ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「声優のアイコ」の罪を問え

2017-04-29 14:15:01 | 日記
東京地裁は28日、無職の神(じん)いっき被告(33)に懲役10年(求刑
懲役15年)の実刑判決を言い渡した。神被告は平成25年から26年にかけ
て、「声優のアイコ」を名乗り、知り合った男性を睡眠薬で眠らせて現金な
どを奪ったとして逮捕された。

この事件をめぐる裁判では、「犯行の主体はだれか」が問題になった。
というのも、神被告は、多重人格の症状が出る「解離性同一性障害」
を持っていたからである。

弁護側は、被告が「解離性同一性障害」のため、犯行の際は別の人格
だった。だから責任能力はない、として無罪を主張した。
被告自身も、自分の中に複数の人格がいると主張し、法廷で(「ゲンキ」
という人格が現れ)幼い子どものような口調で話し始めることもあった
という。

一方、検察は(犯行の主体は)別の人格ではなかったとして、懲役15年
を求刑した。

判事はこれに対して、どういう判断を下したのか。東京地裁の石井裁判
長は「被害者の男性と一緒にいるときに元の人格の状態で友人と携帯電
話でやり取りするなど、別人格の犯行だとすると説明が困難な事実が存
在する」などとして、責任能力があったと指摘した。そのうえで、「ふ
だんは男性として生活していながら女性に変装して金品を奪った計画的
な犯行で、手慣れた常習性もうかがわれる」として懲役10年を言い渡
した。

要するに裁判所は、犯行の主体が「声優のアイコ」なる別の人格である
ことを認めず、「神いっき」という同一人格の一貫性を認定したことに
なる。犯行の主体は神いっきという同一人格であり、この人格には責任
能力がある。ゆえに神いっき被告を罪に問うことは可能だ、という判断
である。

逆に考えれば、こういうことになる。「声優のアイコ」なる別人格が存
在し、この別人格が犯行の主体だったとすれば、つまり、「神いっき」
という被告の人格が犯行の主体ではなかったとすれば、被告を罪に問う
ことはできないということになる。

だが、どうなのだろう。犯行の主体が「声優のアイコ」なる別人格だっ
たとすれば、罪に問われるべきはこの「声優のアイコ」だということに
なるが、そのことに何か不都合があるのだろうか。「声優のアイコ」を
罪に問うことに、何か不都合があるのだろうか。

たしかに、不都合があるようにも思える。「懲役10年」という判決を下
したとしても、(「声優のアイコ」という)人格だけを懲役刑に服させ
ることはできないからである。「声優のアイコ」は、「神いっき」の人
格と同じく、(「神いっき」を名乗る男の)同じ一つの身体に宿った人
格である。「声優のアイコ」を懲役刑に科すれば、この人格が宿る身体
を懲役刑に科することになり、そうなれば、この身体に宿る「神いっき」
なる人格をも懲役刑に科することになってしまう。ところがこの「神いっ
き」なる人格は、犯行の主体ではないから、彼(?)に懲役刑を科する
ことは大いに問題なのである。

罪を「声優アイコ」なる人格に帰するか、「神いっき」なる人格に帰する
か、そのいずれかだ。こう考える点では、原告も被告も裁判所も、ほぼ
共通している。だからこそ、この裁判では「犯行の主体はだれか」が争
点になったのである。

だが、三者に共通するこの考え方は、一つの前提によって支えられてい
る。判決の妥当性を問おうとするなら、このことに留意しなければなら
ない。

では、この裁判の根底にある一つの前提とは、何なのか。それは、「心と
身体は別物だ」、あるいは「心は身体から離れて機能する」とする考え方
である。このような考え方にことさら目を向け、「この考え方に問題は
ないのか?」と問題提起をするとき、私は、もう一つ別の考え方の可能性
を思い描いている。

では、それはどういう考え方なのか。それは、「考えるのは身体である。
思考は身体の機能である」とする考え方である。この考え方からすれば、
昏睡強盗を思いつき、企て、実行したのは、「声優のアイコ」ではなく、
この人格が宿る身体のほうだということになる。――いや、「宿る」とい
う言い方は適切ではない。「声優のアイコ」なる人格は、身体と別個のも
のとして存在し、それに「宿る」ようなものではなく、この身体の活動の
一環としてそこに「現前する」ものだからである。この身体は、ときには
「声優のアイコ」として現前し、またときには「幼児のゲンキ」として現
前し、たいていの場合には「神いっき」として現前するが、そのいずれも
が同一身体の働きなのである。

「声優のアイコ」の身体であり「神いっき」の身体でもあるこの身体は、
「声優のアイコ」を動かす主体であり、したがって犯行の主体である。
それゆえ罪に問われるべきは、まさしくこの身体だということになる。
「神いっき」としては、「やったのは俺じゃない!不当だ!」と怒りに
駆られるだろうが、彼(?)を怒りに駆り立てているのは、「神いっき」
なる人格ではなく、実はこの身体(の、自己実現を求める働き)なので
ある。

ニーチェ張りのこの考え方については、まだまだ検討の余地があるが、
今回はここまでにしよう。いろいろ考えたら、さすがに疲れてしまっ
た。
――あ、疲れたのは私の頭ではなく、私の身体のほうなんだけれどね。
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