夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

恩田陸(おんだ・りく)さんの『蜜蜂と遠雷』、久しぶりに小説を買い求めた私の理由は・・。

2017-04-18 15:49:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
過ぎし2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年半が過ぎている。

こうした中で、午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして本に関し、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野眞一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は47年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読したりしている。

こうした中で、定年退職後に年金生活していると、小説に魅力が薄れて、一年に一冊ぐらいに激少していることに、
我ながら驚いたりしている。

このような私でも、小説家の恩田陸(おんだ・りく)さんの『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)を読みたいと思い、
昨日、本屋に行き買い求めたりした。
             

こうした動機は、三日前にネットの『プレジデント・オンライン』に於いて、
【恩田陸さん「本屋大賞&直木賞」努力の25年間】と題されたインタビュー記事を読み、
この中の一部に、私は心震(ふる)わせ、圧倒的に感銘を受けたりして、
まさに私に取っては、初めて読む恩田陸(おんだ・りく)さんの作品を、購読したい心境となってしまった。

この記事の原文は、『プレジデント・ウーマン』で、面澤淳市さんが小説家・恩田陸(おんだ・りく)さんに、
直木賞の授賞式直後にインタビューを行い、17年5月号に掲載された記事であり、
大半を転載させて頂く。

《・・
☆新卒では「大手生保」で残業の毎日

このたび、ようやく直木賞をいただきました。
何回も「候補になっては落ち」を繰り返していたので、周囲のみんなには「取ってくれてほっとした」と言われています。
私自身もほっとしています(笑)。
             

子どもの頃から本を読むのが大好きで、今も年間300冊は読んでいます。
ただ、本を書く人になりたかったのかと問われると、そこまで強い思いはなかった。

大学を出たときは、普通の会社員として大手の生命保険会社に就職しました。

入社は1987年、男女雇用機会均等法の1期生です。
会社からは、総合職で受けないかと誘われたのですが、「社会の基礎は事務だと思いますから! 」と主張して、
一般職で入りました。

ちょうど生保業界にシステム化の波がやってきたところで、ものすごく忙しかった。
ひたすら残業、残業ですよ。

アナログの作業とデジタル化の作業を並行してやっていたので、とにかくものすごい作業量でした。

当時、生保は銀行に比べて、システム化が10年は遅れているといわれていましたから、
短期間で追いつこうとして、かなり無茶なスケジュールでした。

休日出勤しても、まるで仕事が終わらない。
チームの誰かが毎月、代わる代わる倒れてましたね。

私も2年目に体を壊して入院し、いったん復帰したのですが、4年勤めたところで会社を辞めました。

――転機が訪れたのは、この時だった。
             

時間ができたのを機に、初めての小説「六番目の小夜子」を書き上げ、
90年、新潮社の文学賞「日本ファンタジーノベル大賞」に応募。
この作品が最終選考に残ったことで、作家デビューへの道が開けた。

応募したときは、まさかすぐにデビューできるとは、思っていませんでした。
でも、運よく『六番目の小夜子』を出版してもらうことができ、
担当編集者がついて、ちょっとずつ小説を書いていきました。

といっても、最初の頃は、会社に勤めながら書く兼業作家です。
生保を辞めたあと、すぐに人材派遣会社に登録して、不動産会社で働き始めました。

大手不動産会社の賃貸住宅管理会社で、いわゆる等価交換方式でマンションを建設し、
貸主となって管理を引き受け、各エリアの不動産会社にお客さんを付けてもらうというのが当時のビジネスでした。

私は営業事務をやっていたんですが、派遣契約を何度か更新したあと、数年後に正社員になりました。

ここは大手の系列ですが、事業を開始してから比較的新しい会社で、当時はまだこぢんまりしていました。
それが見る見るうちに仕事が増えて大きくなっていきました。

私のいた部署はすごく仲がよくて、優秀な営業マンがそろっていたので成績もよく、
息もぴったりで勢いがありました。

忙しいのは忙しいんだけれど、楽しかったですね。
             

☆33歳まで「会社員兼作家」だった理由

――この当時は、あくまでも会社員が主で、作家は従。

「恩田陸」はペンネームであり、顔写真も公開していなかったので、
社内の誰にも「副業」のことは、知られていなかったという。

だが、小説の注文が増え、作家の仕事にも手ごたえを感じ始めていた頃、
複数の編集者から、ほぼ同時にあることを勧められた。

30歳を過ぎた頃でした。
いろんな編集者から「そろそろ会社を辞めたらどうですか」と言われたんです。

新人のときは「作家専業で食べていける人なんて、まずいないんですから、辞めないでくださいね」
と念押しされるのが、ふつうです。

これはみんなが、プロとしてやっていけると判断してくれたのだなと。
それで33歳のときに、専業作家になりました。

でも、独り立ちするのは、とても不安でした。
この先注文が来るのか、書き続けられるのか。

そういう不安に加えて、会社を辞めれば、社会との接点をなくしてしまったような気持ちになる。
実を言うと、今でも、精神衛生的には、兼業作家だった頃がいちばんよかったなあと思います。
             

独立を機に、「営業」のためのパーティーを開きました。
西新宿のレストランを借りて、各社の編集者に集まってもらい、
当時温めていた小説の企画を10本くらいレジュメにして配りました。

10本はそれぞれミステリーだったり、SFやホラーだったりと、系統の異なる小説です。

「みなさまの媒体で書かせていただけませんか」と、
おそるおそるお願いしたら、そのうち7本ほどに買い手がつきました。

おもしろいことに、競合したものはなくて、それぞれ別の出版社が引き受けてくれたんです。
これはありがたかった。

私は会社員の家庭で育ったので、フリーの仕事というのが、全く想像できませんでした。
独立するにあたって、なんとか仕事を確保しなくちゃいけないというのが、あったんでしょうね。
自分も営業系の会社員生活が長かったせいかもしれません。
             

☆完璧にできない辛さに耐えてこそプロ

最初に入社したのが、業界でも大手の生命保険会社でしたから、大きな会社の仕組みも一応わかる。
そして次の会社は、ほとんどスタートアップのような状態から関わってきましたから、
小さい会社の仕事の進め方もよくわかる。

これは作家の仕事に生きています。
よくいわれますが、作家になるなら、より「遠回り」をすることだと思います。


――直木賞受賞作の『蜜蜂と遠雷』は新人の登竜門とされるピアノコンクールを描いている。
構想12年、執筆7年の大作だ。

著者は天才ピアニストたちの姿を通じて「才能とは何か」を問いかけている。

この小説のために、さんざんコンクールに通って、演奏を聴きながら考えたんですけど、
才能というのは「続けられる」ことだと思うんです。
             

すべての仕事に共通していますよね。
ある意味の鈍感さ、しぶとさを持った人が才能のある人です。

演出家の鴻上尚史さんがこう言いました。
完璧を目指して演技をし、ちょっとでも失敗すると「もう駄目だ」と投げ出してしまう役者がいるが、間違っている。
プロというのは、完璧な条件のないときでも、必ず平均点以上の演技をする役者のことだ。
完璧にできないことは辛いけど、その辛さに耐えて、投げやりになったりしないのが、プロなんだと。

この言葉に、いたく共感しました。
常に完璧を目指すけれども、なかなかそうはいかない。

それでも平均点は維持し、完璧でない惨めさに耐えていく。
作家も同じです。

満足できる一作ができなければ、出さないという人もいる。
でも、寡作で傑作なのは、当たり前。
私は量を伴ってこその才能だと信じています。
             
もちろん自分でも実践しているつもりです。
常に必死で書いていて、平均点ギリギリのところを、低空飛行しています。

ですから私、スランプってないんですよ。
スランプがあるということは、すごくいい時期があるということです。
いい時期なんて、私にはないですから(笑)。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
やがて高校2年生より映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
まもなく500冊ぐらいなったりした。

そして、巻末に付いているシナリオを読んだりして、脚本家として橋本 忍さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーンに夢中になったりし、
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
                                   

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
                     
       
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしりした。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした習作のひとつとして、チャイコフスキーの『交響曲第6番ロ短調 作品74 悲愴』を実家で聴いていた時、
妄想として、ロシア風土から見たパリ、ウィーンなどの進化したヨーロッパ文明に対して、
あこがれとやるせない悲しみを表現しょうと私は思案したりした・・。
そして音楽の旋律を文章化しょうと試みたりし、筆力もない私は中途半端になったりした。

やがて私は、私は30代に妻子を養う家庭のことを漠然と考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。
                                                   

その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、あるレコード会社の情報畑、管理畑、営業畑などに勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かったりして、定年退職を迎えたりした。

このような心情を秘めた私は、創作者に敬意しながら、久々に小説の『蜜蜂と遠雷』を読み始めている・・。

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