遊工房・雑感

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2016-09-18 07:56:07 | ただの記事

久子さんの記事を読んでください

私事で言えば

武蔵の父は戦争末期に亡くなりました

そのいきさつは絶対口外するなと命じられ

武蔵の母は何も語らずなくなりましたが

どう考えても 謀殺されたとしか思えないと武蔵は言います

殉職扱いでしたが 警察官でした

その後の武蔵の母の苦労は並大抵ではなく

5人の子供をこの母の故郷で育て上げたのでした


私の話はいろいろ書きましたが

昨日はけんちん汁の話が出ました

私は結婚するまで

けんちん汁は食べたことがありません

例のわがままおやじがいろいろ入っているごった煮は許さなかったからです

田舎にきて

けんちん汁もすみつかれも物凄く賢い食べ物だと感じています


まず東京で戦中戦後を過ごした人は

かぼちゃもサツマイモ嫌いな人が多い

あの飢えとまずさでトラウマなの

だから私は子供時代

家ではサツマイモもカボチャも食べていません

今のはおいしいのよ


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4 コメント

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Unknown (ukiuki)
2016-09-18 11:16:07
戦後は国民みんなが大変でした。
親の苦労は計り知れませんね?
食べ物がない時代だったから、
母は着物や反物を担いで満員列車で小山まで行って、
農家に行っては、お米と交換してました。
断られても、着物をそこに預けて、また後日、そこに伺うという繰り返しだったといっていました。
そのうち何処の家に着物を預けたか判らなくなったり、
あるいは、お米をリックに担いで帰る途中、
大宮駅で検問にあって、全部没収されたとか、
大変な苦労をしていたようです。

私が一番嫌いな食べものは、アメリカ軍が供給してくれる、
給食の脱脂粉乳(ミルク)です。
不味くて、気持ち悪くなるので、良く吐いたことがありました。
Unknown (marsha)
2016-09-18 11:51:19
戦争は悲劇です。政府に騙されて信じていてはダメです。私の父は特高に引っぱられてブタ箱に数日入いれられておりました。日本が戦争に負ける,そんな戦をしてはダメだ、等と知人に云ったを密告されたのでした。

戦時中、戦後の食糧難時代は ホントに酷かったです。配給の食料は殆どなくて お昼は茹でジャガ芋一個とか、そんな物でした。
都会で焼け出されて 岐阜県の山奥に疎開してからは そこで 国民学校に上がりました。 
家の裏の土地を借りて 子供の私でも一生懸命畑を耕して サツマイモ、ビーナッツ、大根、菜っ葉等、裏の小母さんに教わって 種まきをして 農作物を作りました。
肥やしは道路を通る馬車が落とす馬糞をちり取りで掬って持ち帰り 畑に入れていました。
叉、ニワトリを飼って、卵も家でとれるように 計画しました。二十五羽にもなったニワトリの世話は子供の私の仕事でした。鶏小屋から出る鶏糞、これも良い肥料になり畑の作物は上出来でした。
学校から帰ると、直に近所の桑畑に行って桑の葉をカゴにいっぱい取ってきて 二階の蚕部屋の蚕に与えていました。繭になって真綿を取る迄が大仕事でした。
Unknown (marsha)
2016-09-18 13:13:51
カボチャにサツマイモねー。特にオサツは賽の目に切ったのが芋粥、芋ご飯、何にでもオサツが入っていました。胸焼けがするほどサツマイモを食べたので、暫くは食べたくありませんでした。最近のオサツは随分美味しいお芋になっているのに驚きます。それにお値段も高いです。カボチャは昔はベチャベチャの水っぽいカボチャでしたが、最近のは美味しいので,これ又驚きです。
戦中、戦後は芋蔓も 食べたんですよー。それくらい食べる物がありませんでした。 野や林、小川に行っては食べられる物は何でも採ってきました。
連絡 (Unknown)
2016-09-18 16:13:26
Pちゃんが戻って来たからね。
URLが分からないからご挨拶に回れないでいると思うの
私の所から飛んでみてNONです。

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