陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

現れ出たる事は  なけれど

2016-12-29 23:44:07 |  エッセイ
 おふでさき八号です。

 繰り返し読むと、1の歌の「晴らしたいから」のその晴らし目的は、実は6の「たすけづとめがでけんから」という状況を指している、と分かってくる。
 2~5は、その状況を起こした事件― 我が子人間をたすけたい(一人残らずの人が陽気づくめであるように)とおつとめを教えている最中に、そのおつとめをさせないために、「上」がおつとめの道具などを没収してしまった事実を挿入して、そのとおりに記しただけ。
 6は1の歌を受けて、その事件があったことを口実にして、おつとめをしようとしないことが「残念であるから」、その怠慢さを「晴らしたい」と歌っているのです。

 では、何故おつとめをしようとしないのか、次の歌はそういう人々の心の内を見抜いて、それを明らかにして、そのままでは「怖き危なき道」があるだけだ、と知らせているのです。
  一れつハみなめへへのむねのうち ほこりいゝばいつもりあるから 八 61
   一列はみな銘々の胸の内 ほこり一杯積もりあるから
 この「ほこり」をどうしたら払いのけることができるのでしょうか。おつとめをさせないという原因をつくったのは「上」です。一切はその難き上だと言って上を責めるか、あるいは説得して上に反省を求めるのか、あるいは…と考えるとき、
  とのよふなたかいところとゆうたとて 月日のたあにみなわがこやで 八 64
   どのような高いところと言うたとて 月日のたあにみな我が子やで
 おつとめの道具などを没収した「高いところの者と言っても、月日にとってはみな我が子」です。だからその「上」は敵対する相手ではなくて、神の子としてお互いの全てを受け入れて、認め合うべき仲間なのです。
 人間の「思考」でつくり上げた真理とかで、相手を飲み込むというのでなくて、教えを聞いても分かろうとしない皆の心(22)を反映して、相手(上)が信仰にストップをかけることで、みなを気づかせように演じている、というように相手を受け入れて飲み込んでしまいなさい、と言っているのです。
 相手を変えるというよりは、自分が変わることで、「ほこり」が消えて目の前が開けるということを教えるために、決して目に見えないが、誰でも気づけば感じる事のできる、胸の内に内在する一人一人の意識に、呼びかけて目を覚まさせようとするのです。

 六下り目「むしょうやたらに願い出る」― 世界並みの拝み祈祷で「おびや自由、延ばしなりとも早めなりとも」と懇願しているようでは、この道を聞き分けている者としては「牛馬と見える」ような「ほこり」のある姿です。

  月日にハいまゝでどんな事やとて あらわれでたる事わなけれど 八 66
   月日には今までどんな事やとて 現れ出たる事はなけれど
 このような「ほこり」があるなら、月日はとてもではないが「天の与え」として「ぢきもつ」をやろうといわけにはいかないのです。おふでさきを9号10号と読み進めていくと見えてきますが、「ぢきもつ」は神の「意識」に目覚めた者だけが受け取れる、人々の心を豊かにする天からの自由自在の贈りものです。だから「ほこり一杯積もりある」人間思案の「思考」が強ければ、拝み祈祷として受け取ってしまい、「ぢきもつ」の尊さを感じることはできません。
 それでも、「ここまで信心してからは」その真実だけは受け取り、「一つの効をも見にゃならん」から、めったなことではクドクド言うことはしないが、ここばかりは、1と5で伝えた「晴らし」、「差し止めて、取り払われた」と同じ言葉を65と67でクドクドと繰り返して― わざわざ「現れ出て」― 人々の「意識」に伝えざるを得ないと歌っているのです。

    この後はどのよな者も一列に、
    助けたいとの手段はかりを


   思考を変えても、気分が変わるだけ……
   この世は意識の投影……
   人生 変えるなら、まずは意識の青写真を閲覧すること
                       k-zerostyle

                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

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