夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2月22日という日」

2017年02月22日 08時00分57秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2004年】
風もなく暖かいです。
いつも家族でドライブなどに行きと昼飯でもめる。昨日も娘と二人で出かけたが、昼飯を何にするかでもめてしまった。僕はせっかく海に来たのだから回転寿司にしようといったら、娘はファミリーレストランが言いという。仕方なく僕が折れてファミリーレストランを探したが、探すときはない。結局2時くらいになってどよ~んとした中華やさんに入った。
なんか腹が減ると些細なことから喧嘩になる。。。。。

【2005年】
春一番!?
テレビを見ていたらこんな言葉があったような。。。。
そういえば日中は暖かでした。
角田さんの「対岸の彼女」をまとめ終わりましたが、まとめながら考えているうちにこの作品の良さがわかったような気がします。角田さん。。。。いいなぁ。
さすが直木賞です。

【2006年】
公園の木の下を通り、桜の枝を見上げたら小さな固そうな蕾が見えました。
暖かな一日でした。
どうやらプロバイダーのメンテナンスも終わりホームページも復活!同時に掲示板も見えなくなりましたが、こちらもサービス会社のメンテナンスだったようです。同時に二つのネット会社がメンテナンスだったなんて偶然ですね。両方が見えなくなってしまいあせってしまいました。
まずは、ネット会社のメンテナンス障害情報を確認するのが基本ですなぁ。。。そうしないとパニック状態です。

【2007年】
世の中には「常識だろ!」という言われるような事柄がたくさんある。
しかし、この「常識だろ!」という事柄を発想を変えて180度違う視点から見ることが必要で、その常識の中身は違ってくる
「格差はどこにもあるもんだ」ということもたしかに正しい常識だが、これを発想を変えてみると、「格差はどこにでもあるものだから格差が広がってしまうのもそれは当たり前だ」と見るのか、「格差はあるのは事実だが、この格差を縮めることを考えなくてはならない」ということもある。前者を常識としてみるのか、後者を常識と見るかによって「格差はどこにもあるもんだ」という常識にも考え方の違いによりその常識はまったく違うものになる。
格差の拡大による矛盾が多くなっているとき、事実として格差はかなあらずあるという常識の中、これを当たり前の常識だと片付けるのか、矛盾が出ているのだから格差の是正をするというのが当たり前だという常識を持つのか。
「格差はどこにもあるもんだ」という常識を「そりゃそうだ」とその常識を受け入れるだけではだめだということだ。

【2008年】
昨日、洗濯物を干していたら西よりの少し強い風が吹きました。春一番には少し弱い風でしたが温かくなりました。こうも日中は風もなくて暖かでした。
でも、すぐに春!とはならないようで、もうひと雪ぐらいありそうです。
明日は夏生さんの新刊が出ます!!
勇み足だろうとはわかっているのですが、明日は土曜ということもあるのでもしや今日にも書店へ?と。。。やはり勇み足でした。。。。

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】
以下、5年ほど前に書いた感想ですが、今、アラブ世界(西アジア)が混沌としています。石油という資源による莫大な資金が集まるがその富は一部の王族や独裁的政権煮に集中する。その石油という利権にアメリカを中心にした先進国や旧ソビエトが介入といっても良い力を及ぼし時にはカイライ政権というような権力ができる。ここには民主主義とかいうようなものでは済まされない経済的なエゴイズムもあるだろう。だから王政だろうが独裁であろうが関係なく利権政治は支持をされ、先進国の利権という国益に西アジアは翻弄される。しかしそれはアラブ・西アジアの主権の問題であり、自国民の民意がどのように反映されるかにある。
同時にその自国民の意識は宗教に大きくかかわる。反キリスト教でもあり、しかし実際に大きな力を見せているのはキリスト教国の力である。
宗教は難しいものがあります。アラブ世界の多くがそしてキリスト教もそうかもしれませんが、一神教の中での絶対的な神ですから、八百万の神々(自然神)の中に無意識にも生きる日本人には理解できにくい宗教観でもあり、その激しさにいたっては理解しづらいものがある。
100年ほど前の明治の世に村田先生はトルコに行く。そこには神がいて日本の神が村田先生についてやってくる。ある意味宗教とは?と問うようなファンタジーではないかと思います。また、日本人の八百万の神々の世界にあるなんともいえないのんびりしたものを感じます。梨木さんの宗教観はわかりませんが、アラブ世界の宗教観を知るといったことではなく、神々と人間を考えるということは今の情勢でも意義あることかと思い感想を転載します。
僕は角川文庫で読みました。関連本としてのこの作品に先立って書かれた「家守綺譚」もすばらしいファンタジーの世界です。


村田エフェンディ滞土録
                 角川文庫
               梨木 香歩  著
エフェンディとは、日本語で言えば「先生」である。
村田先生のトルコ滞在記。。。
「先生」とは、もちろん人々からの尊敬をこめた称号のようなものである。しかし「先生」という言葉の中には、たとえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」にある教師クシャミ「先生」といったようなどこか太平の世に生息するのんきさを感じる意味合いもある。クシャミ先生を観察する猫はどうもクシャミ先生より賢そうである。哲学的である。鸚鵡(オウム)が「友よ」「いよいよ革命だ」とわめく。。。エフェンディ村田よりどうもこのオウムのほうが賢そうでもあり哲学的である。「家守綺譚」の綿貫征四郎より賢そうな飼い犬「ゴロウ」のように。
そんなエフェンディ村田の物語。
オスマントルコ帝国といえば、世界史で広大な領土を誇った世界地図をうっすらと思います。そんなオスマントルコは徐々に崩壊をしていく。この辺の歴史については、ウィキペディア「オスマン帝国」「青年トルコ人運動」同「革命」を読ませていただきました。そして参考にさせていただきました。
そんなトルコ(土耳古)に、村田は明治政府を通じて土耳古皇帝の招きで歴史文化研究のために滞在していた。218ページに、村田が帰国後7,8年たった年に「土耳古青年党完全勝利」(1908年の青年トルコ人革命か)との記載があることから、村田がトルコに滞在したのは1900年前後のことだろう。日本は明治の代で明治33年前後ということになる。帰国後の1904(明治37)年には日露戦争が起きているはずである。そして世界は、1914年の第一次世界大戦へと向かっていく。トルコはドイツに近づき、日本は日英同盟の中で参戦する。
この作品には、このようなトルコの中に見る政治的背景があるものと思われ、「青年トルコ人運動」の地下組織が見える。しかし作品自体は、梨木さん特有なファンタジー性の強い作品であり、揺れ動くトルコ社会の中にあって村田は翻弄されながらも不思議な世界を見、日本との違いが大きい風土の中にものを考える。
今を生きる僕にとっては、トルコは遠い地であり、時代は100年も前の遠い過去の時代。村田は考古学をやりにトルコに行っていたが、今の僕にとっては、この作品自体が考古学の中で発掘されて目に見えたもののような物語である。
横道にある敷石は、昔の城壁の石だという。そこにはときよりこの城壁の前に立っていた古の衛兵の影のようなものが現れるという。
僕にとってのこの作品のファンタジー性は、影のような衛兵を見るようなものなのかもしれない。
トルコのスタンブールには体臭に似た町のにおいがあるという。日本の町にないと村田は思うが、自分の体臭はわからないものだと。。。
異文化の中のそれぞれの人々。。。。
しかしその体臭とは何か?
現実の臭いとして香辛料の香りとか独特な臭いを連想できそうだが、同時にそれは、人種の坩堝といわれるような東西の文化や民族が集まりそれぞれが個性的に生きる社会の臭いでもあるのではないか。
多くの民族が集まる中には必ず多様な宗教がある。
キリスト教徒は日曜の礼拝に行く。回教徒は礼拝の時間を持つ。村田は思う。日本人は仏教徒であるのかと。しかし仏教ととはいえ知識もそれ以上に宗教心があるのかと。今の時代の日本人を見ても、生まれてからしばらくは氏神様のお世話になり、結婚式ではキリスト教の牧師のお世話になる。そしてあの世に行くとなれば寺のお坊さんのお世話になる。そして日常は無神論者である。
トルコに生息する村田は心もとない。
この作品は、神々の物語でもあるのである。それがファンタジー性だろう。
この神々は、それぞれにおいてその民族の唯一絶対の神といってもよいだろう。一神教の世界である。
トルコに多くの民族が集まるなら、そこには多くの神々が集まる。村田はこの神々とのかかわりを持つ。そこに日本の狐の神も入ってくる。
村田は、日本人である自分を見つめて、「もっと自分というものを押し出していかねばならぬ」と気炎を吐き、そのことを日本に持ち帰ることを考えるが、「どうも私はその任に適当でないようだ」と心細くなる。(62ページ)
しかし、キリスト教信者も回教徒はもちろんだが、村田をはじめとした日本人にも心にあるものはある。
日本人のそれが何かといえば、八百万の神々というようなある種の自然信仰に近いものではないか?「家守綺譚」にある綿貫征四郎の、あの自然に溶け込むような自然信仰。それは、恐れでもあるが抱かれるような安らぎでもある。仏教もこの日本人特有の自然観に馴染んでいったのではないか。 ヨーロッパやトルコに見る一神教に対する多神教。自然の恵みをそして恐れを見る中での現世利益。日本人が持ってきた狐の神は商売の神であると思うが、そこに日本人の独特な宗教観があり、それは今の時代でいえばエコノミックアニマル的なものをも負の意味合いとして暗示するが。
一神教は、どこか積極性や猛進性を見ることができるが、多神教は、どこかのんびりしたようで自然体である。日本人の宗教観それは人生観や行動を規定するだろうが、それが村田「先生」の心に心細さや心もとないものをわき起こすのではないか?
はじめに漱石の「吾輩は猫である」を紹介しましたが、この日本人の心細さや心もとない心を見つめたのが漱石でもあり、西洋化の中で日本人らしさを見つめたのが漱石です。その日本人らしさは、イギリスで「お前は中国人か」と聞かれ多くの日本人が憤慨をするという変なプライドではなく、「昔からいろいろな文化や思想を教えてくれた中国人に間違われたのは光栄ではないか」(正確な引用ではありません)といったような冷静な目での視点です。
「春になったら苺を摘みに」というエッセイへの感想に、
「梨木さんの作品には、外国人が出てくる。
梨木さんがイギリスに行って外国人として生活をするのとは反対に、外国人が日本という風土と生活様式に入ってきている。
この異文化の中での外国人。。。。
ある意味では、梨木さんが客観的な目で日本というものを見つめているのかもしれない。」
と、書きましたが、梨木さんがどのような視点で日本人をそして日本人である自分を見つめなければならないかを常に葛藤をしている姿を今回の作品や関連する「家守綺譚」においても見ることができるのではないでしょうか?
多分、日本人はこうあるべきだといった断定的な結論はお書きでないと思います。しかし、そこにある平和主義は見ることができるのではないか?
それぞれの民族の神々は、村田の部屋で折り合いが悪いのか騒ぎ出す。しかし村田の一喝で騒ぎも収まる。神々は自分の持分を持つものなのか?神々は落ち着くが、それぞれの神を信仰する人間は第一次世界大戦へと突き進む。トルコでの村田の友人たちは戦火に倒れる。大きな歴史に残る社会の流れの中に個人はいつか忘れ去られるようの死んでいく。神そして国家とは。。。。。
「私は人間だ。およそ人間にかかわることで私に無縁なことはひとつもない」
国家は人が作ったものである。しかしその国家が名もなき者の運命を変えていく。人と人との無限にそして複雑に絡み合う糸は、人をひきつけあう。民族を超えて神を超えてつながらなくてはならない。
多神教でなくてもいい。互いの神外を尊敬しあおう。人はまだ完成されていない。その発展を見よう。民族を超えて、神を超えて。。。。

【2012年】
1,2度店の従業員がお客に土下座して謝っている様子を見たことがある。
何が原因でこういういきさつになったのかはもちろんわからないが、だいたい店の従業員と客とのトラブルですから土下座までして謝るようなことではないでしょう。この現象は従業員ときゃという関係に置いて現れるもので、もちろん従業員より客の方が立場が強いわけですから、この土下座関係が生じるわけです。
店の従業員が何かしらのミスをして客に迷惑をかけたとはいえそれを基に土下座をして謝らせるのは見苦しいし人権問題にもつながるのではないかと思います。
このような土下座的な人と人との関係は、いろいろな面で出ているのではないでしょうか。
また煙草の話になりますが、合法的な喫煙に対して増税による禁煙を求めたり、全面禁煙にしない病院は診療報酬をカットしたりしようとし、ひどい場合には喫煙者は医者にしないなどという論法もあるようです。また分煙では不十分だと言いつつも煙草の廃止は言わない。このようなものも喫煙者や喫煙者や非喫煙者を保護するために分煙を進めるような人へのある意味の「土下座しろ」なわけです。
こういった土下座の論法が政治の世界までにゆくと強権政治になる。
議論や論理よりも人と人との関係にないにおいての力関係が優先をさせる。もちろん政治はいろいろな勢力の力関係で動くこと自体は否定をしない。しかしその力関係は議論や論理の対等な関係においての力関係でなければならないのです。客と従業員は力関係においては従業員が弱い立場にありそこに議論や論理は働かないで土下座になる。これはもう力関係ではなくなり上下関係に人が落ち込んでいることになる。

【2013年】
こちらの本の紹介が面白かった。
なぜ仕事がなくなるか?これは雇用の消失という事でもあります。
なぜこのようなことが起きているかについては、「ではいったい仕事はどこへいってしまったのだろう?この問題に対して専門家は、景気循環説、停滯説、雇用の喪失説の3つの説をあげている。」と。
景気循環説と停滞説は経済の循環をどこから見るかという違いで同じ事を言っているにすぎないでしょう。問題なのは雇用の喪失説です。
なぜ生産性が高くなると雇用が減るか? 「社会実験」
労働の生産性が高まれば労働の軽減化がされるし労働時間の短縮にもなる。。。。こういう発想の転換による社会システムが必要でしょう。労働から解放された時間は芸術や趣味やそしてもしかしたら手作りの価値あるものをつくりだすかもしれません。

【2014年】
輸出産業に有利なように円安誘導(歓迎)を行えば、日本は輸入大国でもありますから輸入品が高くなり輸出産業が不振ならば貿易赤字が拡大する。
国内の消費を伸ばそうとすれば輸入品も増加をするわけですから輸入高が拡大をして、日本国籍の輸出産業の商品を買おうとすればその輸出産業はすでに海外生産を強めているわけですから逆輸入となりやはり輸入が増える。
消費増税は消費を押さえますから輸入品も少なくなり貿易赤字は減る。。。それは国民の貧困化に結びつく。
皮肉な経済運営となっています。
まさにアリ地獄でしょう。
そこでこの実体経済から離れた株・金融市場というものに経済の利益は移行をする。
NISAも始まり国民自体が株や金融商品に手を出せば、その分消費に回る金は少なくなる。もちろん企業も設備投資よりも金融投資に金を集める。しかし日本の株も外国の投資化により売り相場になればすぐに株価もへたる。売り腰は日本の資金が海外に逃げていくということでしょう。日本自体も円安による貨幣量の増加はあるしある程度の物価上昇も出ているわけですが、貨幣量に応じた経済の拡大は望めない。
アリ地獄経済です。。。。

【2015年】
(記事なし)

【2016年】
(記事なし)


【2017年】
ごはんがたくさん残っているから弁当を作ってもらった。
昨夜の夕食の残りものかな?
でも、残り物はないはず。。。。。
では、何が入っているんだろ?
手作り弁当のミステリー。。。。。
外食はもちろん、弁当屋さんでもコンビニでも、「唐揚げ弁当!!♪」とか自分の意思でメニューを決めて食うのですが、手作り弁当はミステリーです。
開けてみて「うん?これは一昨日のおかず。。。。冷凍にしてあったかな?」などと心配しながらも口に運ぶ。
まぁ、酸っぱくもないし。。。。などと少し気にしながらのサスペンス。

アベノミクス・日銀量的緩和によるインフレを起こして経済の好循環をつくるという経済対策は失敗に終わった。経済の好循環を通じてそれが過熱した場合にはインフレが起きるが、量的金融緩和でインフレを起こして経済が好循環となるというのは逆立ちをしているわけですから失敗に終わるのは経済の法則性である。
そこでまたシムズ理論なるものが現れた。
金融緩和だけではインフレは起こせなかったから政府の財政支出(これには経済が好転していない中での像是は無理であり、国債の発行は不可欠)によりインフレを起こして経済の好循環を行う。そして財政支出分(国債の更なる発行分)は増税ではなくてインフレにより国の借金を減らすという。
以前から超インフレになれば国の借金は帳消しといった論理もありましたが。
財政支出と言っても今の政府を見れば公共投資と株価維持のためのものでしょう。
これでは国民に墓へはまわってこないでまた企業の内部留保を増やし株価維持により投資家の利益に消えてしまうでしょう。そこでもバブルに近いインフレ傾向が出るかもしれませんが、それはさらなる格差の拡大にしかなりません。そして今現在のアベノミクスの失敗と同じ失敗を繰り返して貨幣価値の落ちた中でのデフレとなるでしょう。このデフレは矛盾がさらに大きくなったものとしてあらわれます。インフレではない悪性の物価高があらわになり、国民生活は壊滅的な打撃を受ける。
国の借金はインフレで帳消しになっても国民生活は奈落の底に落とされる。
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