ある美術館で「桜」の写真展に合わせたセレモニーとして「お茶会」がありました。その後にはコンサートがあります。私はそちらを聴きたかったのですが、料金が「お茶会・演奏会セット」となっているのでお茶会の方にも出ることになりました。
私は「セレモニー」というものが苦手です。こういうものはできるだけ避けて生きてきました。セレモニーでは決まった「手順」があり、その手順をよどみなくこなすことを期待されています。私は自分が、その意義を感じることのできない行為を行うことに抵抗を感じます。人がやるように真似をしてやれば済んでしまうことなのに、どういうわけかその前で立ち止まってしまうのです。実際には自分の番が回ってきたときには適当に流すしかないのですが、それで良かったのかどうか、どうしてこんなことをするのか…等々、後味の悪さが残ります。
「抹茶」に初めて出会ったのは中学生の時でした。文化祭のときに「お茶会」のチケットをもらったのです。おそらくそういうサークルがあったのでしょう。「和菓子が出るよ」という言葉に釣られて友達とその部屋の前まで行くと入口には先に来た人が並んでいました。そこに「お茶」を終えた同級生が部屋から出て来ました。そして私に「お茶は苦いぞ!苦い、苦い!」と言い残して去って行きました。その一言は効きました。その言葉で私は動揺し、ためらい始めました。部屋の入口まではあと数人並んでいます。あそこを入ったらもう戻れないぞという気分が高まって入口の直前でついにUターンしてしまい、後には「和菓子」への未練が残ることになりました。
今は家で時々お茶を点てています。その理由は簡単で、点てたお茶の「さ緑」色が好きだからです。あるとき、と言っても、父がまだ存命中で、30年も前のことですが、簡単なお茶の道具を持って父の隠居所に行ったことがあります。父は若い頃に「花」を長くやっていて、それに合わせて「お茶」も習っていたことがあるのです。それを知っていたのでお茶を点てたら喜ぶかなと思ったわけなのですが、途中でお茶用の和菓子屋へ立ち寄ってぎょっとしました。値段が倍くらいするのです。確かに、そこに並んでいる和菓子は食べてしまうのが惜しいような美しいものでした。怯む気持ちを抑えていくつか買うと、父の家に行き、茶を点てました。座卓の上に茶碗を置くと、父は胡坐をかいたまま茶碗を取ろうとしたので、正座した方がいいのではないかと私が言うと「そうか」と言って座り直しました。そしてお茶を飲もうとしたので「お菓子が先やろ」とまた私が言いました。父は「そうか」と言って茶碗を置くとお菓子を一口食べました。それから茶碗に手を伸ばしたので「お茶はお菓子を全部食べてからじゃないの?」と聞くと「そうかなあ」と言いながらお茶を一口飲みました。それから茶碗を置くとお菓子の残りを食べかけたので『やはりこれも有りなのかなあ』と思いました。
実は私もそうなのです。外では聞きかじりの作法の知識に合わせますが、家ではお菓子を食べたり、お茶を飲んだりしながら楽しんでいます。実際、お菓子を食べればお茶が飲みたくなるし、お茶を飲めばお菓子が食べたくなるのです。初めは自由に楽しんでいたものに次第に形ができ「作法」としてまとめられていったのでしょう。
今回は写真展の会場にパイプ椅子が並べられ、四面の壁に桜の写真のパネルがぐるりと展示されていました。そして最前列の椅子の前に3人掛けの折り畳み机が2つ置いてあり、そこでお茶を頂くようになっていました。お茶は正面の壁際で点てていて、そのお茶を着物姿の女性が机のところまで運ぶ形です。
私が席に着いて机の上に引換券を置くとすぐに着物姿の女性が桜餅を運んできました。歳の頃は60前後か、そして桜餅を私の前に置くと「先にお菓子を食べてください」といいながら引換券を手に取って下がっていきました。
そのとき目に留まったのはその女性の指先でした。爪に強烈な色のマニキュアが塗られていたのです。それから少ししてお茶が運ばれてきましたが、それが差し出されたときにも目についたのは爪先でした。お茶を飲み終えて私が茶碗を見ていると茶碗を引き取りに来たその女性は「○○です」と言いました。私が茶碗を置くと両手(?)を伸ばしてそれを引き取り、下がっていきました。着物よりも茶碗よりも爪先のマニキュアが私の目に残りました。
私は以前から、「お茶」をする人たちがそのセレモニーの中にどのような楽しみを見い出しているのか気になっていました。それで「お茶」をする人に出会うとそれを聞きたいと思うのですが、不躾に「どこがおもしろいの?」とは聞けません。それで遠回しに尋ねてきたものの未だ要領を得た返答に出会ったことがありません。
ずっと以前のことですが、クラシックギターコンサートのチラシを配っているとき、ある女性に「どんな服を着ていったらいいの」と聞かれたことがあります。そういうところに行ったことのない人はまずその服装から不安になるようです。逆にいうと、そういうときでもなかったら着る機会のない服もあるということです。つい最近、真珠のネックレスを見る機会がありました。ずらりと並んだ商品の横にある値段表を見て目を瞬きました。落ち着いて「0」の数を数えると6個あります。100~200万円でした。それまでこういう装飾品の値段を知らなかったのでその時にはこんな高価なものを身に付けていたら不安にならないかと思いました。今考えると、それらはそれなりの機会に身に付けるものなのでしょう。やはりパーティーのようなものでもないと箪笥の肥やしになってしまうことになります。
華やかな着物も日常生活で着る機会はありません。茶席もその機会の一つかも知れないなと思いました。今回は「桜」と関連しての彩りかも知れませんが、華やかな着物の袖と茶碗を繋ぐ手の指先は桜色の爪がいいと思いました。いずれにせよ、私には、雑草の生えた庭や畑に小さなゴザを敷いて茶菓子を食べながら楽しむ「お茶」が合っているようです。
私は「セレモニー」というものが苦手です。こういうものはできるだけ避けて生きてきました。セレモニーでは決まった「手順」があり、その手順をよどみなくこなすことを期待されています。私は自分が、その意義を感じることのできない行為を行うことに抵抗を感じます。人がやるように真似をしてやれば済んでしまうことなのに、どういうわけかその前で立ち止まってしまうのです。実際には自分の番が回ってきたときには適当に流すしかないのですが、それで良かったのかどうか、どうしてこんなことをするのか…等々、後味の悪さが残ります。
「抹茶」に初めて出会ったのは中学生の時でした。文化祭のときに「お茶会」のチケットをもらったのです。おそらくそういうサークルがあったのでしょう。「和菓子が出るよ」という言葉に釣られて友達とその部屋の前まで行くと入口には先に来た人が並んでいました。そこに「お茶」を終えた同級生が部屋から出て来ました。そして私に「お茶は苦いぞ!苦い、苦い!」と言い残して去って行きました。その一言は効きました。その言葉で私は動揺し、ためらい始めました。部屋の入口まではあと数人並んでいます。あそこを入ったらもう戻れないぞという気分が高まって入口の直前でついにUターンしてしまい、後には「和菓子」への未練が残ることになりました。
今は家で時々お茶を点てています。その理由は簡単で、点てたお茶の「さ緑」色が好きだからです。あるとき、と言っても、父がまだ存命中で、30年も前のことですが、簡単なお茶の道具を持って父の隠居所に行ったことがあります。父は若い頃に「花」を長くやっていて、それに合わせて「お茶」も習っていたことがあるのです。それを知っていたのでお茶を点てたら喜ぶかなと思ったわけなのですが、途中でお茶用の和菓子屋へ立ち寄ってぎょっとしました。値段が倍くらいするのです。確かに、そこに並んでいる和菓子は食べてしまうのが惜しいような美しいものでした。怯む気持ちを抑えていくつか買うと、父の家に行き、茶を点てました。座卓の上に茶碗を置くと、父は胡坐をかいたまま茶碗を取ろうとしたので、正座した方がいいのではないかと私が言うと「そうか」と言って座り直しました。そしてお茶を飲もうとしたので「お菓子が先やろ」とまた私が言いました。父は「そうか」と言って茶碗を置くとお菓子を一口食べました。それから茶碗に手を伸ばしたので「お茶はお菓子を全部食べてからじゃないの?」と聞くと「そうかなあ」と言いながらお茶を一口飲みました。それから茶碗を置くとお菓子の残りを食べかけたので『やはりこれも有りなのかなあ』と思いました。
実は私もそうなのです。外では聞きかじりの作法の知識に合わせますが、家ではお菓子を食べたり、お茶を飲んだりしながら楽しんでいます。実際、お菓子を食べればお茶が飲みたくなるし、お茶を飲めばお菓子が食べたくなるのです。初めは自由に楽しんでいたものに次第に形ができ「作法」としてまとめられていったのでしょう。
今回は写真展の会場にパイプ椅子が並べられ、四面の壁に桜の写真のパネルがぐるりと展示されていました。そして最前列の椅子の前に3人掛けの折り畳み机が2つ置いてあり、そこでお茶を頂くようになっていました。お茶は正面の壁際で点てていて、そのお茶を着物姿の女性が机のところまで運ぶ形です。
私が席に着いて机の上に引換券を置くとすぐに着物姿の女性が桜餅を運んできました。歳の頃は60前後か、そして桜餅を私の前に置くと「先にお菓子を食べてください」といいながら引換券を手に取って下がっていきました。
そのとき目に留まったのはその女性の指先でした。爪に強烈な色のマニキュアが塗られていたのです。それから少ししてお茶が運ばれてきましたが、それが差し出されたときにも目についたのは爪先でした。お茶を飲み終えて私が茶碗を見ていると茶碗を引き取りに来たその女性は「○○です」と言いました。私が茶碗を置くと両手(?)を伸ばしてそれを引き取り、下がっていきました。着物よりも茶碗よりも爪先のマニキュアが私の目に残りました。
私は以前から、「お茶」をする人たちがそのセレモニーの中にどのような楽しみを見い出しているのか気になっていました。それで「お茶」をする人に出会うとそれを聞きたいと思うのですが、不躾に「どこがおもしろいの?」とは聞けません。それで遠回しに尋ねてきたものの未だ要領を得た返答に出会ったことがありません。
ずっと以前のことですが、クラシックギターコンサートのチラシを配っているとき、ある女性に「どんな服を着ていったらいいの」と聞かれたことがあります。そういうところに行ったことのない人はまずその服装から不安になるようです。逆にいうと、そういうときでもなかったら着る機会のない服もあるということです。つい最近、真珠のネックレスを見る機会がありました。ずらりと並んだ商品の横にある値段表を見て目を瞬きました。落ち着いて「0」の数を数えると6個あります。100~200万円でした。それまでこういう装飾品の値段を知らなかったのでその時にはこんな高価なものを身に付けていたら不安にならないかと思いました。今考えると、それらはそれなりの機会に身に付けるものなのでしょう。やはりパーティーのようなものでもないと箪笥の肥やしになってしまうことになります。
華やかな着物も日常生活で着る機会はありません。茶席もその機会の一つかも知れないなと思いました。今回は「桜」と関連しての彩りかも知れませんが、華やかな着物の袖と茶碗を繋ぐ手の指先は桜色の爪がいいと思いました。いずれにせよ、私には、雑草の生えた庭や畑に小さなゴザを敷いて茶菓子を食べながら楽しむ「お茶」が合っているようです。