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Dr.norikoのブログ。自分らしく、楽しく、人生を生きる。一度きりの人生だもの。

大学は家庭の子育てを補完する場所ではない

2017-10-10 | Dr.ノリコ流教育論

こんにちは、勇敢な女・ノリコです。

 

大学でいろいろな学生を見ていると思う。

「なぜ、こうなってしまったのだろうか?」

時にはその親の話を耳にすることもあり、子育ての難しさを痛感する。

 

大学教育と子育てと言われても、ピンとこないかもしれない。でも私は大学業界に長くいて、確信するに至った。

「大学ではもう遅い…」


具体的に詳しくは書けないが、酷い学生は多い。成績が酷いというよりも、社会的なマナーがなっていない。一般的な常識に欠ける。規範意識というものが薄い。自分さえよければいい。自分のしたことは棚にあげて教員に泣きつく。大学という場にいるのに、自ら学ぶ(行動する)意欲がない…。などなど。

改めて並べると、書いているこちらがウツになりそうだ。これは、日本の私立大学の底辺校の話ではない。全体的に見れば比較的上位の私立大学でさえ、こうだ。印象としては年々増えている気がする。

大学に入学する年齢は、日本では早くて18歳。十分に成熟した大人である。私が日頃接する機会のある学生は20歳を越えている学生がほどんどだ。

20歳以上の大人に、一般常識から「教育する」義務が大学にあると私は思えない。こんなことは、少なくとも大学に入る以前に最低限身に付けてしかるべきだし、その役割を担うのは学校教育ではなく、家庭のはずである。


最近は学校教育に何か過度に期待する保護者が増えているのかもしれない。しかし、一般常識やマナー、礼儀、規範意識など社会で生活する上で重要な要素を教えるのは、本来家庭がメインだと私は思っている。家庭での基礎ができている前提で、学校教育でさらにそれらが深まると考える。

であるから、学校教育に勉強以外のことも含めて、すべてを期待するのは筋違いだと思うし、ましてや、高等教育・研究機関である大学に勉学(や研究)以上のことを求められる社会はおかしいと感じている。


例えば大学で勉強ができない学生にその科目(内容)を指導するのは大学の役目の一つだが、やる気がなくて単位を落とす学生への丁寧なケア(精神的なケア、フォローアップ)などは本来の役目から外れている。そのケアは私から見ればとても過保護であり、あるいは過干渉にすら見える。やる気がないのは、学生本人の問題であって、大学が直接関知することではない。成績が悪く留年したり、卒業できないのはその学生の責任であって、大学のせいではない。

(悪質なハラスメントがあれば話は別である。純粋に学業の面でいえば、単位を落とすのは本人にやる気がない、とか単に勉強不足でできなかっただけ)

もっと基本的な話で言えば、挨拶ができない学生に大学が「挨拶するよう教育する」というのはおかしいのだ。礼儀を知らない学生に、懇切丁寧に「指導」しなければ会話すら成り立たないような状況は異常である。カンニングがばれて単位を落とすのは学生の責任なのに、大学を非難するような言動を取る学生が恥知らずなのだ。

 

始めの話に戻ろう。

大学教育と子育てがどうつながるのか?

学生の学業以外の問題点を大学でケア、フォローアップしなければならない状況というのは、幼少期からの子育てが大きく影響を及ぼしているはずである。

18~20歳の大人が、最初からそうであったわけがない。みんな裸で、まっさらな状態で、母のお腹から産まれてくるのだ。(私は性善説を支持している)

自分では生きていけない赤子が、いきなり不遜な20歳になるわけがない。それまでの、特に幼少期の家庭での養育環境(子どもへの関わり方など。ここでは「家庭教育」とする)が学生の性格や言動に影響を及ぼしているであろう。


目上の人、あるいはお世話になる人には挨拶をする。自分の名前を名乗る。嘘をつかない。自分のしたことの責任を他人になすりつけない…。

社会生活を送る上で大切な、基本的なことは家庭教育が重要な柱になって育まれるはずである。

大学という場に対する考え方も、親の影響を受けるだろう。「親が学校教育にすべてお任せ」のスタンスだと、子どもの自分で学ぶ意欲も育たないだろう。自分で学ぶ、そういう風に教育していないのだから。

 

私のそういう考え方を研究室のある先生は「いまに変わる」と言う。「自分の子どもが大きくなればその考え方も変わりますよ」。

いまの大学に、私のような主張は「理想論」であり、それでは大学経営が成り立たないという指摘も受けた。

(そんなことで成り立たない大学ならなくせばいいとすら思っている。日本の大学は数が多すぎるから。無駄な「大卒」を量産しても、今後の競争社会では生き残れないだろうし。医療系学部も同様。資格があるから安泰という時代はもはや終わったと思う)

 

私も出産するまでは、もしかしたら自分のこの、ときに原理主義と捉えられる大学教育への考え方が変わるのかと思っていた。


しかし、出産しても何も変わらなかった。

それどころか、むしろ「自分の子どもをこんな学生たちのような人間に育ててはダメだ!」と決意を新たにした。

 

私の子どもが大学に進学したいと言うかどうかはわからない。したくないならしなくてもいいと思う。好きなことをすればいい。

でも。

挨拶もできない、自分のことしか考えない、一般常識に欠ける、規範意識もない、教養もない…そんな人間には絶対にしたくない。


大学はそれまでの家庭教育、家庭の子育てを補完する場所ではないのだ。

 

学校(もちろん大学も)は子どもにとって重要な場所だが、そこで充実した時間を過ごし、自立して勉学に励めるように、親(保護者)は家庭教育をないがしろにしてはいけないと思う。

幼少期の家庭教育、もっと言えば親子関係は、子どもの人生に大きな影響を及ぼすから。

 

 

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動物園が苦手な子どももいる話

2017-08-09 | Dr.ノリコ流教育論
こんにちは、勇敢な女・ノリコです。

お子さんがいらっしゃるご家庭では、動物園や水族館に子どもを連れて行くことが多々あるかもしれません。

「動物や魚を見せて、興味を持たせよう」「普段目にしないものを見せて良い刺激を与えよう」、そんな風に考える親御さんが多いのではないでしょうか。幼稚園や小学校の遠足で動物園や水族館に行くこともあるでしょう。

親はもちろんのこと、子どもを連れて行こうとする大人に悪意はありません。むしろ子どものためを思って連れて行くことがほとんどでしょう。

しかし、動物園や水族館を苦手とする子どももいるのです。今回はそんなお話です。

「動物園や水族館が苦手な子どもなんているの?」と疑問に思った方はいらっしゃるでしょう。


います。ここに。

私は動物園や水族館が苦手な子どもでした。

多くの子どもは、動物や魚を見て「かわいい」「すごい」「おもしろい」そんな感想を持つのかもしれません。私が持った感想は「かわいそう」でした。

動物園の多くの動物たちは、自分たちの住んでいた土地から人間の都合で見知らぬ土地に連れてこられ、囲いの中に閉じ込められている。見世物にされている。家族や友達と引き離されてしまったのかも。私はそんな風に感じました。だから「かわいそう」だと思ったのです。

動物の生態には興味があります。動物自体は興味深いと思ったのですが、どうしても「人間の都合で見世物にされている」感じがとても居心地が悪いものでした。

私は自分から「動物園に行きたい」と言うことはなくなりました。水族館も同様です。海という広大な生活圏から、小さな水槽に入れられて生活せざるを得ない魚たちを見るのがとてもつらかったです。

動物も魚も、もともと彼らが暮らしていた場所(草原や海など)が快適だったわけではないでしょう。弱肉強食の世界で暮らすのは、それはそれで大変なこともあるはず。

でも彼らが望んだわけでもないのに、人間の都合で「安全で快適な」動物園や水族館に連れてこられ「自由」を制限されている状態を好んで見たいとは思わなかったのです。

そんな私を親は無理に動物園や水族館に連れて行かなかったので感謝しています。

私が子どもの頃のこの感覚は特殊なのでしょうか?

子どもが10人いれば10人の感じ方があります。もし、あまり動物園や水族館に行きたがらないお子さんがいたら理由を聞いてあげて下さい。そしてどんな答えでも否定しないで下さい。

「動物がかわいそうだから、行きたくない」そんなお子さんはきっといると思います。それがその子の感じ方です。

子どもの頃にそんな風に感じていたからといって動物や魚に興味がないわけではありません。

一応述べておきますが、私は動物愛護団体に属しているわけでも、変な自然派でもありません。

すでにご存じだと思いますが革のバッグは大好きですし、肉も魚も大好きで美味しく頂いています。動物から作られたバッグを大切に使っていますし、食べ物は私の血と肉になっています。感謝。

もちろん私自身が子どもの頃に感じた違和感を理由に、自分の子どもにそれを押し付けるつもりはありません。

先月も(夫が好きなので)息子を連れて3人で水族館に行きましたよ。

息子がどう感じるかは息子自身の問題であり、私が「こういう価値観がある」と押し付けるものではありませんから。

動物園や水族館に行くことで、生命に興味を持ってくれるのであれば、親としてそれは嬉しく思います。

ただ、人それぞれ感じ方(価値観、受け取り方)は違うこと、どれが正しいとか間違っているとか、そういう問題ではないということだけは、しっかり自分の子どもに伝えていきたいと思っています。

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マンガで人生が変わるかもしれない

2017-07-02 | Dr.ノリコ流教育論

こんにちは、勇敢な女・ノリコです^^

 

突然ですが、春日局をご存じでしょうか?


誰?


って声が聞こえてきそうです(笑)


知っている方には当たり前なのですが、3代将軍・徳川家光の乳母です。

 

私と春日局の「出会い」は、はるか昔。20数年前にさかのぼります。

小学校3~4年くらいだったと思います。

教室の本棚にひっそりとあった、(正式なタイトルは全然覚えていませんが)いわゆる『マンガ日本の歴史』的な本。

それが、運命の出会いでした。


今考えると、春日局をフィーチャーしている時点でだいぶマニアックな子ども向け歴史マンガだったのですが、私は釘づけになりました。

誰だ、このすごい女性は!?

そう思って、むさぼるように読んでいたのを覚えています。

 

その時から私には「気になる強い女性リスト」ができ、春日局が記念すべき一人目としてリストに名を載せました。

激動の戦乱の世を強く生き抜き、徳川の基礎を作った女性と言っても過言ではありません。

彼女がいなかったら、徳川幕府はあれほど長く続いたかどうかはわかりません。

(徳川幕府時代が良かったかどうかの議論は、棚上げします!)

 

春日局との出会いから、私は激動の時代を強く生きた女性に興味を持つようになりました。

現代に近いところだと、中国・清朝末期の「女帝」として君臨した西太后もずっと気になっている女性です。

 

現代などよりはるかに女性が生きづらかった時代に、強く生きぬくことがどれだけ大変だったことか。

(最近の「女性の生きづらさ」なんて、比較したらたぶん大したことないよ…)

後世では「悪女」と呼ばれている女性でも、本当にそうなのか?という視点で見直してみると、面白いと思いますよ^^

 

私の歴史オタクな面が爆発する文章になってしまいましたが、

結局何を言いたかったかというと、

マンガで人生が変わるかもしれない

ということです。

 

残念ながら私のオタク・エピソードで人生が変わった感は全く伝わっていないと思われますが、

おそらく春日局と出会わなければ、私は女性の生き方を深く考えるような大人にはならなかったと思います。

「女性はどんな時代も強く生きることができる」

そんな風に考える女にはなっていなかったと思います。

そう考えると、教室の片隅に置かれていて誰にも読まれていなかった『マンガ日本の歴史 春日局編』(正式タイトル・出版社等、不詳)は、私にとって人生を変えるほどの影響力を持った本だったと言えます。

 

今となっては誰も信じてくれませんが、私は喘息持ちで病弱な子どもでした。

さらに付け加えると、大人しい子どもでした。

病弱で大人しかったからでしょうか、私は小学校で女子にいじめられていました。


最初は悲しかったし、つらかったけど、そのうちバカらしくなって気にしないようにしました。

その頃から「周りを気にしないで自分がやるべきこと・できることをする」というスタンスが自分の中に生まれた気がします。

そんな多感な時期に強い女性を取り上げたマンガなんて読んだら、影響を受けちゃいますね。

小さい、くだらないこと(当時は小学生女子の嫉妬からくるイジメ)を気にしない。

そんなことにかまけている暇はないというか、そんな小さいことを気にしてもしょうがない、というか。

強い女性になろうという決意。

(いまでも「芯のある、凛とした、強い女性」を目指しています。本当だよ~)

 

 

もっとわかりやすい例をあげます。

手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』を読んで、医師を志す人もいるでしょう。

天才的な外科技術で、多くの苦しんでいる患者を救いたい!と思う人もいるはず。

実際、それで医師になれば、その人にとって『ブラック・ジャック』は「人生を変えたマンガ」になります。

 

マンガがどれほど影響力が強いか、伝わりましたか?^^

 

「マンガばっかり読んで…」とお嘆きの親御さんもいらっしゃるかもしれませんが、良質なマンガであれば、ぜひたくさん読ませてあげてくださいね。

何がひとりの人間の人生を変えるか、わかりませんから。

 

 

 

前回からのマンガ推しの話でした(笑)

(参考記事:マンガは高度な思考力を育てる最強のツール

 
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マンガは高度な思考力を育てる最強のツール

2017-06-28 | Dr.ノリコ流教育論

こんにちは、勇敢な女・ノリコです^^

 

皆さん、マンガはお好きですか?

私は大好きです☆

子どもの頃からマンガばかり読んでいる(笑)

大人になってもやめられなーい^ - ^

 

子どもにマンガを読ませることを躊躇しているご家庭が多いのかどうかはわかりませんが、

マンガはそんなに悪いものじゃないよ

とお伝えしたいと思います。

 

その主な理由

1.読解力を必要とされる

2.思考力が身に着く

 

こう書くと面白みが全くないので、私の中学生の頃の話と浦沢直樹先生の名作『MONSTER』を交えて書いていきたいと思います。

 

私が中学生の頃、ある同級生Sちゃんと読書の話になりました。

私が源氏物語を想定して「光源氏」と発言したのに、アイドルの「光GENJI」だと思ったらしいSちゃんには大いに笑わせてもらいました。

 

その時点でだいぶ噛み合っていないのですが、なぜそんな流れになったのでしょう、私が「何か貸そうか?」という問いかけることになりました。

そのSちゃんから「本を読みたいけれど読めない」と返ってきました。

 

(なるほど、本を読みなれていないから長い文章が苦手なのかな。じゃあ、マンガなら大丈夫かな、絵もあるし!)

 

私「マンガならどう?面白いの、いっぱいあるよ!」(ニコニコ)

 

Sちゃん「え?マンガ?マンガも読めない」

 

読めない?

マンガを読めない??

読めないってどういうこと????

 

ハテナマークが頭上を駆け巡りました。

そう、マンガすら読めないという衝撃の告白でした。

普通の本は読めない、マンガも読めない…彼女は一体何の本なら読めるのでしょうか?

(Sちゃんが今何をしているかは全く知りませんが、彼女は学校の勉強はできなかったと記憶しています。)

 

この事件で、私は悟りました。

(私にとってはかなりの事件でした…)

 

家庭で本を読む習慣がない子どもは、マンガすらも読めなくなるのだ、と。

 

本を読まないと読解力は身につかないでしょう。

読解力がないと本を読めないでしょう。

「卵が先か、鶏が先か」…どちらかかはわかりませんが

本を読む ⇔ 読解力

は相互に強く関係し合っていることに間違いはありません。

 

マンガを読むことができるとは、ある程度の読解力がある、との証なのだと痛感しました。

 

次に思考力が身に着くとはどういうことか。

ここで『MONSTER』の登場です。

すでに古い作品なので、読んだことがある人もいらっしゃるでしょう。

読んだことがない方のために、ストーリーに触れることはやめておきますが、この作品を一言で表現すると

 

深い!!

 

です。

ざっくりしすぎですね…(笑)

 

なぜ深いのかは、読めばわかると思いますが、ものすごく考えさせられるテーマがちりばめられています。

 

私が『MONSTER』を読んで思い浮かんだテーマを簡単にいくつか挙げておくと、

・子どもの発達心理

・「名前」があること(「名前」を呼ばれること)の重要性

です。

読んだことがある人には「なるほど~」と思って頂きたいところなのですが、皆さんうなづいて下さったでしょうか?笑

 

特に「名前」に関しては、すごく哲学的というか…うん、深いよね、と当時関心しながら読みました。

(いろいろとざっくりしすぎ…笑)

 

「名前のない怪物」。怖いけれど、とても哀しい。

 

最後の「本当の怪物は誰?」という問いは、何だか本当に悲しい気持ちになったのを覚えています。

一体誰が悪かったのか?

「彼」が被害者ではなかったのか?

 

などなど、読了後まで様々な視点から考えさせられるテーマや問いが多い作品だと思います。

 

「たかがマンガと侮るべからず」なのです。


広げようとしたら、いくらでも広げて考えることができる優れたマンガは日本には他にもたくさんあります。

 

知らない人はいないであろう、手塚治虫先生の 『ブラック・ジャック』は、医療倫理や生命倫理を考える上でも、とても難しいテーマを扱っていると思います。

例えば、

「無免許だけど必ず治す医師」と「免許はあるけれど絶対失敗するヤブ医者」のどちらに診てもらいたいですか?

人の命を救うことが絶対に正しい医療なのでしょうか?

こんな風に問われたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか。

 

 

ということで、私はめちゃくちゃマンガ推しです。

マンガを読める子は

・知的好奇心がある

・自分で考える力を持っている

と考えています。

 

マンガの国・JAPANでマンガを教育に利用しない手はないでしょう。

 

優れたマンガ作品を題材にディスカッションさせるというのも楽しい教育だと思うわ、私(笑)

MONSTER 完全版(ビッグコミックススペシャル) 全9巻セット
浦沢 直樹
小学館
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歴史を学ばないものに、きっと未来はない。

2017-06-26 | Dr.ノリコ流教育論

こんにちは、勇敢な女・ノリコです。

先日録画していたある番組を観ていて、泣けてきました。

満州への開拓団、敗戦、シベリア抑留…激動の時代を生きて、家族を失ったり、大変な思いをしてきた先人がいることを改めて知ると、ただ泣ける…(私は涙もろいのです)。

自分の夫が、妻が、息子が、娘が…。

 

つらい。

 

そんな簡単な一言で表すのは失礼な気もしますが、戦争の時代を知らない世代の私たちには適切にその感情を表す語彙がないように思われます。

もちろん、国として当時の日本が諸外国に行った行為は正当化されるわけではありませんが、名もなき一般の日本人も大変につらい思いを経験しているのは事実でしょう。

 

さて、今回は戦争の是非を話したいわけでも、日本は酷いことをしたんだぞー、なんて話をしたいわけでもありません。

 

では、なぜそんな話から始めたかというと、

過去を学ばないものには未来がない

と思うからです。

 

同じ敗戦国としては旧西ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏のこの言葉が有名です。

「過去に目を閉ざす者は現在においても盲目になる」。

"Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart."

(→原文はこちらより抜粋:ドイツ語

 

私、この言葉に中学生だったか高校生の頃に感銘を受けました。

政治の話をしたいわけではありません。

何事も、歴史を学ばないもの(=過去に目を閉ざす者)は現状も、将来も、しっかり見ることができないのではないか。

そんな風に思うわけです。

 

歴史は連続性があるものです。

今の私たちは点の上に立っているわけではなく、昔から続く線の上に立って生きているのだと思います。

 

最初の話に戻れば、ただ「敗戦の混乱やシベリア抑留でつらい思いをした多くの日本人がいる」だけではなく、なぜそういうことが起こってしまったのか、その時何か別の道はなかったのか、国際情勢はどのようなものだったのか、など知ろうと思えばいくらでも「歴史」があります。様々な視点からの「過去」があります。たくさん学ぶことがあります。

そういう歴史や過去を学んでこそ、今の自分たちを真剣に、時には冷静に捉えることができるのではないでしょうか。 

(特に科学技術の利用に関しては、歴史をもっと学ぶ必要があるのではないか…と思うことがよくあります。)

 

最近は、古いものを軽視して、何でも新しい価値観やモノの方がいい!というような風潮を感じることがあります。

でも、「新しい」技術や価値観は突然ポッと現れたわけではなく、過去があってこそなのです。

「新しい」ものにも欠点や問題点はあるでしょう。

過去をしっかりと見ることができないと、その「新しい」ものの欠点や問題に気づかないかもしれません。改善案も解決策も検討がつかないかもしれません。

 

「古いから」「昔のものだから」と言ってないがしろにし、捨てていってしまうと、本当に大切なものが残らないかもしれません。

 

何だか途中から抽象的になってしまった気がします。すみません。

読み手の皆さんがいろいろと考えるきっかけになれば幸いです。

 

 

 

 

 

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