夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「7月14日という日」

2017年07月14日 07時33分20秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2004年】
昨夜は涼しかったです。北側の窓から風が入り、風呂上りに五ロットしていたら気持ちよさに寝込んでしまいました。さすがに日中は35度近くもありまいりますが、夏が好きな僕にとっては噴出す汗も気持ちがよいものです。
新潟の集中豪雨はすごかったですね。被害にあわれた方、お見舞い申しあげます。
遅い夕食をラーメン屋さんで食べました。チャーシューつまみに一人カウンターに座りビール。。。ハハハむなしい。でも、こんな男の後姿には自身がるのだが(笑)

【2005年】
(記事なし)

【2006年】
まるで温泉の脱衣場状態。。。。
気温も高くすごい湿度です。
冷房は苦手なのであまり冷房は使わないのですが、さすがに今夜はスイッチオン!
パソコンも暑いらしく中のほうで扇風機のような音が。。。。

【2007年】
ブログで、「東京日記『幻の月』」をはじめてみました。
ちょっと不思議な一言日記。。。
台風が関東にもやってきそうです。
夜になり、雨脚が強くなってきました。
地域の寄り合いで遅くなりました。選挙関係ではありません(笑)
この寄り合いに出るため、夕食は外食。
小さな日本蕎麦屋さんへ入ったのですが、そのお蕎麦屋さんは親子二代で経営をし、三代目の小さな男の子の兄弟がいます。
僕が店に入った時間が早かったのでしょうか、店の中ではその男の子たちも夕食中。僕が食べ始めた頃には園子たちの食事は終わったのですが、その後がうるさい(笑)店の中をうろちょろ歩くし。。。。僕が食べているものをチラッと覗いたり(笑)
まぁ、子供のうるさいのはわが子の子育てで慣れているので笑いながら見ていたのですが、そのうちに下の子が「ウンチ」。。。ううう
お母さんがトイレに引っ張っていく。
出てきたなと思ったら、座敷テーブルの前でパンツをはかせていた。。。
なんだか、これが下町のお蕎麦屋さんなんでしょうね。。。。昔ながらの
とはいえ、いやな感じは受けませんでした。これが見慣れた庶民的なお店だったから。。。

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
毎日が過ぎていく。毎日。。。。区切りがわかりやすい。
朝起きて日中をそれぞれに過ごし夜になれば寝る。これは自然界の営みで人もこの営みの中に生きているわけだからわかりやすいのである。
そして一週間やひと月が過ぎい年が過ぎていく。人はいつしか老化をしていく。
毎日はわかりやすいのだが、1週間、ひと月、一年と、過ぎていく時間の流れが長くなるとその区切りは曖昧になっていく。振り返り過ぎた時間を振り返って眺めると長い時間の過去ほど朦朧としてくる。
これは毎日の「生活」の具体的なものの人の記憶や時間の流れの中においての瞬間瞬間の未来へ向かっている中でのものだが、この毎日の中での「心の動き」となるともう過ぎ去った時間のすぐ後ろがすでに曖昧になっていく。
夏生さんのダ・ヴィンチのインタビュー「いま話したいことがたくさんあります」で「つれづれノート」20年を振り返ったり、一時中断をした頃を振り返って
「日付がないと、それがいつなのかわからないじゃないですか。考える過程、変わっていく課程が大事。」 (ダ・ヴィンチ2010年8月号175ページより引用)と「つれづれノート」の形の大切さをお話しになっています。
毎日の生活とその中での心の動きをすべて書き記すのは無理ですが、一日の時間の流れの中にははっとしたりぐっと集中して考えたり、逆にインスピレーションのように不意に頭の中に現れたり、一つの事柄をもしかしてこうも考えられるとか、感情の変化から変わったとか。。。。さまざまな心の動きの中での大切なものがあるわけでして、そのようなものを書きしるしていく中にある程度の自分を残すことができる。毎日の中に過ぎていく「生活そのもの」それ以上に「心の動き」を書き残すからこそ(毎日の生活を書き記すこと自体に生活の中に浮かび上がる心が写真のように心に残るというものも含めて)「つれづれノート」の意味もあり、読者の心をつかむわけです。
こう考えると、ブログなど書きたいというものの中には、いろいろな人と触れ合いたい(文章の中での心のふれあい)というものが大きいわけですが、それ以上に「書きたい」というあるいは表現をしたいという心を残すことに無意識ながらも毎日キーボードをたたく動機となるわけです。これは昔から日記というものがありましたからね。
毎日ということ。。。。
この毎日が愛しくなるわけです。
これはすごく大切なものなのではないかな。。。。
自分を見つめるなんて大げさなことではなくても無意識に一週間前の自分を見て思うこともあるわけです。長く続ければ一年前の自分を霞んだ世界の中に何か一つはっきりと見ることができるのではないかな。文章が写真のような役割をしてそのときのあれやこれやを思い描けるはずです。

今、川上弘美さんの「東京日記」(このブログにブックマークしてます)を読んできた。
先ほど夏生さんの「つれづれノート」に触れて毎日のことをどう思うかを書いたのですが、川上弘美さんもまたこの毎日のことを独特な日記形式でお書きになっています。
ここでは夏生さんと川上さんを比較するという意味で書くのではなくて、その個性というのか心の捉え方をどう表現するのかの違いを感じることができます。もちろん「つれづれノート」のなつおさんと詩の世界の夏生さんがいるわけですから。。。。。
川上さんの「東京日記には何月はあるが日にちは「某日」である。日記の形式的な使い方による表現世界である。同時に日記であることには変わりなく、日記なのである。
「7月某日」。。。。川上さんの作品を読んでこられた方にはこの某日にすでに川上さんの世界への誘いを感じる。目医者に行き視力検査を受けること。。。。日記である。しかしその日常の中にあるものは、この一日の瞬間が曖昧になるというのか、まごまごするというのか、すでに心の曖昧さ、まごまご感が出てきて読者もそのまごまご菅を通じた心を見てムフフフ。。。。と何かを曖昧に感じたり考えたりしてしまう。小説家の書く表現としての日記ではもちろんその作家である川上さんの独特な世界に引き込まれるのである。
毎日ということ。。。。。
まごまごと過ごしているというのも、ぼうっとしている中にも外界からはいろいろな物が飛び込んでくるという受身的なものが心を動かす。なんてこともないものが心を動かし、何も考えないがアハハハ・・・と。
しかし川上さんの世界は、このアハハハ・・・・の中に深いものを感じさせる。
こんな毎日のこと。。。。。

(追記)
川上さんは俳句をされていました。うん、俳句の要素が強いかな。。。。。

【2011年】
菅総理の脱原発への方向性をめぐっていまだに菅辞めろコールだけを言う方々は別にしてもいろいろと意見が出ているようだ。
国会内はやはり脱原発の方向性を薄めるような意見が出ているように思う。これは積極的な原発推進を言う人々が後退をしているということでしょうあ。マスコミも脱原発をいろいろな角度から報道せざるを得なくなっている。
財界や官僚は根強く原発からの脱却は言えないようだが。。。。。。
菅総理の一連の発言(国民への呼びかけ)は、独りよがりだとか思い付きだとかという言い方で否定をして部分があるが、ここでも管総理にやめろという事につなげる人はいるがかといって原発をどうするかという議論という批判はないような気がする。
たしかに国会内や財界官僚には受け入れられない状況があるにもかかわらず方向性としては脱原発に社会は動きつつあるのではないか。国民世論も。
ここに一連の菅総理の発現は生きているのである。
白黒をつける結論を今求められている情勢では社会全体としてはないだろう。しかしゆっくりとではあるが、脱原発への方向性は見え始めているわけです。
原発に変わるエネルギーをどこに求めるか、原発と自然エネルギーや代替エネルギーの経済性や電力料金などなどこの検証すべき事柄を真摯に科学的に議論すること自体が有意義なのである。この新してあるいは科学的にという中には、やらせメールや停電という脅しなどはもちろん排除しなければならないということである。放射能の危険性がどこまであるのかとか、食料品の不安や子供への危険性などなお、こういうものを真摯に議論されなければならない。
今現在のこれらすべての事柄について真剣に話し合えること自体が脱原発への一歩である。
ツイッターなどは過激な脱原発発言があるが、こういう勇ましい言葉が脱原発の方向性を強めるとは限らない。今の実態とその実態についての考え方をとつとつと書いているものが強い力となるでしょう。

【2012年】
(記事なし)

【2013年】
人は、何に怒りを一番感じるかといえば、ばかにされることではないか?
真面目に考えなくてはいけないこと、実際の生活や労働その他日常の中できつい思いをしている事柄に対して、その事柄を茶化されたり、嘘を言われたり、変な期待を持たされたり、様々なやり方で裏切られながらバカにされる。
今の政治や社会の中にそれを感じないだろうか?
円安で輸出産業が潤い、株価は上がっている。これが進めばいつかは国民の生活もよくなると。しかし現実を見れば、円安は輸入材や輸入商品が値上げされるだけ。これを経済の復活だと言われる。
消費増税は社会保障のために使われると言われるが、中身は社会保障の充実ではなくて今までの社会干す用の予算を削って他に流用するだけ。
流用といえば、復興予算は所得税の2%強のアップにも支えられているが、その社会保障費は被災地の方には回らないところで流用をされる。
原発事故では除染が終わるまでと避難を余儀なくされていたが、除染はこれ以上できないが帰ってもいいよと。
ブラック企業という言葉が多く見受けられるが、今の働き方や条件にバカにされているんじゃないかと感じることはないでしょうか?
団塊の世代を中心に将来高齢化になるのだからと年金は積み立てましょうと一生懸命に当時のお年寄りの年金を支えながら積立もした。いざ受け取る今になって100年は大丈夫と言われた年金制度改悪によって積立金は将来の若い人のためにも残した方がいいのではないかと言われ、一方では若い人は老人を支えろと。
だれが見てもおかしいのではないかと思ったり、ばかにされていると思ったりすることばかりでしょう。
結局はバカにされながらさらに苦しい犠牲を強いられていくわけです。こうしなければ国や企業や富裕層の利益を守れない社会ってなんでしょうか?犠牲になることを憲法上も正当化されていく。

【2014年】
ロイターに「2年で2%の修正提言相次ぐ、財政状況が物価に追い付かず」という気になる記事が出ていた。
「供給力低下で物価上昇ペースが予想より早まる気配が出てきた中で、2年で2%の物価上昇を目標にする日銀の量的質的金融緩和(QQE)に対し、金融政策に詳しい民間識者の一部から、より長期間での達成へと切り替えるべきだとの声が相次いでいる。」(上記リンクページからの引用)
供給力の低下による物価上昇かといえば、今労働力不足が言われる中での供給力の不足が言われている。しかしこの物価上昇はアベノミクスと日銀の緩和という政策インフレ自体が急速に物価を上昇させているだけでしょう。供給力は消費力と対ですから消費が供給を規定する。政策インフレと消費増税そしていまだに実質賃金が下がり続け、消費増税は社会保障にという公約も破られているわけですから当然消費は「節約」に走る。この中で企業の設備投資も鈍くなりますから供給は国内的には伸びない。この状態の中で2%達成が早まっているということは政策インフレという悪性の物価上昇が続いているということです。この矛盾した物価上昇ですからちょっと待てよという声は当然でしょう。
もちろん日銀は2%を達成すれば中身はどうでもよいわけで達成自体が日銀の責任です。達成されればもちろん出口論が出てきます。アメリカも本格的な出口が近いといわれている中いつまでも緩和を続けることもできないでしょう。日銀の緩和策で長期国債を買い入れているわけですがそれが出口を迎えれば金利はどうなるでしょうか?同時にインフレと長期金利の関係から急激な物価上昇は長期金利を上げる。国債の金利が上がれば損をする投資家も出てくるでしょう。そして何よりもきぎゅへのばらまきである公共事業や今後の法人減税もあり財政再建も見えないわけですから金利上昇は国の借金も増える。
物価2%目標はデフレからの脱却というアベノミクスの柱ですから2%達成を先延ばしするということはアベノミクス自体の後退を意味します。「物価・金利と、成長・税収のバランスが取れるよう、いかにソフトランディングさせるかが、この先の最大の課題となりそうだ。 」(引用)
国家財政を見ますとこのままアベノミクスが盲進していけば国家財政の健全化はまた社会保障にしわ寄せがくるでしょう。
アベノミクスの修正か、それとも更なる社会保障の後退か。。。。

【2015年】
明日強行採決がされるという安保法制そして新国立競技場など、民意から離れたあるいは少なくとも国民の理解を得ない政策が決定をされていく。
この状態を一つひとつの政策の是非から離れてみても政策決定の方法として見た現在の政治は、民主主義から離れた国家主義的(全体主義的)なもに近づいている。
この土台となっているのがやはり経済でしょう。
経済的に日本は貧しくなっている。国の経済的な力が落ちている。国民が作り出すパイは小さくなっている。この小さくなっているパイの内、どう巨大企業や富裕層が受け取るパイの大きさを変えないようにするかがアベノミクスでしょう。ここから国民が受け取るパイの大きさは小さくなる。このような経済政策を日本の中で行うには政治的な国家主義が必要となっているという事である。国家主義的な方法でしか今の政権は維持できなくなっているという事である。
国家主義というものは力においては強い政治の力となる。
しかしこの強い力には内部矛盾としての脆弱性がある。
アベノミクスは失敗ではないかという意見も出始めている。安保法制には多くの疑問や不信が出ている。
脆弱性や内部矛盾は自壊を起こす。しかしこの次回の中で更なる国民の犠牲が強まる。
自壊する過程にどう民意(民主主義)をいち早くか取り戻すかが課題となるでしょう。選挙権が18歳以上になる。若い方の民主主義意識が問われるtでしょう。その意識は今現在の政治をどう感じ取り考えるかにある。その材料は自壊と内部矛盾の広がりにある。

【2016年】
(記事なし)

【2017年】
政治家というのは自信の思想や信念そして政策を持っていますからその中身については政治家それぞれにおいて大きな違いも小さな違いもあるでしょう。そして政治家はその違いを一定のルールに基づいて国民に訴え、政治家同市あるいは政党を通じて討議を行います。その中で自信の政策等が国民に受け入れられ政治全体を動かすことにその使命を果たすことができますし、それを政治家はよろこびと誇りとするでしょう。
しかし政治や職業ですから利益を優先させる。ひどい場合には税金を私利私欲のために使ってしまう。そして政治屋の力は国民を抑え込んだり騙したりしながら力を誇示する。この中で政治の力を数の力とする。
政治家も失敗をすることがあるが、それは単なる失敗です。政治屋は失敗ではなくて目的意識的に正しくないものを行う。利益のために。
国民の多くも政治家を求めているのですが、中には私利私欲のために政治屋を支持する。
政治家の力が弱くなり、政治屋の力が強くなると社会は悲惨さを増す。
政治にマニフェストが消えた。そして選挙の勝ち負けがすべてとなり、あとは海とも山ともなれと。。。。。著名人も選挙に受かれば政治家とよばれるが、下手をすれば政治屋に成り下がる。
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