てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#178(卯辰山キリシタン弾圧PARTⅡ編)

2017年02月05日 15時09分38秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
昨日は所用があって、晴れたいい日にブラつけませんでした。
昨日だったら間違いなく白峰の雪だるまを見に行ったんだけどなぁ・・・。

しかたがないので、
今日の午前中にササッとまた卯辰山に行って来ました。

前のキリシタン弾圧編で⇒#175
確認できなかった場所や勘違いしていた点があるので、そこを今回は修正したかった。


前回、養生所跡を見つけることができなかったのでまずはその場所へ行って来た。


ここなんだけど、


説明板が松の木の後ろに隠れていてわからなかった。


意味深なフェンスもあるね。


この大木は江戸末期にもあったはず。

どんな光景を見降ろしてきたことだろう。

養生所:(江戸中期の庶民病院)
大聖寺藩(現在の加賀市)に流された浦上キリシタンが、1872(明治5)年になって移されて収容された場所。もともとは加賀藩の病院でしたが、移転して当時は空き家になっていました。

そもそもこの養生所がすごいのは、
江戸の小石川養生所、長崎の小島養生所、そして加賀の卯辰山養生所と三番目に古いらしい。



次いで、湯座屋跡に向う。


ここを下っていくのだが、


雪もずいぶん溶けました。


ここですね。


金沢における弾圧で最も多くのキリシタンを収容した場所がここである。

湯座屋:
湯座屋は元湯治場で、二階建の建物には47部屋あったので、到着した410名もの大人数を一ヶ所で収容できましたが、すでに湯も枯れ、さびれていました。現在は雑草のはびこる石置き場となっています。

こんな感じだったのかなぁ。


こんなところに温泉が出たというのも驚きであるし、湯治場があり、大きな建物があったというのも驚きだ。

そして、ここで多くのキリシタンが亡くなっている。
「600人以上もが豚小屋の豚のごとく、獄屋の二階に詰め込まれている。囚人の中の多くの幼児も天然痘の伝染病でほとんど亡くなった。南京豆のおむすび一個だけのひどい食糧事情だ」と。
この場所で、地元のお寺の高僧が連日連夜、キリシタンに対し改宗を説得したという。


そして次に向かったのが
オイラ一番興味ある「奥のトキエ」である。

トキエとは徒刑場のこと。


前回の記事では、とんちんかんな方向へ歩いて行ったが、


この地図でもあるように、

東長江に降りていく道のすぐ横にあったようである。

柵を越えて、谷まで行こうかとも思ったが・・・、


誰かが見たら、不法投棄しているか、死体遺棄しているか
いらぬ疑いをかけられそうなのでやめといた。

この左手の谷の下に、


奥のトキエはあった。


「あざみ谷」と呼ばれている一角、東長江地区の谷底の16間ほどのスペースに二重柵が巡らされ、その中に4間のわらぶきの牢屋が建てられていました。
金沢に配流された信徒のうちで、特に信仰が強固な者数名がここに入れられ、改宗を迫られました。
12月の雪の中、今まで着ていた着衣を剥ぎ取られ、薄い袷(あわせ)一つで戸外に置かれる、寒ざらしという仕打ちを受けました。
キリシタンたちはただ祈りに集中し、艱難辛苦を忍びました。

こんな感じだったのだろうか。



谷の下に農道が見えたので向かってみた。


これ以上は行けそうにない。



さて最後に
キリシタンの遺骨が納められたという埋葬骨群発見場所へ向かう。

前回は雪があってここまでこれなかった。

卯辰トンネルだ。


この、のり面


いろいろな情報から発見された場所は、あそこ付近だが、


もう痕跡などはないのである。もう遺構は空に浮いているわ・・・


埋葬骨群発見現場:
山側幹線道路の建設中に工事関係者が発見した。墓穴13ヶ所から土葬された人骨40体が出土し、それらは現在国立科学博物館に保存されています。


いろいろ、加賀におけるキリシタン弾圧については、
もう少し勉強してみようと思います。


ふむふむ


ほほぉ、




この後、奥卯辰山にある


金沢仏舎利塔へ


えっほ、えっほ、


おぉ!眺めがいい。



・・・・・・・・・・・。

仏様を信じようとも、
イエス・キリストを信じようとも、
その人が信じたいものを信じることができる自由こそが、
なによりも大事なのです。


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