おふでさき十二号です。
この心あらわれでたる事ならば たれもそむきわさらにてけまい 十二 178
この心あらわれ出たる事ならば 誰も背きは更に出来まい
これみたらどんなものでもしんちつに あたまかたけてみなしやんする 十二 179
これ見たらどんな者でも真実に 頭傾げてみな思案する
「この心」は、その前の歌「真の心」 ― かんろだいづとめで自分の存在感を確認して、目覚めた神の子の衝動からの行為は、しっかり地に足がついている。
「頭傾げてみな思案する」 ― おつとめに取り組むまでは、確固たる存在感を持てず、何をするにも定まることはなかった人。おつとめで真の自分に気づいてからの生き生きとしたその人の姿に、回りは頭傾げて驚きの表情を見せるでしょう。
さあしやんこの心さいしいかりと さだめついたる事であるなら 十二 180
さあ思案、この心さいしっかりと 定めついたる事であるなら
このはなし月日の心ばかりやで にんけん心あるとをもうな 十二 181
この話し月日の心ばかりやで 人間心あると思うな
「月日の心ばかり」は、21、83にもあって、世界並みの人間心と対称となっている。その人間心、具体的には何を指しているか、21からは ― 十二号は、小寒さんの死という大きな節を台として書き始めていることは明白である。
「山坂、茨畦、崖道、剣の中、火の中、淵中」を淡々と受け入れて「神一条」の道を歩むみき様にとって、小寒さんの死はその延長線上のことであっさり受け入れるが、回りでは実母としてのみき様に同情を寄せるだけでなく、若き神と慕って、小寒さんから直接話しを聞いて「この道」をともにしている人々にとっては、この節はとても受け入れがたいことであった。明治七年、今後の方針を伝えるおふでさき三号は、「真の柱」を小寒さんと定め、小寒さんを中心としておつとめを完成させる方針を打ちだして、そのまま続いている。回りの人々の心がいろいろに揺れるのは当然のこと(18~20)。
「人間心」で、故人を偲んで何が足りなかったのか、何がこの不幸を招いたかと膝を突き合わせて練りあう。おつとめの学びを中断して、方針を改める、行動を控えるというのではない。
人生の大枠は 決まっている
それが どうした…… k-zerostyle
「月日の心ばかり」で、と発して投げかけた言葉が「元は1本枝は8本」 ― 元の1本であった小寒に寄せていた情熱を秀司に向ける。ここからは一人一人がつとめ人衆を目指して、見事な8本の枝となりなさい。
「月日でかける」 ― 「せへつう」ここを絶好の旬ととらえて、今まで学んできたおつとめを世界に向けて発信する。ここからは中心と頼っていた小寒に代わって、秀司とともに皆が主役となって、より「意識」の高いステージを目指しましょう、と人々の「意識」を鼓舞する。
「定めついたる」については、174、175「体内に何があるやら」と「心次第に何をするやら」の語句から、「定める」ためのその選択は
① 身体も心も自らのものとして、自分を貫く
② 体内に月日入り込むという、神の子としての自分を受け入れる。
それに付随する道は
① には、「けふの日」、今までと同じように、エゴのまま物、事にとらわれた枠の中で、「世界並みに」無意識に生きる安心のない道。
② には、「明日にち」、すなわち踏み出した今から「しんの心」があらわれてくる ― 心澄ました自らの体内に「神が籠もり居る」ことに氣づくことで、自分のあるべきところに安住しているという安心を得ることのできる道。
定める選択が② なら、「月日の心ばかり」 ― 神の子なら、その「意識」は行動の目的である物、事などよりも、どの様にするかが最も重要。何をするかというよりは、どの様にするかということで、物事の事実よりも、それに向ける「意識」の質が問われるということ ― 「人間心あると思うな」
この事をみな一列は真実に 思て頼めばどんな事でも
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
この心あらわれでたる事ならば たれもそむきわさらにてけまい 十二 178
この心あらわれ出たる事ならば 誰も背きは更に出来まい
これみたらどんなものでもしんちつに あたまかたけてみなしやんする 十二 179
これ見たらどんな者でも真実に 頭傾げてみな思案する
「この心」は、その前の歌「真の心」 ― かんろだいづとめで自分の存在感を確認して、目覚めた神の子の衝動からの行為は、しっかり地に足がついている。
「頭傾げてみな思案する」 ― おつとめに取り組むまでは、確固たる存在感を持てず、何をするにも定まることはなかった人。おつとめで真の自分に気づいてからの生き生きとしたその人の姿に、回りは頭傾げて驚きの表情を見せるでしょう。
さあしやんこの心さいしいかりと さだめついたる事であるなら 十二 180
さあ思案、この心さいしっかりと 定めついたる事であるなら
このはなし月日の心ばかりやで にんけん心あるとをもうな 十二 181
この話し月日の心ばかりやで 人間心あると思うな
「月日の心ばかり」は、21、83にもあって、世界並みの人間心と対称となっている。その人間心、具体的には何を指しているか、21からは ― 十二号は、小寒さんの死という大きな節を台として書き始めていることは明白である。
「山坂、茨畦、崖道、剣の中、火の中、淵中」を淡々と受け入れて「神一条」の道を歩むみき様にとって、小寒さんの死はその延長線上のことであっさり受け入れるが、回りでは実母としてのみき様に同情を寄せるだけでなく、若き神と慕って、小寒さんから直接話しを聞いて「この道」をともにしている人々にとっては、この節はとても受け入れがたいことであった。明治七年、今後の方針を伝えるおふでさき三号は、「真の柱」を小寒さんと定め、小寒さんを中心としておつとめを完成させる方針を打ちだして、そのまま続いている。回りの人々の心がいろいろに揺れるのは当然のこと(18~20)。
「人間心」で、故人を偲んで何が足りなかったのか、何がこの不幸を招いたかと膝を突き合わせて練りあう。おつとめの学びを中断して、方針を改める、行動を控えるというのではない。
人生の大枠は 決まっている
それが どうした…… k-zerostyle
「月日の心ばかり」で、と発して投げかけた言葉が「元は1本枝は8本」 ― 元の1本であった小寒に寄せていた情熱を秀司に向ける。ここからは一人一人がつとめ人衆を目指して、見事な8本の枝となりなさい。
「月日でかける」 ― 「せへつう」ここを絶好の旬ととらえて、今まで学んできたおつとめを世界に向けて発信する。ここからは中心と頼っていた小寒に代わって、秀司とともに皆が主役となって、より「意識」の高いステージを目指しましょう、と人々の「意識」を鼓舞する。
「定めついたる」については、174、175「体内に何があるやら」と「心次第に何をするやら」の語句から、「定める」ためのその選択は
① 身体も心も自らのものとして、自分を貫く
② 体内に月日入り込むという、神の子としての自分を受け入れる。
それに付随する道は
① には、「けふの日」、今までと同じように、エゴのまま物、事にとらわれた枠の中で、「世界並みに」無意識に生きる安心のない道。
② には、「明日にち」、すなわち踏み出した今から「しんの心」があらわれてくる ― 心澄ました自らの体内に「神が籠もり居る」ことに氣づくことで、自分のあるべきところに安住しているという安心を得ることのできる道。
定める選択が② なら、「月日の心ばかり」 ― 神の子なら、その「意識」は行動の目的である物、事などよりも、どの様にするかが最も重要。何をするかというよりは、どの様にするかということで、物事の事実よりも、それに向ける「意識」の質が問われるということ ― 「人間心あると思うな」
この事をみな一列は真実に 思て頼めばどんな事でも
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講