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ナポレオン帝政の矛盾

2017-04-20 04:15:42 | 日記
ジャコバン派が革命防衛のために採用したギロチン断罪による「恐怖政治」が足元を崩して、フランス革命が急転して終幕に向かいました。
 ジャコバン派が打倒された後、国民公会は解散され、1795年10月5人の執政官からなる執政官政府が成立しました。しかし、この政府は安定した支配をかちとることができずに、次第に軍部への依存を強めていきました。

 そして、フランス革命軍で功績をあげ信望を得ていたナポレオンが1799年11月、クーデターで執政官政府を倒し、ナポレオン中心の専制政治を樹立、1804年には、皇帝となってフランスを帝政の国にします。

 このナポレオン帝政でナポレオンが行った戦争は紛れもない侵略戦争ですが、同時にヨーロッパにフランス式の反封建的民主主義を持ち込む役割をはたしたのです。とくにナポレオン法典というのは、徹底した資本主義の立場で経済立法や民法をつくったものでその後の世界で長く模範とされました。
 自分の本国で共和制をひっくり返したナポレオンが、封建制が根強く残っている他国へ出てゆくと、反封建的な変革の推進者とならざるを得なかったのです。だから、ドイツでもナポレオンに占領されたライン地方は、その後、ドイツのなかでも一番政治的にすすんだ地域に変化してゆきました。
 ヨーロッパ連合軍がナポレオンを打ち破って、ナポレオン時代を終わらせたあとのヨーロッパは、形の上では各国がみんな王政に戻りますが、社会の中身はすっかり変わっていたのです。フランス革命を通じて19世紀のヨーロッパの新しい条件がつくりだされていったのです。

 フランス革命って、史的唯物論を絵に描いたようにすすんできてほんとおもしろいですね。マルクスは革命は、民衆が蜂起しつつ政治を変えていったフランス革命のような発展をするものだとする革命観をずっともっていて、そこから抜け出すのに20年かかったといわれていますが、どのような変遷をたどっていったのか、まだ学習できておらず今後の課題です。 
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