夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「7月15日という日」

2017年07月15日 08時25分11秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2004年】
昨夜行ったラーメン屋さんのつけ麺はおいしかったです。
少し濃い目のラーメンの汁にきざみ海苔をふった麺。スープはちょうどよい濃さで、具は普通のラーメンの具でした。
以前自宅近くのラーメン屋さんでつけ麺を食べたのですが、ここのはスープが普通のラーメンと同じ濃さのスープで、なんだか生ぬるいラーメンを食べた気分でした。
この次期の楽しみ、冷やし中華とともに、あのラーメン屋さんのつけ麺も加わり楽しみが増えました。
スズちゃん(ハムスター)がゲリゲリです。。。。
急に暑くなり夏ばてかな?

【2005年】
「パレード」
         平凡社
         川上 弘美  著
「物語を書きおえてしまった後、わたしはふと考えたりするわけです。」
「初夏のある日、ツキコさんとセンセイは、この本に書いてあるような日を過ごしたかもしれません。」
                       (以上「あとがき」より引用)
ツキコさんとセンセイの物語「センセイの鞄」は、年の離れたセンセイが死んでしまい空っぽのセンセイの鞄が一つツキコさんに残されます。センセイがいつも持ち歩いていた鞄、いろいろな物を入れていた鞄。。。。過ぎ去った時間はすべて過去となって消えてしまいます。
川上さんにとっても、「センセイの鞄」というひとつの物語がひとつの世界として思い出になってしまうのであり、その思い出としてセンセイやツキコさんを思い出すと書いています。
空っぽになった先生の鞄には思い出はいっぱい詰まっているのでしょうね。。。ツキコさんにも、そして川上さんにも。
ツキコさんとセンセイは、二人でソーメンをゆでます。
センセイは生姜をすったり、ねぎやミョウガをきざみ、茹でナスを作ったりしておいしそうな薬味を作ります。ツキコさんが茹で上がったそうめんを大雑把に器に入れようとしたら、センセイが丁寧に一口大にソーメンをつまんでまとめながら器にきれいに並べます。
満腹になったツキコさんとセンセイは昼寝。。。。
そんな「センセイの鞄」には書かれていなかったセンセイとツキコさんのある一日の時間がのどかに流れていきます。この雰囲気は「センセイの鞄」に描かれた同じ世界です。
川上さんは、「センセイの鞄」というひとつの作品を出版して、時間の流れの中にか異なり思い出となったこの作品をふと思い出し、センセイとツキコさんという二人の恋を思い出す。そしてそんな二人にこんな夏の一日もあったのだろうと空想したのでしょう。
これは、読者にも「センセイの鞄」という作品の余韻というものを与えてくれます。
しかし川上さんは、「センセイの鞄」という作品の余韻というものだけを思ったのではないでしょう。
川上さんにとってはすでに過去の時間に残された作品であり、ツキコさんにとっては死んでしまったセンセイも過去となってそこに過去の時間の中だけに残された人である。時間の流れ。。。。
残された空っぽの先生の鞄には、川上さんにとっては「センセイの鞄」という作品自体の思い出であり、ツキコさんにとってはセンセイの思い出だけなのである。そこには、時間が流れ去った後の今しか残っていないのである。
時間の流れという切なさがあります。
この時間の流れを意識したかのように、昼寝から覚めた先生は、ツキコさんの手を握って「昔の話をしてください」と言います。
ツキコさんは子供の頃を語り始めますが、この作品自体は、このツキコさんの昔の話が主として書かれます。ですからこの作品は、単に「センセイの鞄」の番外編というような作品ではなく、ツキコさんの昔話というものを題材としたひとつの独立した作品でもあります。70ページほどの挿絵の入った絵本のような本です。
しかし、独立した作品という中の主題こそが、先生の「昔の話をしてください」という言葉にある時間の流れなのだと思う。川上さんにとっての「センセイの鞄」の余韻、もしツキコさんが夏の日の一日を思い出したとしたらそのセンセイの余韻。読者にとってもセンセイが死んでしまったとういうラストシーンの余韻でもあり、その余韻を共通項としてはじめてこの「パレード」という作品のよさが理解できるのではないか。
もしこの作品を読んで、「センセイの鞄」の物語的な面での続編と期待したり、続編になぜ多くのツキコさんの思い出話だけなのか?と、そればかりを読んだとしたらこの作品は相当つまらないものとなるだろう。
ツキコさんの昔の話は、女の子同士のいじめを題材にし、ある日突然現れてツキコさんにくっついて歩く二人のというのか「天狗」が現れる、いじめられている同じクラスの女の子を見て病気になってしまう。ツキコさんはその女の子を救ってはあげられない。救ってあげたいけど自分もかわいいので何もできない。天狗は、ツキコさんの悲しいこんな気持ちによって病気になってしまうのだろう。
その女の子は、自分といると同じようにいじめられるから離れて歩いてもいいよと言う。ツキコさんは恥ずかしくなる。そんな元気な女の子を見た天狗も元気になっていく。
天狗というのは、心が大きく動いているときに現れるのかもしれない。そしてその心の動きが自分で制御できないところに現れるのだろう。女の子同士のいじめというのはひとつの題材でしょう。その題材からツキコさんの制御不能となった大きく揺れる心を書き表したのかもしれない。そして時間が過ぎていく間には大きな心の動きも過去になって天狗も消える。時間が過ぎる中に自分の心も落ち着き場所を取り戻し天狗も消えていくのかもしれない。
ツキコさんは、今では女の子の声も天狗の声も覚えていないという。
ツキコさんのお母さんにも天狗が付いていたという。いつごろまで付いていたのかと聞いたら「ひみつ」。。。
ツキコさんに天狗がいつまで付いたかはセンセイにも「ひみつ」。。。
ツキコさんにとっては、センセイと過ごす時間の中には天狗は必要なかったのかもしれない。心が揺れ動くような恋から日常の中にある幸せ感にはもう揺れ動く心はない。落ち着いた制御できる心にある。そして死んでしまったセンセイを思い出すことは、この心の動きはなお一層純化されるのだろう。
センセイは優しい声だったというのは覚えてはいるが具体的な声はもうどんなだったかは残っていないのである。
センセイは、ツキコさんに昔の話をしてというが、その中には、「私のほうが先に死んでしまいますよ。私も昔の話の中に生きるしかないのです」と言いたげです。
空っぽの鞄は、何もしゃべってはくれない。ツキコさんは、先生の優しい言葉を思い出すがその声自体は聞こえないのである。
しかしセンセイはツキコさんの心の中に多くのものを残したのです。同時に川上さんにとっても「センセイの鞄」という作品は忘れえぬ作品となったのでしょう。そんな作品だからこそ読者の心の中にも深い刻みを残すのです。
大げさな言葉の羅列ではなく、生きるの死ぬのというドラマなどはない恋。「パレード」の夏の日に一日を思い起こすような二人の恋と日常の生活。ここに心の穏やかさがあります。これを読まされたら、読者にも天狗は現れないでしょう。。。。
川上さんは、やはり「あとがき」の中で、
「作者も知らなかった。物語の背後にある世界。そんなものを思いながら、本書を作りました。」と書いている。
「センセイの鞄」を執筆した当時は、素敵な恋を描いたのかもしれない。しかしこの物語を川上さん自身が思い出として思い描いたとき、恋の物語としての二人の心の動きは当然にあるが、こうして思い出したときには、二人で酒を飲み、退屈なおデートをしたり、先生の部屋で過ごしたり、先生のなくなった奥さんの墓参りをしたり、そして「パレード」の中のように一緒見そうめんを食って昼寝をしたりという日常が背後にはあるのではないかと思う。過ぎ去った時間の中では思い出すことというものなどはこんなものである。
「センセイの鞄」の感想では、今まで読んだ作品のような不思議な世界が少なくなっていると書きましたが、ツキコさんと同じような天狗がいたというお母さんの「ひみつ」という言葉や、ゆき子さんの先生への「ひみつ」という言葉が川上さんの作風としても気になります。
川上さんの作品には、その不思議な世界に激しい心の動きが読み取れます。そのような作品に対して「センセイの鞄」の平凡さというのか日常性というのか。。。。心の激しさを感じさせないものがあります。
日常そのもののとらえ方でしょうか?作品上においても川上さんから天狗が消えたように思います。
どう解釈したらよいのか難しい作品でした。
だいぶ個人的な思い込みの多い感想となってしまい、的外れでは?という気持ちが離れません。いろいろな方の感想を時間があったら読ませていただこうとおもいまし、再読しながらもう一度考えたいです。
2005年7月18日 わかりにくい感想だったので多くを書き加えました。
(今度もそうは分かりやすいとはいえないけど。。。)
僕にはこれ以上に伝えることができません。

先日行った湯津上村や馬頭町より少し上流にある黒羽町に行きました。
那珂川も流れの音が聞こえるほどに山の中の川という風情が出てきます。
<城址山公園と芭蕉の館>
黒羽は、関東から東北へ抜ける交通の要所でもあったようで、松尾芭蕉も黒羽に立ち寄ったそうです。いくつかの句碑が残っています。町で作られた芭蕉の館が、町から少しはずれた黒羽城址の小高い山の中にあります。城址は公園となっていました。
公園には紫陽花がきれいに咲いていました。整備された公園というところではなく、小高い山の傾斜に一面咲いていました。自然の中の紫陽花の花という感じがとてもよかったです。城址を廻る感じで遊歩道もありゆっくりと探索できました。
その遊歩道の途中に芭蕉の館という美術館があります。
芭蕉の「奥の細道」の紹介と、黒羽で読まれた句を写真とともに展示してありました。黒羽藩の紹介が主となる美術館であるようで、芭蕉関係は少なかったです。ちょっと期待はずれ。。。
立派な美術館です。。。
城址公園は、紅葉の季節も楽しいかもしれません。
<雲巌寺>
黒羽町の町から那珂川の支流をしばらく遡った所にある古刹です。
ここまで来るともう山の中です。静けさの中に門前のせせらぎの音が気持ちよかったです。一度焼けてしまったそうですが、再建されて今でも荘厳さのあるお寺でした。
こちらにも芭蕉が立ち寄ったそうで句碑が残されています。
「木啄も 庵は破らず 夏木立」
数百年の古木が立ち並んでいました。
今回は時間がなくて2箇所しか廻れませんでしたが、縄文の遺跡だったか?もありますのでまた行きたいと思います。これといって感動するような場所ではありませんでしたが、芭蕉の旅を思い、静けさの中の古刹を味わい、心静かに黒羽を後にしました。

昨夜行ったラーメン屋さんのつけ麺はおいしかったです。
少し濃い目のラーメンの汁にきざみ海苔をふった麺。スープはちょうどよい濃さで、具は普通のラーメンの具でした。
以前自宅近くのラーメン屋さんでつけ麺を食べたのですが、ここのはスープが普通のラーメンと同じ濃さのスープで、なんだか生ぬるいラーメンを食べた気分でした。
この次期の楽しみ、冷やし中華とともに、あのラーメン屋さんのつけ麺も加わり楽しみが増えました。
スズちゃん(ハムスター)がゲリゲリです。。。。
急に暑くなり夏ばてかな?

【2006年】
今日も暑かったです。朝から30度もあったそうで、最高気温37度?
娘はやはり僕の遺伝子を引き継いでいるらしい。夏になり今日のように熱いと食欲が出てくる。最近の食いっぷりには驚きます。まぁ、女の子とはいえ食い盛りですからなぁ。。。
やっと梅雨も終わりに近づいてきたようですが、この梅雨という時期もある意味本格的な夏になる前の季節の変わり目です。この季節の変わり目というのがだめで、体調を壊してしまう。夏本番。。。好きです!!ハハハ。。。暑いけどね♪
今日も雷雨のようでしたが、雷雨が来るほどに梅雨晴れですね。
秋の訪れにも雷雨が。冬の雷というのもあるし、雷雨というのは、季節感あふれるからこそなのかな?
外を歩いてコーヒーショップに入った。
汗をかいた体に心地よい冷房。しかし10分もすると汗も引き始めてぞくっとする。暑さ本番とはいえ薄い上着は手放せません。
タンクトップというのか?若い女性が肩から上がほとんど裸状態で歩いていますが、やはり冷房のきいた電車の中ではぞくっとするようです。僕が年をとったというだけでぞくっとするのではないようです。
冷房をゆるくすると、外から中に入ったばかりの人や暑がりには物足りないでしょうが、ずっと中にいる者や冷え性には体にこたえます。冷房というのも難しいものですね。

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
今日はやたらと
駅のホームで立ち食いする女性を見た
ハンバーガー。。。。
おにぎり。。。。。
栄養スナックというのかな。。。。
電車の中でというのはもうだいぶ見慣れてきたが
今度は駅のホームでの立ち食い。。。
これもファッションなのか
自分らしさの表現なのか。。。。

今日(15日)の朝日新聞に「消費税論議 気迫込めよ」という論説が載せられていた。
消費税論議はどこから始めるべきかがまず必要だろう。
日本をギリシャ化してはならぬ、借金依存度は先進国で最悪、毎年新たに40兆円の借金、出口調査では2人に1人は消費税10%やむなし、社会保障建て直し、国民に安心を、成長にやさしい財政健全化。。。。。
これらの言葉が並べられているなか、これを読めばなるほどと思ってしまうだろう。
しかしこの「なるほど」の中身といえば何もわかっていない。というのか積極的に知らされていないというのが実情だろう。今の国家財政などの危機を並べられて「なるほど」となるのではなく、まずは借金の具体的な中身がどうなっており、国家財政の支出の中身がどうなっているのか、社会保障費のためとはいうがなぜに社会保障費が膨らまざるを得ないのかなど、さまざまな視点から今の社会を見直さなければ気迫のこもった消費税論議とはならずに、現象面だけを見た薄っぺらな論議になるのではないか?
借金問題は、まずはどこからいくら借りてどのくらいの利率で返しているのかをはっきりさせるというのがまず第一にやらねばならないことだろう。国も借金は、国債という形をとる。毎年40兆円もの金を国に貸し付ける大金持ちは誰で、その大金持ちは外国人なのか日本人なのか?あるいは郵便貯金や年金の積立金から幅広く間接的に国民が貸し付けているのか?企業が死に金にならないように国債という形で内部留保しているのか。まずはここがはっきりしないでは借金整理のフリダシにも立てないはずである。
このことがはっきりした中で、国債の返還にどのくらいの利率でいくら支払っているかが問題である。国債を返還するためにまた新たな借金をするなどという自転車操業になっていないか、あるいは、その利率が0金利時代の今べらぼうな率になっていないかも問題である。
こういうことがしっかり知らされている中での国民意識としての「10%やむなし」なのだろうか?ここが一番大切だろう。
社会保障費を確保するためとはいうが、国家財政はある意味国民相互間の所得の再配分という役割をする。この国民とは個人もあれば企業も株主もなどの不労所得者も入る。いろいろな個人的な職業もある。このどこかに金が吹き貯まっていてそれを市場という中でうまく配分できないときに国家財政の支出というものが大きな役割をして所得の再配分を行う。こう考えると国家予算は、ある意味社会保障費なのである。
社会保障費を少なくして国家予算を身軽にするには、何が必要か?同じ15日付の朝日新聞6面には、「最低賃金が生活保護費以下 2県増え12都道府県」という記事がある。ワーキングプアーという言葉が一般化して久しいが、このような賃金の実態が問題なのである。低賃金化は当然にして所得税を減らすだろう。失業、派遣労働、季節労働、パートやバイト。。。。。このような低賃金化は、中流といわれるそうにも浸透をしてくる。この流れの中でのリストラ経済が株価を支えている面がないだろうか?格差の拡大は進む。子供手当てなどというバラまきが必要になってくる。個人消費を維持させるために。。。。消費税論議は経済学の問題でもある。
消費税率のアップと経済成長の両立。。。。上に書いた実態の中にそのような夢物語を語れる状態なのだろうか?経済成長をますます増長された格差社会に求める。これが本音ではないか?そこで貧しいなら貧しいなりに相互扶助をしろという消費税問題がいわれるわけである。企業が労働力の消費に対して(給与)消費税は支払わない理由もここにあるのではないか?
消費税論議を始める。。。。。まずは消費税論議はどこから始めるべきかなのではないか?

【2011年】
アメリカが保有するヨーロッパの核の撤去に向け協議を始めるという。
核兵器の削減は以前から叫ばれてきましたし、一定の核削減がアメリカとロシアの間で行われてきた。しかし核の削減はそうは簡単なものではなかった。しかしここにきてアメリカの経済の悪化はこのままでは債務不履行になる恐れも出てきたりこれまでタブーとさえされていた3Aの格下げも言われ始めている。アメリカは自国の政策の中において財政再建は急務になっている。この経済情勢の中で格が重い負担となってきており削減に踏み切る議論がされるようである。
アメリカにとっては戦略核の優位性は崩してはならないものであったが、それでも経済的な理由による合理性は受け入れる。合理性というのは正義とかというものではなくて(もちろんこれは悲しいことです)経済を土台とした中での分析からくるも現れるものである。その合理性に対して議論の中から認めていくという方向転換はアメリカを評価すべきだろう。
村上春樹さんが文学賞授賞式で「原発」といわないで「核」という言葉を使いましたが、原発問題も核の問題なわけです。日本もこの核の問題に今四苦八苦しているわけです。しかしこの議論や方向性となると合理的に考えるというものが少なく、不毛な管おろしや姑息な原発温存を言う。
日本人はどうも変な誤った誇りの高さというのか「俺の顔に泥を塗った」的な合理性に欠けるものがある。そこに議論ではない根回しやそこからの多数派工作を良しとしてしまう。
アメリカにも批判すべきことはたくさんあるだろうが、一度矛盾が出ると合理的に解決をする。大企業トップだからといえども安心はできない。それが一つのアメリカ型の民主主義でもある。合理的に考えること、民主主義がアメリカの誇りなのだろう。

【2012年】
民間の低賃金化の中で公務員は高い賃金を受け取っているとして怒れ!と扇動することで何が生まれるだろうか?公務員賃金が下がったとしてその民間の実態がどう変わるのだろうか?ただ現在進んでいる中間層の低賃金化を扇動しているだけである。低賃金はなぜか、どう見るかを考えるべきである。
このような扇動を政治家が行うようになると大変だ。民間が年収400万で公務員が700万としても、政治家はこの400万という年収をどう見るかをまず考えるべきだ。この400万で社会を支える労働者が十分な生活ができるというのならそこで初めて700万を問題にすべき。
格差社会が広がると、この格差の中で賃金などの高いか低いかを只その金額だけで比較してしまう。そうすると当然格差是正は中間層の低下となる。そうではないのである。格差自体がなぜ広がってしまったかの格差そのもののシステムを見るべきなのだ。それが政治家だろう。
だいたい格差を金額の比較だけで見る人々は、公務員がどうのというところには目を向けるが、社会のシステム全体の格差を見ない。アメリカなどの格差反対は、1%と99%を問題にしている。その中で政策にも富裕層の増税というものも出る。民間労働者を低賃金に押し込み我慢をしろと扇動するだけでは。
1%の富裕層というが、その家族や近い年収を得る人々の家族も含めれば、10%と90%の格差でしょう。その90%の中に中間層もいて低所得層もいる。低所得層をどうにかしなければならないとして中間層への税や低賃金化などを強化するというのが今の社会である。それが自助・共助である。
社会保障は、自助・共助・公助というが、それには限界がある。どうしても10%の人々を考えなければならない。同時にこの10%の人々はその富を企業活動に依拠している。だから当然企業の社会的役割を考えた「企(業)助」とも言えるものを導入しなければならないだろう。それは雇用・賃金・雇用形態
アメリカは寄付社会が根強くてまだ良心のかけらが残っているし、チップという労働に対する感謝の気持ちも残っている。日本はどうだろう。原発の立地の市町村には色のついた寄付はあるが。。。。「ツリはいらねぇ~よ」という金持ちも少なくなり、逆に「お前の態度が悪い」と怒りまくることも。
脱原発・再稼働反対。。。消費増税反対。。。TPP反対。。。首切り(貧困化)反対。。。基地反対。。。それぞれには根拠がある。その根拠から反対の声は大きくなる。その一つ一つの声はバラバラに起きているようであるが、だんだんとそれらの声には根っこがあることに気づく。生活実態の怒りなのだ。
国民みんなが貧しいなら生活実態(貧困)を改善しようと国は一丸となれる。しかし一方における生活実態の悪化と、一方における富裕層の生活(企業活動の儲けからの)があり、国がこの富裕層(企業)を守ろうとすることだけで動くから国民はその生活実態(貧困)に怒りを持つのだ。民主主義を意識する。
自民党から民主党への政権交代は、反自民党・自民党政権打倒という政局からのものではなくて、生活実態(貧困化)そして政治主導という民主主義を求める国民の意思の結果なのである。今の野田政権への怒りも政局での倒閣を求めるのではない。
生活実態・民主主義を無視する野田政権を民主党内の民主主義に依拠をした今の政治の方向転換を求めているのである。国民は。民主党内の方向転換が国民の声を大切にして野田政権を否定するのである。これが議会制民主主義でしょう。野田政権の「決める政治」が民主主義ではない。白紙委任状は渡してない
白紙委任状を渡していないというのが、再稼働反対のデモである。消費増税や反貧困化の声である。国民の権利なのです。
「国民の生活が第一」この民主党党外と党内の結集が必要でしょう。そして自民党政権(政策)には戻れないということを基本に。
もちろん自民党だって国民生活が第一と考えている議員の方もいらっしゃるでしょう。しかし同じ国民生活が第一といってもそこに政策の違いがあるわけです。企業を助けてそこからの雇用に依拠するのか、国民生活の向上(格差是正)からの内需に企業活動の再生を行うのか。この政策議論が必要なのです。
野田政権は、自民党と組んで推し進めようとしているのは、企業を助けてそこからの雇用に依拠することです。しかしバブル崩壊後の失敗はここにあったはずです。企業を助けるために雇用形態を悪化させ低所得層を増やした。当然社会保障の負担が増えて財政に影響が出る。

【2013年】
経済成長率はこれまで経済的な発展登場の国が成長し始めたときは高くて、ある程度経済成長が達成され始められれば成長率自体は低くなるというのが自然でしょう。それは先進国の成長率が鈍化して安定成長と言われるようになり、ときにはマイナス成長にも転じる。
今の中国に対しては経済成長率も下がり始めたと言われていますが、やはり世界第2位の経済大国になったという意味において成長率は鈍化するでしょう。
しかしアメリカのリーマンショックというものがあり先進国が軒並み経済不安に陥った時に中国の立ち直りは早かったと言われます。そして7.5%に下がったとはいえある程度の成長は維持されています。
金融経済中心の伸びではなくて実体経済の伸びが大切なわけです。
でも中国もシャドーバンキングといった金融バブルが起きていたとされます。その中で成長率も維持されていた面もあるのでしょうか?
この中で中国のソフトランディングがうまくいくかどうか。。。。。
たしかアメリカは中国の内需を拡大しろと言っていると記憶するのですが、中国自体もこれまでの貿易などの成長から内需を意識した政策をうちたててその内需の拡大から国民生活の格差(農村と都市など)を是正すると言っていると思います。これがうまくできればそれがソフトランディングとなるでしょう。国民全体の豊かさの広がりにも。
中国経済は先進国の常識とは少し違う形での独自性が出てくるかもしれませんし、特に日本のデフレ経済の継続とは違いが出てくるでしょう。日本はアベノミクスに反対するとデフレ論者とレッテルを張られる場合がありますが、本来のデフレ主義者は、企業利益優先のために労働者の賃下げに頼った結果です。ですからある意味アベノミクスがデフレ論者になるかもしれません。デフレ下のインフレ政策、これが通貨安と株式中心の金融政策で終わればそれは当然金融バブルを引き起こすでしょう。
中国もまだまだ発展段階にありますが、膨らんだ経済を抱えている。日本はデフレ下のインフレ政策。アジアが世界経済の通信と鳴ろうとしているときにどちらがより正しい経済政策なのでしょうか。
これは経済成長率が必然的に下がって安定化する先進国の向うべき方向性にあるでしょう。

【2014年】
(記事なし)

【2015年】
(記事なし)

【2016年】
(記事なし)

【2017年】
(記事なし)
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