十一号の61からです。
この号は、始めに「偉い思惑」と示した「こふき」の作成が大きなテーマ。「こふき」の話の台となる中心人物である小寒さんが、この時期お屋敷へ戻るか、梶本家に留まるかと心が揺れている。そのことを冒頭で「胸先へ厳しく支えきたるなら」と歌って、梶本家の身上、事情に対して、小寒さんが「神の社」として神意を伝えることで皆を目覚まし、自らも的確に決断することを迫る手法で、更にそれを「こふき」にしてこの号を歌っている。
32の歌で、「こふき」の話をして、
33から60は、実際に「こふき」として書かれている。
61~65は、この後から語る「こふき」の話の前置き。
66~68は、「こふき」とは。
69~72は、「こふき」の登場人物。
73~80は、「こふき」の根幹の精神を語っている。
33からは、もう「こふき」が始まっているのです。
33~49の小寒さん中心の「こふき」は、足かけ3年経ったら、神の社として人々に「楽しむ」生き方を伝えるという自分の人生、それ背いたことで今苦しんでいる。だから自分のエゴ、「思考」でなく、神に凭れる、「意識」のままに生き方を改めて澄きやかになりたい。
50~60の惣次郎さん中心の「こふき」は、今の自分の全ては自身が創造したということをしっかり認識して、何でも受け入れるなら「今に在る」ことのできる扉が開いて、陽気づくめとなる。その先は過去も未来もない永遠、「病まず弱らず」の生命のあるところ。
このよふなはなしくとへゆうのもな これハまつたいこふきなるのや 十一 66
このような話クドクド言うのもな これは末代こふきなるのや
61~65の「何処にない事ばかり」、「ない事ばかり言うけど」、「珍しい事をするから」、「ない事ばかり言うたとて」と表しているように、「こふき」はおふでさきの内容そのものと少しも違いはないということが、ここではっきりと分かる。
そのうちになかやまうぢとゆうやしき にんけんはじめどふくみへるで 十一 70
そのうちに中山家氏という屋敷 人間創じめ道具見えるで
このどふぐいざなぎいゝといざなみと くにさづちいと月よみとなり 十一 71
この道具イザナギとイザナミと クニサズチと月ヨミとなり
(天保9年に)神(宇宙の創造主)が、みき様を「神の社」と定めて、みき様をとおしてこの世に現れたことは、おふでさきの冒頭で伝えられていることだが、この歌は、神が天下ったのはみき様だけではないことを示唆している。
当時の中山家は、みき様夫婦と子供が4人で6人家族。明治2年のおふでさきの執筆当時は夫は亡くなり、身内といえばみき様、秀司さん、まつゑさん、小寒さんの他に、おちゑさんとその子2人、とお秀さんなどがいる家族構成であった。
おふでさき執筆の目的の一つに「こふき」の完成がある。この号では、「こふき」の主人公は小寒さん、惣次郎さん。おふでさき十四、十号は、秀司さんが主人公。おふでさき十六、十七号はまつゑさんへと引き継がれていく。
「こふき」は、「中山氏」、中山家の家族縁者を台として、その時とその場のそれぞれの心(思考←→意識)の持ち方と行為、そしてその結果の全てを明らかにすることで、私たちに「楽しく」暮らせるための道案内を示している。
神(宇宙の創造主)がみき様ともども「中山氏という屋敷」に天下ったのは、こうきの台となるべき人を見込み、そして、「仕込む」という思いがあることを歌っている。
この号は、始めに「偉い思惑」と示した「こふき」の作成が大きなテーマ。「こふき」の話の台となる中心人物である小寒さんが、この時期お屋敷へ戻るか、梶本家に留まるかと心が揺れている。そのことを冒頭で「胸先へ厳しく支えきたるなら」と歌って、梶本家の身上、事情に対して、小寒さんが「神の社」として神意を伝えることで皆を目覚まし、自らも的確に決断することを迫る手法で、更にそれを「こふき」にしてこの号を歌っている。
32の歌で、「こふき」の話をして、
33から60は、実際に「こふき」として書かれている。
61~65は、この後から語る「こふき」の話の前置き。
66~68は、「こふき」とは。
69~72は、「こふき」の登場人物。
73~80は、「こふき」の根幹の精神を語っている。
33からは、もう「こふき」が始まっているのです。
33~49の小寒さん中心の「こふき」は、足かけ3年経ったら、神の社として人々に「楽しむ」生き方を伝えるという自分の人生、それ背いたことで今苦しんでいる。だから自分のエゴ、「思考」でなく、神に凭れる、「意識」のままに生き方を改めて澄きやかになりたい。
50~60の惣次郎さん中心の「こふき」は、今の自分の全ては自身が創造したということをしっかり認識して、何でも受け入れるなら「今に在る」ことのできる扉が開いて、陽気づくめとなる。その先は過去も未来もない永遠、「病まず弱らず」の生命のあるところ。
このよふなはなしくとへゆうのもな これハまつたいこふきなるのや 十一 66
このような話クドクド言うのもな これは末代こふきなるのや
61~65の「何処にない事ばかり」、「ない事ばかり言うけど」、「珍しい事をするから」、「ない事ばかり言うたとて」と表しているように、「こふき」はおふでさきの内容そのものと少しも違いはないということが、ここではっきりと分かる。
そのうちになかやまうぢとゆうやしき にんけんはじめどふくみへるで 十一 70
そのうちに中山家氏という屋敷 人間創じめ道具見えるで
このどふぐいざなぎいゝといざなみと くにさづちいと月よみとなり 十一 71
この道具イザナギとイザナミと クニサズチと月ヨミとなり
(天保9年に)神(宇宙の創造主)が、みき様を「神の社」と定めて、みき様をとおしてこの世に現れたことは、おふでさきの冒頭で伝えられていることだが、この歌は、神が天下ったのはみき様だけではないことを示唆している。
当時の中山家は、みき様夫婦と子供が4人で6人家族。明治2年のおふでさきの執筆当時は夫は亡くなり、身内といえばみき様、秀司さん、まつゑさん、小寒さんの他に、おちゑさんとその子2人、とお秀さんなどがいる家族構成であった。
おふでさき執筆の目的の一つに「こふき」の完成がある。この号では、「こふき」の主人公は小寒さん、惣次郎さん。おふでさき十四、十号は、秀司さんが主人公。おふでさき十六、十七号はまつゑさんへと引き継がれていく。
「こふき」は、「中山氏」、中山家の家族縁者を台として、その時とその場のそれぞれの心(思考←→意識)の持ち方と行為、そしてその結果の全てを明らかにすることで、私たちに「楽しく」暮らせるための道案内を示している。
神(宇宙の創造主)がみき様ともども「中山氏という屋敷」に天下ったのは、こうきの台となるべき人を見込み、そして、「仕込む」という思いがあることを歌っている。