主と共に

クリスチャンホームの我が家 
主と共に歩む日々
(=^・^=)だけどみゅうちゃんも家族の一員♪

『聖霊により宿り、処女マリアより生まれ』 2017年8月6日 

2017年07月26日 | CSマイ説教要旨

『ガラテヤの信徒への手紙 4章 1節~6節』



4:1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、
4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。
4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。



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イエスさまのお弟子さんのパウロさんは、ガラテヤにある教会の人たちに手紙を書きました。
パウロさんはガラテヤの人たちが間違ったことを信じていることを心配して、違うよ!と
正しい教えをもう一度力強く伝えるために手紙を書きました。パウロさんは、ただ、イエス・キリストを信じることによってしか
本当の救いはないのに、ガラテヤの教会の人たちが「イエスさまを信じるだけでは足りない。
正しいことを守っていなければならない」と言っているのを知って『そうじゃないよ』と言いたくて手紙を書きました。


 
祈るとき私たちは『天の父なる神さま』とか『天のおとうさま』と神さまに呼びかけて祈り始めますね。
いつから?私たちは神さまを『父』と『おとうさま』と呼んでもいいとされたんでしょうね?
イエスさまは今から2000年以上前、神さまがよしとされた時、神さまによって、聖霊の力によってお生まれになりました。
クリスマスの出来事ですね。これはもう私たち人には信じられないほどすごい恵みです。
そしてさらに神さまのご計画によって、イエスさまは私たちの罪のために私たちを救うために十字架にかかってくださり、
父なる神さまにより復活されました。このことによって、私たちはイエスさまを信じますという信仰をもつことで、
神さまとの関係が父と子であるという『愛』の関係にかわれました。



そう、罪なきお方イエスさまの十字架の死と復活によって私たちは救われました。
救いはただそのこと一つです。
私たちがなにか良いことをするとか、いっぱい頑張らないといけないとかではありません。



パウロさんがガラテヤの教会の人たちに伝えたかったのはこの事でした。
パウロさんが言っているのは、「全く正しい悪いところの全くない人になってください」というのではなく、
神さまの前には罪人で、全然ダメな私だけど、ただイエスさまを信じて救われ、神の子とされるという恵みを
喜びと感謝をもって受け取ってほしい、ということでしだ。
神さまはただ私たちに『わたしのもとに来なさい。信じて私の子どもとして生きなさい』とおっしゃっています。



私たちは『神さまを私は知っている』と思っているかもしれない。けど本当のところは
『神さまが私たちを知っておられる』のです。私たちの大好きな神さまが私たちを知っていてくださっている。
いつも愛して守っていてくださる。幸せなことだね。嬉しいことだね。
だからこそ、私たちは『天の父なる神さま』『天のおとうさま』と神さまに祈ることができます。
聖霊が私たちにはたらいていてくださるからこそ祈ることができます。
神さまが呼んでいてくださるから呼び掛けることができます。
信じて神さまだけを見上げて『神さまありがとう』と感謝して『神さまの子ども』として元気に歩んでいきましょう!






天の父なる神さま 子ども達を元気に教会学校の礼拝に呼び集めてくださりありがとうございます。今日ここに集えました子供達、そして今日色々な事情により集えませんでした子供達、みんなが神さまを心から信じて『天のおとうさま』と祈ることができ神さまの愛に満たされてすごせますように、どうかお守りください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。






『アーメン』2017年7月2日

2017年06月22日 | CSマイ説教要旨
ヨハネの黙示録 22章20節~21節】


22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。


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聖書の一番最初は創世記です。『初めに神は天地を創造された』で始まります。
神さまがこの天地をおつくりになられた世界の始まりのことが書かれています。創世記はもうすんだ事実が書かれています。
今日読んだのはヨハネの黙示録です。聖書の一番最後にあります。
このヨハネの黙示録は、まだ起きていないこの先のことが書かれています。天地世界の終わりのことが書いてあります。


天地をお造りになった神さまが、今度はこの世界を終わりにされて新しい世界にかえられます。
新しい世界は、悲しい事や苦しい事もない、争いもない、愛にあふれた、みんなが心から笑顔でいられる世界です。
そんな世界を神さまがもう一度創ってくださる、というのです。そのための今の世界の終わりなんですね。


そして今日読んだところは本当に本当に聖書の最後のみことばなんです。
そう!わたしはすぐにくるよ!とイエスさまが私たちに約束されているんです。
私たちの為に十字架にかかって死なれ、そして復活されたイエス様が約束してくださってるんです
。イエス様の約束なんですもん!はい信じます どうかイエス様すぐに来てください!と私たちは祈ることを神さまからゆるされています。


祈る時、私たちは最後に、イエス様のお名前によって祈ります アーメンと言いますね。
アーメンという言葉は『確かに、その通りです、あなたは真実なお方です』とイエス様に向かって言う言葉なんですね。
アーメンであるお方、そう私たちがアーメンと言えるお方はイエス様だけなんです。
アーメンは神さまへの感謝と喜びと信頼にみちた、とても素晴らしい言葉なんですね。


主の祈りは、イエス様が「こんなふうに祈りなさい」と弟子たちに教えられた祈りです。
私たちはその一つ一つの祈りをよく味わいながら、この祈りがどれほど深い神さまの愛に満たされているかを知っています。
「天にましますわれらの父よ」と私たちは祈ることをゆるされ、この祈りを通して神さまと私たちの心が一つに結び合わされます。
主の祈りは神の子にのみ祈ることを許された祈りであり、父なる神さまが一番喜んで受け入れてくださる祈りなのです。
みんな、神さまに感謝一杯の気持ちで主の祈りをしっかりとお祈りしていましょうね。


さっき今日読んだ聖書のことばは聖書の本当の本当の最後の言葉だと言いました。
その聖書を最後にしめくくるみことばは『主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。』です。
あれ聞いたことあるなぁと思いませんか?牧師先生が礼拝の最後に祝祷をしてくださいますが、このことばも入っていますね。
聖書の一番最後にこのみことばがあることは、本当に最高の恵みです。


私たちは神さまから与えていただいているからこそ、今日も生かされて日々の糧にも恵まれてるね。
今、こうしてみんな元気に神さまに礼拝をお捧げすることだってゆるされているね。いろんな恵みを神さまは与えてくださっています。
なによりイエス様が私たちのために十字架にかかってくださった。この十字架のみわざこそが最高の恵みであり救いですね。
感謝しましょう!そして、私たちはこの先イエス様がおいでくださるその日まで、私たち以外のまだ神さまを知っていない家族の人やお友達の人にもイエス様の恵みが共にありますようにと祈っていきましょう。

神さまは私たちがお祈りするごとに私たちの神さまを信じる心をより強くしてくださり、私たちが神さまの子どもとしてしっかり歩んでいけるようささえていてくださいます。イエス様の愛と恵みがみんなと共にありますように アーメン。





天の父なる神さま 子ども達を元気に教会学校の礼拝に呼び集めてくださりありがとうございます。今日ここに集えました子供達、そして今日色々な事情により集えませんでした子供達、みんなが神さまを心から信じて神さまを一番大事にしていけますように、祈ることができ神さまの愛に満たされてすごせますように、どうかお守りください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。





『願わくは御名をあがめさせたまえ』2017年5月7日

2017年05月14日 | CSマイ説教要旨

ペテロの手紙Ⅰ 2章11~12節


2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。


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イースターをお祝いしてから教会学校の礼拝では『主の祈り』のお話をしています。『主の祈り』はイエスさまが私たちに教えてくださったお祈りです。礼拝でかならずとなえるお祈りです。週報にもひらがなで『主の祈り』が書いてあります。毎回お祈りしているとだんだん見ないでも祈れるようになっていきます。見ないでも祈れるようになるとなんかすごいね嬉しいね。難しい言葉もあるけど、ゆっくりと一つ一つの祈りの言葉をとなえましょう。みんなで心を一つにして声を合わせて祈っていましょうね。


さて、今日のお話はその主の祈りの一番最初の祈りです。『願わくは御名をあがめさせたまえ』うーん難しいねぇどういう意味なのかなぁ?『御名』は神さまのお名前です。『願わくは』は、どうか、できれば、という意味です。ですから、どうか神さまのお名前をあがめさせたまえということです。じゃぁ『あがめさせたまえ』ってどういう意味なんだろう?これは心から信じて大事にできますうようにということです。ということは、『願わくは御名をあがめさせたまえ』というこのお祈りは『どうかわたしたちが神さまを心から信じて神さまを一番大事にしていけますように』と願っているんですね。


みんなは教会学校の礼拝や分級で神さまが一番大事なお方なんだとお話を聞いているからわかっているよと思うと思います。けれど、その大事なことを忘れちゃったり、自分が一番大事だと思ってしまって、神さまを一番大事にできないことがありませんか?みんなあると思います。そして、私たちが忘れてしまったりすることも神さまはちゃんとわかっていてくださいます。だから、イエスさまは『主の祈り』を私たちに教えてくださいます。神さまはいつもいつも私たち一人ひとりをどんなに大事に思ってくださっているでしょう!嬉しいことですよね。


さっき読んだ聖書はイエスさまのお弟子さんの一人のペテロさんが書いた手紙です。ペテロさんは、神さまを一番大事にしてお祈りしながら神さまを礼拝していなさい。と言っています。そうすれば、私たちのまわりにいる、まだ神さまを信じていない人も、それを見て『神さまは大事なお方なんだな』とわかって、一緒に『御名をあがめさせたまえ』と祈るようになると言ってます。イエスさまが私たちみんなのために十字架と復活によってとりなしてくださったからこそ、私たちは『願わくは御名をあがめさせたまえ』と祈ることをゆるされて今ここにいます。イエスさまが十字架の上から一人ひとりのために祈ってくださったことに、心からありがとうございますと思いながら、みんなで一緒に『神さま、どうかわたしたちが神さまを心から信じて神さまを一番大事にしていけますように』と祈っていきましょう。






主イエス・キリストの父なる神さま 御名をあがめます。子どもたちを元気に教会学校の礼拝に呼び集めてくださりありがとうございます。今日ここに集えました子供達、そして今日色々な事情により集えませんでした子供達、みんなが神さまを心から信じて神さまを一番大事にしていけますように、祈ることができ神さまの愛に満たされてすごせますように、どうか豊かな祝福と導きをお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
 








『主イエス、十字架で死なれる』2017年1月29日

2017年05月14日 | CSマイ説教要旨

マルコによる福音書 15章33~41節


15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。


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イエスさまは神の子でありながら人の子としてこの世に神さまが送ってくださったお方です。福音を皆に知らせたくさん神さまの御業をなされたことを私たちはこれまで聖書の御ことばによって聞いてきました。感動したり驚いたりしながら、イエスさまはすごいなぁ神さまはすごいなぁと身近に感じて神さまの愛に感謝してきました。そんな神さまが大事な大事なひとり子のイエスさまを、何の罪もないイエスさまを、十字架の上で死なせられます。えっ何で?と思いますよね。


昔、十字架の上で死ぬのは罪人でした。悪いことをした人が十字架にかけられて死んだんです。十字架で死ぬのは本当に苦しい痛い想像できない程酷いことでした。イエスさまはなんも悪いことをしていないのに十字架の上に上がられ十字架の上で死なれました。朝の九時に上がられ昼の十二時になると昼だというのに辺りは真っ暗になりました。その暗闇は午後の三時まで続きます。午後三時イエスさまは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と大きな声で言われました。


まことの光であられる神の御子が今人の子として死なれようとしています。父なる神さまに見捨てられ私たちみんなの罪を一身に負ってイエスさまは絶望の叫びを上げながら父なる神さまのみこころに従われます。神さまにそむいて神さまを忘れて捨ててしまうことは大きな大きな罪です。それがどんなに恐ろしいことであるかをイエスさまは私たちのかわりにその身に受けて、みんなの罪を赦して救ってくださる為に、ただその為に、父なる神さまに従われ、十字架の上で死なれました。


イエスさまが息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。神殿の一番奥に年に一度だけ大祭司だけが入ることを許された至聖所と呼ばれる場所がありました。至聖所には神さまがおられるとされていました。真っ二つに裂けた幕はこの至聖所とみんなが入れる聖所とを仕切る幕でした。神様と人間を隔てていた幕が裂けたんです。神さまと人間との交わりを隔てていた人間の罪がイエス様の十字架の死によって取り除かれたんです。私たちはお祈りをする時最後にイエスさまのお名前によってお祈りしますと父なる神さまにお祈りを捧げます。私たちは本当は神さまに直接お祈りを捧げるなんてできない罪びとでした。けれどイエスさまが十字架の死によって父なる神さまと私たちの間にあった罪という壁を除いてくださったので私たちは神さまに近づき祈ることを許されているんです。


さて、このイエスさまの十字架の死を、始めから終わりまでずっと見ていた人がいました。イエスさまの十字架の下で見張っていたローマ兵の百人隊長でした。十字架の上で苦しみの中にありながら『わが神、わが神』と叫ばれ、父なる神さまに見捨てられてなお神さまの御前にあり続けたイエスさまを見上げて、この百人隊長は『本当に、この人は神の子だった。』と告白しました。また、最後までイエスさまに従って、遠くからイエスさまの最後を見届けたのは女性たちでした。ガリラヤでイエスさまに従ってお世話をしイエスさまを信じるようになった女性たちです。十二人の弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げてしまっていました。イエスさまのご誕生を見届けたのも世の中で認められていない低い地位の羊飼いたちでした。イエスさまの十字架の死をまた見届けた人々もまた世の中で認められていない人たちです。神の御業は誰が見届けたとかをはるかに超えたところにあります。そして神さまの御業とご計画は十字架の死で終わるのではありません。主イエス・キリストのご復活こそが希望の全てです。神さまは私たちに完全な希望を与えてくださるお方ですから。


神さまに見捨てられ苦しむべきは私たちでした。けれど愛なる神さまは私たちが弱い罪びとであることを全てご存じであり、イエスさまをこの十字架の死という、救いの御業のためにおつかわしになられたのです。神は愛です!父なる神さまが一番イエスさまの十字架の死を共に苦しまれました。神さまは確かに全能のお方ですから、これら全てを神さまのみこころによってご計画されなされています。私たちはこの神さまの御業に対して感謝と信頼をもってしか報いることはできません。イエスさまありがとう!!神さまありがとう!!とただ信仰によってのみ、この信じられない程大きな神さまの愛に報いていきましょう。イエスさまを『神の子』であり『救い主』であると信じて歩んでいきましょう。





主イエス・キリストの父なる神さま 尊き御名をほめたたえます。皆共に健康を与えられ、喜び感謝をもって礼拝をお捧げできます恵みに心から感謝申し上げます。今日ここに集えました子供達、そして今日色々な事情により集えませんでした子供達、みんなが主のみ恵みを忘れず、主のお招きに忠実に答えていくことができますように、感謝をこめて心から主にお仕えしていくことをあなたから学んでいけますように、どうか豊かな祝福と導きをお願いいたします。子どもたちの信仰が健やかにはぐくまれますように 神さまの愛に満たされてすごせますように。この感謝願い祈り 主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン







『ヨブ記』2016年10月30日

2017年05月14日 | CSマイ説教要旨

ヨブ記1章1~22節

1:1 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。
1:2 七人の息子と三人の娘を持ち、
1:3 羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
1:4 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。
1:5 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
1:6 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。
1:7 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
1:9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
1:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
1:11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
1:12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
1:13 ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。
1:14 -15ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:16 彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:17 彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:18 彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。
1:19 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
1:20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
1:22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

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今日はヨブという人のお話を聞きます。ヨブさんはどんな人だったのかなぁ。ヨブさんはとてもお金持ちでした。羊もらくだも牛もろばもたくさん持っていて、世話をする人もたくさんいました。そして家族にも恵まれていて、七人の息子と三人の娘がいました。みんなで集まって一緒に食事をしたりとても仲良しの家族でした。ヨブさんはとても幸せな人だったんです。そして、なによりヨブさんは神さまを深く信じる人でした。正しい人で、神さまのことをいつも信じて従い、悪いことをしないで生きている人でした。そんなヨブさんですが、とんでもないことが起こりました。ヨブさんはある日突然に全てをなくしてしまいました。

 最初に、牛やろばが奪われて牛やろばを世話していた人たちは殺されました。次には天から神の火(雷みたいなものかなぁ)が降り、羊と羊飼いは焼け死にました。続いて、らくだの群れが奪われて、世話をしていた人たちは殺されました。そして次には、荒れ野から大風が吹き付けて、家が倒れ、長男の家で宴会を開いていた7人の息子たちと3人の娘たちはすべて死んでしまいました。なんていうことだろうねぇ。

ヨブさんがこのことを知った時には、どんなに悲しくてつらかったでしょう。ヨブさんは着ていた服を破って髪の毛をそり落として地面にひれふしました。どんなに悲しいことかヨブさんはそういう風にして自分の悲しみを表すしかなかったんでしょうね。こんな突然こんな酷い目にあったら、それまで神さまをすごく信じていた人でも、なんでこんな酷い目にあうようなこと自分はしたでしょうか?してないよ~神さま酷いです!と神さまを信じられなくなったり神さまをうらんだり非難したりしてしまいそうですよね。ヨブさんはどうだったと思いますか?ヨブさんは、こんな辛い目にあっても、神さまをうらんだりしませんでした。神さま何故ですか?と問いかけながら、神さまは正義のお方だからと信頼して諦めずに、ただひたすら神さまを求めつづけていました。

この後今度はヨブさんは身体にひどいできものができました。もうかゆくて痛くてすごい苦しかったのね。けれども、ヨブさんはそれでも神さまに対して文句を言ったりしませんでした。ヨブさんはいいことをしてくださるから神さまを信じていた訳ではないのです。いいことがなくても、神さまを信じる。平安の時も、悲しみの時も、主の御名をほめたたえて生きる。ヨブさんはそうしていました。

ところが、そんなヨブさんもあまりに苦しいことにとうとう耐え切れなくなって、「私なんか生まれなければよかった。なぜ神さまは、私のことを、こんなにひどい苦しみに遭わせるのだろうか?」って神さまになんで自分はこんな酷い目にあわなきゃいけないのですか?と言い続けるようになりました。


ヨブさんがもうしつこくずっとそう神さまに言うのでとうとう神さまはある嵐の中ヨブさんに答えられました。「お前は、私が造った世界の秘密を知っているか? 意味を知っているか? 力を知っているか? 何も知らずに私が間違っているというつもりか!」と。あれ?ヨブさんは何故自分はこんな酷い目にあうのか?と聞いてるんやけど神さまはそれにはお答えにはならなかったの。

ヨブさんはこの神さまのお言葉を聞いても自分がこうなったのは何故なのかという理由は分からなかったのね、でももっと大事なことをヨブさんは分かったんです!

ヨブさんは神さまが自分を忘れずにずっと一緒にいてくださる。神さまは自分を見捨てられたのではないんだと分かってすごい嬉しかったんです。ヨブさんはどんな時にも諦めずに神さまにきちんと向き合って神さまを求め続けました。神さまを信じていたからこそできたことです。理屈ではなくて、心から神さまを信頼して自分の心をみんな神さまのみまえに明け渡して祈ることをヨブさんはできたのです。

その後、神さまはヨブさんを苦しいことにあう前の何倍も祝福されて財産も家畜も家族も戻りヨブさんは平安な一生をおくりました。良かったねぇ。

私たちにも、苦しいことや悲しいことが起こることがあります。なぜ苦しいことや悲しいことが起こるのか、わけの分らない時もあります。それでも、神さまが“私”のことを見捨てず、心にかけてくださっている。そう信じて感謝して、神さまありがとうとみんなと一緒に祈りと礼拝をおささげしていきましょう。イエスさまが一緒にいて、愛してくださることを信じて生活しましょう。




主イエス・キリストの父なる神さま 尊き御名をほめたたえます。皆共に健康を与えられ、喜び感謝をもって礼拝をお捧げできます恵みに心から感謝申し上げます。今日ここに集えました子供達、そして今日色々な事情により集えませんでした子供達、みんなが主の恵みを忘れず、主のお招きに忠実に答えていくことができますように、感謝をこめて心から主にお仕えしていくことをあなたから学んでいけますように、どうか豊かな祝福と導きをお願いいたします。この感謝願い祈り 主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン




初めてのCS説教『シケムの契約』2016年7月31日

2017年05月14日 | CSマイ説教要旨
ヨシュア記24章11~18節

24:11 あなたたちがヨルダン川を渡り、エリコに達したとき、エリコの人々をはじめ、アモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたたちに戦いを挑んだが、わたしは彼らをあなたたちの手に渡した。
24:12 わたしは、恐怖をあなたたちに先立たせ、剣にもよらず、弓にもよらず、彼らと二人のアモリ人の王をあなたたちのために追い払った。
24:13 わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。』
24:14 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。
24:15 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
24:16 民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。
24:17 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。
24:18 主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

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神さまは御自分の民であるイスラエルの人々をエジプトから救い出す為にモーセさんに民たちのリーダーとして働くように言われました。モーセさんは自分にはそんな力はないとできませんと断りました。けれども神さまはそのような事は全てご存じなのでモーセさんに「わたしがあなたとかならずともにいる」と言われ、厳しいエジプトからの脱出の道を導き守ってくださいました。イスラエルの人々は神さまが約束してくださったカナンの地を目指して40年間旅をしました。その40年間神さまは砂漠と荒野で人々に必要なものを全て与えて養ってくださいました。神さまはいつも共にいて必要を満たしてくださるお方なんです。


モーセさんが年をとり神さまに命じられた役目を終えて死んだ後、モーセさんのかわりにヨシュアさんがリーダーになりました。ヨシュアさんは神さまから「わたしはモーセと共にいたようにあなたと共にいる」と励まされ、ヨルダン川を渡ってカナンの地にイスラエルの人々を導き入れました。それから何十年もかかって、ヨシュアさんは神さまにお祈りして力をいただきながら神さまが約束されたカナンの地にイスラエルの人々が住めるように導きました。

ヨシュアさんも年を取って自分が死ぬのが近いことを知った時、ヨシュアさんはイスラエルの人々をシケムという町に集めてお話をしました。ヨシュアさんはイスラエルがどんなに主の恵みのうちに歩んできたか、イスラエルのこれまでの歴史を話して聞かせ、これまで自分たちを導いてくださった神さまだけをを信じて従うと自分の気持ちを伝えます。イスラエルの人々は40年も荒れ野を旅しているうちに、主なる神さまから離れて違う神々に近づいたりして主なる神さまへの信仰を守れなくなっていたりしました。

ヨシュアさんは、「あなたたちが仕えたい神さまを、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」と宣言しました。けれど、イスラエルの人々にそのことを無理やり押しつけたりはせず、イスラエルの救いの歴史を話すことで、すべてのことが神さまの御業であり恵みであることにもう一度民の目を向けさせようとしました。イスラエルの人々はヨシュアさんのお話を聞くとこう答えました。「ただおひとりの神さまを捨てて、ほかの神々に仕えることなどするはずがありません。わたしたちも主に仕え、その声に聞き従います」こうして、イスラエルはただお一人のまことの神さまだけを信じて仕えるという決心をしたのでした。

神さまにむかって宣言する決心は神さまにかたく約束をするということです。主なる神さまはそのことを喜ばれ、その約束を忘れることなく守り通せるよう導いてくださいます。今、こうして私たちも主に礼拝をささげ、神さまのお話を今語り聞いています。教会にイエス・キリストの父なる神を信じる者が集まり、ただおひとりの神に感謝と喜びの礼拝をお捧げすることはどんなに大きな恵みでしょうか。今日ここにいるお友達もこうして教会に招かれ、「神さまの子ども」とされていることを喜んで感謝していきましょう。

「主に仕えます」という言葉は難しいかもしれませんが、こうして今、この朝、みんなが朝から教会に集まって礼拝をともにしているということが、主に仕えていることなのです。主のみことばに耳を傾け神さまを礼拝することが主に仕えることの一番です。いろんな遊びやしたいことや欲しいものに心を奪われそうな生活の中にいると神さまを忘れて自分のことばかりにとらわれそうになったりします。誰かのために何かをしてあげるということが仕えるということではないのです。本当に仕えるということは、自分の考えや思いも捨てることです、イエスさまは私たちひとりひとりに仕えるために来られ、十字架にかかって尊い御自分のお命を私たちの罪の救いのために与えてくださいました。これはもう最高のこれ以上のことはない「仕える」ということなのです。そして主イエス・キリストの復活は私たちに永遠の希望を与えてくださいました。

父なる神さまはどんな時も私たちを最高の愛で包んでいてくださり、私たちによきことを導いていってくださいます。ヨシュアさんが「わたしとわたしの家は主に仕えます」と宣言し、民もまた「わたしたちも主に仕え、その声に聞き従います」と答えました。今日、ここに私たちも私たちを最高に愛してくださる神さまを愛することを選びますか?ともし聞かれたら「私は神の子です」と喜んで感謝して答えたいものです。イエスさまありがとう!と笑顔で答えていたいものです。今日こうして共に礼拝をお捧げしていることを、誰あろう神さまが一番お喜びになられています。今日私たちは今主にお仕えしています。最高の時を今います。イエスさま ありがとうございます。



主イエス・キリストの父なる神さま 尊き御名をほめたたえます。教会学校に子供達を集めてくださりありがとうございます。あなたによって皆共に健康を与えられ、喜び感謝をもって礼拝をお捧げできます恵みに心から感謝申し上げます。子供達が主の恵みを忘れず、主のお招きに忠実に答えていくことができますように、感謝をこめて心から主にお仕えしていくことをあなたから学んでいけますように、どうか豊かな祝福と導きをお願いいたします。この感謝願い祈り 主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン




これからも♪

2017年05月14日 | 想い

『主と共に』


気負わず 高ぶらず 自然体で 祈りつつ 書いていこうと思っています


CS(教会学校)の自分の説教原稿の要旨なんかもまた残していきたいと思ってます
実は私マジ新米のCS教師です

夫が校長をさせてもらっている教会学校・・・二年前頃からなにかお手伝いをと夏期キャンプやイベントのお手伝いや運転手をさせてもらいながら・・ふと一年前より説教のご奉仕をさせてもらうようになり この春 CSの教師になりました


神さまが子どもたちの信仰を育てていってくださいますよう 祈りつつ 神さまからのみちびきをいただきつつ 私自身もなおいっそう信仰の歩みに励みたいと思っています


主よ あなたのみこころにかなうはたらきをどうか私になさせていってください




過去分終わった(^^ゞ

2017年05月14日 | 想い

多分・・・この後も結構書いていたと思う

でもブログに移行させて htmlファイルでもう残していなかったんだと思う

過去分はhtmlファイルを保存してページからページをリンクさせていたので奇跡的にも何台もPCもかえてきたのに残っていたのだ♪

良かったのか・・・悪かったのか(^^ゞ


とにかく 過去分終わった♪


さて おきづきの方もいらっしゃると思うけど・・・実は引用した聖書のみことば 過去分は新改訳聖書からでした

今は新共同訳聖書をずっとつかっているので あるいみ懐かしかったです
救われたばかりの頃は 感動しながら暗誦も一生懸命したものです(^^ゞ










2005年3月10日

2017年05月14日 | 祈り
マタイの福音書 27章 45節~56節


45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。





今年のイースターは三月二十七日です イースターとは・・・日本語では「復活祭」 イエス様が十字架にかけられ 3日目によみがえり 弟子たちの前に姿を現されたことにより 神であることを証明された日 またはそれを記念する日全教会の代表者が集まった 325年の二ケア会議で 「春分の日の次の起こる満月の次の日曜日」がイースターと制定されました よってイースターの日は毎年異なります その名称はチュウ―トン族の春の女神Eostreに由来するそうです




主イエス・キリストは十字架の上で息をひきとられました その時地震がおこり神殿の幕がまっぷたつに裂けました
イエス様はすべての預言がことごとく成就したのを見られた時 その完成を叫び宣言されました イエス様は購いの苦しみの絶頂にあってなお それが神なる天の父の定められた自分の指命であることをはっきりと認識されていました



詩篇22篇・・・

1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
23 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
25 大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
27 地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
28 まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。





旧約の詩篇22篇にはイエス様の十字架のあがないについての預言が書かれています

またイザヤ書53では・・・

1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
  主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、
  砂漠の地から出る根のように育った。
  彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
  輝きもなく、
  私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
  悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔をそむけるほどさげすまれ、
  私たちも彼を尊ばなかった。


4 まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。


7 彼は痛めつけられた。
  彼は苦しんだが、口を開かない。
  ほふり場に引かれて行く小羊のように、
  毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
  彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
  彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
  彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
  生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
  彼は富む者とともに葬られた。
  彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。


10 しかし、彼を砕いて、痛めることは
  主のみこころであった。
  もし彼が、自分のいのちを
  罪過のためのいけにえとするなら、
  彼は末長く、子孫を見ることができ、
  主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの
  激しい苦しみのあとを見て、満足する。
  わたしの正しいしもべは、
  その知識によって多くの人を義とし、
  彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
  彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
  彼が自分のいのちを死に明け渡し、
  そむいた人たちとともに数えられたからである。
  彼は多くの人の罪を負い、
  そむいた人たちのためにとりなしをする。




と あります イエス様はご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て満足する とまであります
主よ イエス・キリスト様 あなたのこの罪のあがないにより今私はあります 十字架の御愛と購い 神へのとりなしがあったからこそ 私のような者でさえも イエス様を信じますと宣言しただけで神の子としてとりあつかわれる栄光にあずかれます 主よ 感謝いたします 言葉は言い尽くせません ただ感謝いたします



人の生きる道では クリスチャンにも苦しい時も悲しい時も来ることもあります 神のみこころにかないますようにと祈り暮らしますが 時に神様は私に試練も与えられます どんな時もそれは神様の素晴らしい御計画なのだと信じ嘆く事なく祈り喜び感謝いたします 私はかつてまだクリスチャンではなかった時に我が娘と別れるという十字架を背負いました 重かったですがいつも神様は助けてきてくださいました 一人では決して歩めなかった道です 主はわたしに彼女と再び神のもと逢えるのだという希望を与えてくださいました 母として失格の私をおゆるしくださいました 彼女の幸せをお守りくださいます 



また10年前には夫とのひとり子を亡くしました 悲しみの十字架でした けれど神は私たちをみそばによせてくださいました 夫婦そろって洗礼を受け今の信仰生活を与えてくださいました 悲しみはもう悲しみではなく再び天の御国で逢えるのだからイエス様のもとにも行けるのだからという希望にかわりました 





主よ 尊き主よ 私はあなたの限りない愛によって今命もあります どんな時も喜びます!神様 みまえに礼拝いたします いつも感謝し祈ります イエス様が十字架の死を通ってよみがえられたように 今 私が負うべき重荷をもっともっと背負うことができますように 力を与えてください 御言葉をいただき 苦難のなかにもいつも親しく父よとあなたと交わることができますことを心から感謝いたします ハレルヤ 御名をあがめたたえます 愛するイエス様のお名前によって感謝し祈ります アーメン












2005年2月3日

2017年05月14日 | みことば
マタイの福音書 16:21~28

21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」





十字架への道を示されました 弟子のペテロは勿論の事愛をもって善意でイエス様にそんな事は起こるはずがありませんと言いました けれどイエス様は下がれ サタン あなたはわたしの邪魔をするものだ あなたは神のことを思わないで 人のことを思っている と仰せられました 人間的な価値観に全面的に従って歩んではいけないのだと思います それは時には必要な事かもしれないけど 主の御心にそむく事になるかもしれません 


ペテロは愛をもって言うたけど それは神の御心にそむくものやったんねぇ イエス様はペテロの背後のサタンのはたらきに対して厳しく仰せられたって事ですね 「みこころ」・・・日々常に私は自分の心の想いを主よ御心にかなっているでしょうか?どうか主よあなたの御心にかなう私へとお導きくださいと祈り続けている 人は脳で考え心で想う・・・大体が私は子供の頃よりこのメカニズム自体がわかりません 


人の心は複雑よねぇ 自分で自分の想いをようはからん場合だってある 脳が今この言葉を綴らせているのだろうか?想いが祈りが綴らせているのだろうか?主よ 今この時もあなたの御心にかなっていますようにと心から祈りながら書いています 神の目で物事を見て判断する というより聖霊様の導きによって動かされる 私にそれができているんだろうか? できているのかできてないのかと思う事は既に間違いかもしれないなぁ 


主よ あなたの御こころにかなっていますようにと祈って書いています なら 今こうして綴るは主の御心にかなった事なのだと信じて綴るが良いでしょう 私は此処でいろんな事も書いていますが 何時もとても祈って書いています


私はイエス様を信じ敬愛しあがめたたえています クリスチャンなら当然というより クリスチャンになったからそうなったというより イエス様を知ったからです イエス様と第二の結婚をし(洗礼の事ね)主に仕える事を自分の道としました すべての信徒はイエス様の弟子であるという栄光のうちに置かれます おそれ多き事だと足踏みなどせず主に教えを仰ぎながら日々歩みこうして 少しでも福音を伝えられたらという想いがキーを打たせます 私が書いているんだけど 私のなかの聖霊様が書いているんだとも言える これは私にはものすごい恵みで祝福です


弟子の道は 十字架の道・・・自分を捨てて完全に主に従う道です イエス様が命を救おうと思う者はそれを失うが私の為に命を捨てるなら見いだすとおっしゃいました 殉教しなさいと言われているのではないです イエス様と第二の結婚をした時 洗礼の事ですね 私はイエス様が十字架の上で死なれ私の罪をも購ってくださった事に涙し感謝し ただイエス様を信じて敬愛して仕える道を決意したといえます 決意というはまるで自我の成就を誇るような言い方で間違いのようにも感じます それはまるで魂が浄化されていくような 全てはそれまでの人生もすべては神の御計画の中で命が与えられこれからはイエス様と共に そう主と共に 私は主に仕え御心にかなう道をひたすら歩みたいというそんな一瞬だったと思います 


あの日は私の上に天のおとうさまの祝福があふれんばかりに注がれた日でした 神様は愛のお方です イエス様という一人子をも人の為にこの世につかわされ あのすざましい苦しみの中でさえもイエス様を十字架の御業の為に託されたんですから 私はあのパッションの映画の中でのイエス様が 父よわたしの霊をあなたにゆだねますと言われこときれた瞬間に天から一滴ターンと落ちてきたあの水滴なようなシーンが忘れられない 神様の天のおとうさまの涙のように思われた 私はそんな偉大な父の子として迎えられ今がある訳です 何をか迷い惑う事がありましょう! それでも人は弱いからねぇ 私などはめっちゃ弱いなぁ ちょっとした痛みや苦しみをお救いくださいと祈る 祈る事は悪い事ではないと思う でもなぁ あの十字架の上であんなに血を流されていても なおその時も 父よ彼らをおゆるしください 彼らは何をしているのかわかってないのです と神に私たちの罪をとりなされたイエス様の尊き祈りを思うと肉の思いがはたらきませんようにと どんな試練や苦難があっても 全ては主の御計画なのだと いつも喜んで感謝して祈っていようと ただひたすら そう思います



イエス様 あなたの十字架の道を私に歩ませてください あなたが私たちの為に負うてくださった十字架を私にも背負わせてください 自我に固執しがちな過ちから解放してください あなたの血潮で私の罪をすべて購ってくださいましたそれはあまりに高価で尊い代価でした それでも神はそれを良しとされあなたは神の御業のもと復活され弟子に教えを伝え福音は今も続いています イエス様!私も弟子の一人としてあなたの真の命の道を歩みます!どうかどうか私をお導きください 愛するイエス様の尊きお名前によって心から感謝しお祈りいたします アーメン