♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

庄原市:(旧口北村戦歿者)慰霊碑

2023年08月09日 08時05分56秒 | 軍都広島関連等
庄原市口和町(くちわちょう)向泉に建立されている「(旧口北村)戦歿者慰霊碑」です。
※1964年の比婆郡口和町時代に旧口北村戦没者慰霊碑が役場が見える処に建立されました。
〔1955年4月1日比婆郡口南(こうなん)村+口北(くちきた)村=口和村発足。〕
〔1960年4月1日町制施行で口和町となりました。〕
〔2005年比婆郡全町などが庄原市と合併して新しい庄原市が発足しています。〕

台座に“慰霊の辞”が刻まれています。
なかなかの名文ですが、撰文者はわかりませんでした。
ここでは前半分を紹介します。















































































































































































































































(裕編集の)(旧口北村戦歿者)慰霊碑

8月9日長崎原爆忌
(安芸区わが家付近)天候:くもり
29.6℃、70%の

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安芸高田市:八千代町戦没者慰霊碑

2023年07月04日 08時39分16秒 | 軍都広島関連等
「戦歿者慰霊碑」+「芳名碑」+「芳名碑」(裏面に碑文)


安芸高田市八千代町下根に建立されている「(八千代町)戦歿者慰霊碑」です。
※1977年の高田郡八千代町時代に遺族会などによって建立されました。
〔2004年高田郡六町が合併して安芸高田市が発足ています。〕

※北清事変より大東亜戦争終結までの各戦役において、本町内の軍人、軍属、動員学徒の戦死・戦傷病死者並びに原爆犠牲者の御霊を合祀して、永久の御冥福を祈る
昭和五十二年八月建之
八千代町遺族会、軍恩八千代支会、八千代町内有志


昨日紹介した原爆慰霊碑が建立されるまではこの碑が原爆死没者慰霊碑も兼ねていました。

(裕編集の)八千代町戦没者慰霊碑

7月4日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
25.5℃、79%

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東広島市:(榊山八幡神社)旌忠碑

2023年04月13日 07時23分21秒 | 軍都広島関連等
東広島市安芸津町三津の榊山八幡神社境内に建立されている「(賀茂郡)三津町旌忠碑」です。

※題揮毫:元帥陸軍大將正二位勲一等功一級伯爵 奥保鞏(1847-1930)。
※撰文:陸軍少將正五位勲二等功四級 梅田岩樹(1872-1939)。
※建立:大正10年10月。

碑文から
この旌忠碑建立の大正10(1921)年(賀茂郡)三津町は、900戸で4,500人余りが住んでいました。
この碑は、明治大正時代の戦役へ従軍した248名の爲の旌忠碑のようです。
明治大正の戦役とは六戦役のことで、東洋の平和、世界人道擁護の爲の戦役だったと云っているようです。


(裕編集の)(榊山八幡神社)旌忠碑

4月13日(安芸区のわが家付近)ウグイス初鳴き
天候:はれ 14.0℃、49%

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中区:廣島陸軍幼年學校跡

2023年01月19日 09時35分52秒 | 軍都広島関連等
中区基町のRCC中国放送北側緑地帯に(わずかに)残されている「廣島陸軍幼年學校跡」です。

陸軍幼年学校は、
陸軍の中堅将校を育成する目的で、満13・14歳の少年を入校させ、3年間基礎的な教育訓練をした学校です。
卒業後は、陸軍士官学校を経て将校になりました。
体格検査と学科試験で選抜され、制服の襟に金星のマークがつけられたことから「星の生徒」と云われていたそうです。

現在は、この門柱だけが廣島陸軍幼年學校の残り香をわずかにとどめていますが、
2006年までは、(陸軍幼年学校)炊事室が遺っていましたが解体されてしまいました。

(裕編集の)廣島陸軍幼年學校跡

2023年1月19日(安芸区のわが家付近)天候:はれ、曇ってきた
(洗濯不可日和で15:00部屋干しへ)
8.8℃、58%

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中区:部隊跡記念樹碑(ノモンハン事件参加部隊跡碑)

2023年01月18日 09時20分35秒 | 軍都広島関連等
中区基町の広島城堀・北側緑地帯に建立されている「部隊跡記念樹碑(ノモンハン事件参加部隊跡碑)」です。

ノモンハン事件:1939(昭和14)年5月~9月
満州とモンゴルの国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争事件です。
1939(昭和14)年5月12日モンゴル人民軍(外モンゴル軍)がノモンハンからハルハ川を越えて満洲軍と衝突する事件が勃発付近のハイラルに駐留していた関東軍第23師団が処理要項に従って出撃、外モンゴル軍を退却させたが、ソ連軍がモンゴル側の援軍に駆けつけ、反撃に出た。
日本は関東軍1万5千名などを動員したが、8月ソ連空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受けた日本軍の損害は大きく、全兵力約5万6000人のうち8440人戦死、死傷率は30%を超えた(特に第23師団1万5000人の死傷者は実に1万2000人弱、死傷率は75%を上回り、壊滅した)。


(後側の建物:広島市立基町高等学校)


(裕編集の) 部隊跡記念樹碑(ノモンハン事件参加部隊跡碑)

2023年1月18日(安芸区のわが家付近)天候:はれ、曇り
10.3℃、61%

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中区:軍馬之碑

2023年01月17日 08時47分15秒 | 軍都広島関連等
中区基町の広島城堀・北側緑地帯に建立されている「軍馬之碑」です。

軍馬之碑は、
当初昭和8(1933)年10月野砲兵第五聯隊将兵一同が建立。
原爆惨禍を経た昭和37(1962)年8月に山吹会一同で復元されたものです。


2021年暮れ久しぶりに撮影し頁を更新しました。
(裕編集の)軍馬之碑

2023年1月17日(安芸区のわが家付近)天候:くもり、はれ
8.5℃、57%

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庄原市:(旧・山内北村)忠魂碑

2022年10月25日 08時55分05秒 | 軍都広島関連等
広島県庄原市川手町庄原市北自治振興センター前に建立されている「(旧・山内北村)忠魂碑」です。
※現在の庄原市北自治振興センターの地は、旧山内北村の役場があった処です。
※この忠魂碑は大正15年10月建立です。

NETを見て知ったこの(旧・山内北村)忠魂碑でしたが、
刻まれた文字が薄くなっておりわたしには読めなく祀られている方々のお名前、その数はわからなかったのです。
戦後77年、現・庄原市の遺族会の資料には記録が残っているとは思うのですが、NET検索したのですが、現在庄原市遺族会は活動をしていないようでした。


撮影した時、旧庄原町の碑だと思っていたのですが、
玉垣に帝國在郷軍人會山内北村分會と刻まれていましたので、
旧山内北村の忠魂碑ということがわかりました。
続けて旧山内北村の地図をみると
この忠魂碑が建立されているこの地が旧山内北村の役場があった処だったことが分かったのです。

(裕編集の)(旧・山内北村)忠魂碑

10月25日(安芸区のわが家付近)天候:(雨上がりの)はれ
17.1℃、55%

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庄原市:(旧・庄原町川手沖地区)忠魂碑

2022年10月24日 08時06分56秒 | 軍都広島関連等
広島県庄原市川手町の‘沖の町バス停’根際に建立されている「(旧・庄原町川手沖地区)忠魂碑」です。

お祀りされている二名のお名前がなんとか読めないかと思いましたがわたしには読めませんでした。
於 日清戰役 ■陸軍輜重輸卒 勲四等
於 日露戰役 ■陸軍歩兵一等卒 勲八等功七級
のように刻んであるようですが、勲四等は確かではありません。
題の揮毫者、碑建立者もわかりませんでした(読めませんでした)。


国道432号と忠魂碑


(裕編集の)(旧・庄原町川手沖地区)忠魂碑

10月24日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
19.3℃、54%

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庄原市:(宝蔵寺)征清紀念碑

2022年10月11日 08時54分36秒 | 軍都広島関連等
広島県庄原市東本町の宝蔵寺に建立されている「征清紀念碑」です。
※1897(明治30)年4月に建立された碑です。

碑文の解読は無理なわたしですが、日清戦役時の第五師団の戦いを刻んでいるようです。
別資料によると、第五師団は、
『1894(明治27)年の日清戦争では他の師団に先駆けて大島義昌(1850-1926)少将指揮の大島旅団(混成第9旅団)を編成し派遣。
同(明治27)年7月28日大島旅団は漢城(李氏朝鮮の首都、後の京城、現在のソウル)南方で清国軍と交戦しました(成歓の戦い)。この戦闘は僅か1日で決着がつき日本軍の勝利でしたが、これは明治維新以後初めて日本の軍隊が外国軍と交戦したもの※1)です。・・・』
※1)
1871(明治4)年10月、台湾に警察ではなく軍を派遣した。明治維新後の日本としては初の海外派兵で、5月6日に台湾南部に上陸。
5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結、本格的な制圧を開始。6月3日牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった。21:07追記



(裕編集の)(宝蔵寺)征清紀念碑

10月11日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
19.0℃、61%

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安芸郡海田町:(海田市駅からの)軍用引き込み線跡

2022年07月13日 08時26分50秒 | 軍都広島関連等
安芸郡海田町新町から海田町寿町・(旧)安芸郡矢野町の陸軍被服支廠海田市倉庫(現・陸上自衛隊海田駐屯地)まで布設されていた山陽本線からの(軍用)引き込み線を取り上げました。

※Wikipediaによると
『戦前、海田市駅から陸軍被服支廠海田市倉庫(現在の自衛隊)へ延びる引き込み線がありました。』
※広島原爆戦災誌の海田町の項目に
“海田市町に陸軍需品廠約70名”とあります。

八束要さん(わたしのおじさん)が昭和20(1945)年に書き残した“原爆記”に
長男(嘉光さん:旧制広島市立中学校3年)が(学徒動員で)8月6日『広島駅から海田の需品廠へ行く』とあるのです。
2021年になって海田町(矢野町にまたがる)需品廠〔現・陸上自衛隊海田駐屯地〕へ海田市駅付近から引き込み線があったことを知り「原爆記」の関連資料としていまになりましたが頁を編集したのです。

*海田町史によると「陸軍被服支廠海田市倉庫」とありますが。
兵器部修理所所長だったおじさんは「需品廠」と書き残しているので、引っ掛かってしまったので一年ほどかかってしまいました。

*昔はよく行った安芸区の図書館に行くときこの石積は古いなとは思っていました。
*ここの処は、かかりつけ眼科に行くときみていた石積みでした。

山陽本線から分岐の軍用線用石積みだったのだと思ったのです。


*Wikipediaに、
『・・・尾崎川に斜めに架かる小さな橋が唯一の遺構です。』とあります。
しかし、現在は撤去され橋台が残っています。


2003年八束要さんの「原爆記」をわたしのHPに掲載し紹介しました。
その中に(1945年8月6日)被爆当日長男嘉光さんが『広島駅から海田の需品廠へ行く』と云っていたと書き残していたのです。

「原爆記」 (八束 要 著)



最初に読んだ時、海田に需品廠があったのかと思って当時健在だった嘉光さんに尋ねたことがあったのです。
しかし、広島駅からその需品廠まで列車で行ったということに頭が廻っていなかったのです。
時は随分過ぎ、2021年Wikipediaの海田町の項で知ったのです。
早く気が付けば、尾崎川の鉄道橋なども撮影できたのにと勉強不足を嘆いてもと思いつつ
被服支廠の倉庫か需品廠かは解決していませんが、一応頁を編集完にしました。

(裕編集の)(海田市駅からの)軍用引き込み線跡

7月13日(安芸区のわが家付近)天候:晴れ
夕方、わが家付近カナカナ(一般的にはヒグラシ)の初鳴き

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呉市:高烏台・兵舎跡

2022年06月10日 06時41分31秒 | 軍都広島関連等
呉市警固屋の“音戸の瀬戸公園”の高烏(たかがらす)台に残されている「高烏台・兵舎跡」です。
※旧高烏砲台・兵舎(跡) の説明板によると、
『この建物は、明治29(1896)年から陸軍が呉(広島湾)の防護のため砲台を整備した際、高烏砲台の兵舎として建てられた建物です。
高烏砲台は、軍港として軍事的に重要な施設でもあったので、後に海軍に移管されました。
昭和20(1945)年8月15日敗戦後、兵舎は荒廃しましたが、石造の外壁は現在も残存しています。
この兵舎についての記録は残されておらず、詳細は不明ですが、明治時代の石造建物としての形態を残しています。・・・』



2021年兵舎跡を少し撮影しましたので、砲台跡の頁から分離独立した頁を編集しました。
(裕編集の)高烏台兵舎跡

6月10日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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東区:(広島東照宮に再建された)旌忠碑

2022年05月03日 09時29分49秒 | 軍都広島関連等
東区二葉の里の広島東照宮参道根際に移設再建されている「(西南戦争での)旌忠碑(せいちゅうひ)」です。
※陸軍中將從四位勲二等三浦梧楼撰并篆額。山口縣周防巖國塩屋處書。
※明治十一年十ニ月廣嶋鎮臺臺下將校醵資建之。

2017年10月西南戦争「旌忠碑」復元委員会設置の説明板によると
『明治10(1877)年2月に明治新政府と西郷隆盛を首領とする鹿児島士族らとの間に生じた「西南戦争」で、亡くなった広島鎮台兵の顕彰と慰霊のために建立されたものです。・・・・
国内ではこの戦争を最後に士族の反乱はなくなり、政府による権力的基礎は確立され、近代化が進んでいきます。・・・・』とあります。


手前左手:「旌忠碑」と向側右手“高木老儒之碑”


(裕編集の)(広島東照宮)旌忠碑

5月3日(安芸区のわが家付近)天候:(未明雨有もいまは)はれ

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中区:(中央公園)埋蔵文化財発掘調査

2021年11月08日 08時51分22秒 | 軍都広島関連等
中区基町の中央公園のサッカースタジアム建設予定地で行われていた「埋蔵文化財発掘調査」をとりあげました。
※発掘場所は、1880年発足した輜重(しちょう)兵第五小隊(後に拡張・改称した)施設などの跡でした。
(2001年裕編集の)(輜重兵第五聯隊跡)馬碑

※1945年8月6日被爆当時は“中国軍管区輜重兵補充隊”としての被爆遺構が発掘されました。
ことし6月の中國新聞記事によると
『サッカースタジアム建設予定地の中央公園広場で進めている発掘調査で、
旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重兵補充隊(輜重隊)」施設の被爆遺構が見つかったことが6月14日分かった。
広島城西側の広大な敷地に厩舎や兵舎などがあったが、米軍の原爆投下で壊滅。多くの兵士が被爆死した。市内の被爆遺構の発掘例としては過去最大級となる。
広島市は昨(2020)年、建設工事で地下遺構が失われる前に現存状況を調べ、記録を残すための発掘調査を始めた。
対象エリアは約14,000㎡。市から委託を受けた市文化財団などが今春から、被爆当時の地層を広く掘り出し、その大半から建物の基礎や石畳、水路などが相次ぎ出土した。・・・・』とありました。


都市整備局緑化推進部公園整備課・サッカースタジアム計画案での発掘範囲図


(裕編集の)(中央公園)埋蔵文化財発掘調査

11月8日(安芸区のわが家付近)天候:くもり→(本格的)雨

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安芸高田市:(向原町戦傷病者)慰霊・碑

2020年10月02日 07時25分47秒 | 軍都広島関連等
安芸高田市向原町坂の丸山公園内の向原護国神社に建立されている「(向原町戦傷病者)慰霊・碑」です。
平成8年8月に向原町傷痍軍人会によって建立されています。

※碑面には、昭和天皇の御歌(御製)が刻まれていました。
















































(裕編集の)(向原町戦傷病者)慰霊・碑

10月2日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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安芸高田市:(向原町)戦没者慰霊碑

2020年10月01日 07時18分31秒 | 軍都広島関連等
安芸高田市向原町坂の丸山公園内の向原護国神社に建立されている「(向原町)戦没者慰霊碑」です。

向原護国神社の(参道)石段を上ると本殿の横に建っていたのがここで取り上げた「戦没者慰霊碑」だったのです。
本殿前で参拝した後、この戦没者慰霊碑を見ました。
平成25年建立とまだ新しい石碑でした。

女性の名前も散見しましたので動員学徒など公務中に原爆で亡くなった方々ではないかと(わたしは)思いました。

向原護国神社祭神名簿(数え間違いがなければ、402柱)


(裕編集の)(向原護国神社)戦没者慰霊碑
URLを間違っていました。8時15分訂正しました。

10月1日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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