陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

この先の道の容態  しっかり聞き分けてくれ

2017-02-13 15:44:40 |  エッセイ
おふでさき九号です。

  このさきのみちのよふだいしいかりと きゝわけてくれ月日たのみや 九 17 
   この先の道の容態しっかりと 聞き分けてくれ月日頼みや
 13のこれから知らせる「真実の事」は、常識では決して収まらない、『飛び抜けた』内容を含んでいるから、その話の道筋をとおして抜け出てくる「道の容態」をよく見定めて、しっかり受けとめなさい、と言っているのです。この「飛び出る」は、おふでさきで7回使われていて、この号に3回と一番多く出ている。
 おふでさき八号がみかぐらうた六下り目を解説するなら、この九号は? と考えるとき、みかぐらうた七下り目「一言はなし」という言い掛けから始まっていて、その「一言…」から飛び出す言葉の中身が、おふでさきの飛び出て発進される言葉と重なるように見える。
 この飛び出した「一言の話」は「でんぢ(田地)がほしいだろう」という話をテーマとしているから、この「でんぢ」とおふでさきの常識を超越して「飛び出る」話がつながって、心におさまったときに、それから「先の道の容態」が、見える形となって浮かび上がってくると思う。

  月日よりとびでた事をきいたなら かんろふだいをばやくだすよふ 九 18 
   月日より飛び出た事を聞いたなら かんろだいを早く出すよう
 みかぐらうた七下り目からの手振りは、扇を身につけて踊るから、神の子、神を演じるということ。だからそこから発する「一言はなし」は我身思案の「思考」でなく、神の「意識」から湧き出た言葉です。「深い心があるなれば」― 神の「意識」からなる言葉は、そのまま高い波動となって神(宇宙の創造主)、天にまで広く行き渡るから、もう途中で「誰も止めるでないほどに」、それを止めることなど、誰だってできるはずもない。
 その波動が「この先の道の容態」に変化をもたらすことは当然のことで、その高まった意識の変化に対応するには、もうかんろだいを据えることでしか、収めようがないということを、ここで歌っている。

 その前にすることは
  かんろたいすへるところをしいかりと ぢばのところを心づもりを 九 19
   かんろだい据える所をしっかりと 地場の所を心づもりを
 では「地場」は、どのようにして定めるのか、それをみかぐらうた七下り目が、その向きを示しています。「良き地があらば、誰もほしであろうがな」「何れの方も同じこと、私もあの地を求めたい」です。ここで、「良き地」を地場と定めて、そこにかんろだいを据えるように、提示していると言っていいと思います。その「良き地」はいったい何処にあるのか。
 「屋敷は神のでんぢやで、蒔いたる種はみな生える」です。― 「屋敷は」の手振りは「一列」と同じですから、世界中がその「良き地」の候補地です。「そこは銘々の胸しだい」― 人々が「意識」を変えることで、その場、そのところが「良き地」になる。「意識」が高い方向を指し示すなら、その一瞬からその場が高い「意識」の波動に応じた「良き地」になるのです。

 みかぐらうた七下り目のまとめは、「種を蒔いたるその方は、肥を置かずにつくりとり」です。「肥を置かずに…」の文句からこの歌の舞台である「でんぢ」は、物の世界の話ではないことが分かる。みかぐらうたとおふでさきは精神世界、心に豊かさを持って幸せを感じることを教えているのです。

 「一言の話」はこの世の常識から飛び出た、神の「意識」(1~4)、この世の真理です。『ただ今から、心に浮かぶまま取り次ぎさせていただきます! 』などと神様ぶって、直感、人間思案の「思考」のエゴを振りまくことは「悪」です。
 神の「意識」に宿る衝動から飛び出てくる言葉しか誠の「匂いがけ」とはならないのです。その匂いで回りの人々が「意識」を変えことができるなら、「この先の道の容態」に変化が起こり、そこが「良き地」、「聖地」となる。そこに「道の容態」、地場定めの実態があるのです。そして、おつとめは世界中の「良き地」でつとめるのです。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


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