陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

この道具  クニサズチと月ヨミと

2016-08-19 22:09:36 |  エッセイ
 おふでさき六号です。

 10で歌っている「如何なる神も目に見えん」という神とは、
  いまゝでハいかなる神も山へに をがみきとふとゆうたなれども 六 26
   今までは如何なる神も山々に 拝み祈祷と言うたなれども
 当時の中山家の屋敷内は、みき様の教えどころだけではなく、つとめ場所には秀司さん夫婦と取り巻きが、慶応3年に吉田神祇管領から許可を受けた天輪王明神を祀っていた。吉田神祇管領は吉田神道と呼ばれていても、実際は儒教、仏教、道教、陰陽道などを習合させ、その融合性に富むところから近世に広く長期に浸透し続けたが、大元の吉田神社の中の斎場所である大元宮本殿が八角形をしていて、それが道教とは特に深い関係にあることを物語っている。
 吉田神社では、古い時代から求めに応じて道教風の霊符すなわち呪符(符呪)が、出されていて、秀司さん夫婦と取り巻きも吉田神社に呪符を書いてもらった過去がある。その呪符は、みき様が信仰の体系としている言葉をそのまま使った、「肥のさづけ」、「おびや許し」、「雨乞い」、他に「虫札」など諸々の呪符を書いてもらい、それをつとめ場所で高値にして売りつけることで、かなりな荒稼ぎをしていたようだ。
 吉田神社では今でも特に申し出があればその霊符(呪符)を手書きで発布してくれるそうですが、過去に書かれた霊符(願書とか写し…)などは(江戸時代の物まで含めて)全てを天理教教団が法外な高値で買い取ってしまって、いっさい手元に残っていないというから、こういう過去の実態の事実を抹殺しようという意図を感じざるを得ない。

 この26の歌はその状況をそのままに伝えているのです。おふでさき五号では36~45と多くの行を割いて、方術に心を奪われている人々にお灸をすえている。真実の元始まりの話をきっちりと心に治めるために、「目に見えない神」、天輪王明神が教えている記紀に基づく元始まりの神話を一掃せねばならない。「そうじ」という言葉がその必要性を語っていて、掃除して澄ましたところに、「どのよな神も、現れ出して」元の理という真理、「目に見える神(11)」として現す。その「見える神」が、この号の大きなテーマとなっているのです。

 道教には、さまざまな神々が登場するが、人体の内部にも例えば、肺には6柱、肝臓には4柱の神がいて、心臓は雄君という名の神が守っているのだという。ただそれは体内の五臓に宿る神を念じて健康を保つという方術の世界の拝み祈祷の手法に相違ない。

 みき様は、このつとめ場所の見えない神見える神にしようというのです。
 おふでさきでは、その体内五臓に宿る神について、
  31で「イザナギとイザナミとを引き寄せて」と、
 先ず夫婦のひながたを定めて、そのひながたの体内の五臓となる道具を仕込む用意をすると歌う。しかし、その神はけっして拝む対象ではない。みき様が体内の臓器など、各器官の働きに命名した神は、つとめ人衆としてかんろだいづとめで「見せる神」を演じる道具衆として働くのです。

  37「この道具クニサズチと月ヨミと、これ身の内へ仕込みたるなら」
  38「クモヨミとカシコネとヲフトノベ、タイショク天と寄せた事なら」
 人間一人の体は、量子科学的にそれぞれが一個の宇宙と言われている。だから、宇宙には宇宙を形成する骨格があるように、人間のそれを道具と表現しているのです。そして、先ず男性性、女性性と生殖器官を定めて、それが人間を産みだすために必要となる道具を、すなわち消化器官、循環器官、呼吸器官、泌尿器官、発声器官などを形成するために、宿仕込んだのです。そして、その道具をイザナギ、イザナミ、月ヨミ、クニサズチ、クモヨミ、カシコネ、ヲフトノベ、タイショク天と神名で命名したのです。

 かんろだいづとめは神がこの世に現れた姿です。宇宙そのもの、人間そのもの、それ自体が神そのものということ。かんろだいづとめは、かんろうだいを中心に据えてつとめるが、本来はかんろうだいの位置はイザナギとイザナミの男女が性交しているところ。それを他の8柱の神が円形に囲むまさしく神樂の舞。その舞は8柱が一斉に中心に寄って小円となってから、花を咲かせるように一斉に元に戻って大円を描く動作を繰り返す。その動作を真上から見下ろすとき、つとめ人衆の10柱がそれぞれの持ち分の手振りをしながら、つながっているように感じさせる動作は、宇宙の動き、人間の体内の動きと重なる。このおつとめで、この世の全てのものは、つながり合い複雑な化学反応を繰り返して、生き続けているこの世、神を「目に見せて」いるのです。

  みかぐらうた十下り目
   「不思議な助けをしていれど、現れ出るのが今始め」
   「難儀するのも心から、我が身恨みであるほどに」
   神は何時でも、自分の内に、自分の回りにいるのです。「我が身恨み」であるように、自分と
   対面する全ての人が、神に代わって自分を見せてくれる。自分の位置、環境全ては、神が自
   分の創造どおりの成果をみせてくれる。
   「目に見えない」神は探さなくていいのです。


    あなたは自由、あなたは創造、なんでもありでなんでもない……
    この世は すべて意識の投影……
    欲しい人生ではなく、意識の立ち位置と同じ人生が手に入っている
                               k-zerostyle


                      中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講




最新の画像もっと見る

コメントを投稿