ロングドライブ

「VW PASSAT VARIANT」と「PEUGEOT 3008」でのロングドライブ記録です。(2019/09/11)

神々の地-霧島・大隈(鹿児島県)-(中)

2016年03月03日 | ドライブ

9月29日(月)

コース:桜島シーサイドホテル-R224-県道26-月読神社-県道26-R220-県道68-七狩長田貫神社-県道68-吾平山上陵-県道68-鵜戸神社-県道73-県道520-大塚神社-県道520-県道542-県道561-県道68-県道561-R269-県道68-県道566-御崎神社-佐多岬-民宿なぎさ

前日の降灰は朝には止んでいた。そこで、是非とも露天風呂を味わおうと、ホテルの海側にある露天風呂を目指した。風呂までの道は完全に灰で覆い隠されている状況だった。海岸縁に造られた露天風呂は、正に”灰の中にある風呂”状態だった。

風呂に入ると、当然ながら湯船の底には灰が堆積していたが、湯温は丁度良く、目の前に広がる錦江湾の景色は最高だった。温泉は元々の湯質がそうなのか分からないが、とにかく白濁していた。多分灰による白濁ではないように思われたが良く分からない。温泉に入る時は特に問題はなかったが、湯から上がる時が問題となった。写真でも分かると思うが、湯船の周り全てが灰に覆われているため、バスタオルは勿論、下着や浴衣まで迂闊に床に置けないのである。しかも湯に浸かった足は濡れているため、足も迂闊に床に置けないのである。混浴風呂とはいえ、他の人が居なくて幸いだった。かなり苦労して湯から上がり、部屋に戻ると朝食をとった。

ホテルを出発する段になり、車の所に行くと、車は想像通り灰塗れになっていた。雪が積もっているのであれば、対処はまだ楽かも知れない。灰に水分は禁物とホテルの人にいわれ、”ほうき”や”はたき”でひたすら払い落とすようにした。見ていたホテルの人は、「この位の灰なら、屋根の灰は走れば飛ぶから。」とアドバイスしてくれた。その言葉を信じて、というより信じざるを得なかった。何しろ地元の人の言うことは経験から来るので重みも違う。言葉通り、屋根の灰は落とさずそのままホテルを後にした。しかし、後悔は後からやって来た。確かに走ることにより、屋根の灰はある程度は風で飛んだようだが、ドアの開閉やリヤウィンドウなどに屋根に残った灰が落ちて来るのだった。
当地”桜島”は勿論、湾の対岸の人達などもこの降灰には慣れていて、その付き合い方も良くご存じのことと思われるが、我々他所者にとっては、相当厄介な現象だった。
ホテルの前から火山を見上げると、この日も火山は元気に煙を上げていたのだった。

さて、島内にある施設の中でできれば外したくない神社が月読神社(つきよみじんじゃ)」だった。「月読命(つきよみのみこと)」は日本神話によれば、「イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐)から天照大神と共に生まれた”月の神”とされている。同じ兄弟で「天照大神」、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀る神社は多いが、「月読命」を祀る神社は珍しいのである。
今回の旅は”天孫降臨の神々詣り”が一つの大きなテーマでもあり、そういう意味からこのような珍しい神社を詣でから外す訳にはいかなかった。

メインの道の四つ角を曲がると直ぐの脇道に入り、神社の駐車場まで簡単に入ることができた。車を置いて境内に入って行くと直ぐに本殿が目に入って来た。まだ最近修理を行ったばかりなのか、朱色が明るく綺麗に見えた。しかし、よく見ると本殿はガラス張りになっていて、その中にもう一つ建物が入っているようであった。どうも目の前に見える新しい建物は本来の建物を保護する役目のようである。

境内にあった解説によると、「瓊瓊杵命(ににぎのみこと)」「彦火火出見命(ひこほほでみのみこと;山幸彦)」「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」「豊玉彦命(とよたまひこのみこと;少童命(わたつみのみこと))」「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」合祀(ごうし)されているようである。当社の由緒には「和同年間(1,280余年前)の創建と伝えられる。島津家久公により、旧社地西桜島村赤水宮坂に鎮座。その後、二十七代の国主島津斉興公家臣吉田氏の尽力により正一位の神階を賜り明治六年五月、県社となる。 大正三年の大爆発により、社殿共に溶岩の下に埋没。その後、桜島町武に遷座し、更に昭和十五年八月に現在の地(横山)に社殿を新築。平成十二年御社殿、稲荷社、手水舎等の改築と境内地の整備。五社大明神として広く崇敬されている。」と書かれていた。

お詣りを済ますと先に進むことにした。この日の最終目的地は大隈半島の突端佐多岬である。直接目的地を目指してしまえば、昼までには岬に着くことができるだろう。しかし、それでは面白くないし、テーマにも即していない。岬は目指すが、あくまでも最終目的地である。その前に「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」とその妃玉依姫(たまよりひめ)」の眠る吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)」に向かわなくてはならなかった。
特に約束があった訳ではないのだが、ここまで天孫降臨の一族を詣でて来て、神武天皇の父に当たる「鵜草葺不合命」を外す訳にはいかない。この日一番の目的地ともいえるのである。

それにしても、ここ20年ほど国産車から離れていた訳だが、最近の国産車の燃費の良いのには本当に感心させられる。ここまで来ても、ガソリンのメーターはまだ半分は愚か1/4そこそこの状態だった。この調子では、明日の空港での返却まで給油は必要ないかも知れないと思われた。
そんなことを嫁様と話しながら進んで行くと、少々気になる神社が目に入って来た。特に予定していた所ではなかったが、急遽立ち寄ってみることにした。鳥居の横に立てられた石柱には郷社七狩長田貫神社(ごうしゃななかりおさだぬきじんじゃ)」と書かれていた。更に目に付いたのは狛犬の台座の紋が”丸に十の字”、島津家の紋所だったのである。
これは島津家縁の神社かも知れないと思い、中に入って見ると更に最近の作とは思われたが、再び”丸に十の字”の紋が付けられた対の馬の像が狛犬宜しく置かれていた。更に奥には樹齢千年近いクスの木があり、その堂々とした姿に圧倒された。根元に「田崎神社「クス」樹齢約九百五十年」と書かれていた。ここで気づかれた方もいると思うが、「田崎神社」とはどういうことなのか?調べてみたところ、この神社は鹿屋市田崎町にあることから、通称「田崎神社」と呼ばれているようなのである。

祭神は「別雷命(わけいかづちのみこと)」とあり、即ち賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」、京都の上賀茂神社の祭神である。由緒には「伝わるところによると永正元年(今より四八六年前)十一月十五日、伊勢の国の人で田丸玄蕃と云ふ人が伊勢の国から神像を背負うて来て創建したと云われ 又一説には、永徳三年(今より六一〇年前)十二月二十四日、山城の国の加茂神社より分神したとも云われています。」とあり、どちらにしても島津家との関係は記されていなかった。しかし、京都の加茂神社と関係があるというのは意外に感じられた。

嫁様は殊の外”大クス”に感動し、暫く空を仰ぐように”大クス”を眺めていた。クスの根元の祠には、いつ、誰が、どのような理由で付けたのか分からないが、小振りな鈴が付けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

神社を後にすると、吾平山上陵を目指して更に進むことにした。
「陵」の駐車場に車を置くと、早速中に向かった。入口付近の説明書きには「吾平山上陵(吾平山陵) 散料とは帝皇の塚墓をいう。日本書紀に「彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、西の洲(くに)の宮で崩御、日向(ひむか)の吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)〇〇に葬る」と載せてある。御陵の所在については明治七年(1874)七月十日肝属郡姶良郷(吾平町)上名村のこの地を御治定になった。 古事記には右記尊を「天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」と載せている。御陵のあるところを俗に鵜戸山(うどさん)といい、窟(ゆや)を鵜戸岩屋(窟)と称している。姶良名勝誌には窟内に大小御陵二カ所あり。その内の大の塚は右記尊の御陵で、その東の小の塚は、后妃玉依姫(ごひたまよりひめ)(神武天皇の御母)の御陵と申伝云々と記されている。陵域は甚だ広い。右記尊を祀る鵜戸六所権現(現鵜戸神社)は、ここから北方約六キロメートルの麓宮前にある。 神武天皇妃吾平津姫(じんむてんのうきさきあいらつひめ)を祀る大川内(おおかわち)神社は南方四キロメートルの神野川地の地にある。 昭和六十年二月 平成九年三月修復 吾平町と記されていた。「陵」には「鵜草葺不合命」とその妃「玉依姫命」の夫妻が眠っているようであった。
「陵」とは言いながら、非常に手入れが行き届いていて、あたかも「公園」を思わせる景色だった。しかもその景色は「伊勢神宮」を思わせる、非常によく似た雰囲気を醸していた。最初は「山上陵」という名前から、前日の「高屋山上陵」と同じような古墳形式をイメージしていた。しかし、行って見るとそこは良く整備され、あたかも伊勢神宮を少々小振りにしたような感じだったのである。

ただ大きく違っていたのは、墓本体が山の麓の洞窟のような所とされていたことで、この時は生憎近くまで行くことが許されず、仕方なく少し離れた所から眺めるに止まった。これは想像だが、タイミングが合えば、写真に見える鳥居の付近まで近付くことも可能なのかも知れない。
もしかすると、当地は古墳ではなく、当時は山自体をご神体とする神社のような所で、更に想像を広げると、当時はこの辺に居住していた原住民(熊襲等)の祈祷所のような所だったのかも知れないと勝手に思った次第である。

次に目指したのは鵜戸神社(うとじんじゃ)だった。
同地は「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」を中心に「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」「五瀬命(いつせのみこと)」「稲飯命(いなひのみこと)」「三毛入野命(みけいりののみこと)」「神倭磐彦命(かむやまといわれひこのみこと;神武天皇)」の六柱の神が祭神となっている。要は両親、子供の一家が祀られているのである。
余談だが、隣接の宮崎県に鵜戸神宮(うとじんぐう)」があり、ここは「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」を祀るものの一家を祀るのではなく、天照大神を始めとする天孫系から神武天皇(初代天皇)までの6代を祀っている。

 

ここまでで天孫降臨の4代の神々を詣でた訳で、残りは初代天皇の神倭磐彦命(かむやまといわれひこのみこと;神武天皇)」となった。しかし、今回の旅の予定では神武天皇は詣での予定に入っていないため、またの機会に今度は奈良(大和の地)で詣でようと考えている。
さて、天孫はこの辺にして、近隣にある唐仁古墳群大塚神社にも寄ってみることにした。
「唐仁古墳群」とは「肝属川河口より上流約1キロメートル左岸の唐仁地区に位置し大塚古墳(1号墳)を中心とした大小140余基の古墳群」ということが解説されている。
また、「大塚神社」の解説板には祭神として大国主神(おおくにぬしのかみ)」「須佐之男神(すさのおのかみ)」「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」「知々夫彦神(ちちぶひこのかみ)」で、創建として「島津忠久入国の際、先見を命ぜられた本田次郎貞親が島津家の守護神として建久二年(1191年)頃創建したものと言われている。」としている。
「唐仁古墳群」の中心としてある「大塚古墳」はその上に「大塚神社」の神殿、拝殿があり、”ここが大塚古墳”と認識できたが、他の古墳についてはよく分からなかった。

「大塚神社」は、その鳥居を潜ると真っ直ぐ進み、小高い丘を登るように造られた石段を上った所にある。鳥居は綺麗に朱が塗られていたが、神殿、拝殿は古さを感じさせるこじんまりとしたものだった。

 

 

 

大塚神社と古墳群を後にすると、錦江湾側の海岸通りを佐多岬目指して進むことにした。天気は、前日とは打って変わって最高の好天となった。海が綺麗に沿岸の景色を際立たせていた。

本日最後の目的地「佐多岬」には、駐車場から少々歩かなくてならない。駐車場もそれほど混み合っている訳ではなかったので、秋とは思えない厳しい日差しを避けて日陰を選ぶことができた。
駐車場には一風変わった木が目を引いた。「ガジュマル(クワ科)」という草とも木とも判別できないような植物が生えていたのだ。

歩き出しはトンネルを潜って山の向う側に出ることになった。
山道を上がったり下ったりして進んで行くと、岬までのほぼ中間点に御崎神社なるものがある。その説明版には「御崎神社 御祭神正祀伊邪那岐命・伊邪那美命 外御子命六神 由緒略記 御祭神は太古佐多岬海岸の磐屋に御鎮座され、その後(第四十三代元明天皇)の和同元年三月(今から1,264年前)神託により当磐屋に新たに浜宮として開設せられよりその後、第一〇七代後陽成天皇の慶長十四年六月(今から三百六十余年前)薩摩藩大将樺山久高が君命より琉球支配の時、当浜宮に帰GANをこめて渡海され帰国後琉球国鎮護のため当浜宮を現在地へ移転し御崎神社と改稱された。 御崎神社は大八洲(日本全土)の守護神と伝えられ、神格高き神社として薩隅人の崇敬厚く数日を費やし参拝に訪れ一家の安泰を祈願する習慣が続いて居り今尚、交通・航海の安全、五穀豊穣、商売繁盛の神で特に大昔より由緒ある縁結、安産の神として全国的に参拝者が絶えず。春秋の大祭は町を挙げて極めて盛大に行われる。昭和四十七年十月吉日建立」と記されていた。祭神にある”外御子六神”とは、南大隈町のHPによれば、綿津見三神(底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、上津綿津見神(うわつなかつみのかみ);海神)、住吉三神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと))をいうとしている。

ここから「佐多岬」までは更に道が険しくなったが、脇に見える海の景色は素晴らしかった。また、岬には展望広場のような所があり、そこから見える大きく広がる南海も素晴らしいものだった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。