陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

牛馬と  見える道

2015-05-09 19:26:29 |  エッセイ
 おふでさき八号、

  たんへとをんかかさなりそのゆへハ きゆばとみへるみちがあるから 八 54
   だんだんと恩が重なりその故は 牛馬と見える道があるから
ですが、おふでさき五号に、
  いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど あとさきしれた事ハあるまい 五 1
   今までは牛馬と言えば、ままあれど 後先知れた事はあるまい
おふでさきの、五号と八号の「牛馬」の話しを挟んで、「善と悪を分ける」(五6、八53)が大きなテーマとなっている。

 この八号は、その流れの中で、真実の教えの「所」、「人」、「時」をはっきりと歌っている。
 そして、この世と人間創生の真実の話は、今までにも繰り返し言っていることだが、理解できていない。それは人間思案の「思考」がつくった迷信などの陋習にしばられているからで、それから脱することができるように「ほうそ許し」を伝えているが、片や長男夫妻らは、迷信を助長する「をびやの守り札」で金儲けをしている(32)。

 という話を「悪」の台として、この「牛馬」の歌がでてくる。
  いまゝでハどんなはなしをしたるとも なにもみゑたる事ハなけれど 八 56
   今までは、どんな話をしたるとも 何も見えたる事は無けれど
  これまてもみなみへきたる事なれど ほんもとなるをしらん事から 八 57
   これまでも皆見えきたる事なれど 本元なるを知らん事から
人間の陽気ゆさん見たい。そのための全ての環境は整えてあるのに、目に見えないので、無意識に当たり前に過ごしていて、人間思案の「思考」、五官に頼るばかりで、真実の道を踏み外しているから、繰り返し何度もこの世と人類創生を語っている。
 それなのに、まるで対抗するように、許しがたい・「悪」なる行い(53)を重ねている。それでも神は、人間可愛さゆえ、繰り返し手を差し伸べているのに(60)…

  その恩に「恩を重ねるばかり」ではないか。
  その姿、格好は、言っては何だが、まるで『牛馬みたいだよ!』

 この歌を、「牛馬に落ちる」と読んで、『恩を忘れると、来生は牛馬だ』などと勝手な解釈をしてる人が多いようだが、みかぐらうたとおふでさきには、前生因縁などというような過去の話、そして来生という未来の話しはない。全て「今」と今に続く話しだけ。

  とのよふなものでも月日しんぢつを うけとりたならみなたすけるで 八 55
   どのような者でも、月日真実を 受取りたなら皆助けるで
いくら恩に恩を重ねても、真実の親・神(宇宙の創造主)は、罰を当てるとは言わない。来生は牛馬だとも言わない。
 「気づけ」ば、月日の我々に対する真実に気づいたら、その「今」から、人生が始まる。その意識に神の心がよみがえるのです。


        気づくと 偉大な知性が働き始める
        気づくと 「思考」から解放される
        気づくと 「意識」がめばえる
        気づくと そこに神がある


最新の画像もっと見る

コメントを投稿