ロングドライブ

「VW PASSAT VARIANT」と「PTクルーザー」でのロングドライブ記録です。(2016/12/05)

四国周遊ドライブ-4-

2017年06月06日 | ドライブ

2017年5月17日

ルート:八幡浜センチュリーホテルイトー-佐田岬-西瀬戸道(瀬戸内しまなみ海道)-大山祇神社-西瀬戸道(瀬戸内しまなみ海道)-山陽道-中国道-息子宅

四国最終日は朝7:00にホテルを出発した。目指すは”四国の尻尾(私はそう呼んでいる)”佐田岬半島、そして尻尾の先っちょの「佐田岬(さだみさき)」だ。
四国の前足「室戸岬(むろとみさき)」、後ろ足「足摺岬(あしずりみさき)」、そして尻尾「佐田岬」。これが昔から私のイメージとして定着している。佐田岬は昔から行って見たい所であり、九州と繋がっているフェリーにもいつか乗ってみたいと思っている。いって見れば、”今回最大の行って見たかった場所”と言えるかも知れない。
ホテル前を通る県道249号を松山方向に向かい、R197に入って佐田岬を目指す。流石に早朝から佐田岬を目指す車はそうは多くない。ACCオンで快調に走ることができた。

R197は半島の尾根を走るような感じで、高台からの景色が絶景だ。岬に向かって右手に瀬戸内海。左手に太平洋といっぺんに眺めることができる。私の知る限り、同じような眺めは伊豆半島付根の「伊豆スカイライン」から「芦ノ湖スカイライン」に繋がる辺りで、相模湾駿河湾が見えるこの一箇所だけである。

R197を3/4ほど進むと、フェリー乗場がある三崎港に着く。ここが上に書いた九州大分の佐賀関(さがのせき)と繋がる「国道九四フェリー」の発着場所である。フェリーの名前からも察しが付くと思うが、R197の海上部分を繋いでいるのがこのフェリーと言うことらしい。
思わずここから九州に渡ってしまおうか?とも考えたりしたが、よくよく考えると今回は衝動に負けないことがベストと言う結論に達し、次回のチャンスにまわすことにした。
R197はこの三崎港から九州に渡ってしまうため、佐田岬に繋がる道は県道256号となった。県道と国道の違いか、三崎港から先は道路の整備の仕方が明らかに変わった。少し先に行くとアップダウンがきつくなり、カーブもきつくなり、道幅も狭くなったのである。挙句の果てには、賢いナビが本領を発揮してくれて、軽自動車1台がやっとではないかと言う細道を通れと指示して来た。必死になってその道を通り抜けると、出た道は綺麗に整備された対面通行の道で、今必死に通って来た道のバイパスになっていたのである。踏んだり蹴ったりの仕打ちにもめげず、更に先へ進むと、やがて佐田岬灯台駐車場の表示が見えて来た。道はそこで終わり、灯台までは山道を徒歩で行くことになっていた。ホテルからこの岬までグーグルマップの計算では1時間13分となっていたが、途中で休憩やら撮影やらで道草を食った関係もあり、到着は9:00近くだった。

駐車場で会った、山口からキャンピングカーでやって来たという男性に聞いたところ、「灯台までは2kmほどの山道を行かなければならないらしい」と聞いた話を教えてくれた。”2kmの山道”というキーワードに、私は即「灯台却下」の決断を下すと次の目的地「伊予国一之宮 大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)」に向かうことにした。

今朝出て来た八幡浜までは往きと同じルートを戻らなくてはならない。八幡浜から先はR378を進み松山手前でR56に合流。松山市内を抜けると、R317で今治ICまで行き、今治ICからしまなみ海道で大三島ICへ。そして「大山祇神社」というルートを取った。

R317が通っている途中の海岸線は、瀬戸内の海が最高に綺麗だった。このルートは是非もう1度走りたいルートである。

今治ICから入ったしまなみ海道(西瀬戸自動車道も、私としては1度走って見たかった道路だった。瀬戸内の島々を繋いだこのルートは、所謂”高速道路”とは異なり、恐らく瀬戸内の島々を中国・四国と繋ぐことが最大の目的で造られたもので、決して速度を出せる造りにはなっていない。しかし、それ故に瀬戸内海の景色を楽しむことができる。
大三島ICから一般道を10分ほど走ると「大山祇神社」に到着した。どうも今回の四国ドライブは、少々駐車場に苦労するようで、「大山祇神社」の駐車場も場所は直ぐに分かったのだが、満杯状態で1台空きを待っている状況だった。凡そ20分ほどでようやく順番が回って来て駐車することができたので、早速境内に向かった。

参道入り口の鳥居から参道の両側には、屋台が並んでいた。恐らくこの日は神社の祭りだったのかも知れない。

神社の境内に入ると、中は綺麗に整備されていた。1段高い所に拝殿、本殿とあり、如何にも伊予国一之宮と思わせる出で立ちだった。

神社を出て駐車場に戻ると、いよいよ帰路に就くことになる。当初は一気に東京の自宅まで走ることも考えたが、無理をせず大阪の息子宅に寄り、ゆっくり寝た後東京に向かうことにした。
大三島ICからしまなみ海道に入り福山西から山陽道に合流する。更に神戸JCTから中国道に合流し、中国吹田ICから息子宅に向かった。
息子宅には夕方6:00頃着くことができた。

<5月17日>給油場所:松山
給油時走行距離:693.3km、給油量:39.5L、燃費:17.6km/L


5月18日(木)

ルート:息子宅-京都(河原町)-R1-(ナビ活躍)-R21-大垣IC-小牧JCT-八王子IC-自宅

嫁様のリクエストにより、京都の錦市場(にしきいちば)で買い物を済ませた後、帰路に就いた。この日は名神高速のリフレッシュ工事で、栗東IC-小牧ICが片側通行になっていたことから名神高速の渋滞が予想された。勿論新名神経由も考えられたが、こちらは亀山JCTでの渋滞が想定された。そんなこんなで中央道土岐ICまで下道を行くことにした。
京都から土岐(岐阜県)までの下道ルートは私も知らない。少々おバカでも、ここはナビ君に頑張ってもらうしかなかった。10:00過ぎに錦市場を出発すると、京都五条(R1)から滋賀県の大津へ向かうR1を走り出した。恐らく草津(滋賀県)付近からR8に入るコースを取るだろうと予測していたところ、突如ナビ君が張り切り出したのである。大津手前でR1を離れると琵琶湖畔に向かい、琵琶湖大橋を渡ると更に裏道を指示しだした。最終的に竜王(滋賀県)の辺りでR8に出て米原(滋賀県)付近でR21に折れた。関ケ原を越え、大垣付近に出た時、並走する名神高速を走る車の状況が見えた。これなら名神に入っても問題ないだろうと判断し、急遽大垣ICを目指した。
大垣ICから名神高速に入ると、間もなく渋滞が始まり、完全にストップしてしまった。それから停止、微動を繰返し、やがてこの渋滞が工事によるものではなく、事故によるものだと分かった。事故はまだ起こったばかりのようで、警察も救急も来ていない状態の中、微動の流れに乗って現場を通り過ぎたのだった。事故現場を通り過ぎた所から流れはスムーズになり、あっという間に小牧JCTから中央道に入ってしまった。
中央道ではACCが活躍し、快適にクルージングすることができた。途中何度か休憩を取り、自宅には7:00pm頃到着することができた。

<5月18日>給油場所:岐阜
給油時走行距離:526.5km、給油量:30.0L、燃費:17.6km/L

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四国周遊ドライブ-3-

2017年06月05日 | ドライブ

2017年5月16日

ルート:サザンシティホテル-土佐神社-虚空蔵山-R56-足摺岬-R321-R56-八幡浜センチュリーホテルイトー

四国3日目の最初は土佐国一之宮「土佐神社に向かう。
ホテルで朝食をとると、すぐに「土佐神社」に向けてホテルの前を走るR55に出た。R55からR32、R195、県道251号と進み約15分で神社付近に到着した。しかし、ここで毎度のことだが、駐車場が見つからない。神社は県道251号と同384号の交差点に鳥居がありそこと分かった。仕方なく近くのパーキングに突っ込むと、停車していたタクシーの運転手さんに土佐神社の駐車場を聞いた。すると驚いたことに、鳥居の脇の道を進んでいけば神社の駐車場に行き当たるとのこと。確かに先ほど鳥居の所の交差点で、何台かの車がその道から出て来るのを見かけたが、とても対面通行とは思えない、車1台がやっと通れるほどの道だったのだ。タクシー運転手さんの言葉に従い、鳥居横の細い道に入ることにした。ラッキーなことに対向車は来ていなかった。200mほど進むと右手に駐車場が見えて来た。思いの外広い駐車場に、またまた驚かされたものだ。

駐車場に車を置くと、早速神社に入ることにした。流石に土佐国一之宮だけあり、境内は広く、

摂社、末社も6つほど祭られていた。

本殿脇には「輪抜け祓所」と言うのがあり、その説明書きには「輪をくぐることにより心身が清められ、大木の長寿やたくましさを授かる御神徳がございます。」と書かれていたため、四国ドライブの安全を祈願して輪をくぐることにした。さてご利益はあったのだろうか?

次に「秦氏ゆかりの地」として「虚空蔵山(こくぞうさん)」を目指した。
その前に、「虚空蔵山」と「秦氏(はたし、はだし、はだうじ等の読みがある)」の関係、即ち伝説について概説しておきたい。ネット情報によれば、(しん)の始皇帝(しこうてい)の命により、東海(東の海)の蓬莱山にあるという不老不死の薬を手に入れるためやって来た徐福(秦氏のリーダー?)一行が嵐に遭い、土佐の宇佐に漂着し、「虚空蔵山」に登ったというのである。
この「虚空蔵山」に行くには、と言うか、この神社を出るには先ほど通った1台しか通れない200mほどの道を行かなければならない。少しドキドキしながら何とか対向車と出会うことなく交差点まで出ると、信号に従って県道384号に出た。その後R56、R33と進み約1時間強で山の頂上付近に着くことができた。

山に行く前から少し予感はしていたが、山に行っても特に徐福秦氏に関係する石碑や祠(ほこら)など発見することはできなかった。山頂付近には、「虚空蔵山わんぱく広場」や「虚空蔵山観光農園フルーツランド」などの表示があるだけだったのだ。仕方なく山を下ると、

頂上から見えた里の集落を目指し、山の全景を見てみることにした。山は”古墳”を思わせるようななだらかな稜線を描いていた。

虚空蔵山」を後にすると「足摺岬(あしずりみさき)」を目指すことにした。
R494からR56を進み、四万十川を渡ってR321で土佐清水に向かう。

四万十川河岸を走るところでは、四万十川をチャンとカメラに納めたいと思ったが、旨く車を止める場所が見つからず、路肩に数秒の停車をして写真を撮った。土佐清水市役所手前で県道27号に入り海岸線を走ると、更に県道27号で足摺岬の駐車場に着く。凡そ3時間の道程だった。

駐車場は平日にもかかわらず県外ナンバーの車が沢山停められていて満車状態だったが、運良く出発する車があり直ぐに駐車することができた。

駐車場のすぐ隣には銅像があり、高知の英雄「坂本龍馬」の像か?と思いきや「中浜万次郎(通称 ジョン万次郎)」の像だった。像の説明書きには「この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。」と書かれていた。「なるほど、それでこの岬に像が建てられたのか」と納得したものである。

その他、駐車場近くにはお遍路さんがお参りする第38番札所の「足摺山 金剛福寺(こんごうふくじ)」があった。中を覗いて見ると、その派手(?)な境内にはチョット違和感を感じてしまった。

駐車場に戻り時計を見ると、13:00を少し回った所だった。当初の予定では、この日の宿泊を土佐清水付近でする予定だったが、この時間ならまだ先に進める。早速更なる移動を決め、今夜の宿泊先を検討することにした。
最初に候補地として考えたのは愛媛県宇和島市(うわじまし)だったが、宿泊先を検索すると隣の八幡浜市(やわたはまし)のホテルが出て来た。明日の1番目の行先に「佐田岬(さだみさき)」を考えているため、宇和島より八幡浜の方がより近い。そこで八幡浜の「八幡浜センチュリーホテルイトー」に宿泊予約をすると、賢い(?)愛車のナビにセットして直ぐに移動を開始した。

県道27号からR321に入り暫く行くと宿毛(すくも)の街の手前に「道の駅すくも」があった。

ここで休憩を取ることに決めパーキングに駐車すると、丁度目に入ったすぐ横に広がる宿毛の入江を見に行った。宿毛を出発するとR321を進んで宿毛の街からR56に入った。宇和島で県道25号に折れると約3時間強でホテルに着くことができた。このホテルの駐車場が少々特殊な作り(要は狭いため、駐車場に入るとホテルが詰めて駐車するように移動させる)になっており、しかもホテルの脇の道が一方通行の出口になっているなど、少々判断に迷うシチュエーションになっていた。近所で何とか方向転換したりしてホテルの駐車場に突っ込むと、後ろについて来た車2台も私に続いて入って来た。後ろの車も入り方に困ってホテルの先の方でUターンして来たようだった。

チェックインする時に翌日の出発予定時刻を聞かれ、「7:00頃」と答えて部屋に向かった。部屋はセミダブルベッドのツイン仕様になっていた。確かに部屋は相当くたびれた状況ではあったが、この広さで素泊り6,500円弱(シングルユース)なら納得の料金と思った次第である。後で分かったことだが、チェックインの時に出発時間を確認されたのは、時間の早い順番に車を駐車場の出口近くに置くためだったのである。

<5月16日>給油なし

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四国周遊ドライブ-2-

2017年06月01日 | ドライブ

2017年5月15日

ルート:徳島グランヴィリオホテル-神明神社-旗山-R55-室戸岬-サザンシティホテル

この日の大まかな予定は、徳島を出て高知入りすることである。
取り敢えず徳島の「一之宮」は前日に行ってしまったので、この日は「秦氏」関係と「義経」関係を徳島でこなしてから室戸岬を目指す。

朝7:30頃ホテルを出ると、第一の目的地「磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)」 を目指すことにした。この神社はネット情報によれば、古代渡来人「秦氏」ゆかりの地とされていた。また、古代ユダヤ人とも関係があるかも知れないと言われ、元駐日イスラエル大使のエンリ・コーヘン氏も見学に来たとされている。

愛車のVW純正ナビはあまり賢くないため、前日ホテルでPCから登録しておいた目的地(磐境神明神社 他)をデザリングでダウンロードし、改めて目的地としてセットするという手間をかけなければならない。時間的、精神的に余裕のある時は、このような手間もある程度我慢できるが、余裕がない時は。。。その内大英断を下してしまうかも知れない予感が頭をスーっと過るのが怖い。

朝の通勤時間帯と言うこともあり、徳島の街を出るのに少々渋滞や混雑に巻き込まれたが、特に急ぐ旅でもなかったのでのんびりと渋滞、混雑に巻き込まれながら徐々に郊外へ出て行った。郊外に出れば流れはスムーズになりACCが威力を発揮するだろうと高を括っていたが、工程の半分以上はなかなかスムーズに流れない状況のままだった。
ルートは、県道15号-R192-R492とほぼ直線ルートだったが、R492は山間を走る道で、道幅が狭くなったり、カーブがきつかったり、正に山岳ルートだった。それでも1時間少々で最初の目的地「磐境神明神社」付近に到着した。
あまり賢くない愛車のナビは、山間の村のような所で案内を終了してしまったが、その辺に神社らしきものは見当たらず、またしても駐車場所を探し、村の入り口付近にある「白人神社」の駐車場に駐車させて頂くことにしたのだった。

そしてスマホで検索しながら付近を探し回った結果、偶然にも駐車した場所の直ぐ奥に古い狛犬を発見し、そこが神社の入り口と分かった。鳥居は壊れ、小高い丘を上る階段は、朝一発目からかなりハードな試練となった。しかし、ここを上らなければ、目指す神社に行き着かないとなれば上るしかない。

何度か階段の途中で休みながら何とか頂上まで上ると、広場のような所に石垣で作られたむき出しの祭壇のような場所があった。

謎の神社「磐境神明神社」を後にすると、次は「義経ゆかりの地」である「旗山」を目指した。
旗山」は源義経が率いる源氏の軍勢が摂津国(せっつのくに;大阪)を船出して阿波国(あわのくに;徳島)勝浦(現 徳島県小松島市)に上陸した際、この旗山に白旗(源氏の旗でもある)を掲げたとされている。

神社を出ると、もと来たR492-R192と戻り、R55を高知県方面に向かった。ナビ上の計算では1時間半ほどかかることになっていたが、既に通勤時間帯も終わり、最後のR55以外は非常にスムーズでR55も混んではいたが渋滞などはなかったため、ナビの計算より少し早めに走ることができた。

目指す「旗山」はR55から少し山側に入った所にあった。

小高い山(?)を上ると、頂上付近には義経の騎馬像があり、その脇には源氏を示す白旗が数本立てられていた。何れも最近の物と分かる新しいもので、古伝に従って最近建てられたものと想像された。
騎馬像のある所の隣には八幡神社があったが、ここも建物は近年建てられたものと分かるセメント造りの建物だった。特に説明らしきものは見つからなかったが、義経=源氏=八幡神社と考えれば、そこに八幡神社があるのは至極当然と想像された。

旗山」を終了し、次は「室戸岬(むろとみさき)」に向かうことにした。室戸岬は昔四国に遊びに来た時に行ったことのあるところで、久しぶりの訪問となる。
旗山」から「室戸岬」へのルートはR55を走れば自然に到着するが、頭のいい(?)ナビ様はそれではお気に召さなかったようで、当初R55を進んだが、途中から県道130号-県道24号と進み、美波町付近から再びR55に戻るコースをチョイスされたのだった。ま、冗談は別として、「最短距離」を選ぼうとするナビの習性(?)上仕方がないと言えば仕方がないことだった。このチョイスのお陰で、約2時間で室戸岬に付くことができた。

好天に恵まれたこの日の室戸の海は非常に綺麗だった。

ただ、太平洋が目の前まで迫っていて、足元は岩場となっているため、海に近付くことが難しかった。

丁度あった「弘法大師修行の地」とされる「御厨人窟(みくろど)」の前の

駐車場に車を止めると、付近を散策した。

さて、室戸岬散策が終わると、この日の宿泊場所を探さなければならない。いよいよ旨い場所がなければ、今回持参した布団を車内に敷いて、車中泊を決め込むことも可能だったが、できればそれは避けたかった。というのも、できるだけ室内でちゃんと寝て疲れを残さないようにしたかったからである。スマホでホテル検索を行った結果、高知市の隣の南国市にある「サザンシティホテル」と言う所が見つかった。
R55沿いで、高知市の少し手前に位置する所のため、車で行くには便利な立地になっていた。約1時間半でホテルに着くことができた。思ったより大きい敷地で、建物も高さはそれほどでもないが、横に大きさを感じた。駐車場はホテルの前に100台以上は停められる広さのスペースであり、ざっと見ると関西ナンバーの車が散見されたが、その中に南関東の車もあり、チョット驚かされた。

高知県を出る前に給油を行った。東京の自宅付近とガソリン代を比較するのは論外だが敢えて比較させてもらうと、四国全般が大凡5円から8円近く高目であった。思ったより高くはない印象である。

走行距離、燃費データは以下の通り。

<5月15日>給油場所:徳島(小松島)
給油時走行距離:525.9km、給油量:33.89L、燃費:15.5km/L

 

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四国周遊ドライブ-1-

2017年05月29日 | ドライブ

2017年5月12-17日

今回、私の人生で2度目の四国訪問となった。以前より2度目の四国訪問は考えていたが、具体的には何も計画していなかったのである。
ほとんど衝動的に家を出ると、愛車VW PASSATのハンドルを西に切った。

PCのルート検索では”新東名”、”新名神”を通り、”山陽道”から”明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)”、”大鳴門橋(おおなるときょう)”経由で四国に入るルートが示される。確かに最短ルートとしては正しいのだが、このルートでは最初に徳島県に入ってしまい、一筆書きで四国1周はし難くなる。更には”明石海峡大橋”、”大鳴門橋”を通る「神戸淡路鳴門自動車道」は、以前の”瀬戸大橋”を通る「瀬戸中央自動車道」より料金的にも割高であることが判明した。
具体的には、
神戸・鳴門ルート(明石海峡大橋・大鳴門橋 経由):通常 5,610円、ETC 3,280円、ETC2.0 3,280円
児島・坂出ルート(瀬戸大橋 経由):同 3,650円、同 1,770円、同 1,770円

<例>
中国吹田IC-高松中央IC(神戸・鳴門ルート):同 9,090円、同 6,760円、同 6,760円
中国吹田IC-高松中央IC(児島・坂出ルート):同 7,700円、同 5,750円、同 5,750円

ということになる。更に上の例は平日のものだが、休日にすると、
中国吹田IC-高松中央IC(児島・坂出ルート):同 7,700円、同 4,670円、同 4,670円  (以上、2017年5月29日現在の金額)

ということになり、当然ながら休日の瀬戸大橋経由を選択するのがベストということになる。

自宅から圏央道を経由して東名高速に出た方が最短距離を選択することになるが、私はどうも東名高速があまり好きではないため、自宅に近い中央道に入ると、一路西国(さいごく)を目指したのだった。

 

5月12日(金)ー13日(土)

ルート:自宅ー八王子IC-中央道ー小牧JCT-名神高速ー栗東JCT-京滋BP-巨椋IC-息子宅

当初、四国までダイレクトに走ろうかとも考えたが、自分の体力を考えて大阪に住む息子宅で一休みして、翌日四国に入ることにした。

家を出たのは夜の10:00頃。八王子ICから中央道に入ると直ぐにACC(Adaptive Cruise Control/アダプティブ・クルーズ・コントロール)をセットし、DLA(ダイナミックライトアシスト)もセットすることにした。
この日は夜半から雨が降り出し、雨の夜間走行という悪条件のドライブになってしまったが、全く不安を感じる場面もなく快適に走ることができた。

さて、ここで少し説明をしておきたいのは、まず「ACC」についてである。ACCとはどんなものであるかについては上のリンクを参照願いたいが、実際使ってどうなのかについて少々レビューしたい。
VWの採用しているACCは先行車を電波で探知し、車間を一定に保つ方式である。スバルの「アイサイト」はステレオカメラ(複眼?)で先行車を認識しているという。VWのACCはVWのポリシーも反映されているのだろう、「車間」の取り方が日本の通常の車間よりも広く取るように設定されているように思う。多分・・・だが、自動停止をする場合に最低必要な距離が車間距離に反映されているのではないかと思われる。このため、高速道路走行中に、脇から何台も入り込まれる時が多々ある。致し方がないことだが、少々気分的にモヤモヤすることでもある。また、VWのACCの電波はどのように出され、それをどのように認識しているのか分からないが、前車の認識範囲がやや狭いように思われる。極端に表現すれば、自車の真ん前に前車がいないと認識しない・・・そんな印象がある。従って、きついカーブなどでは前車を見失うことがあり、この状態で突然渋滞などが始まると、非常に危険だということになる。以上のような点を理解していれば、非常にドライブは快適になる。
次に「DLA」についてである。これも上述のリンクを参照願いたいが、この機能はかなり優れものと言って良いだろう。初めてこの機能を試した時は、房総半島の館山道を走った時だった。この機能もそうだが、どのような機能なのかよく理解しないまま使用したこの時は、先行車の認識が甘いように感じられて、「使い物にならない」「日本の国情に合わない」と勝手に烙印を押してしまったものだが、その後この装置の複雑な動きが、「先行車がどの位の距離にいるか」「対向車はどうか」などによりかなりフレキシブルに行なわれていることが分かり、今回の使用では最後までDLAを使い続けることになった。DLAはフロントガラスの上部中央に設置されたカメラで先行車や対向車を認識して、ハイビームの照らし方を変更する。この変更の仕方は、なかなか楽しさを感じさせてくれるが、やはり完璧なものではなく、特に「夜間の雨」は誤動作の原因になるのかも知れないと思われた。それは、ある状況で先行車を認識できず、ハイビームを継続してしまったためやむなく手動でロービームにしたことが2回ほどあったからだ。しかし、全般的にはDLAは評価できる装置と感じた。

我が家から大阪の息子宅まで約7時間ほどかけて(途中2回ほど仮眠を取った)到着したが、睡眠不足は否めず、家に入ると息子の布団に潜り込んでしまった。

 

5月14日(日)

前日の雨が嘘のように早朝の大阪は眩しいばかりの朝日に包まれていた。朝5:00に息子宅を出ると、いよいよ四国を目指して走行を開始した。大阪の中央環状線(通称 中環;ちゅうかん)から中国吹田ICに入り、山陽道、瀬戸大橋と進んだ。途中、何箇所かでと遭遇したが、先にフォグランプのバルブを黄色バルブに交換していたため、その効果を実感することができた。
このフォグランプ黄色化(近年の車は、国産、外車を問わずフォグランプが白色化されているため、霧や雨、雪などの悪天候で本来の効果が出されていないと思われる)は、多分に私のポリシーとも言えるが、霧などの悪天候下で視界を確保するための絶対条件と言える。バルブ交換時、黄色が少々濃かったため一抹の不安を感じていた(暗過ぎるのでは?という不安)が、今回の霧中走行で”不安”は”自信”に変えられたのだった。

山陽道から瀬戸大橋に向かう頃から、天気は好天となり、朝日が眩しく感じられるようになった。瀬戸大橋から見える瀬戸内海の景色は正に絶景だった。予定していた訳ではないが、この絶景に誘われて橋の途中にある「与島(よしま)PA」に急遽入ることにした。ここは言わば関東で言うアクアラインの「海ほたる」と同じようなイメージで、橋を渡り切ることなくここで引き返すことも可能なように造られていた。

パーキングエリアに着くと、まだ朝早いせいか、止まっている車はほとんどなく閑散としていた。パーキングエリアの奥には、売店・食堂の入った建物があり、その同じ建物の端の屋上に展望台が設置されていた。

一方建物とは離れた所に小高い丘のような場所があり、そこにも展望場所が設置されていた。とにかく瀬戸内の海は、西も東も朝日に照らされてその色合いを鮮やかにしていた。
実は過去にこの瀬戸大橋を数回走っているはずなのだが、今回非常に新鮮な気分(まるで初めて走るような)で走ってしまったのである。

瀬戸大橋を渡り香川県に入ると、間もなくナビは高速出口を指示して来た。坂出ICである。
今回の四国ドライブの目的は、その景色を堪能することもさることながら私の別ブログで特集している1.「義経伝説を追う」こと。即ち「源義経ゆかりの地」を廻ること、2.「一之宮巡り」をすること。即ち全国にある「一の宮」を巡ること、3.「謎の氏族秦氏の地を巡る<工事中>」こと。即ち「全国に居住したとされる古代渡来人「秦氏」」ゆかりの地を巡ることである。(各特集は後日順次掲載の予定 5月現在)

ということで、この日の第1の目的地は讃岐国(さぬきのくに)一之宮の「田村神社」であった。田村神社は現在も活発に活動を行っているようで、境内も整備され、管理がしっかり行われているようであった。というのも、ご存知の方もいると思うが、一之宮とは名ばかりで、今は忘れ去られたような廃社のような状態の所も結構ある。「〇〇国一之宮」と言われる神社が、「(旧)国(くに)」の中に複数存在する場合、そういう所があり得るのである。

第2の目的地は「源義経ゆかりの地」ということで源平合戦の地「屋島」である。源平合戦の大きな戦場にはおよそ3つの場所がある。1つは現 兵庫県神戸市の須磨に当たる「一ノ谷」、1つはここ「屋島」、1つは現 山口県下関市の「壇ノ浦」である。
屋島の合戦では、義経率いる源氏は、摂津国(せっつのくに;現 大阪府)から船で阿波国(あわのくに;現 徳島県)勝浦に上陸し、陸路、讃岐国屋島へ攻め入った。平家は当然ながら源氏による海からの攻撃を想定していたため、正に寝耳に水で、源氏による奇襲もさることながら義経の活躍により散々のていで辛くも瀬戸内海に逃げることになった。
「屋島」はそういう場所であり、義経ゆかりの場所、品物などを見学したのだった。

屋島を後にすると、次は平家が立てた天皇「安徳(あんとく)天皇」の仮御所とされる「六萬寺(ろくまんじ)」(香川県高松市牟礼町)に行って見た。ナビの指示通り進んで行くと、ナビゲーションが終了しても車を置く場所が見つからず、寺の近所を行ったり来たりしてしまった。何とか寺の直ぐ脇に小さな駐車場を発見し、寺の脇の入り口から境内に入った。この日は安徳天皇のお祭り日とのことで、境内にはテントが張られ、祭りの準備が行われていた。祭りは午後1:00からということだったので、残念ながら祭りを見ることはできなかったが、本堂脇の厨(くり)の廊下に並べられた祭りの道具や着物などを見ることができた。

本堂の脇に小さな祠があり、

その脇に「安徳天皇生母徳子之碑」と書かれた石柱が建てられていた。安徳天皇の母、徳子は周知の通り平清盛の娘であり、源平合戦後、京都大原の寂光院(じゃっこういん)に隠棲して終わったことから、ここには安徳天皇ゆかりという意味で碑が作られたのだと思う。

六萬寺の次は、義経の愛人「静御前(しずかごぜん)」ゆかりの地「長尾寺(ながおじ)」である。

当寺には静御前が出家する際に剃髪し、その髪が埋められたのが剃髪塚となって保存されている。

また寺から数分歩いた所に「鼓淵」が、

更に数分の所に静の母「磯野禅尼之墓(いそのぜんにのはか)」とされる碑が残されている。

静御前ゆかりの地を後にすると、香川県から徳島県に移動することにした。R11を南に下るように進むと、徳島県鳴門市に入る。鳴門市を山の方に進み県道41号を行くと、やがて阿波国一之宮「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」に行き当たる。
ナビに従って走ったところ、県道41号を走ることになったのだが、この道が結構細くなったりカーブがきつかったり、楽しい山道を走ることができた。駐車場はかなり広く、更に駐車場の奥には神社の直ぐ近くに造られた別の駐車場があった。この神社も神主が常駐しているらしく、綺麗に整備され、清掃もきちんと行なわれていた。

大麻比古神社を終了し、次の神社「八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)」を目指すことにした。神社の参道を真っすぐ出て行くとかなり楽な道が繋がっていることが分かった。一般道を少し走り、また山道を上ることになったが、今度は先の神社より山の中に入ることとなった。対向車が来るとすれ違うことができないような山道(それでも舗装はされていた)を小さな標識に従って上って行くと、やがて鳥居が見え、その脇にスペースがあったため、駐車させてもらうことにした。
神社は鳥居からかなりの数の石段を上ることになっていた。鬱蒼と茂った樹々が陽の光を遮っているためか、石段には苔が生え、気を付けないと滑りそうな所が各所にあった。何とか石段を上り切って、上の鳥居を潜ると綺麗に掃除された境内があり、本殿もこじんまりとはしていたが綺麗な建物があった。しかし、ここには神主が常駐している訳ではなさそうで、社務所は閉じられたままだった。

次に行ったのは「上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)」だ。前の八倉比売神社からこの神社までも道は一般道の県道21号を走ることになった。ただ、今回は先ほどよりきつい山道ではなく、比較的「里の道」状態だったため、精神的負荷は少なかった。

上一宮大粟神社も駐車場などは特になかったが、鳥居付近に何台かの車が止めてあったため、私も仲間に入れてもらうことにした。

鳥居から本殿まではまたもかなりの坂道とその上方に石段が造られていた。本日2度目の長い坂と石段に、正直、翌日の筋肉痛(年寄りは翌々日という話も・・・)が頭をよぎりながらも、本殿目指し鳥居を潜ったのだった。流石に上り出しの坂道は整地されはしていたものの、頻繁な整備は成されていないようで、草が其処此処に生えていた。後半部の石段は特筆することはなく、ただ上るのにきつかった。

何とか上り切って境内に立つと木造の古い本殿が目の前にあった。しかし人気はなく、神主も常駐している様子はなかった。
帰りは、通常もと来た道を戻るものだが、手すりなどもない階段と坂道を降りるのはチョット不安を覚えたため、脇道を探したところ、車でも登れそうな緩やかな舗装路を発見した。早速この道を降りたところ、何と参道入り口の鳥居の横に出たのだった。最初からこの道を選択すればよかった。。。と思ってしまったのは言うまでもない。

この日の最後に行ったのは「一宮神社(いちのみやじんじゃ)」であった。県道21号を徳島市方向に30分ほど進むと、やがて道の右側にその神社が現れた。ところが駐車場が見つからず、行ったり来たりを数度繰り返し車を止められそうな場所を探すが、なかなか見つからない。最終的にお遍路さん用に造られている駐車場に、そっと置かせてもらい、大急ぎで神社に行って来ることにした。
神社は木造の本殿で国指定の重要文化財だそうである。道の反対側にある大日寺四国八十八箇所霊場第十三番)には結構参拝客が来ていたが、こちらの神社には人影が見えなかった。

神社から車に戻ると、この日宿泊するホテルを探した。ネットで検索した結果、徳島県庁隣の「徳島グランヴィリオホテル」に宿泊することにした。JR徳島駅周辺の方が、やはり色々なホテルがあるのは分かっていたが、逆に駐車場に車を入れるのが面倒な可能性があり、周辺の道路もこみいっていることが考えられたため、敢えて駅傍を避けたのである。
一宮神社からホテルまで30分ほどで着くことができた。県庁隣という立地条件は、分かりやすい反面近所に飲食店が少ないというお約束のようなものがあり、ここもご多分に漏れてはいなかった。チェックインを済ますと部屋に入ったが、シングルとはいえ、十分過ぎる広さで少々驚いたものである。

さて今回のドライブでは、ほぼ毎回(高速、下道を問わず)ACCを使用することができた。一般道でも、街中と山道ではACCは使い難いが、少し郊外の平地に出ればそれは可能になる。あくまでこれは個人的な感想ではあるが、ドライブの疲れはACC使用で相当軽減されていると思われた。

走行距離、燃費データは以下の通りである。

<5月13日>給油場所:大阪
給油時走行距離:492.7km、給油量:28.1L、燃費:17.5km/L

<5月14日>給油せず。

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北欧スウェーデンとデンマークの旅(その4)

2017年05月26日 | ドライブ

2016年10月12日ー13日

北欧旅行最終日はコペンハーゲン市内観光。そして夜には帰国の途に就かなくてはならなかった。

コペンハーゲンで宿泊したホテルの朝食は、地下にある食堂で、やはりバイキング形式の朝食をとることになった。ここでのチーズもスウェーデンでのそれと同様に、種類が豊富で美味しかった。
朝食を食べ終わると部屋に戻り、荷物をまとめてチェックアウトをした。ホテルのフロントは、チェックアウトの客と、丁度到着したチェックインの客でごった返していた。何とかチェックアウトの手続きを終わらすと、ホテルに荷物を預けて市内観光に出かけた。
市内観光は歩いて行ける所が原則となった。一部公共交通使用も考えられたが、基本的には”徒歩”とした。

ホテルを出ると、先ず向かったのは「コペンハーゲン中央駅」だった。時間は朝の通勤時間に当たっていたせいか、駅に到着する路線バスが多く見られた。

また、駅構内に入るとここにも多くの人影が見られた。「多くの人影」とは言っても、東京で普通に見られる通勤時間帯の「人影」とは当然ながら数が違う。単純に比較するなら、この時見られた人の数は、さしずめ新宿駅の深夜、終電前位の感じではないだろうか。

駅の構造として、駅構内は1階にあり、ホームは地下にある構造のように思われた。ホームに降りた訳ではないが、ホーム番号を示す表示が写真のように階下へ降りる階段を示していたのである。

コペンハーゲンで有名な観光施設の1つとして「チボリ公」がある。駅を後にすると間もなく、この公園が現れた。公園の入り口には、もうすぐやって来る「ハロウィン」の飾りがされていた。

残念ながらこの日は定休日に当たっていたようで公園の門は閉ざされていたが、この時はまだ朝早い時間のため開園前と思っていた。定休日と分かったのは帰り道、ホテルに向かっている時に再び公園の前を通った時だった。

公園の前を通り過ぎ、道を渡った反対側の通り沿いには、かの有名な「アンデルセン」(アンデルセン童話)の像があった。デンマークを代表する有名人の像が街角、しかも比較的大通りに面した歩道にあまり目立たない感じで置かれているのが、コペンハーゲン、否、デンマークらしいと思ってしまった。

大通り沿いのアンデルセン像の後ろにコペンハーゲン市役所があり、

その裏側に通る路地のような道を進むと

聖母教会」があり、

さらに進むと「ストロイエ」という広場のような場所に出る。ここは歩行者専用の場所のようで、車の姿は納品などの商業車も見えなかった。

さらに進むと「アブサロン大司教の騎馬像」があり、

その先には「トーヴァルセン美術館」(写真手前建物)が、その隣には「クリスチャンスボー(クリスチャンボー)城」(写真奥、塔のある建物)があった。

この城は現在デンマーク王室及び政府が迎賓館として使用しているそうである。

城の前には国王フレデリク7世の騎馬像が迎える形となっている。

この国の全ての城がそうなのかは知らないが、取り敢えずコペンハーゲン市内にある城・王宮は高い壁だがそこに幾つもの窓があり、多くの部屋が作られたものと想像された。少なくとも中世ヨーロッパ(特に英・仏・独など)の城として紹介されるものとは異なる容貌だった。差し詰め日本で例えれば、京都にある現在の「二条城」と同じような意味合いなのかも知れない。

城を出てシュドハウネン河に沿って北上すると、「ニューハウン」という地区が現れる。写真でも分かるように、川沿いに立ち並ぶ建物はカラフルな色合いをしており、観光地としても有名である。飲食店やアンティークショップなどが軒を並べ、コペンハーゲンで最も活気のある町と言われている。

橋の欄干に沢山の錠前が付けられていた。多分、日本で言えば絵馬かお御籤と同じなのかも知れない。

更に進むと「アマリエンボー宮殿」に行き当たる。

ここは現在もマグレーテ2世(女王の住まいとなっていて、女王が在宮の時は、屋根の上のポールに国旗が掲げられるそうである。そういえば、この時も国旗が掲揚されていたように思う。女王が在宮されていたのかも知れない。

大きな広場を囲むように建物が造られていて、

広場の奥には「フレデリクス教会」とそこに繋がる参道(?)があった。

広場の中央には宮殿の造営者である「フレデリク5世の騎馬像」があり、教会に向かって建てられていた。

そうこうしている間に、観光名物ともなっているようである、衛兵の交代式が始まり、観客(多くの観光客:ここで今回初めて日本人ツアーにも遭遇した)の列に加わることにした。

衛兵の交代式」のイメージとして、私は衛兵が城内の各所にいるその場所でそれぞれ交代の儀式をするのではないかと思っていたが、それだけではなく、ブラスバンドによる演奏などもあり、かなり観光客を意識したパフォーマンスと思われた。交代式は毎日正午から行われているらしい。
交代式を見学した後宮殿を後にすると、更にシュドハウネン河に沿って進み、有名な「人魚姫の像」を目指した。

やがて「カステレット要塞」の公園に着くと、川沿いを進み、

ようやく目指す「人魚姫の像」に出会うことができた。しかし、観光名所のここにはかなりの観光客が集まり、それぞれ記念写真の撮影を行っていた。記念撮影の合間を縫って私の撮ったものが写真である。
流石にこの観光地は各国のツアーにも含まれているようで、観光船に乗った中国のツアー客も盛んに川側から写真を撮っていた。

人魚姫を後にすると、オスタポート駅の側に出てオスター・ヴォルト通りをコペンハーゲン中央駅方向に進み、途中「ローゼンボー宮殿」を見てからストロイエに戻り、チボリ公園の脇を通ってホテルに戻った。
20,000歩以上を歩いてコペンハーゲンの街を歩いたためかなり疲れてしまい、ホテルのラウンジで暫く休憩してからタクシーで空港に向かうことにした。
ホテルに頼んでタクシーを手配してもらうと、やって来たベンツEクラスのワゴンタイプに乗り込んで空港に向かった。

夕方7:00発のドーハ(カタール国)行きでデンマークの地を発つと往きと同じルート、ドーハ乗り換え羽田着で無事帰国することができた。

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北欧スウェーデンとデンマークの旅(その3)

2017年04月26日 | ドライブ

2016年10月11日

スウェーデン滞在は今日が最終日。今晩にはデンマークの首都コペンハーゲンに戻らなければならない。
今日は、今回の旅行の1番の目的地「SAAB CAR MUSEUM」を訪問することが最大の目的だ。ミュージアムの開館時間は11:00am。ヨーテボリから「SAAB CAR MUSIUM」のあるトロールヘッタンまでは、E45ルートで約1時間。つまり11:00amの開館に間に合うようにするには、多少余裕をもってホテルを9:30am位に出れば良いことになる。

そこで先ずは朝食をとることにした。昨日同様”モーニング”はホテルのバイキングである。


チョット朝からハイカロリーとは思ったけれど、とにかく美味しいからついつい取りすぎてしまった。(笑)


食後部屋に戻ると、一休みしていよいよ出発である。2泊したこの部屋ともこれでお別れ。これからトロールヘッタンを経由して、デンマークのコペンハーゲンに戻る。


E46を走行中。今日も天気はどんよりと曇っている。


約1時間かけて「Saab Car Museum」に到着した。


到着は11:00amより少し前だったので、まだ開館していなかった。
このミュージアムは、勿論SAAB社が造ったものだが、同社が無くなってしまった今は、トロールヘッタン市(?)が買収して経営していると聞いている。要は「お役所」なので、時間もきっちりしているのではないかと思ったが、後で受け付けのお兄さんの愛想の良さに、もしかすると民間に管理運営を委託しているのかも知れないと思った。

 

この9-5モデルは、ギリギリ日本でも発売されたが、ボディサイズで全長が5mを超えていたことなどからほとんど売れることなく終わった感がある。


日本では発売されなかったが、スバル(旧富士重工)がGMに買収された時、スバルで製造されたインプレッサベースのSAAB9-2。


このように後ろ姿はインプレッサそのものである。


ミュージアムの外壁に掛けられた垂れ幕。


ミュージアムの外の駐車場にも、ヨーテボリより多くのSAABが生きているように感じられた。

トロールヘッタンを後にすると、今回の旅で玄関口となったデンマークのコペンハーゲンに戻ることにした。


帰路の途中で立ち寄ったパーキングエリアの施設。屋根が茅葺(かやぶき)のようになっていて、まるで日本の田舎にいるかのような錯覚を感じた。


パーキングエリアのVolkswagen PASSAT VARIANT(レンタカー)


VW PASSAT VARIANTの後ろ姿


スウェーデンとデンマークにかけられた橋。

コペンハーゲンに戻ると、空港に向かい、2泊3日の付き合いだったPASSATを返却することとなった。

日本ではレンタカーのルールとして、返却時はガソリンを満タンにして戻すのが通常である。しかし、当地ではその必要はないようで、満タンにしていないことを告げると、特に問題なく返却を受け付けてもらえた。

今回の総走行距離:約800km、消費ガソリン: 約44.3L、燃費:約18.0km/L

上の数字を見て、私は驚いてしまった。日本車のハイブリッド車や軽自動車などでは当たり前のように宣伝される数字だが、まさかあの「VW」でもこのような数字が現実のものとして出されるとは信じられなかったのである。
そこで、携帯したノートパソコンで「Volkswagen PASSAT VARIANT」 を日本のサイトで調べてみたところ、エンジンは1,400ccのターボで、パワー:150ps、トルク:25.5kgm、JC08モード(日本の燃費基準):20.4km/Lとなっていた。本国仕様と日本仕様では多少の違いがあるとは思われるが、基本的仕様はほぼ同等として良いのではないかと思った次第である。
近年、欧州車ではダウンサイジングが進んでいるということはそれとなく知っていた。そして日本に入って来る欧州車、特にVWでダウンサイジング(低排気量化)が進んでいることも知っていたが、往復約800kmの道程を無給油でしかもガソリンメーター上で約4分の1残して返却したのには、本当に信じられない思いだった。しかも、乗っていてパワー不足を感じることは1度もなかった。これだけ走ることができるのであれば、わざわざハイブリッド車を考える必要はないのではないかと思ってしまった。 

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北欧スウェーデンとデンマークの旅(その2)

2017年04月18日 | ドライブ

2016年10月10日

ヨーテボリ滞在1日目は、当初、今回の旅行の最重要ポイントである「Saab Car Museum(サーブカーミュージアム)」を訪問する予定だったが、インターネットで調べた所、毎週月曜日は”休館日”ということが判明した。仕方なくヨーテボリ市内の観光に切り替えることにしたが、ここでも問題が発生した。つまり、市内にある美術館や博物館が同じように”月曜休館”だったのである。唯一助かったのは「VOLVO Museum(ボルボミュージアム)」が開館していたことだ。

この日のビジョンは、1.「ボルボミュージアム」を見学すること。2.ヨーテボリ市内観光すること。に決定となった。

ボルボミュージアムの開館時間は10amから5pmということなので、その前にまずホテルで朝食をとることにした。 


ホテルの朝食はバイキング形式で、十分な種類の料理とボリュームだった。特に印象に残ったのは、北欧特産と言っても良いだろう”チーズ”である。海外のアニメによく出てくる、あの”穴開きチーズ”や香草入り、スモークなど色々あった。

朝食を済ませると、部屋で一休みしてから第1の目的地「ボルボミュージアム」を目指してホテルを出発した。「ボルボミュージアム」はホテルから車で20から30分位の距離にあり、ボルボ関連企業(?)が集まった企業団地のような地区の中にあった。勿論ボルボ本社もこの中にあるはずだが、どのビルがそうなのかは分からなかった。

「ボルボミュージアム」に着くと、すぐ近くのパーキングに車を置き、早速ミュージアムに入ることにした。余談だが、街中のパーキングは別として、郊外部のパーキングは基本的に大方が無料らしい。このミュージアムのパーキングも無料だったが、逆に言うと空いているスペースに適当に停めることになっているらしい。。。と勝手に解釈したが、本当は違っていたのかも知れない。
「ボルボミュージアム」に入ると先ず入館料「大人:100SEK(スウェーデン・クローネ)」をクレジットカードで支払うことになる。勿論キャッシュ(現金)も可能だが、当国では非常にカード文化が進んでおり、前記事「北欧スウェーデンとデンマークの旅(その1)」でも紹介の通り、例えばコンビニでアメ1つ購入するのもカードで行ける国なのである。
支払いを済すと、示された順路に従って展示室に入った。
 
壁に示されたVOLVOの年表には、1927年4月14日生産開始になったと書かれていた(多分)。その年表に沿うように往年のVOLVO CAR達が展示されていた。
 

「ボルボミュージアム」からヨーテボリ中央駅の宿泊ホテルに戻ると、今度は第2の目的「2.ヨーテボリ市内観光すること」を実施することにした。

ヨーテボリの中心部を観光するには、徒歩が丁度良かった。街の様子や駐車場のことなどを考えながらではとても車で移動するのは大変である。徒歩ならゆっくりだが、景色や行き交う人々の様子なども楽しむことができる。買い食いなどを楽しむことができるのは徒歩所以である。

ということで、先ずやって来たのが「グスタフ・アドルフ広場」だった。この像は”30年戦争”でスウェーデンを勝利に導いたグスタフ2世アドルフ(スウェーデン王)の像で 、広場の中央に建てられている。


広場の近隣の街並み


流石にスウェーデン。既になくなってしまった「SAAB(サーブ)」や今なお頑張っている「VOLVO(ボルボ)」が何気なく路駐されている。


港にあった”寿司屋さん”


ここでも懐かしの「SAAB9-3」を2台発見。どちらも「赤」。手前右と左奥から3台目。


先ず手前右。ノーマル「9-3(5ドア)」


そして左奥3台目。「9-3(5ドア)」フロントマスクとホイールを艶消し黒に塗ってます。


右手の三角屋根は「魚市場」。


何という鳥かわからず、ググってみたところ「カササギ」と分かった。


ハーガ教会


ハーガ地区。「ヨーテボリの原宿」と言われるとか。。。


ハーガのほぼ真ん中にある「Cafe Husaren」は巨大なシナモンパンで有名とか。


巨大なシナモンパンは、評判通り非常においしかった。


大聖堂

まだまだ市街全てを歩いた訳ではないが、それでも数時間歩き、かなり疲れた。ホテルに戻り一休みしてから、夕飯を食べにホテルの近所の飲食店に行ったのだった。

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北欧スウェーデンとデンマークの旅(その1)

2017年03月08日 | ドライブ

2016年10月8日ー9日

私にとっては久々の、そして初めての北欧旅行に行って来た。勿論、格安航空券を入手し、できるだけ”ケチケチ旅行”を心掛けたのだが、やはり根が贅沢にできているためか、結果的には余り”ケチケチ”にはなっていなかったと反省している。とはいうものの、ケチケチに徹底してしまうと気分良く旅行を楽しむこともできず、北欧の印象も大したものにはならなかったかも知れない。
何はともあれ、5泊6日(機中2泊)のショート旅行を、「羽田ードーハ(カタール)ーコペンハーゲン(デンマーク)ーヨーテボリ(スウェーデン)-コペンハーゲン(デンマーク)ードーハ(カタール)ー羽田」のルートで行って来た。

東京近郊で国際空港といえば、通常は「成田空港」ということになるのが普通と思っていたが、最近は「羽田発」というパターンも登場するようになったようである。
夜11:00に羽田空港の国際線ターミナルから「カタール航空」の「ドーハ」行きに搭乗すると、一路カタールの首都ドーハを目指した。安い飛行機代を実践するには、当然ながら座席は”エコノミー”であるべきである。しかし現実はなかなか厳しく、搭乗した機材のエコノミーシートは座面が固く、尻の痛さと闘いながらの長時間フライトとなった。

カタール」は正式には日本語で「カタール国」と言い、アラビア半島東部ペルシア湾に面したカタール半島のほぼ全域を国土としているようだ。首都は「ドーハ」でここにある「ハマド国際空港」は、中東のハブ空港の一つとなっているようだ。
ドーハ(ハマド国際空港)でコペンハーゲン行に乗り換えるのだが、乗換えまでの待ち時間は約1時間半であったため、ドーハの街を散策する余裕はないものの、空港内を少し歩き回ることはできた。空港内の広いロビー中央には、大きなクマ(?)の”ぬいぐるみ”が置かれている一方で、

コーナーには”カウンタック”や

”フェラーリ”といったスーパースポーツカーが展示されていた。同じアラビア半島の国「アラブ首長国連邦」の「ドバイ」を意識しているようにも思われたが考え過ぎだろうか。

再び搭乗したコペンハーゲン行の「カタール航空」機は、再度私を固いエコノミーシートで迎えてくれたのだった。「デンマーク」の「コペンハーゲン」に着いたのは現地時間の朝10:00頃だった。

入国手続きは簡単なパスポートのチェックで終わり、晴れてデンマークの地を踏むと、早速レンタカーを借りるために、空港のレンタカー会社「ハーツ」の窓口に向かった。レンタカーの予約は日本にいる間に、インターネットで予約しておいたため、手続きは簡単に終わるはずだった。しかし、予約しておいたのはマニアルシフトの車だったため、いざ車を借りる時になって急に不安になってしまった。マニアルシフトそのものはまだ良いにしても、慣れない土地での右側通行。標識さえ旨く読めない。そんな状態の中でマニアルを操るのは、少々不安である。オートマチックの方が運転に使う神経は軽くなる。そんな理由から、急遽オートマチック(AT)車に変更することにした。

できればお膝下ともなる「サーブ(SAAB;本当はこの車が一番の希望だった)」か「ボルボ(VOLVO)」にしたかったのだが、前者は選択肢がなく、後者はレンタル代が高額となるため、フォルクスワーゲン(Volkswagen;VW)のパサートヴァリアント(PASSAT VARIANT;パサートのワゴン)を借りることにした。

 

10月9日(日)

ルート:コペンハーゲンデンマーク)空港-E20-E6-ヨーテボリスウェーデン

この日の宿泊地は、スウェーデン第2の都市「ヨーテボリ」である。コペンハーゲンの天気は「曇り」で気温は不明だが寒かった。
コペンハーゲン空港を出発すると、デンマーク、スウェーデンの国境を渡るE20(無料高速道路)に乗った。ドイツアウトバーンならいきなり”かっとび”になるのかも知れないが、こちらでは110から120km/hが制限速度だ。分からない土地で目立った行動は慎んだ方が良さそうである。周りの車の速度に合わせてノンビリ走って行くと、やがてデンマーク、スウェーデン国境に横たわる海峡に渡された長い橋が見えて来た。
橋を渡り切ったスウェーデンの入り口で国境検問所を通過することになった。ある情報では、近年外国からの移民が増えており、スウェーデンの社会保障制度の問題となっているそうである。その他にも治安的に問題となって来ているのかも知れない。そんなこんなで、スウェーデンとしては”人間の流入”をチェックしなければならなくなったようである。あとでも記す予定だが、コペンハーゲンに戻る時はこの国境通過はノーチェックだった。
さて、無事国境を通過し、スウェーデンの地に入ると間もなく道路はE20からE6を進むことになる。”E”の付くルートナンバーは基本的に高速道路のはずだが、所により一般道と区別がなくなり、信号やロータリーが突然現れることがある。取り敢えずこの日のコペンハーゲン、ヨーテボリ間ではそのようなサプライズには遭遇することがなかった。考えてみれば「高速道路には信号がない(トンネル入口など一部の例外を除いて)」と思うのは日本人の感覚であって、当地では高速道は無料なので一般道が部分的に存在してもおかしくないのかも知れない。
それにしても当地の高速道は走り易かった。何がそう感じさせるのだろうか。1つは、道路際のガードレール等がなく、圧迫感を感じない、2つには、行程のほとんどが日本のように盛土や架橋などで造られていない、3つには一車線の幅が日本より広い(のかも知れない)、4つには絶対的な車の数が少ない。そして何より、道路がほとんどフラットなため、クルーズコントロールがその威力を良く発揮できるのである。

凡そ3時間半で宿泊地であるヨーテボリの街に着くことができた。ヨーテボリの天気も曇りで、気温は車の”外気温計”で8度Cとなっていた。当初より気になっていた右側通行での走行は、高速道は勿論、一般道になり、街中に入っても殆ど気にならないほどしっかり反対車線と分離されていたため、全く問題なく目的地に着くことができた。
ヨーテボリ中央駅のすぐ近くに予約していた「ホテルラディソン」にチェックインし、一休みすると、ホテルの周辺散策と夕飯調達のため街に出ることにした。

ホテルを出ると、駅周辺の街は既に夜のとばりが降り始めていた。日曜日の夕方ということもあったのかも知れない。人通りは少なく、正に地方都市の夕方を感じさせた。駅周辺の店々も既にシャッターを下ろしているところ、”closed”の表示を出している所などが多くウィンドウショッピングもままならない状況に、やや焦りを感じ出した。飲み屋やレストラン、ファーストフードの店などはまだ営業していたが、結局どれも入る気にはなれず、コンビニで夕食を調達するとホテルに戻ることにした。因みに、彼の地はクレジットカードが浸透した社会になっているようで、コンビニでの少額の買い物にもクレジットカードを使用することができたのは、私にとって嬉しい驚きだった。

続く

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神々の地-霧島・大隈(鹿児島県)-(下)

2016年03月19日 | ドライブ

9月30日

コース:民宿なぎさ-県道566-県道68-R269-南蛮船係留の大くす-R269-R220-桜島港フェリーターミナル-鹿児島港フェリーターミナル-鹿児島市街-仙厳園-鹿児島西IC-南九州道-薩摩川内都IC-R3-新田神社(可愛山陵)-R3-薩摩川内都IC-南九州道-鹿児島西IC-鹿児島IC-九州道-溝部鹿児島空港IC-R504-R223-史跡洞窟 日本武尊 熊襲隼人-R223-祝橋温泉-R223-R504-鹿児島空港-成田空港-我が家

いよいよ最終日の朝である。
早朝、目を覚ました我々夫婦は、民宿の目の前の海岸を散歩しに出かけた。朝の海風が優しく吹いていて気持ちが良かった。丁度朝陽が東の空を明るく染め出して、海岸の景色も夜から朝にお色直しを始めていた。
散歩から帰ると、民宿の朝ご飯ができていて、直ぐに朝食を食べることができた。漁師さんのやっている民宿らしく、魚介類の新鮮さは最高だった。
荷物をまとめると、出発の準備に入った。

宿を出発して少し行くと、南大隈町の町中に入る。ナビの指示に従って進んで行くと、橋を渡った交差点の目の前にかなりの樹齢と思われる大木が1本目に入った。木の根元には「南蛮船係留の大くす」と題する説明版が立ててあった。説明には「南蛮船係留の大くす 町指定文化財(天然記念物)昭和43年12月10日指定 今から約500年前の頃、雄川の河口はこのあたり(木のある付近)まで水も深く天然の良港であった。唐や南蛮、琉球の船が出入りする貿易港で入港した異国船はこのくすにともづなを結び珍奇な交易品を荷揚げしたと伝えられている。また唐船と南蛮船との間に争いが起こり池端弥次郎重尚がこれを仲直りさせようとして唐人の火矢に当たって戦死したと古い記録に見える。 この頃この附近一帯には唐人町もでき港は繁栄した。この大くすは樹齢約千年を重ね、南大隈町根占の栄枯盛衰の歴史を見守ってきた老木である。 大事に保護していこう!! 平成8年2月 南大隈町教育委員会」と書かれていた。

大くすを後にして更に海岸線を北上すると、やがて桜島に到達する。一昨日宿泊した「桜島シーサイドホテル」の前を通過し、「桜島フェリーターミナルに出る。
当初”フェリーは高い”という先入観があり、湾に沿って陸路を行くことしか考えていなかった。しかし、考えていたよりも1桁ほど安いということが判明し、しかも今回借りているトヨタの「ヴィッツ」は、全長3,885mmと4mを切るため、フェリー料金も千数百円とメチャ安であった。ならば・・・ということで、鹿児島港までのフェリーをチョイスすることになったのである。
公営のフェリーということで、その料金は非常にリーズナブルで、住民の足として繁用されているようである。
フェリーの船内で小腹を満たしてくれたのが写真の”うどん”である。Wikiによれば「やぶ金」といううどん屋らしい。”さつま揚げ”が載せられたものだが、結構いけるものだった。
鹿児島港までは僅かな時間だったが、天気も良く、非常に気持ち良いクルーズができた。

鹿児島港に着くと市内を目指した。嫁様のお約束である”お買い物”タイムである。
市内のスーパーを2カ所ほど見て回り、地元の美味しそうな産物を手に入れると少々早目の昼食を摂り、島津公ゆかりの庭園仙厳園(せんがんえん)に向かった。
鹿児島には仕事を含め数回来ているが、当地は初めてだった。錦江湾沿いに造られたこの公園(?)はWikiの「仙巌園」によれば「鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩島津氏の別邸跡とその庭園。別名磯庭園(いそていえん)。敷地面積は約5ha。」とのこと。非常に贅沢な場所に、贅沢に造られている。
尚、同園には”世界文化遺産”となった「製鉄・鉄鋼」「造船」の施設が併設されている。

「仙巌園」の入口 写真後方が駐車場となっている。駐車場には、何台かの関西ナンバーも見られたが、流石に関東ナンバーは発見できなかった。

 

 

 

博物館「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」 「仙巌園」入口の直ぐ左手にあった。

 

 

 

 

「磯庭園」の入口 「仙巌園」が別名「磯庭園」と呼ばれる所以である。

 

 

 

 

「猫神」神社 解説によれば、「猫神(ねこがみ) 猫神は朝鮮出兵の際に従軍した猫を祀る祠(ほこら)です。17代島津義弘(よしひろ)は、陣中で猫の瞳孔(どうこう)の開き具合をもとに時刻を推測したと伝えられており、「時の神様」といわれています。また、百日咳(ひゃくにちぜき)に御利益があるともいわれています。」とのことである。

 

「島津義弘公所用鎧写」 第17代藩主 島津義弘公の鎧(よろい)のレプリカ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「仙巌園」を後にすると、今回の”天孫降臨”シリーズ最後(?)となる天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと;天津日高彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみこと))」を祀る新田神社(にったじんじゃ)」可愛山陵(えのやまのみささぎ)」に向かうことにした。
鹿児島県薩摩川内市にある「新田神社」は薩摩の国の一の宮とされ、 その「本殿」「拝殿」「舞殿」「勅使殿」「両脇摂社」は県の指定文化財とされている。解説板には「鹿児島県指定文化財 新田神社本殿 拝殿 舞殿 勅使殿 両脇摂社 平成二年三月二十三日指定 新田神社は薩摩国一宮(さつまのくにいちのみや)とされ、古くから薩摩国を代表する神社です。創建は神亀二年(725)など諸説ありますが、はっきりしたことは分かっていません。 社殿は、中腹にありましたが、承安三年(1173)に消失後、安元二年(1176)に山頂へ遷座され、その後、慶長六~七年(1601~02)、島津義久の命により、現社殿のもとになる改築が行われました。本殿・幣殿・拝殿・舞殿・勅使殿が一直線に並び、本殿両脇に摂社を置き、互いに回廊でつなぐ配置は県内唯一です。また本殿は、仏教寺院の建築様式と類似しており、神仏習合の名残が窺えます。 平成二十一年十二月 薩摩川内市教育委員会」と書かれていた。
階段を上った正面(勅使殿)の手前に置かれた狛犬は珍しい「子だき狛犬(安産狛犬)」として「この子だき狛犬は昔から安産に大変霊験ある狛犬と言われております」と解説されていた。「阿(あ)」「吽(うん)」の両犬とも子を抱いている。

 

 

「可愛山陵」は「天孫瓊瓊杵尊」の墓所とされているが、今回の旅行で初日(9月28日)に行った「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)」と同様宮内庁の管理下にあり、特に解説板などは見当たらず、ただ立ち入りを禁止する立て看板があるだけだった。
「高屋山上陵」「吾平山上陵」「可愛山陵」神代三山陵とされているとのことで、今回の旅では3つとも見て回ることができた。

新田神社、可愛山陵を後にすると、飛行機搭乗までの時間調整の意味も含めて、温泉を楽しむことにした。ここで目指したのが、空港からあまり遠くない鹿児島県霧島市にある祝橋温泉という所である。
温泉に向かう途中で「史跡洞窟 日本武尊 熊襲隼人」の看板が目に入り、急遽寄ってみることにした。正直、当地は予め調べてあった訳ではなく、全くの飛び込みで寄ったため詳しいことが分からないまま見学に入ってしまった。
とはいうものの、実はこの地にはある意味有名な話が残されている。古事記、日本書紀ともにほぼ同じような話を載せており、概略はWikipediaをご参照戴きたい。とにかく、この地で日本武尊熊襲建(くまそたける)を討ったその舞台が当地ということである。


そして「祝橋温泉」に着くと早速目に入ったのが「日本武尊祝宴之地」の碑である。先の熊襲猛討伐の地から近い当地に、討伐を祝った祝宴の地があっても不思議ではないと思われた。碑の近くに立てられた解説には「「祝橋」「日本武尊祝宴の地」の由来 古事記・日本書紀によると、景行二十七年(97年)第十二代景行天皇は倭(やまと)朝廷に服従しなかった熊曾(くまそ)の征伐を第二皇子であった小碓ノ尊(おうすのみこと)に命じました。 まず小碓ノ尊は、伊勢神宮に立ち寄られ、女装や短剣などを受け取り持参されました。次に熊曾の住む隼人国分の動静を探るため、牧園麓の当地の裏山にある寺山を本拠地としました。そして熊曾の頭領熊曾タケルの新築祝いに女装して紛れ込み、短剣で征討されたということです。以降、尊は日本武尊(やまとたけるのみこと)と称されるようになりました。 見事、目的を果たされた尊は本拠地に戻られ、ここ祝橋温泉入口の橋付近で祝勝の舞「久米舞」を踊られたと伝えられています。その頃以降、この橋を「祝橋」、また、この地付近を「踊郷(おどりごう)」と呼ばれるようになったと伝承されています。 一句 いにしえの倭(やまと)の時代(みよ)の久米舞(くめまい)の 昔へいざなう祝橋かな」と書かれていた。
この「祝橋」のすぐ横に「祝橋温泉」があり、宿泊もできるようだったが、今回は日帰り利用にさせてもらった。ここの温泉は「単純泉」ではあったが温度も丁度良く、鹿児島旅行最後の”一っ風呂”には最高の締めとなった。

鹿児島という土地を訪れたのは、過去にも何度かあるが、正に「神々の地」を実感したことは今までなかった。そういう意味で、今回の旅行はいつもとは一味違った趣の旅をすることができた。

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神々の地-霧島・大隈(鹿児島県)-(中)

2016年03月03日 | ドライブ

9月29日(月)

コース:桜島シーサイドホテル-R224-県道26-月読神社-県道26-R220-県道68-七狩長田貫神社-県道68-吾平山上陵-県道68-鵜戸神社-県道73-県道520-大塚神社-県道520-県道542-県道561-県道68-県道561-R269-県道68-県道566-御崎神社-佐多岬-民宿なぎさ

前日の降灰は朝には止んでいた。そこで、是非とも露天風呂を味わおうと、ホテルの海側にある露天風呂を目指した。風呂までの道は完全に灰で覆い隠されている状況だった。海岸縁に造られた露天風呂は、正に”灰の中にある風呂”状態だった。

風呂に入ると、当然ながら湯船の底には灰が堆積していたが、湯温は丁度良く、目の前に広がる錦江湾の景色は最高だった。温泉は元々の湯質がそうなのか分からないが、とにかく白濁していた。多分灰による白濁ではないように思われたが良く分からない。温泉に入る時は特に問題はなかったが、湯から上がる時が問題となった。写真でも分かると思うが、湯船の周り全てが灰に覆われているため、バスタオルは勿論、下着や浴衣まで迂闊に床に置けないのである。しかも湯に浸かった足は濡れているため、足も迂闊に床に置けないのである。混浴風呂とはいえ、他の人が居なくて幸いだった。かなり苦労して湯から上がり、部屋に戻ると朝食をとった。

ホテルを出発する段になり、車の所に行くと、車は想像通り灰塗れになっていた。雪が積もっているのであれば、対処はまだ楽かも知れない。灰に水分は禁物とホテルの人にいわれ、”ほうき”や”はたき”でひたすら払い落とすようにした。見ていたホテルの人は、「この位の灰なら、屋根の灰は走れば飛ぶから。」とアドバイスしてくれた。その言葉を信じて、というより信じざるを得なかった。何しろ地元の人の言うことは経験から来るので重みも違う。言葉通り、屋根の灰は落とさずそのままホテルを後にした。しかし、後悔は後からやって来た。確かに走ることにより、屋根の灰はある程度は風で飛んだようだが、ドアの開閉やリヤウィンドウなどに屋根に残った灰が落ちて来るのだった。
当地”桜島”は勿論、湾の対岸の人達などもこの降灰には慣れていて、その付き合い方も良くご存じのことと思われるが、我々他所者にとっては、相当厄介な現象だった。
ホテルの前から火山を見上げると、この日も火山は元気に煙を上げていたのだった。

さて、島内にある施設の中でできれば外したくない神社が月読神社(つきよみじんじゃ)」だった。「月読命(つきよみのみこと)」は日本神話によれば、「イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐)から天照大神と共に生まれた”月の神”とされている。同じ兄弟で「天照大神」、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀る神社は多いが、「月読命」を祀る神社は珍しいのである。
今回の旅は”天孫降臨の神々詣り”が一つの大きなテーマでもあり、そういう意味からこのような珍しい神社を詣でから外す訳にはいかなかった。

メインの道の四つ角を曲がると直ぐの脇道に入り、神社の駐車場まで簡単に入ることができた。車を置いて境内に入って行くと直ぐに本殿が目に入って来た。まだ最近修理を行ったばかりなのか、朱色が明るく綺麗に見えた。しかし、よく見ると本殿はガラス張りになっていて、その中にもう一つ建物が入っているようであった。どうも目の前に見える新しい建物は本来の建物を保護する役目のようである。

境内にあった解説によると、「瓊瓊杵命(ににぎのみこと)」「彦火火出見命(ひこほほでみのみこと;山幸彦)」「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」「豊玉彦命(とよたまひこのみこと;少童命(わたつみのみこと))」「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」合祀(ごうし)されているようである。当社の由緒には「和同年間(1,280余年前)の創建と伝えられる。島津家久公により、旧社地西桜島村赤水宮坂に鎮座。その後、二十七代の国主島津斉興公家臣吉田氏の尽力により正一位の神階を賜り明治六年五月、県社となる。 大正三年の大爆発により、社殿共に溶岩の下に埋没。その後、桜島町武に遷座し、更に昭和十五年八月に現在の地(横山)に社殿を新築。平成十二年御社殿、稲荷社、手水舎等の改築と境内地の整備。五社大明神として広く崇敬されている。」と書かれていた。

お詣りを済ますと先に進むことにした。この日の最終目的地は大隈半島の突端佐多岬である。直接目的地を目指してしまえば、昼までには岬に着くことができるだろう。しかし、それでは面白くないし、テーマにも即していない。岬は目指すが、あくまでも最終目的地である。その前に「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」とその妃玉依姫(たまよりひめ)」の眠る吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)」に向かわなくてはならなかった。
特に約束があった訳ではないのだが、ここまで天孫降臨の一族を詣でて来て、神武天皇の父に当たる「鵜草葺不合命」を外す訳にはいかない。この日一番の目的地ともいえるのである。

それにしても、ここ20年ほど国産車から離れていた訳だが、最近の国産車の燃費の良いのには本当に感心させられる。ここまで来ても、ガソリンのメーターはまだ半分は愚か1/4そこそこの状態だった。この調子では、明日の空港での返却まで給油は必要ないかも知れないと思われた。
そんなことを嫁様と話しながら進んで行くと、少々気になる神社が目に入って来た。特に予定していた所ではなかったが、急遽立ち寄ってみることにした。鳥居の横に立てられた石柱には郷社七狩長田貫神社(ごうしゃななかりおさだぬきじんじゃ)」と書かれていた。更に目に付いたのは狛犬の台座の紋が”丸に十の字”、島津家の紋所だったのである。
これは島津家縁の神社かも知れないと思い、中に入って見ると更に最近の作とは思われたが、再び”丸に十の字”の紋が付けられた対の馬の像が狛犬宜しく置かれていた。更に奥には樹齢千年近いクスの木があり、その堂々とした姿に圧倒された。根元に「田崎神社「クス」樹齢約九百五十年」と書かれていた。ここで気づかれた方もいると思うが、「田崎神社」とはどういうことなのか?調べてみたところ、この神社は鹿屋市田崎町にあることから、通称「田崎神社」と呼ばれているようなのである。

祭神は「別雷命(わけいかづちのみこと)」とあり、即ち賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」、京都の上賀茂神社の祭神である。由緒には「伝わるところによると永正元年(今より四八六年前)十一月十五日、伊勢の国の人で田丸玄蕃と云ふ人が伊勢の国から神像を背負うて来て創建したと云われ 又一説には、永徳三年(今より六一〇年前)十二月二十四日、山城の国の加茂神社より分神したとも云われています。」とあり、どちらにしても島津家との関係は記されていなかった。しかし、京都の加茂神社と関係があるというのは意外に感じられた。

嫁様は殊の外”大クス”に感動し、暫く空を仰ぐように”大クス”を眺めていた。クスの根元の祠には、いつ、誰が、どのような理由で付けたのか分からないが、小振りな鈴が付けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

神社を後にすると、吾平山上陵を目指して更に進むことにした。
「陵」の駐車場に車を置くと、早速中に向かった。入口付近の説明書きには「吾平山上陵(吾平山陵) 散料とは帝皇の塚墓をいう。日本書紀に「彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、西の洲(くに)の宮で崩御、日向(ひむか)の吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)〇〇に葬る」と載せてある。御陵の所在については明治七年(1874)七月十日肝属郡姶良郷(吾平町)上名村のこの地を御治定になった。 古事記には右記尊を「天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」と載せている。御陵のあるところを俗に鵜戸山(うどさん)といい、窟(ゆや)を鵜戸岩屋(窟)と称している。姶良名勝誌には窟内に大小御陵二カ所あり。その内の大の塚は右記尊の御陵で、その東の小の塚は、后妃玉依姫(ごひたまよりひめ)(神武天皇の御母)の御陵と申伝云々と記されている。陵域は甚だ広い。右記尊を祀る鵜戸六所権現(現鵜戸神社)は、ここから北方約六キロメートルの麓宮前にある。 神武天皇妃吾平津姫(じんむてんのうきさきあいらつひめ)を祀る大川内(おおかわち)神社は南方四キロメートルの神野川地の地にある。 昭和六十年二月 平成九年三月修復 吾平町と記されていた。「陵」には「鵜草葺不合命」とその妃「玉依姫命」の夫妻が眠っているようであった。
「陵」とは言いながら、非常に手入れが行き届いていて、あたかも「公園」を思わせる景色だった。しかもその景色は「伊勢神宮」を思わせる、非常によく似た雰囲気を醸していた。最初は「山上陵」という名前から、前日の「高屋山上陵」と同じような古墳形式をイメージしていた。しかし、行って見るとそこは良く整備され、あたかも伊勢神宮を少々小振りにしたような感じだったのである。

ただ大きく違っていたのは、墓本体が山の麓の洞窟のような所とされていたことで、この時は生憎近くまで行くことが許されず、仕方なく少し離れた所から眺めるに止まった。これは想像だが、タイミングが合えば、写真に見える鳥居の付近まで近付くことも可能なのかも知れない。
もしかすると、当地は古墳ではなく、当時は山自体をご神体とする神社のような所で、更に想像を広げると、当時はこの辺に居住していた原住民(熊襲等)の祈祷所のような所だったのかも知れないと勝手に思った次第である。

次に目指したのは鵜戸神社(うとじんじゃ)だった。
同地は「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」を中心に「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」「五瀬命(いつせのみこと)」「稲飯命(いなひのみこと)」「三毛入野命(みけいりののみこと)」「神倭磐彦命(かむやまといわれひこのみこと;神武天皇)」の六柱の神が祭神となっている。要は両親、子供の一家が祀られているのである。
余談だが、隣接の宮崎県に鵜戸神宮(うとじんぐう)」があり、ここは「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」を祀るものの一家を祀るのではなく、天照大神を始めとする天孫系から神武天皇(初代天皇)までの6代を祀っている。

 

ここまでで天孫降臨の4代の神々を詣でた訳で、残りは初代天皇の神倭磐彦命(かむやまといわれひこのみこと;神武天皇)」となった。しかし、今回の旅の予定では神武天皇は詣での予定に入っていないため、またの機会に今度は奈良(大和の地)で詣でようと考えている。
さて、天孫はこの辺にして、近隣にある唐仁古墳群大塚神社にも寄ってみることにした。
「唐仁古墳群」とは「肝属川河口より上流約1キロメートル左岸の唐仁地区に位置し大塚古墳(1号墳)を中心とした大小140余基の古墳群」ということが解説されている。
また、「大塚神社」の解説板には祭神として大国主神(おおくにぬしのかみ)」「須佐之男神(すさのおのかみ)」「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」「知々夫彦神(ちちぶひこのかみ)」で、創建として「島津忠久入国の際、先見を命ぜられた本田次郎貞親が島津家の守護神として建久二年(1191年)頃創建したものと言われている。」としている。
「唐仁古墳群」の中心としてある「大塚古墳」はその上に「大塚神社」の神殿、拝殿があり、”ここが大塚古墳”と認識できたが、他の古墳についてはよく分からなかった。

「大塚神社」は、その鳥居を潜ると真っ直ぐ進み、小高い丘を登るように造られた石段を上った所にある。鳥居は綺麗に朱が塗られていたが、神殿、拝殿は古さを感じさせるこじんまりとしたものだった。

 

 

 

大塚神社と古墳群を後にすると、錦江湾側の海岸通りを佐多岬目指して進むことにした。天気は、前日とは打って変わって最高の好天となった。海が綺麗に沿岸の景色を際立たせていた。

本日最後の目的地「佐多岬」には、駐車場から少々歩かなくてならない。駐車場もそれほど混み合っている訳ではなかったので、秋とは思えない厳しい日差しを避けて日陰を選ぶことができた。
駐車場には一風変わった木が目を引いた。「ガジュマル(クワ科)」という草とも木とも判別できないような植物が生えていたのだ。

歩き出しはトンネルを潜って山の向う側に出ることになった。
山道を上がったり下ったりして進んで行くと、岬までのほぼ中間点に御崎神社なるものがある。その説明版には「御崎神社 御祭神正祀伊邪那岐命・伊邪那美命 外御子命六神 由緒略記 御祭神は太古佐多岬海岸の磐屋に御鎮座され、その後(第四十三代元明天皇)の和同元年三月(今から1,264年前)神託により当磐屋に新たに浜宮として開設せられよりその後、第一〇七代後陽成天皇の慶長十四年六月(今から三百六十余年前)薩摩藩大将樺山久高が君命より琉球支配の時、当浜宮に帰GANをこめて渡海され帰国後琉球国鎮護のため当浜宮を現在地へ移転し御崎神社と改稱された。 御崎神社は大八洲(日本全土)の守護神と伝えられ、神格高き神社として薩隅人の崇敬厚く数日を費やし参拝に訪れ一家の安泰を祈願する習慣が続いて居り今尚、交通・航海の安全、五穀豊穣、商売繁盛の神で特に大昔より由緒ある縁結、安産の神として全国的に参拝者が絶えず。春秋の大祭は町を挙げて極めて盛大に行われる。昭和四十七年十月吉日建立」と記されていた。祭神にある”外御子六神”とは、南大隈町のHPによれば、綿津見三神(底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、上津綿津見神(うわつなかつみのかみ);海神)、住吉三神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと))をいうとしている。

ここから「佐多岬」までは更に道が険しくなったが、脇に見える海の景色は素晴らしかった。また、岬には展望広場のような所があり、そこから見える大きく広がる南海も素晴らしいものだった。

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神々の地-霧島・大隈(鹿児島県)-(上)

2016年02月28日 | ドライブ

2014年9月28-30日

最近すっかり定着した感がある格安航空会社(LCC)の一つ「ジェットスター」機の東京(成田)-鹿児島が、更に格安で取れたため、急遽有休を取って鹿児島入りをすることになった。
”安い”は”代わりに”があるのが世の常である。このLCCは東京圏内では出発、到着とも成田空港しかない。我が家から成田空港までは、車で約3時間(高速道使用)。公共交通機関を利用しても2時間ほどで同じようなものである。とにかく我が家から成田空港は遠い。しかし、飛行機の運賃の安さには替えられないのである。
もう一つ不便なことがある。それは出発時間である。LCCの出発時間は”早い”か”遅い”で、普通の時間帯の出発がない。要はオイシイ時間帯は通常(高い)料金の飛行機会社が使用するため、LCCは枠が取れないのではないかと思われる。

鹿児島空港に10:00頃到着すると、早速事前に予約していたレンタカーを受取りに向かった。
今回予約したレンタカーは、トヨタの”ヴィッツ”である。久々のコンパクトカーに少々戸惑いもあったが、戸惑ったのは走り始めの数分で、後は殆ど問題なく走ることができた。

今回の鹿児島観光のテーマは”天孫の神々参り”と”大隅半島探訪”である。換言すれば”霧島と大隅半島を巡る旅”といえる。

9月28日(日)

ルート:鹿児島空港-R504-高屋山上陵-県道56-嘉例川(かれいがわ)駅-R223-丸尾滝(まるおたき)-R223-霧島神宮-県道60-県道2-R220-R224-桜島-桜島シーサイドホテル

鹿児島空港に着くと、既に予約してあったレンタカーを借りた。そしてまず向かったのは「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ、たかやのやまのうえのみささぎ)」である。鹿児島空港から近い位置にあったためだが、いざ行って見ると入り口がよく分からず通り過ぎてしまい、再び戻って見ると「高屋山上陵」の標識が出ていたりした。

陵の付近の駐車場に車を置くと、陵の入口を目指した。陵ということは山1つが陵になっているに違いないと思ってはいたが、見事に山1つが陵となっており、入口には”宮内庁”の立入禁止の看板が置かれていた。
この「高屋山上陵」は日本神話に登場する海幸彦山幸彦の山幸彦の陵とされている。「古事記」「日本書紀」(以降、両者を略して「記紀」と記す)にも登場するが、神武天皇(初代天皇;じんむてんのう)の祖父とされている。
残念ながら、この山幸彦(天津日高彦火火出見尊;あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)についての解説板は発見することができなかった。

 

次に向かったのは、JR肥薩線の「嘉例川駅(かれいがわえき)」である。木造の駅舎は昔の佇まいを残し、その道の愛好者でなくとも興味惹かれる場所だった。因みに当駅は無人駅ではあるが、現役の”駅”として今も活躍中である。

駅の構造は、線路が単線で片側に1つのホームという形である。
この日はバイク愛好家の集まりだったのか、駅前に多くのバイカーが集合していた。ここ九州の地でもオフ会的愛好家集会は盛んのようであった。

 

 

さて「滝」と聞くと結構惹かれるものがある。駅を後にすると、次に目指したのは「丸尾滝」だった。この滝は上流の温泉から流れ出る温泉水が滝となっているとのこと。落差はそれほどでもなかったが、訪れた時のタイミングか水量はかなりのもので、見応えのある滝だった。

 

 

 

 

 

 

 

「滝」の次は「霧島神宮」である。
R223を東に進むと霧島神宮に出る。流石に全国的に有名な所だけあって、参拝者も結構いた。また、社殿なども綺麗に整備され、その知名度も想像に難くなかった。

この神宮の主祭神は、日本神話による天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫になる「天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)」とされている。
因みに、天孫瓊瓊杵尊は”天孫降臨”を行ったその人(?)であり、初代天皇となる神武天皇の曽祖父に当たる。

 

霧島神宮の解説板には「霧島神宮 鹿児島県霧島市霧島田口鎮座 御祭神 天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと) 相殿 嫡后 木花開耶姫尊(このはなさくやひめ) 御子 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 嫡后 豊玉姫尊(とよたまひめのみこと) 御孫 鵜萱草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) 嫡后 玉依姫尊(たまよりひめのみこと) 御曾孫 神武天皇 当神社は天祖天照大神の御神勅を畏み戴き高千穂峯に天降りまして皇基を建て給ひ国土を開拓し産業を振興遊ばされた肇国の祖神をお祀りしております。」書かれていた。

 

霧島神宮から県道480を霧島山に向かって入って行くと、霧島神宮の元の場所とされる「古宮址天孫降臨神籬斎場(ふるみやあとてんそんこうりんひもろぎさいじょう)」に着く。

同地の解説板には「古宮址天孫降臨神籬斎場 日本で最も古い書物である古事記・日本書紀に霧島神宮の御祭神瓊瓊杵尊が「襲(そ)の高千穂の峯に天降ります」と記してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古より、多くの人々の崇敬を集めて来ました。 ここ高千穂河原は文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあった処です。 霧島山の大噴火により社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は神籬斎場として現在も祭祀が継続されており、特に十一月十日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。霧島神宮」と記されていた。

解説板横にある鳥居を潜り、なだらかな坂道を登って行くと、やがて石柱の柵に囲まれた鳥居が見えて、手前には「天孫降臨神籬斎場」の標識が目に入った。石段を上ると石柱の柵の中央に斎場を表すのであろう大きな石を重ねた場所が現れた。

お参りを済ませ、ふと気づくと霧島山の麓で周囲は森に囲まれていたにも拘らず、鳥の声は勿論、風の音もしない”静寂”というよりも”無音”の状態に気が付き、チョット神聖な気持ちにさせられてしまった。

 

 


霧島山を離れ、一路桜島を目指すことにした。今夜の宿は桜島のホテルである。このままチェックインしても良かったが、折角なので島を1周してみることにした。

R224は島の海岸線を約半分ほどカバーする形になっている。残り半分は県道26となる。R224に入って間もなく、道路の表面がまるで融雪剤でも撒いたように真っ白になっているのに気付いた。その直後、対向車のフロントガラスにも雪が積もっているように見え、それが何なのか直ぐに理解することになった。白い物の正体は桜島の火山灰だったのである。
何度か対岸の鹿児島市から煙を上げる桜島の姿を見たことはあったが、桜島自体に入るのは初めてである。火山灰を浴びる経験も勿論ない。

こう言っては失礼だが、”桜島”は結構大きな島で人口もそれなりにあるようだ。1周するのに、車で結構走ることになった。
暫く走ってふと気が付くと、道路脇に写真のような立て看板が目に入った。桜島の「噴火により埋没した神社の鳥居」とのこと。車を近くに置いて見に行くと見事に鳥居が埋没していた。当時は凄まじい降灰があったのだろうと、他所者の我々でも容易に想像がついた。

 

この日宿泊予定の桜島にある数少ないホテルに到着すると、ホテルの入口も火山灰で真っ白になっていた。恐らく1晩車を置いておいたら、相当の灰が車に積もるだろうと想像されたが、”降灰”、”積灰(?)”の経験がない我々夫婦は、僅かに経験のある”積雪”を想像したのだった。

チェックインすると部屋に荷物を置き、当ホテル自慢の温泉を味わうことにした。風呂は大きく3種類あり、一般的な「”男”、”女”風呂」、「家族風呂」、海岸に最も近い露天の「混浴風呂」である。夜まで降灰の様子を見ていたが、少し弱くはなったものの降るのが止む気配はなかった。仕方なく降灰の中ではあったが、一般的な「”男”、”女”風呂」の方に入ることにした。考えてみれば、降灰の中の入浴というのもなかなか体験できるものではない。”人生、何事も経験”とばかりに入浴を決め込むことにした。一般的な風呂だけに、中は内湯と露天の2つがあったが、露天に行って見るとそこは砂の中の露天風呂ともいえる状態だった。
降灰という強烈なサプライズ(?)ではあったが、温泉は非常に質の良い泉質で、やや温めではあったが十分に温泉を堪能することができた。 

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出雲の国-1泊4日の旅-

2015年06月25日 | ドライブ

2014年8月11日-14日

暫く東北地方に向いていた旅の方向を、今回は久々に西国に向けてみた。
たまたま今年は台風が12号、11号の順で西日本に飛来することとなり、特に11号には旅立ちに付いて、少々翻弄される結果となった。当初予定していた旅程を3回も変更させられ、結局8月11日の夜に出発ということになったのである。
今回は、珍しく我家の次男が同行者となった。目的地を「出雲」としたのも、次男の希望によったところが大きい。そして出動した車も、愛車「Cady(キャデラック)」となったのである。本来なら、自動車保険の関係から、次男が同行となれば必然的に出動車選択は「Pちゃん(PTクルーザー)」 となるところだが、今回はSAAB仲間の情報もあり、短期の自動車保険に加入して次男が運転の交替要員となることができたのだった。
余談だが、今回次男が加入した短期の自動車保険は、親兄弟や友人などの車を借用する時に加入することを前提とするもので、レンタカーなどでは加入できない。また通常の自動車保険のように、年齢制限などは特になく、 20歳代の若年者(?)でも同じ条件の保険に入ることができるのである。

8月11日(月)-12日(火)

ルート:自宅-八王子IC-中央道-小牧JCT-東名高速-名神高速-吹田JCT-中国道-落合JCT-米子道-米子JCT-山陰道-出雲IC-R431-出雲大社-R431-県道23-県道29-日御碕神社-県道29-県道250-鰐淵寺-県道250-R431-松江-R431-道の駅本庄-R431-松江-ホテル

平日に遠出をするには高速料金を少しでも低額に抑えたい。深夜割引(午前0時から午前4時)を利用するには対象時間帯に高速道に入るか、それ以前に入らなければならない。
夜10時頃家を出発すると中央道に乗り、途中で仮眠を取りながら出雲に向かうことにした。途中で何度か息子と運転を交替したが、息子は「Cady」を初めて運転することに少々興奮気味だった。

第1の目的地出雲大社には翌朝8時過ぎに到着した。台風の影響か、風はなかったがどんよりとした曇り空だった。Cadyを大社の駐車場に置くと、早速出雲大社詣でをすることにした。
因みに当社の主祭神は、神話「いなばのしろうさぎ」でも有名な「大国主命(おおくにぬしのみこと)」である。
平日ではあったが夏休みということもあるのか、予想以上の人出に、少々驚かされた。我々のように遠方からの詣で客も多いのだろう。流石は出雲大社である。

出雲大社はお初となる同行の次男に、十分に納得してもらうべく大社の境内のスミからスミまで歩き回った。本殿手前、拝殿北側には、大きな”円”が足下に描かれていた。これは2000年に発見された鎌倉期の大社の巨大柱根の位置を表したものであった。また、大社名物(?)の巨大しめ縄は、出雲大社を象徴するものとして欠かすことはできないだろう。

大社に隣接する古代出雲歴史博物館にも行って見ることにした。館内には上で触れた巨大柱根「出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱」や古代出雲大社の復元模型、出雲国風土記の世界などが展示されていた。

 

 

 

出雲大社を後にすると第2の目的地日御碕神社を目指すことにした。
大社を出ると海岸線を走る県道29号を進み、ほぼこの道1本で着くことができる。10km弱の行程である。海岸線を行くことから、途中ややきついカーブや道幅が狭まる所もあるが、概ね快適に走ることができる。
日御碕神社(出雲日御碕大神宮とも言うらしい)はこの時補修工事をしていたようで、入口近くは足場が組まれていた。
中に入ると「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を祀る”下の本宮”が有り、
その右手奥に「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀る”上の本宮”があった。

 

 

 

 

 

日御碕神社から先が私の目的「武蔵坊弁慶ゆかりの地巡り」となる。

<弁慶その1>鰐淵寺(がくえんじ):
日御碕神社から鰐淵寺までは、県道29号を出雲方向に戻り、途中から県道23号を十六島湾方向に進む。そして、最後に県道250号を行くと鰐淵寺の駐車場に着く。行程約20kmだが、若干山道を走ることになり、平地の20kmより時間がかかった。
当寺は、弁慶が京の都で”牛若丸(源義経の幼名)”と会う前に3年ほど修業した地とされている。 

<弁慶その2>弁慶の里「道の駅本庄」
鰐淵寺から当地までは県道250号、R431と宍道湖の北側を湖に沿って松江方向に進み、松江市街を通り抜けて中海沿いの当地まで進むことになった。約47kmで凡そ1時間の道のりである。
「道の駅本庄」に着いて分かったことは、当地には特に弁慶ゆかりの場所や物品がある訳ではなく、道の駅近隣に弁慶ゆかりの場所が幾つかあり、それを宣伝するコーナーが設けられていたのである。 

<弁慶その3>弁慶の森:
「道の駅本庄」からR431を東に2kmほど行った所に「長海入口」というバス停があり、ここを左折して山の方に向かって1kmほど進むと、やがて「弁慶の森」の標識が現れる。この「弁慶の森」についての伝承では、この森の中に弁慶の母が掘った「弁慶産湯の井戸」跡があるとのこと。

 

 

<弁慶その4>弁慶の大石:
「弁慶の森」の道を挟んで反対側の藪のような所に「弁慶の大石」があるとのことだったが、先ほどの「弁慶の森」でお世話になった地元の方の話によると、以前あった道の脇に「弁慶の大石」はあったが、最近新道ができたため、以前の道は廃道となってしまい、そのため「弁慶の大石」も場所が判然としなくなってしまったとのこと。

 

<弁慶その5>弁慶島:
「弁慶島」には幼少の頃の弁慶の伝説が残っている。
島に渡る手段も時間もなかったため、対岸からの写真でお許しを戴きたい。場所は「道の駅本庄」から程近いR431沿いの中海にある。

 

 

 

”弁慶ゆかりの地巡り”を終えると、この日宿泊予定の松江市内のビジネスホテルに向かった。
出発前は台風に翻弄され、2転3転した出雲行だったが、無事、予定の観光を実施してホテルに着くことができたのだった。

 

8月13日(水)-14日(木)

ルート:松江のホテル-松江市内-R431-県道338-江島大橋(ベタ踏み坂)-県道47-R431-県道2-美保神社-県道2-R431-米子IC-米子道-落合JCT-中国道-吹田JCT-名神高速-東名高速-小牧JCT-中央道-八王子IC-自宅

2日目は松江市内の観光から始まった。
同行の息子の希望もあり、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)」の旧居松江城武家屋敷を見て周ることにした。
松江城小泉八雲旧居武家屋敷は城下町ということもあり、近所に集中している。このため、城の近くの公営(?)駐車場に”Cady”を止めると、先ず松江城に向かった。
松江城も他の多くの城同様、建物が残っている(?)城としては天守閣だけがあった。色彩よりもその風格はなかなかのものと感じた。
城を後にすると、小泉八雲旧居に向かった。小泉邸は武家屋敷と並んであった。小泉邸には息子が行き、私は近くで休むことにした。息子が戻ると、ほぼ隣りの武家屋敷に入った。
武家屋敷の内容は、各地に残されているものとさほど変わるものではなかったが、綺麗に整備(手入れ)されていたので、気持ち良かった。

 

市内観光を終えると、島根半島東部突端に近い美保神社(みほじんじゃ)を目指した。しかし、せっかくなので寄り道をして、あのベタ踏み坂を見て行くことにしたのである。
”知る人ぞ知る”かも知れないが、TVのCMで有名になった「ダイハツ・タント」のCFに出てくる「江島大橋」(CFでは「ベタ踏み坂」と呼ぶ)は、松江市内からR431を美保関方向に向かい、途中から県道338号に入る。この道は中海の海上を走るようなルートのため、天気さえ良ければ景色は抜群である。八束町の江島に入ると左手に「ベタ踏み坂」が見えて来る。
坂の撮影を終わると、いざ「ベタ踏み実走行」に進んだ。せっかくなので息子に運転を替り、「ベタ踏み」を味わってもらったが、元々”Cady”ではベタ踏みになることなどなく、余裕で橋を渡ってしまった。(笑)
一瞬だけ隣県の鳥取県境港市を通り抜け、県道2号を美保神社に向かった。

美保神社の門前にCadyを止めると、早速鳥居を潜り境内に向かった。
当社の主祭神は「三穂津姫命(みほつひめのみこと)」と「事代主命(ことしろぬしのみこと)」とされていて、日本書紀では「三穂津姫命」は「大国主命」の妻としているが、「事代主命」の母とはしていない。また古事記では「事代主命」の母は「神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)」として、数多くいる「大国主命」の妻の1人としている。当社の伝承では、地区名の”三保”は”三穂”津姫の名に由来するとしている。また、「事代主命」は当地では別名:えびす様(七福神の1人)とされている。
境内は参拝客もさほど多くなく、静かな佇まいを見せていた。

美保神社を後にすると、東京への帰路につくことにした。県道2号を松江方向に戻り、R431を米子に向かった。鳥取県に入るとR431は通称”産業道路”と言われるらしい。中海の海岸縁を米子に向かい、米子ICから米子道、中国道、名神高速、東名高速、中央道と進むことになる。昼過ぎに米子から有料道に入れば、十分深夜割引の時間帯を絡めることができると計算して、それでも途中休みながらゆっくりと帰宅したのだった。

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多賀城、塩釜ドライブ

2015年01月01日 | ドライブ

2014年6月14-15日

東北シリーズも大分回を重ねたが、今回は1人での1泊ドライブ旅行となった。出動は勿論、愛車「Cady」こと「CADILLAC CTS SPORT WAGON」である。行き先は、宮城県の多賀城、塩釜。少々マニアックな場所かも知れないが、以前から興味を持ち、1度は行ってみたい場所の1つだった。

6月14日(土)

コース:自宅-あきる野IC-圏央道-桶川北本IC-県道12号-R122-白岡菖蒲IC-圏央道-久喜白岡JCT-東北道-仙台南IC-仙台南部道-仙台若林JCT-仙台東道-仙台港北IC-多賀城跡-県道35号-県道58号-多聞山-県道58号-塩釜神社-R45-松島海岸-県道9号-ホテル

今回は、次男と一緒に1泊旅行となる予定だったが、直前になって次男が足を怪我して歩行困難となり、急遽不参加となった。このため、久々の1人1泊旅行にすることにした。

毎度のことではあるが、早朝自宅を出発すると、一路多賀城市を目指した。東北道に入ってから何度か休憩・仮眠をとって第一の目的地「多賀城跡」に着いたのは朝8時頃だった。
多賀城跡脇にある未整地のパーキング(空き地)にCadyを置くと、早速多賀城跡巡りを開始した。

【多賀城跡】
多賀城は西暦724年(神亀元年)、按察使(あぜち)大野東人(おおの の あずまびと)が築城したとされる。大和朝廷が蝦夷(えみし)を制圧するため、軍事的拠点として設置したが、陸奥国府鎮守府の機能も果たした。(Wikipediaより)

因みに、蝦夷征伐で有名な「坂上田村麻呂」もこの”多賀城”を拠点として戦陣を組んだようである。
多賀城跡は、今現在も発掘調査が行われているようで、私が訪れた時、写真のような看板や地面にシートを張った所などが彼方此方に見られた。

発見当初には偽作説もあった「多賀城碑(たがじょうのひ)」が、駐車場から程近い所に小屋の中に仕舞うように置かれていた。今回の多賀城跡訪問の1つの目的は、この「多賀城碑」を見ることだった。因みに、東北地方を廻った俳人”松尾芭蕉”の「奥の細道」でも紹介されているとのことである。

多賀城の総面積は相当広いと思われる。しかし、よくよく考えてみれば、その当時は恐らく全くの未開地で鬱蒼とした樹々に覆われていたであろう所を切り開き築城したのだから、切り開く苦労はあっても”土地の買収”や”立退き”などといった手間はなかったはずである。ついつい現代の感覚で「これだけ広い土地を確保するには、物凄い金額と労力が必要だったのではないか?」などと考えてしまうが、これは明らかに間違いだろう。

多賀城跡の遺構その他から推定復元模型が作られているのが写真であるが、これは城としてではなく併設された陸奥国政庁の復元模型とのことである。その当時の建物は、相当立派なものであったろうと想像された。

城跡敷地内の端の方に「多賀城神社」があった。ここは多賀城にゆかりの後村上天皇・北畠親房・北畠顕家・伊達行朝・結城宗広等、南朝諸将が祭られているとのこと。境内はかなりこじんまりとしていた。

神社を後にすると、脇を通る緩やかな坂になった道路を登り方向に歩いた。右手に多賀城跡を見ながら少し歩くと、道の反対側に寂れた神社が現れた。「多賀神社」である。恐らくだが、多賀城市高崎の多賀神社の末社のようなものではないかと想像する。写真のように、お詣りする人も殆どいないような状況だが、屋根がトタンになっていたりするので、まったく放置状態という訳でもない感じだ。

更に歩を進めると、また右手に多賀城の遺跡が見えて来た。多賀城の北門跡になるとのこと。当時の多賀城の規模が相当広大であったことが、改めて実感された。

東門跡まで進むと、やがて左手に「陸奥総社宮」が見えて来た。先ほどの神社とは違い、ここは綺麗に整備され今も盛んにお祀りされているであろうことが、容易に推測できた。
主祭神は「八塩道老翁神」「八塩道老女神」だそうだが、ググってもこの2柱の神がどのような神なのかわからない。ある説では「八塩道老翁神」は「塩土老翁」ではないかとしている。元々「陸奥総社宮」は国府に属しており、本来国司は任国内の諸社に神拝しなければならないのを、簡便にするために国府内に作った諸社の窓口神社で、ここに神拝することによって諸社を廻ったことと同じになるようである。
境内はそれほど広くはなかったが、綺麗に掃除がされており、本殿も同様だった。先の多賀神社とは大違いである。

陸奥総社宮から更に進むと、右手に「あらはばき神社」の表示があり、脇道に入ると間もなく鳥居が見えて来た。鳥居を潜って進むと民家の庭に入ってしまった。本殿らしきものは庭の奥に屋根が見えたが、本当にそれが「あらはばき神社」の本殿かどうかは確認できなかった。
”あらはばき”とは”荒脛巾神(あらはばきがみ)”で民間信仰の1つといわれるが、”民間信仰”というよりは”原始宗教の神”といった方が良いのかも知れない。”荒脛巾”が有名になったのは「東日流外三郡誌 という偽書とも言われる古文書が発見されてからとされる。何れにしても、”荒脛巾神”はどういった神なのか不明な点が多い。

「あらはばき神社」を後にすると、今来た道を戻ることにした。往きには気付かなかったが、道の脇に今度は「貴船神社」の説明書きがあり、京都の貴船神社が当地に勧請されているのを知ることになった。

Cadyをおいた駐車場の脇に「多賀城跡あやめ園」なるものがあり、何人かの人がそちらに行くのを見かけた。チョット興味が沸き行ってみると、そこには一面の「あやめ」が植えられていた。入園料はなし。入園というよりはあやめの植えられた”畑”のような所だった。

此処では毎年「多賀城跡あやめまつり」が6月下旬から7月上旬にかけて行われ、4カ所設けられた駐車場は乗用車100円、バス1000円と有料になるようだ。

 

松島
多賀城跡を後にすると、日本三景の1つ「松島」を望む「松島四大観(まつしましだいかん)」を廻ろうと考えた。しかし、4カ所を廻るには少々距離があり、しかも車では行けない所もあるようだった。仕方なく、多賀城跡から一番近い松島四大観の内の「偉観(いかん)/多聞山(たもんざん)」に寄ることにした。

多賀城跡から程近い多聞山は小高い山の上に駐車場(無料)があり、そこから徒歩で岬にある「毘沙門堂」まで山道を10分から15分ほど歩く。「毘沙門堂」の裏から湾内に点在する松島の各島が望めた。
正に素人の写真ではあるが、日本三景の1つの写真をアップする。

 

塩釜神社
当社には別宮に「塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)」、左宮に「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」、右宮に「経津主神(ふつぬしのかみ)」がすれぞれ祀られていて、更には「志波彦神社(しわひこじんじゃ)」も祀られている。
さて、「武甕槌神」は茨城県鹿嶋市にある「鹿島神宮」の主祭神であり、「経津主神」は千葉県香取市にある「香取神宮」の主祭神であり、この2柱の神は、天上界の「天照大神」の命により「出雲国」の「大国主(おおくにぬし)」に”国譲り”を迫り見事達成する神として”記紀(古事記、日本書紀)”に出て来る。また「塩土老翁神」は非常に多彩な知識を持ち、重要な場面で人々を助けている。海幸山幸の話でも、山幸彦を竜宮へ導いたのはこの”塩土老翁神”だった。当地「塩釜」で人々に製塩法を授けたのも「塩土老翁神」といわれている。
今回「塩土老翁神」が祀られる別宮は修理修復のため覆いが被されており、社の全景を見ることはできなかった。

 

以上仙台市近郊の名所旧跡を巡って1日が終了した。

 

6月15日(日)

コース:ホテル-大和IC-東北道-久喜白岡JCT-圏央道-白岡菖蒲IC-R122-県道12号-桶川北本IC-圏央道-あきる野IC-自宅

2日目は朝8:00過ぎにホテルを後にすると、東北道の近隣ICである大和ICから東北道に入った。途中、以前から興味のあった羽生PAに立寄り、同所に造られた「鬼平江戸処」がどんな所なのか見学してみた。
鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」といえば「池波正太郎(いけなみしょうたろう)」の代表作といっても過言ではないだろう。私も同作品は大好きな時代劇の一つである。この”鬼平”の名を冠した羽生PAの施設には、恐らく鬼平の紹介や池波文学の解説などが成されているに違いないと勝手に想像を膨らませていたのだが、残念ながら期待は見事に裏切られた。”鬼平”の「お」の字もなければ、当然ながら”池波”の「い」の字もない、ただの江戸時代風建物の中に江戸時代風の商店的土産物コーナーが立ち並んでいただけだった。
非常に肩透かしをくわされ、ガッカリしたのは言うまでもない。

 

早々に羽生PAを出発すると家路を急いだのだった。

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平泉、栗駒の旅

2014年08月08日 | ドライブ

2014年4月28日-29日

この所の私の「旅」に対する発想は、「源義経」ゆかりの地が「あるか、ないか」がメインになっている。今回も、義経を2度に亘って匿った「奥州藤原氏」の本拠地「平泉」と、義経が平泉で自害した後その首は鎌倉に送られたが、残った首から下の体を葬ったとされる「栗駒」の「判官森」を目指すことにした。
私の目的は「平泉(岩手県)」と「栗駒(宮城県)」だったが、同行する嫁様の目的は「猊鼻渓(げいびけい;岩手県)」にあった。
平泉は以前2012年8月(「北羽前街道(R47)を行く」を参照)に行っている訳だが、その時は正直「中尊寺」のみ行って来たようなものだった。今回は残りのその他の平泉を訪問してみることにしたのである。

4月28日(月)

コース:自宅-あきる野IC-圏央道-桶川北本IC-県道12号-白岡菖蒲IC-久喜白岡JCT-東北道-一関IC-平泉-県道31号-達谷の窟-県道31号-平泉-県道206号-猊鼻渓-県道14号-厳美渓-R342-県道42号-くりこま荘

20140428_0009どうも最近”遠足前日の小学生”よろしく、なかなか眠りに付くことができず、仕方なく出発予定の時間よりも早く出発するパターンが多いように思う。ゴールデンウィーク前半のこの日、夜11時に自宅を出発し、途中のSA、PAで仮眠を取りながら向かうことにした。
さて、今回の出動は再び「Cady」こと「Cadillac CTS Sport Wagon」にした。理由は簡単、”ラクチン”だからである。

圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、東京都内の所謂”首都高”を迂回して中央道から関越道に接続したり、東名高速から中央道、関越道に接続する(2014年6月28日に東名-中央道間が開通)ためのバイパス道路といえる。この圏央道を利用して東北道を目指した。
本当なら、この圏央道経由で東北道まで直接行くことができれば良いのだが、残念ながらまだ(2014年7月現在)桶川北本ICと菖蒲白岡IC間が出来上がっていないため、未開通区間は下道を行くことになる。東北道に入ると、非常に流れは良く、適度な交通量で「平泉」を目指すことになった。
「Cady」の燃料は”レギュラーガソリン”のため、”ハイオク”使用の他車(多くは欧州車)よりは経済的に有利かとは思われるが、最近の欧州車も基本の燃費がかなり良くなっているため、結果的にはやはり欧州車に軍配が上がるのかも知れない。さて、Cadyの東北道での燃費だが、車載のドライブコンピュータによれば11-12km/Lといった所で、Cadyとしては「大体こんなものだろう」という値だった。

東北道のSA、PAで仮眠を取りながら 一関ICを下りたのはAM6:30頃だった。
平泉を目指すなら、一関の1つ先の平泉前沢ICで下りた方が近い。しかし、朝食を考えると平泉付近には朝食がとれそうな店がなさそうだったため、1つ手前の一関ICで下りることにしたのである。
朝食をどこかの店で・・・と言っても、結局この時間(AM6:30頃)に開店しているのは24時間営業のファミレス位である。・・・と考え、事前にネット検索で一関付近の24時間営業のファミレスを探しておいたのだが、いざ行ってみると24時間営業は終わっていた(?)のか、この時営業されていなかった。仕方なく平泉に向かうことにした。運が良ければ何処か開いている店があるかも知れないと思ったが、現実は厳しかった。結局それらしき店も見つからないまま、平泉の町に入った。
既に前回この町に来た時、この町を代表する「中尊寺」は行っていたため、今回はそれ以外の場所を廻りたいと考えていた。

20140428_000820140428_0005無量光院跡」の駐車場にCadyを置くと、取り敢えずJR平泉駅方向に歩き出した。行く手に現れたのは「柳之御所史跡公園」の標識だった。案内に従って脇道に入っていくと直ぐに道の両側に広がる空き地(遺跡公園?)が目に入ってきた。北上川の土手に向かって左側が史跡公園で、右側は「之御所資料館」と「平泉遺跡群調査事務所」、そして駐車場となっていた。何しろ時間が早過ぎて(AM7:00過ぎ)、まだ資料館は勿論、駐車場も閉鎖されていた。
史跡公園も入ることはできなかったが、少々脇から失礼して少しだけ公園内をカメラに収めさせてもらった。20140428_0012

20140428_0011
柳之御所を後にすると、JR平泉駅に向かった。
駅に近付くにつれ外食店が目立つようになったが、それでもまだ早朝の営業をしている店はなかった。駅前に着いても状況は変わらなかった。ただ1軒、駅のコンビニ兼土産物屋だけはオープンしていたが、ここで朝食を入手する気にもなれず暫くがまんすることにした。
本当であれば、この後「毛越寺(もうつうじ)」に行きたかったが、まだオープンしていなかったため、先に平泉の町から少し離れた「達谷窟(たっこくのいわや)」に行って見ることにした。

20140428_0024達谷窟」の詳細はWikipediaに譲るとして、その昔東北の蝦夷(えみし)征伐で名を残した征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」が蝦夷征伐を記念して建てたとされる毘沙門堂(毘沙門天を祀った堂)である。
そこは平泉の町から車で10分ほど県道31号を行った所にあり、我々夫婦が到着した時は、丁度オープンする所だった。道の反対側にある無料の駐車場にCadyをとめると、早速入り口にある受付で拝観料(大人300円)を払い山門を潜ることにした。
20140428_0027「窟」は直ぐにそれと分かる所にあり、苦労はなかった。写真でも判る通り、窟(堂)は断崖(?)の壁に張り付くように造られ、中に入ると屋根や壁の一部がそのまま断崖の壁となっていた。何故このような場所をわざわざ選び、このような堂の建て方をしたのか判らないが、非常に特異な建築物であることには代わりなかった。
中に祀られた毘沙門天にお参りをすると堂の反対側に出て見た。堂の裏手に当たる断崖の壁の上方には「岩面大仏」と称される大仏の顔が、岩壁に彫られていた。テレビに登場するアフガニスタンの「バーミヤン遺跡」とは比較するまでもないが、イメージはあれに通じるものと言えるかも知れない。
この「毘沙門堂」や「岩面大仏」は「別当達谷西光寺」の境内にあり、本堂、金堂の他に弁天堂、不動堂などがあった。

 

20140428_0036達谷窟を後にすると、いよいよ今回の平泉のメイン「毛越寺」に向かうことにした。
県道31号を平泉の町に戻ると、毛越寺の駐車場に真直ぐ入った。駐車場には、既に10台前後の車が止められていた。ナンバーを見ると県外車がほとんどで、東京やその近郊が多く、うちと同じ地区のナンバーもあったりした。
おかしなもので、普段見慣れているナンバーに、このような異国の地(?)で出会うと妙に親近感を覚えたりするものである。家族連れだろうか?恋人との2人旅だろうか?いやいや女性の2人旅かも知れない。。。などと勝手な想像を膨らませながら、駐車場を出ると毛越寺の正門を目指した。
20140428_0043この毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏の二代目「基衡(もとひら)」から三代目「秀衡(ひでひら)」により手厚く庇護、発展された場所で、往時は中尊寺を凌ぐほどの規模であったといわれているようである。現在は当時の建物は残されていないが、浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存さていて、かつ平成元年に平安様式の新本堂が建てられている。(毛越寺HPより引用)
この毛越寺にも、もしかすると「源義経」にゆかりの何かがあるかも知れないと微かに期待したが、残念ながら特にこれが・・・というものはなかった。
本堂にお参りをすると、大きな「大泉が池」を中心とした浄土庭園を一回りして毛越寺を後にすることにした。

20140428_0076次に向かったのは、今回の嫁様のメイン「猊鼻渓(げいびけい)」で、平泉の町からは車で15分から20分ほどの距離にある。名前からも判るように、風光明媚な渓谷だが、ここは”舟下り”で渓谷を流れる川を船頭の操る舟から眺めるのが更に素晴らしい。
今回、嫁様は「ここに来たら”舟下り”に乗る」と決めていたようで、駐車場にCadyをとめると直ぐに乗船券を買いに行った。”舟下り”の舟は5から6艘ほどあり、1艘に20から30人ほどは乗ることができそうだった。この日は3艘ほどが2km先の三好ケ丘と呼ばれる場所の船着場までを往復していた。
20140428_007910分ほど待って”乗舟”すると渓谷を流れる川に乗り出した。流れはゆっくりで、舟の近くを錦鯉(こんな所に”錦鯉”もなんだが・・・)の群れが泳いだり、小魚(種類は不明)の群れが近付いたり離れたりした。目を岸辺に移すと、両岸に迫出した奇岩や洞窟などが見えた。奇岩や窟にはそれぞれ名前が付けられていて、それぞれについて船頭さんが説明した。
三好ケ丘の船着場に着くと、そこから数分先の所まで歩くことになり、今度は歩いて猊鼻渓を散策した。
20140428_0091帰りの舟では、船頭さんも思わず自前のスマホで撮ってしまった1頭の「カモシカ」の登場というサプライズがあった。船内はざわめきとともに、カメラのシャッター音が一斉にする事態となった。船頭さんの話では、「カモシカが川の岸辺まで出て来るというのは滅多にない光景で、自分は初めての経験」とのことだった。あたかも舟の動きに合わせるかのように登場した「カモシカ」は、舟が遠退くのを確認するかのように、また山の中に消えて行った。
こういう旅をしていて何が面白いかというと、素晴らしい大自然の「美」もさることながら、図鑑や動物園などでしか見ることができない動物などを、自然の中で、正に本来の姿で生きている動物を見る(見かける?)ことができることかも知れない。

20140428_0063猊鼻渓を後にすると、「厳美渓(げんびけい)」を経由して、この日宿泊の「新湯温泉くりこま荘」に向かうことにした。
猊鼻渓から厳美渓までは30分弱の距離だった。猊鼻渓の記憶が鮮明で、かなりインパクトが強かったからかも知れないが、厳美渓の景色はそれほどに感じることができず、早々に宿に向かうことになった。
今回この地域に来るに当たって、一つ心配されたのが”雪”だった。特に山はまだ残雪がかなりあることが想像された。そんなこともあって、「くりこま荘」には雪の状態について事前に確認を入れたりしたが、殆ど問題はないようだった。
「くりこま荘」は栗駒山系の中にあり、山を登って行くことになる。特に心配された雪や凍結などもなく、厳美渓から40分前後で着くことができた。この「くりこま荘」は栗駒山を登る人々のベースキャンプ的施設になっているようだった。また、名前からも分かるように、ここは”栗駒五湯”に数えられる名湯の1つで、この”湯”が宿選択理由の1つとなった。そして、宿選択理由はもう1つある。それは、ここのオーナーが源義経に関する造詣が深いことだった。

くりこま荘には16:00頃到着した。夕飯にはまだ時間的に余裕があったため、一休みした後お風呂を頂戴することにした。まず入ったのは内湯で、内湯に関しては特に特別なことはなかった。ただ、露天風呂への出入り口が分からず、露天に行くことができなかったのはチョット残念だった。
夕飯の時間になり食堂に行くと、2組の客が食事をしていた。我々が席に着いた後1組が来て、計4組の宿泊客かと思われた。
食事が終わり部屋に引上げる時、偶然にも宿のオーナーと話す機会ができた。立ち話ではあったが、「源義経」について暫しの楽しい時間を持つことができた。私にとって義経について人と話をするのは、初めての経験だったのでかなりテンションが上がったことは否めない。
しかし、たとえ短時間でも非常に楽しく有意義な時間に感じられた。

4月29日(火)

コース:くりこま荘-県道42号-R457-一関IC-東北道-久喜白岡JCT-白岡菖蒲IC-県道12号-桶川北本IC-圏央道-あきる野IC-自宅

この日は、急遽帰宅しなくてはならなくなり、予定していたスケジュールを全てキャンセルすると、一路東北道から自宅を目指すことになった。
自宅には昼過ぎ頃着くことができた。僅か1日だけの観光となってしまったが、ある意味濃い観光ができた今回のロングドライブだった。

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秋の味覚買出し-丹波篠山、鞍馬・貴船-

2014年07月13日 | ドライブ

2013年10月12-13日

今回の目的は「秋の味覚」の買出しが一番の目的だった。「秋の味覚」と言っても色々ある。まず一番に思いつくのは「マツタケ」。そして「クリ」、「カキ」などだろうか。しかし、今回私が目指したのは、丹波・篠山(たんば・ささやま)の「黒豆」。それも黒豆の枝豆である。
10年以上前、我家は大阪に10年以上住んだことがあった。その頃毎年秋になると行った篠山の黒豆を、今回久しぶりに買いに行くことにしたのである。
現在住んでいる東京郊外の我家から、篠山まで日帰りの買出しは、老体に鞭を打っても少々きつい。と言うことで、息子が住む大阪のマンションを宿泊場所にしての1泊2日のドライブとすることにした。

10月12日(土)

コース:自宅-八王子IC-中央道-小牧JCT-名神高速-瀬田東JCT-京滋(けいじ)バイパス-大山崎JCT-京都縦貫道-千代川IC-県道73号-R372-篠山市-R372-県道73号-千代川IC-京都縦貫道-大山崎JCT-久御山-R1-息子マンション

10月の3連休(土日月)の初日となるこの日、午前零時をもって出発の予定で、前日の金曜日は早々に寝床に着いたのだが、子供の遠足よろしく、どうも興奮してしまったのか、少しも寝た気になれない。仕方なく夜の11時頃には出発してしまうことにした。
今回のお供は、勿論ニューフェイスの愛車「Cady(キャディ)嬢」である。正直、まだこのクルマでのロングドライブ(500km以上)はやっていない。その走りがどうなのか。燃費はどの位になるのか。そのホスピタリティはどんな感じなのか。分からないことだらけで、興味津々だった。

中央道を走り出してまず感じたのは、”ヘッドライトの焦点距離が手前過ぎる”ということ。つまり、一般道の走行では丁度良い前方照射距離が、高速道ではもっと先を見ながらの走行になるので、照射距離が手前に感じてしまうのである。だからと言ってハイビームにすれば、対向車や前方走行車に迷惑になりかねない。本当はこういう時、光軸のレベル調整ができれば良いのだが、生憎このクルマにはその機能は付いていなかった。

途中のSAやPAで休憩、仮眠をしながら、朝6:00頃名神高速「瀬田東JCT」を通過すると、ついつい癖になってしまった「京滋バイパス」に入った。やがて大山崎JCTの手前「大山崎IC」が目前に迫り、一般道に出る準備をしようとした時、目に入って来た標識の記載に驚いてしまった。”直進「京都縦貫道」”と書かれていたのである。
私の知っている「京都縦貫道」は沓掛(くつかけ)ICから始まるもので、大山崎JCTと直結しているものではなかったのだ。そう言えば、数年前に沓掛ICを通った時、南に向かう道路延長工事が大々的に行われていたのだった。「あれが完成したのだ」と理解するのに時間はかからなかった。
道路標識に従って大山崎JCTを過ぎると、そこには”出来たて”の道路が広がっていた。心なしか交通量も少なく、ついついアクセルを踏み込みそうになるのを抑えながら走って行くと、やがて見慣れた景色が道路の両側に見え始めた。私の知っている「京都縦貫道」に入ったと感じた。

20131012_0003千代川ICで一般道に下りるとR372に向かった。
実は、今回篠山を目指すに当たり、予めネットで「源義経ゆかりの地」を調べたのだが、正直驚いた。「どうせ義経関係のものはないだろう」と高を括っていたのが見事に裏切られ、そこそこ”ある”ことが判明したのである。そこで「秋の味覚買出し」ではあるが、「義経散策」も兼ねることにしていたというのが本当の所だ。
R372を走りながら「義経」も探して進むと、篠山の街には程よい時間に付く・・・つもりだったが、やっぱり少々早目に着いてしまった。しかし、その分駐車場は空いており、好きな所に「Cady」を止めることができた。
20131012_0007毎年、10月の体育の日を含めた3連休は、篠山の街のお祭りでもあり、街の中は屋台やイベントのテントが所狭しと置かれていた。
店やイベントが始まるまで、篠山の街を散策し、何度か来たことのあるこの街のまた新たな顔を感じながら時間をつぶした。
やがて店やイベントが始まると一通り見てまわり、篠山の街を後にした。いよいよこの日一番の目的「秋の味覚=黒豆の枝豆」の買出しである。

篠山から少し京都縦貫道方向に戻った道際に、後ろの畑から刈り取った枝豆を売っている店が出されていた。今年の黒豆はどうだろうか。豆もその年によって出来、不出来がある。見た目はまずまずのようだが、実際には食べて見なければ分からない。
わざわざ東京から買いに来て、手ぶらで帰る訳にもいかない。見た目が悪くなかったし、そうはずれはないだろうと、数束購入することにした。
20131012_0019愛車「Cady」はワゴンであるため、トランクルームは普通のセダンより広い。必要とあれば、後部座席の背を倒して、カーゴスペースを拡大することも出来るのである。
ワゴンの優位性を生かして、カーゴルームに枝豆の束を入れた。スペースは余裕だった。

20131012_0022店を後にすると次の「秋の味覚」を買いに移動した。次の「秋の味覚」は「まったけ(関西ではマツタケをそう呼ぶ)」である。
ご多分に漏れず、ここ篠山でも「まったけ」はいい値段で売られている。特に丹波・篠山の「まったけ」はブランドでさえある。店頭での価格は、篠山の街でも手が出せない。これをチョッとだけ無理をして買ってしまおうというのだ。
それにしても、今年は天候の状態が良くなかったらしい。あまり豊富には採れていないとの販売所の話だった。
それでも何とか小さい「まったけ」を2、3本手に入れると、家路に・・・いや、息子のマンションに向かったのだった。

20131012_0029京都縦貫道の手前に、コスモスが見事に咲いているコスモス園があり、思わず寄ってしまったのが写真である。

その夜、早速「まったけ」と「黒豆」を食したところ、どちらも非常に美味しく食べることが出来た。今年はどちらも正解だったようである。

 

10月13日(日)

コース:息子マンション-R1-京都市街-府道38号-鞍馬寺-貴船神社-府道38号-京都市街-京都東IC-名神高速-小牧JCT-中央道-八王子IC-自宅

以前、関西在住中に何度か鞍馬寺の門前には行ったが、寺そのものに行ったことがなかった。今回そのような事情もあり、また「源義経ゆかりの地」でもあることから、「鞍馬寺」から「貴船神社」までの山越えをしてみることとなった。

20131013_003520131013_0039相変わらず早朝(今回は朝6:00頃)に息子のマンションを後にすると、まず大原の朝市を目指した。大原の朝市は我が家(夫婦)にとって”お約束”の催物で、大阪に行った時の日曜日の朝は、余程の事情がない限り行かねばならない。今回は東京に戻る状況も考慮して、野菜などの新鮮なものはやめて、漬物や餅、ご飯などあまり足の速くないものを中心に購入した。

買い物が終わると、いよいよ「鞍馬寺」を目指すことにした。京都の街を抜け、府道38号を真っ直ぐ北に上ると「鞍馬寺」に着く。
流石に京都の観光地「鞍馬寺」の門前は、駐車場も其処かしこにあり、駐車スペースに困ることはなかった。適当な駐車場に「Cady」を止めると、早速寺に向かった。
20131013_004120131013_0063寺の本堂までは少々長目の石段を登ることになる。日頃の運動不足はこういう時に響くもので、気持ちは寺を目指しているのだが、足がそれを拒否しているかのように、なかなか前に進もうとしてくれない。どうにかこうにか石段を登り切ると、目の前に寺の本堂が現れた。暫く息を整えてから本堂にお参りをすると、いよいよ裏山に向かう。

20131013_0082その昔、鞍馬寺に預けられた「牛若丸」こと後の「源義経」は、昼は鞍馬寺で仏僧の修行をし、夜になると、この裏山で鞍馬山に住む天狗に剣術を習ったと伝説は伝えている。伝説はともかく、この山で剣術の修行をしたのは事実のようで、山を越えた貴船神社まで、義経ゆかりの場所が所々にあった。
京都の観光案内では、この”山越え”を”ハイキングコース”と称しているが、運動不足の私や嫁様にとっては十分”プチ登山”気分で、暫くは「また行こう」という気持ちにはなれないキツイコースだった。
山を下って貴船神社の前に出た時には、正に”足が笑って”いて、神社の鳥居に向かう石段を登るのに、石段の脇に設けられた手すりを伝わらないと、まともに上がることが出来なかったほどである。

 

20131013_0090貴船神社のお参りを済ますと、流石に今来たコースを戻るのは無理で、鞍馬寺まで公共交通機関を利用して戻ることにした。
貴船神社から坂道を少し下ると貴船神社のバス停があり、そこから「叡山電鉄鞍馬線」の「貴船口駅」まで戻る。そして今度は叡山電車で「鞍馬駅」まで行くというコースを取った。
20131013_0099貴船口から鞍馬までは僅か1駅だったが、沿線の景色は気持ちの良い、これが京都か?と思うほど綺麗な景色が続いた。

駐車場に止めた「Cady」に乗り込むと、いよいよ家路につくことにした。
今回の1泊2日の旅(ロングドライブ)は、天気に恵まれ、「食」「観光」にも非常に恵まれた。毎回このような実りの多い旅が出来れば最高だが、こればかりは「神のみぞ知る」かも知れない。

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