夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「2月 9日という日」

2017年02月09日 08時34分56秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2004年】
この前の土曜日に作った石焼ビビンバは好評でした。
3カップ米を炊いて作ったのですが、子供たちがほとんど食べてしまいました。僕は遠慮気味で食べ、帰宅の遅くなった妻の分はほとんどありませんでした。
石鍋の代用品すき焼き鍋は正解でした。よい焦げ目がつきました。
作り方は簡単で、ごま油を多めにひいたすき焼き鍋をよく熱してそこにご飯を入れ、少しご飯に焦げ目がついてきたら火を弱め、その上にスーパーで買ってきたビビンバの具とキムチを乗せ、さらにご飯によい焦げ目がついたら卵の黄身だけを乗せます。火を強めにしてご飯がパチパチとこげる音をしたら鍋を火から下ろします。熱々のうちに豆板醤を乗せて後はおこげを剥ぎながらよくかき回して出来上がり。
プルコギは、キャベツ・たまねぎ・にら・もやし、そして牛肉を塩コショウで軽くいためます。用意しておいたタレ(おろしニンニク・長ネギとキムチのみじん切り・豆板醤・砂糖・しょうゆを合わせたもの)をごま油をひいた別のフライパンに入れて火を通します。そこに先ほど軽く炒めた肉と野菜を入れて少しいためて出来上がり。この味でいいのか?まあ、夕螺家特製プルコギです(笑)
江國香織さんの「こうばしい日々」を一気に読み終わりました。

【2005年】
(記事なし)

【2006年】
来た風北風の強い寒い一日でした。
最近スーパーんー家庭用品売り場に聞いたこともない見たこともないメーカーの電化製品がおいてある。たぶん韓国や中国あたりで生産されているものだろうと思う。韓国や中国の会社が作っているのか、その国で現地生産をして作られて輸入されたのかはわからないが、すごく安い!!
でも安いが買ってみようかという気にはならない。
僕の中に、まだ日本製は安くて品質が良いという神話が残っているのかもしれない。もちろんたんに神話ではなくてその技術力は世界のトップレベルにあるわけだから、その意味での安心感はもちろんある。
しかし。。。
我が家で使っているコーヒーメーカーは、そのスーパーで安く買ってきたどこの国で作られたものかわからない製品である。なんと1000円。たしかにデザイン面では劣るがもう2年も使っているが壊れない。まだまだ2,3年は使えるのではないか?
こう見ると、安い価格をみて、何年ぐらい使えればいいかぁと計算すれば、あんがい無名なメーカーの電化製品でも良いのではないかと思う。
高いトースターを買ってもデザインなんかは我が家のごちゃごちゃしたダイニングにはどうでも良いものであり、トースターとしてパンさえ焼けるなら十分で、いろいろな料理などできなくてもいい。こう見ればやはり安くて2,3年持てばいいと思えてくる。
テレビも同じで、あと何年かすれば地上波デジタルに切り替わるわけで、もしテレビが壊れたらつなぎにすごく安いテレビでいいわけだ。どっちにしろ100万もするようなでかいテレビを置くところもないし、必要もない。地上波デジタルの見れる安いテレビが出てくることを祈る。
国際化国際化といわれているが、我が家の電化製品を見ると生産国はどこだかわからないが、日本の有名メーカーばかりである。やはり僕の中にある神話なのだろうと思う。ある電化製品を買い、たしかに長持ちをするがマイコンのスイッチパネルが壊れれば1万2万の金がかかる。3回ほど交換するならその金で新しいものを買える計算だ。ある程度の機能があれば安物でいいわけである。
スーパーの片隅や安売り量販店のチェックをしてみよう。
たしかに日本の企業に頑張ってもらわなければならないご時世だが、庶民生活に密着したものは、メーカー名は日本でも中国などで現地生産をしたものを輸入している物がいろいろな製品であるわけで、それを頑張って買ったとしても日本国内の雇用にもつながらないわけで、そんな意味で庶民は国際的になってメーカー名のこだわりから離れないと。。。でも、外国の会社のものは日本の流通に入りにくいのかな?

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
昨日書いたゴミの問題で思い出しましたが、イタリアでは処分場が減らされて町にゴミが氾濫しているようですね。東京も人事ではないようです。
いろいろリサイクルが始まっていますが、もう一度考え直さねば。。。。
でも、発泡スチロール製の皿をリサイクルに出すには洗わなければならないが、潜在の消費や水の消費は増えるわけでして。。。。
いらに心配でしょうか?
車で安売り店に行って来ました。
ありとあらゆる種類のものが売られていますが、結局買いたいものがありませんでした。あれだけの品数と種類はあるにもかかわらず、大量に売れないものは?
実はシステム手帳を買いに行ったのですが、システム手帳というのはそうは数が出ないからかも知れない。
帰り道新しく出来た住宅展示場が有ったので暇つぶしによってみました。
いやぁ。。。。新しい家というのはいいもんですなぁ。。。。。。

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】
夏生さんの「輝き」というCDを今日手にしました。
1月30日にこのCDを発売するにあたってのみにコンサートとサイン会がありましたので六本木のツタヤに電話予約をしていたのですが、家族がインフルエンザになってしまい行けなくなり今日受け取りに行ってきました。
CDですから記事のジャンルとしては「音楽」の記事となるのですが、僕は音楽というよりもその歌詞(詩)に興味があるので「本・文学」に。
「輝き」「夕空」「アイスコーヒー」の3曲が入っています。
アイスコーヒーの氷がだんだん解けていけば
コップのふちの透明な湖の中に
この店もこの街も
どんどん吸い込まれていく、ほら
      (「アイスコーヒー」より)
たくさん話をした。いつしかアイスコーヒーの氷も溶けて水滴の中にすべてが吸い込まれる。君の言葉も僕の言葉も。。。。別れの歌です。恋や愛は束縛が。自由であることの別れ。
夏生さんらしい歌詞ではないかと思います。
こんな二人の出会いが「輝き」でしょうか。
思い出に今日がならないように
明日からもずっと一緒にいよう
と。
これからカーナビで聞きながら買い物に行ってきます。

【2012年】
菅前総理がその辞任する前に「脱原発への方向性」を打ち出した。しかし民主党内は菅総理の私的な発言だとか思いつきの発言だとしてこの「脱原発の方向性」は民主党内から消えてしまったように見える。
しかし今の野田政権でも脱原発という言葉は使わないまでも「原発に依存しない社会」という形では残っているだろう。もちろん原発の耐用年数を40年だ60年だとして再稼働に力を入れているが。
たしかに今すぐに原発は停止をして廃炉へ向かうべきなのだが、現在の情勢としてはやはり「脱原発への方向性」にとどまっているというのが現実でしょう。
では、この「脱原発への方向性」がどのように進んでいるかを見ると、上の書いたように政治上でも原発に依存しない社会という形で再稼働を行いながらも積極的な原発推進はすでに亡くなっている。少ない勢力だが国会内には脱原発を叫ぶ政党が存在をする。今まで絶対安全だとされていた安全神話は崩れて地方自治体も原発誘致や存続に疑問を持つようになってきている(原発誘致での金をあてにしながらも)。
一方市民の間には原発事故の放射能の影響の深刻さがだんだんと明らかになり、原発の安全性や事故が発生した場合の取り返しのつかない子孫にも影響を与える放射能の質的に違う事故というものが意識されてきている。事故処理にも政府や東電そして保安院などにもその不信感が高まり抗議行動へと向かっている。文化人の間にも10万人集会などが組織されている。再稼働反対の市民行動が強まり、それが自治体にそうは簡単に再稼働を許さない影響を持ち始めている。食品などの影響では市民は風評被害の加害者とも受け取れるようないやがらせにもかかわらずより安全な食品を選ぶようになっている。脱原発の国民投票というような形での市民の意思が表明されてきている。
政財官による原発維持の政策は続いているが、それは国民と対立せざるを得ないものとなってきているのではないか。
このように見ると「脱原発への方向性」は現実としては進んできているのではないかと思う。
しかしこの「脱原発への方向性」は政府や市民の声というものではない根底を流れる経済がそこに向かわざるを得ないことも見なくてはならないだろう。
原発産業というものが存在をするが、原発での電力は今回のような事故が発生をした場合に賠償などを含めてラバ層は安い発電設備ではないことが明らかになりつつあります。またそこに自然災害への備えを新たに施す試算をすることによりコストは高くなるでしょう。輸出もありますが、原発産業自体が斜陽に向かうしかありません。その反面として太陽光発電などの自然エネルギーの活用が一つの産業を生みつつあるのではないでしょうか。経済活動は、企業の利潤目的に進みますが、自然エネルギーが一つの産業となるにつれてそこに資金が集まります。技術革新による生産性の向上は企業間競争として進みます。より安く効率的な発電がおこなわれていくでしょう。
原発が止まることによる電力不足のキャンペーンが行われていますが、それは原発の再稼働には向かわずに経済は節電・省エネの方向性を一つの利潤目的にします。企業は節電による利潤を得ます。太陽光発電が企業イメージの象徴ともなり自家発電は進むでしょう。市民の中にも節電や省エネが一つのステータスとなり、暑さや寒さへの備えを電力に頼らないものを導入していくでしょう。その中に技術革新でより安く効率的名は自然エネルギーを求めるようになるでしょう。住宅や家電などに始まっている太陽光発電や節電そして節電のための建材などが進むでしょう。このような節電や省エネそして自然エネルギーの活用の普及は経済活動をして行われる中に企業優先の政府はそこにテコ入れをするでしょう。
このような経済活動による「脱原発への方向性」は広く行き渡ってきていることも確かでしょう。
たしかに不十分さは言えばたくさんあると思いますが、この「脱原発への方向性」を常に見て行かねばならないと思います。そうすれば脱原発の実現へ向けてどのような国民運動が必要になるかが市民運動や政策の中身方向性を与えるのではないかと思います。ここの人々がすべてにかかわることはできない。その個々の運動一つひとつが大切なわけです。しかしその個々に人々が自分がやっていることだけが正しいなどと狭い運動に入り込むのは間違いです。社会全体の中の個々の人々が行っていることが相乗的な脱原発への道を広げるでしょう。
しかし脱原発だけを考えたものではありえないわけです。
格差社会や税のもんだそして政治の問題など、そういったものの矛盾の中に原発問題もあることを忘れてはならないでしょう。原発問題が民主的な議論ではなくてやらせ問題に見るようなひどいやり方で行われる。それは今の社会問題すべてみみることができないか、その視点での民主主義の在り方にぶつかるはずです。
さまざまな角度から関連付けて考えて行きましょう。

【2013年】
今朝のツイートのまとめです。

除染危険手当の不払い情報放置 環境省、詳しく調べず - 朝日新聞デジタル http://t.co/0RJepotJ 国は業者名を公表しない方針。しかしこれでは正常な競争が否定され今の賃下げ競争の反映に。これから公共事業を増やそうというならしっかりとした対応をしておくことが必要
汚染水、処理後に海へ放出 東電「合意得ながら」 - MSN産経ニュース http://t.co/LaI3gyXa この汚染水の問題もそうですが、いったん事故が起きたとき、たとえば消防車が行って火事を沈下鎮火するといった程度の安全性を確保できないならそれは原発の安全性とは言えない。
ある工場が火事になり消防車が行って鎮火した。工場の火災といったものは少なくはできるが絶対起こらないようにはできない。原発も同じで絶対事故は起こらないという事はできない。工場の火災と原発事故の汚染、このリスクの違い(事故の質が全然違う)から見ても脱原発しかないでしょう。
人類の未来のために核エネルギーを放棄してはならないという意見もある。ならばまずは核兵器を廃絶することという人による社会的な核の管理ができなければならないでしょう。原発という核の使用の技術だけではなくて最悪の事故が起きたときの対処面での安全性が必要でしょう。放棄したくないなら。
「最悪の事故が起きたときの対処面」というのは、今の規制員会が検討しているような避難の仕方、ベントのフィルターなどといったような次元の問題ではないでしょう。
核への技術面ばかりに目が行きますが、人類は核兵器を作り人類の存亡にもかかわることでもそれを根絶できない。原発の存在そのものそして事故時にも私企業の利益が優先するというものを脱却できない。核への対処ができる社会的な発展も遅れているわけです。
こんな状態で『人類の未来のために核エネルギーを放棄してはならない』なんて胸を張って言うべきではない。
福島の原発事故の安全神話とその後の政府の動き、そしてそれを踏まえた総選挙の結果(集団的自衛権や中国との関係悪化など)。。。。これ一つ見ても今の先進国という国がいかに社会システムとして未発達か(過去への回帰)が見えるだろう。

戦前の前史も含めて社会党の役割は現実的政治に対するものとしては社会改良にあったと思います。もちろん社会主義政党でしたから社会主義を目指す運動が基本にありましたが、その運動自体も社会改良を通して国民の支持を得るそして国民の政治意識が高まるというものだったと思います。ですから戦後政治での自民党とのある二大政党の中での社会党の存在価値の基本は社会改良にあったと思います。
戦後の日本の発展は、経済成長という形をとることができましたが、それが自民党と財界の成果としてだけに見てはならず、自民党政治の暴走に歯止めをかけながらそして労働運動と連携しながら労働者の生活の向上を行い、市民運動などとの連携では様々な民主主義を守る運動を展開した。こうした社会党の存在により経済成長の成果を国民生活に反映できたという面も強いと思います。
もちろん社会党はずっと野党ですから自民党の多数の中でその政策をどのくらい実現できたかといえば力足らずのところもありましたし、自民党との相互の妥協の産物という実際の政治には足りないものも多くあったと思います。そしてその妥協にも間違いがなかったかといえばそうではないでしょう。しかし上にも書いたように社会党の存在は国民生活や日本の民主主義に大きな役割を残したと思います。
社会党は解党して民主党へ多く流れて行き、残ったのが社民党でした。議席数は激減しました。
民主党への流れは、万年野党批判や反対ばかりの党で責任を持たないといったような批判そして総評の政策要求には多数派とならねばならいという事からの流れでした。しかし現実としては今回の民主党の失敗を見れば社会党の解党は間違いだったと思います。残った社民党も政権を問った民主党のマニフェストには「国民の生活が第一」という政策がありましたしそこへの連立という形で社民党らしさも出ていたと思います。議席数を減らした社民党の限界もあったわけですが、社民党も社会党の社会改良を社会民主主義という立場から考える政党として残っていると思います。社会党以上に厳しい条件の中での社会改良です。
しかしこの社民党の社会改良の位置づけはまだ正しさを残しています。
社会改良の必要性、自民党や民主党の保守二大政党の中での保守の暴走に対してなおさらその必要性が増していると思います。
今、様々な社会の矛盾が噴出しています。原発事故や経済的格差、平和の問題など多くの人々がその矛盾を感じています。しかし国民の中には原発は許せないが経済的政策は自民党がいいとか様々な意識によってばらばらなとらえ方にあると思います。しかし本来は原発問題も経済問題もその矛盾の根っこは同じなはずです。社会党時代はこのような様々な意識がある中で一つの勢力としての世論作りの核があったと思います。それが二大政党においての社会党でもあったと思います。今は社民党の力も弱まりその核を見つけにくくなっている時代ですが、それを早急に作らないと生活も大変なことになるでしょう。いろいろな意識の違いがありますが、平和や民主主義そしてその基礎となる護憲の中から一つひとつの矛盾を見つめていくという作業が必要でしょう。そうすればある一定の勢力となるでしょう。国民が望めばそのような政党はできてくるという事もあります。
今は自民の圧倒的な力がありますが、やはり国民の声としての賃上げを無視できるかといえば無視はできません。世論としての賃上げの必要性が一定の勢力として存在するわけです。

【2014年】
(記事なし)

【2015年】
(記事なし)

【2016年】
(記事なし)
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