2019/11/02

2019-11-02 | 想い出
今日はブラーと出かけてみて
新幹線の旅をする

旅はこの空間が一番いい

窓の外に流れる景色
太平洋側浮かべてみて

次から次へと変化して

左の方を見渡せば

やがつめにする富士山麓 
麓を走って東海道

ブラーと出かけた今日の旅
太平洋に夕陽が沈み

今日の日没告げてくる

恋の淡路島

2019-05-03 | 想い出


     恋の淡路島



   明石海峡渡った時に   初めて出会ったお前の横顔



    惚れた 惚れた 惚れたよ  お前の眼差し



  ついてくるかいこれからは 俺のすべてはお前のものさ



      ふたりが出会った  恋の淡路島







  砂浜が続く 大浜海岸   抱きしめあった三熊の山で




    好きさ 好きさ 好きだよ  交わした口づけ



    ふたりで歩くいばらの道も 薔薇の花咲く道になる




    ふたりが誓った  恋の淡路島







     鳴門海峡 うずしおライン  夢を運んだ縦貫道て



     惚れた 惚れた  惚れたよ  お前のすべてに



     いつまでも行こう  どこまでも



      幸せ求めて  夢の島へ



       ふたりが祈った  恋の淡路島





夢を見ましょう

2019-03-12 | 想い出



   夢を見ましょう


  この世はみんなこんなもの

   
   くよくよしたってはじまらない


   どうでもいいことばかりなの


   かんがえてみても仕方がない


   夢を見ましょう 夢を見て



   夢を見ましょう  いつまでも


   浮き世は忘れて  夢の中へ






    どうせはかないものばかり


    ままにならない当世の



    すべて忘れて夢心地


    明日は明日の風が吹く



    夢を見ましょう  夢を見て


    夢を見ましょう  どこまでも



    恋の気分で夢の中へ







   聞けど尋ねど返事なし


   天気予報に身をまかせ


   現実なんかは投げ出して


   夜風とともに歩きましょう



   夢を見ましょう 夢を見て


    夢を見ましょう  眠るよに


    ほろ酔い酒で 夢の中へ

生活の中で・・・

2016-08-30 | 想い出
何はともあれあまり裕福な家庭ではなかった。

ただ父が公務員ということもあり仕事に対して真面目だったのである程度の生活資金は確保していたように思うが満足のいくほどではなかった。


祖父が去った後、父、母はたえず喧嘩をくり返した。母はあまりの父の威厳のような姿勢に耐えられなかったのか・・・・・僕を連れて親戚の家に泊めてもらうことがしばしばあった。

今から思えば何故あんなに喧嘩をくり返していたのかわからない・・・・・がとにかくよく喧嘩をしていたようである。



当時は戦争が終わり日本全体が焼け野原となった状況で国民が必死になって働いて日本の再興をかけて蠢いていた時代だったように思う。

終戦後10年頃の時期で人々は安堵の気持ちと不安感を持ちながらも何とかしよう、がんばろうと懸命になって復興を賭けていた。苦しいながらも人々は陽気に振るまい何するものぞと再起を目指して日々過ごしていた時代だったように思う。

この幼少の頃家庭の事情は記述した通りであるがこんなに暗いような事柄ばかりではなかった。

町では近所の主婦が集まり川へ洗濯に行き主婦がそろって浅瀬で衣類を洗い、手でもんだり、足で踏んだりして、楽しみながら会話を交わして、こぞって川へ足を運んでいた。

その様子は何か楽しんでいるようにも見受けられていた・・・・そんなように記憶している

その風景は走馬燈の如く残っている。僕も時々母に連れられて遊びがてらに共になって洗濯したこともある・・・・・







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生活の中で・・・・・

2016-08-30 | 想い出

前にも書きましたが・・・夜のつぶやき・生活の中で・・・以外のカテゴリーはかなり以前に書いていたものを再度投稿したものです・・・・・


こんなことを書いていいのか、よくわからないのですが・・・これから書いていこうと思っています・・・・・続くかどうかわかりません・・・・・



(想い出)

(幼少時代)
僕はとある片田舎の漁師町で生まれた。
今から考えると僕の生まれた日は旧の年越しの日だったと言う。

物心ついたのは何才ぐらいの時だったのか今だにわからない。

今から思えば、幼稚園の時の記憶をたどれば、ブランコが大好きで友だちを誘ってブランコ飛びの遊びに励んだことを記憶している。

もちろんジャングルジム、シーソー、いろいろな遊具を使って遊んでいた。特にブランコについては大きく振ってどれだけ飛べるか、どれだけ大きく振れるか、競争のように遊んだことを覚えている。

室内ではブロック積みの遊びにも良く遊んだ。

時たま母親にも連れられて幼稚園の遊具を使ってふたりでいっしょに遊んだことも記憶に残っている。 今から思えばその情景を思い出せば、母親の姿が浮かんできて、母の愛というものをしみじみと感じて想いが募ってくるものがある・・・・・

また学習発表会等の思い出があり僕は主役の牛若丸を演じたこともある。その練習には先生方も力が入り歩き方、笛の吹き方、体の動きなど丁寧かつ手厳しく指導された。幼少のせいかあまり恥ずかしさも感じなかった。そして同級生のひとりが弁慶を演じて共に練習し、発表会に望んだことを覚えている。今でもその写真は現存しているが部屋の何処かに置いたままである。


この幼稚園時代は今でもそうかも知れないがこの頃は、昼には児童全員がそろって眠る時間帯が設けられていた。

小さい布団を敷いておよそ100人ほどの児童が一斉に眠る時間が設置されていた。また幼い頃からこの頃流行の{ままごと遊び?」も楽しんだ。

もちろん僕は何も知らなかったがある友達に教えられたことである。運動場にゴザを敷き女の子と男の子3,4人で仲良く遊んだことを覚えている・・・・・

「ままごと遊び?」というのはこの当時は誰でも経験する遊びのひとつだったと思う・・・・

ところが現在ではその跡形は全く消えている。

この時期には卒業写真を撮ることが常識であり、この卒業写真も部屋の片隅に置いてある。

現在ではこの頃の幼稚園の跡形がなく新しい保育園が建っている。        

また家庭生活についても記憶を巡れば様々な出来事が脳裏に残っている。旧家の古い小さな家での思い出も鮮明に頭に浮かんで来て残像して写ってくる。

たたずまいはかなり古い作りでトイレ(便所)などは屋内にはなく家のそばの場所に存在していた。

当時は何処の家もそうであったように井戸があり釣瓶を使って水を使用していた。台所などもかなり古く竈があり食事の場所も貧弱なものだった。
 


この頃の食卓風景を思い出せば父は酒が大好きで食事時に良く嗜んでいた。父は何故か祖父に対して反感をもっていたようである。祖

父は聞く所によると博打に手を出して良く遊んだと言うことを後で父に聞かされていた・・・

そんな祖父に父は反逆していたようである。

祖父はその頃に言うなま船(回船問屋)に乗って瀬戸内を航海する仕事だった。

祖父の生い立ちは後で聞いた話だがいろいろと事情があり普通の人とはかなり違っていたようである・・・・・

そんな祖父に対して父はよく口論していた。家の片隅にある小さな食卓で父、母、祖父、僕の4人で食事中僕は内心「父ちゃん、そないおじいちゃんと喧嘩すな」と心の中でつぶやいたことを記憶している。


父は今では禁句かも知れないが俗に言う「養子」だった。普通養子であれば親の言うことを聞かなければならないのではとは思うが

とにかく父はよく文句を言っていた。僕は心の中で父に対して親しみを持っていたのか愛着を持っていたのかそれとも怖かったのか言葉に出すことができなかった。いつも内心でこんなように思っていた。


祖父との記憶はあまり無く2、3度程度のことしか残っていない。

ある年の正月に1m以上もある鰤を持ってきてなま船漁者の得意の腕で料理をしてくれたことがある。祖父はその時僕に何か一言つぶやいて父に対する想いをつぶやいたことがある・・・・・

内容は忘れたがこの程度の事しかこの頃の祖父に対する面影は残っていない。       

祖母は僕の生まれた年に亡くなって僕は祖母との思い出は全く無かった。僕が生まれた時、男の子が生まれた、後継ぎができたと言って祖父、祖母、父、母は大いに喜んだそうである。

が祖母との接触は無く、おばあさんの人間性というものについてはほとんど無に等しい。祖父はいつだったか何故か家から離れて瀬戸内のある岬に住所を住み替えていたようでさある・・・・・


おそらく祖母もいないし母や孫や諸々のことを考えて何か記するところがあってこの判断を下したのではないかと推測している。


(この文面は僕が物を書き始めた頃、書いていた文面・・・・今日ほんの少し手直ししたものです・・・・・この文面は僕の小学校の前半まで書いていました・・・・)








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