彼岸花
おばんでがんす
また今年も彼岸花の季節になった
毎年毎年律儀に咲く、人間はとても毎年と言う訳にはゆかない.義理を欠きご無沙汰をして一年を過ごすことが多い
せめて自分だけはそうした事が無い様にと配慮してもそれでも不義理をする処ができてしまう
家族にも親戚にもそしてご近所や友人知人にも不義理をしない様にきちんとしたお付き合いが出来るために一生懸命に働く
若しも義理もお付き合いもしなくてよいのなら何でも出来るしどんな遊びでも出来る
それでも勤めれば勤め先の付き合いがあり、商売をすれば商売の付き合いがある、ルンペンにもルンペンの付き合いや
仁義がある、そうした付き合いをきちんと律儀にする花たちは立派だ
田圃の畔を飾る彼岸花の群落は年年4多く成り密度が増して来る、それに伴いカメラマンや見物人も増える
場所によっては其の色合いが随分と違う、毒々しい赤が少し鼻つまみになって、死人花とか言われる
田圃の畔を額縁の様に飾る赤い花が凄い存在感を出している
一寸ぽんぽこ狸が立っているような形の此の石は地元で大事にされている道祖神様だ、
古人がなんとなくそれらしい形の石だと、合力してここに安置した素朴な神様だ
水路の縁を彩る彼岸花が延々と続く、少し湿気が有る処が好きなこの花には好適地なのだろう
鱗雲に成り掛けの雲と、紅葉前の成熟しきった雑木林の木の葉濃い鶯茶緑(うぐいすちゃろく)そして黄金の稲穂に合う
秋の空をバックに映える真紅の花はいまは盛りと咲いている、昔飢饉のときはこの球根を水にさらして毒を抜き食べたと言う
救荒作物なのである、いよいよ食べ物がない時は大丈夫なのだろうか???
この派手派手な花に隠れる様に何度も刈り取られても芽を出して咲く野花が咲いている
元の証拠
役立たずの代表ホントクタデ
藍の様に染料にもならぬ、本蓼の様に薬草にもならず、犬蓼の様に苦みも無い、何の役にもならない害草で、ポンツクが転訛
して「本当のぽんつく」、、、、ホントクタデ、となったと言う
蘭を思わせる紫露草
こうして他所のヒガンバナを見てワクワクしながら撮影してくると、我が家にもこんな良い撮影ポイントがあった
大日如来様の境内だ、もう植えてから三年目の開花である、大分込み合って来た来年は席無しに増えるだろう
見ざる聞かざる言わざるの三猿をお祀りした、庚申様の社だ、花に埋まってなかなかの風情だ
毎年毎年繰り返される、こうした風景が見られて楽しめることこそが幸せなのだろう
多くの経験の上に立ってこうした事が楽しめる心境になり、そうした物事が見える自分にとても感動している
そんじゃあまたはなすべえ
遊童子
特に、道祖神のヒガンバナの切り取り方が良いですね
店も前にも、申し訳なさそうに咲いいますが、いつもの味気ない建物より、季節が過ぎてゆくのが分り、近所のおじさんに感謝しています
大日如来様もヒガンバナに埋め尽くされそう
赤い洪水が目に飛び込んできました。律儀に秋の彼岸時分になるといきなり穂が出てきて葉も無いのに真っ赤な燃えるような色合いが緑に映えて、青空にも似合い、心を射止める花ですね。
こちらでは彼岸も過ぎてそろそろ色あせてきた株が多くなってきました。
お馴染みの野草たちも元気ですね!
<橙>
こめんとありがとうございます
何時もの場所でいつもの構図でいつもの花、いかんなあ
全く進歩がない
然し彼岸花は年年その生息範囲を拡大し、密度を
増やしています
その微妙に変化しているところがまたうアレしくて性懲りも無く撮影してしまいます
年年歳歳、感動に敏感ではなくなり新しい題材の
発見や発掘ができなくなり,じれんまに陥っている
何かを求める心が希薄になってきたのかもしれない
眉毛を湿して今日からさらに挑戦したい
では又
こめんとありがとうございます
どうしてあれほどの赤が表現できるのか不思議だ
生えている場所だって決して良い場所ではない
田んぼの土手であったり、荒れ地で有ったりしている
でも突然出てきた蕾はぐんぐん伸びて来てあっという間に咲く、その透明感を持った咲き始めは例えようがない
市内の南部から榛名山中腹まで一か月も楽しめる
一年分をしっかり堪能しておこうっと
では又