マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「発達障害への心理療法的アプローチ 」(こころの未来選書) 河合俊雄他

2014-08-27 23:20:39 | 日記
アマゾンのレビューで、星ひとつの物を読んだのだが、
「発達障害治癒への精神分析療法による挑戦」として読んでいるとのことだ。
レビュアーからすると、ユング派のバックグラウンドを持つ著者達だから、
ユング=フロイトの弟子=精神分析療法をしたのだろう、
との発想でのことだろうか。
ユング派のバックグラウンドを持つ治療者達の面接治療、プレイセラピーは、
そもそも精神分析療法とは違うし、そう呼ぶこともない。
内容を読めば解るが、この本の中でも、精神分析療法を行ったなどとは
書かれていない。
 発達についての知見として、精神分析を参考にしているのが
「精神分析療法」というなら、ほとんどの臨床行為はそうなってしまい、
用語の意味として成立しなくなる。
主体の無さや、主体の生成などの、対人的な感覚は、
文章のみでは伝わりにくいのだろう。
このレビュアーは、改善したエビデンス、データが無いと書いているが
確かに主体について測るようなものは、今のところないのではないだろうか。
主体というのは個人が社会の中で在るものなので、何らかの計測方法というのは、原理的に在りうるのだろうか?
前よりしっかりした感じ、その人の輪郭がはっきりした感じ、など
実際にその対象と関わらないと解らないものだろうから、
書物では伝えることは確かに困難ではないだろうか。
「本書でドラえもんののび太を軽度発達障害だとする章があるが」との事だが
のび太が軽度発達障害と書いているのではなく、「ドラえもん」で描かれている、のび太とドラえもんの関係が、何かに困ったら、
ドラえもんに道具を出してもらって解決しようとする関係が
「発達していかない」話として、取り上げられているのであって、のび太が発達障害児と書いているのではない。
アマゾンのトップ100レビュアーの人が、根本的に読み違ってしまうのだから、
発達障害の治療、主体の生成というのは、解りにくく、伝わりにくい
ものなのだろう。

「レジスタンス」 ドイツ映画 2006年

2014-08-26 23:59:27 | 日記
第二次大戦末期、主人公の少年は14歳で、軍務補助員かなにかで
ドイツ軍に徴兵される。
家族も本人も、ソ連の侵攻をなんとせねば、と考えている。
しかし、ろくに装備も与えられず、まともに組織化もされていない。
そして蛮行をやり放題なソ連に対して降伏をして、飢えているところに、
ソ連軍の将校から
「ソ連軍の士官学校にこないか」と誘われて入る。
その後、軍務を終えてから、西側の情報を集めるためにスパイとして
イギリスに行かないかと勧誘され、ロンドンに行く。
ソ連側の一員として、ロンドンでスパイ活動をしているのだが、イギリスの防諜部もそれを利用し、
「過激派が大規模な事を計画している」などと上部に誇張して報告して
予算を多く得ようとしている。
イギリスの防諜部も、直接的な暴力を使った拷問はしないが、
いろいろエグイ事をやる。
そしてソ連側に「誰それが寝返った」などの偽情報をつかませて、
主人公がイギリス側に亡命せざるを得ない状況に追いやる。
主人公は下宿の経営者の娘のアフリカ系の女性とメキシコに行くが
そこも昔だれかが、ソ連に殺された所なので、見知らぬ男たちが来ると
自分たちを狙ってきたのかと思い、警戒する。
主人公が亡命して、アフリカ系の女性と共にメキシコに来るというのは、
アフリカ系ならソ連の手下ではないだろうとの、差別意識も織り込んでいるのだろう。
 第二次大戦後の状況として、少し位酷い事をしても、
ソ連よりはましだろう、とのことで、様々な事が黙認されてきた。
チリのクーデターなど、その一つだろう。
ソ連が無くなって、「酷い事はとにかく止めよう」とはならずに
状況依存的に何事でも行われる様になった。
ソ連に対して、むやみに理想化したりして、その蛮行を語るというのを
様々なメディア、知識人がしなかったのも、その原因の一つではないのだろうか?



「大いなる陰謀」 ロバート・レッドフォード監督

2014-08-18 23:33:32 | 日記
タイトルと違い、「陰謀」ものの映画ではなく、
米国の現状について問う映画。
メインはヒスパニック系とアフリカ系の大学生二人が、
「徴兵制」にした方が良いのではないか?という所。
徴兵制にして、貧富の差に関係なく軍隊に行くようになれば、
政治家、企業の重役も、自分の子供の事を考え、むやみに戦争をしなくなる、
という事。
どこで読んだかを忘れたが、米国で徴兵制を止めるときには、
軍の高官が「金目当ての傭兵の指揮を執る気は無い」と反発したとのことだが、
現在では効率の問題などで、志願制が当然のようにされている。
また、米国で女性兵士が戦闘部隊に加わるようになったのも、女性にも国を守るために
戦闘に参加する権利があるとの意見があったからだそうだ。
それでは、「国防権」というものを、国民の権利の一つとして議論すべきでは
ないだろうか?
「権利」ならば、「効率」を越えて検討する価値があるのではないだろうか。

内田樹はなぜいまいち受け入れられないか

2014-08-10 00:34:42 | 日記
読書人には受けている内田樹氏だが、
やはり維新とかを支持する人は多く、そちらの方が
リアリティーを感じる人は多いようだ。
内田樹氏は東大を出て、大学教員をしていたとのことだが、
恵まれて安全な身分だったので、
それ以外の社会ではいかに、悪意や差別があるかを知らないだろうから
「所詮はキレイごと、空論にすぎない」として受け入れられないのだろう。
普通の公立学校でも、いまだに軍隊的なところは多く残っている。
「差別は良くない」とか教師などは言っても、世の中は差別だらけで、
不平等な事を知らないのだろう、と受け取られているのだろう。
色々な人が「イラク戦争反対」と言っても止められなかったし
ISISに対しても、空爆以外に有効な手はなさそうだ。
所詮、多くの人にとっては、何らかの力しか信用できないということだろう。

策謀家チェイニー 副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」 (朝日選書)

2014-08-07 01:07:31 | 日記
9.11に際して、副大統領のチェイニーが、ブッシュ政権を
自分の考えに沿うように、うまく使った、とのことだが、あのような想定外の事に際して、
ブッシュ前大統領個人が上手く対応できなかったことは、
個人の限界としても、政権内で止められる人が居なかった、というのは、
アメリカの政治システムの問題として大きいのではないのだろうか?
巨額の予算をかけたショー化された選挙で決めて、
深い歴史観を持つ人物が影響力を行使できないというのは、
壮大な無駄と浪費をもたらす制度的欠陥ではないだろうか?
堤未果氏が「(株)貧困大国アメリカ 」で書いているように、
企業に大きく影響され続ける米政府というのが続くうちは、
このようなことは、変わりづらいのではないのだろうか?