が米軍政部やCIAが戦後すぐそれを発見し、アメリカや日本や香港や世界の金融機関に「反共資金」として持ち去ったということをやがて知るのである。(戦後すぐはまだ、マルコスの時代でもなかった。)

 さらに五〇年代は日本の山師や潜水業者がフィリピンの野・山・海を荒らしまわった。彼らは戦後も日本軍が持ち去ろうとして断念した侵略物資・金塊・宝石等をフィリピンからあるだけ持ち去ったのである。
□ブレトンウッズ
 ヨーロッパではいよいよ枢軸国の敗戦が色濃くなり、ナチの「ブラック・イーグル・ファンド」の活用についてアメリカ政府、財務長官モーガーンソー、OSS・スイス支局官アレン・ダレスのどちらが歴史的に、「よりこの資金に関係しているか」話しあわれていた。というのはそのカネはアメリカの公的資金とはされず、スイスの銀行やオーストリアの銀行にしまわれていたからである。そのほかOSSは二八〇台のトラック部隊がスペインから、フランスから、「ポルトガルにある」スイスの銀行支店へ金塊が運び込まれているとブレトンウッズの秘密会で報告されたらしいのだ。(ここは推測である。)
 その情報は国務省ではなく、戦争大臣(後のペンタゴン)ヘンリィ・・スチムソン長官にまっすぐあがっている。スチムソンはチームを作りそのカネをどう有効に使うか検討させていたのである。チームには三人の専門家がいた。ジョンJマクロイ(John J McCloy、のちの世界銀行二代目総裁 )、ロバート・ロベット(Robert Lovet、のちの国防総省次官 )、ロバート・B・アンダーソン(Robert B Anderson、のちの財務長官 )である。

 一九四四年七月ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズのリゾートで四四カ国が集まり戦後の経済政策について語り合った 。もちろん、主宗国をアメリカとし、アメリカのドル金本位制に「右に倣え」の会議である。参加した四四カ国全部ではなく、極少数の国(多分、イギリストとアメリカ、スイス、オーストリア、「ポルトガル」)で、秘密会議がもたれ、議題になったのは「ドイツ、日本がスイス、オーストリア、ポルトガルに維持している金塊」をどうするか、ということだ。(その量はいくらかわからないが、)もし市場に出せば、一オンス三五ドル(一グラム=約一ドル)の米ドル換金レートが大きく崩れる。アメリカに売却することは拒否された。「ポルトガル」はマカオの事を故意に忘れていた。マカオには日本軍の金塊が集積されていたのである。
 イギリスは一九四一年の時点でアメリカに三〇〇億ドルの負債を負っていたのでそれを返すために、戦後の自分の立つ位置は「バックシートで良い」と言った。

 BIS(国際決済銀行)は信用が無かった。二次大戦のさなか、枢軸国のマネロンを積極的に進めていたからである。変わりにIMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興開発銀行)とGATT(関税・貿易に関する一般協定)が創立された。その出資金ははじめは連合国側(アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリア)だけだったが、後に日本も参加を許され、出資金としてニューヨークにある日本の金塊の預金額(没収された金塊等が原資となっっている。)が振替られた。IMFは究極的にはアメリカ政府の信用すなわち米ドルの価値を維持するために創られたアメリカの陰の中央銀行で、その目的とするところは他のアメリカ系諸国の台所を牛耳ることにある。
 一九六八年、英国の金プール市場はフランスの脱落によりポンド切り下げの危機に陥る。アメリカはフォートノックスからイングランド銀行の床へ金を運んだ。これは戦時中、ナチスが稼ぎ「ポルトガル」などに蓄積していた「黒い金」であることは誰でもわかる。

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